再会
「そうか。ラーマが立ち合ったか」
事もなげにイーリアが言った。
ここは町長の執務室だ。マージもニコニコとして執務机の椅子に座っている。
ラーマは扉近くに控えるエビーやタイタと並び、まるで護衛の一人のような顔をして立っている。カファとピッタはまだ庭で職人達と議論を続けているのでいない。
私は優雅に一人掛けのソファでくつろぐイーリアの向かいで、二人掛けのソファにザコルと並んで座っていた。
「あの、ちょっと、まだ混乱してるっていうか…。一体全体どういう事ですか」
「先程述べた通りですが」
ザコルもイーリアと同じく、シレッとした顔で返してくる。
「先程って…ツルギの山神様という神聖な存在に仲を認めていただけたという?」
「その通りです」
だから、なぜそう急にそんな事になったのかを訊きたいのだが。というか、どうしてそういう不意打ちのような真似をしたのかを知りたい。
独り言をつぶやけば、隣の人が目を眇める。
「ミカが僕に遠慮しようとするからでしょう。大体、僕しか見ていないのなら別にいいじゃありませんか」
「よくな、いやいい、ううん何もいくな…いいけど! いいけど!?」
「いいならいいでしょう」
「うぐう」
この人、私が仮にもザコルを拒絶するような言葉を言えないと分かって言っているのでは…。
ふと周りを伺えば、エビーがニヤニヤとこちらを見ていた。タイタは焦点が合っていない。恐らく心神喪失寸前だ。頭が推しのプロポーズシーン祭りになっていることは容易に想像がつく。
すー、はー、と息を整える。冷静になろう、頭を整理しよう。初めて知る情報が多いのもいけない。
イーリアがそんな私に目を細めた。
「ミカ、本当にいいのか」
「あ、あのっ、質問を質問で返すようですが、イーリア様こそよろしいんですか。私、正真正銘、どこの馬の骨とも分からない者ですよ。ご子息に、相応しいとは」
渡り人であるという以外では、私の出自を真に証明するものなど何もない。
というか渡り人だという時点で誰よりも得体がしれないはずなのだ。果たしてそんな人間が、由緒正しい貴族家の人と軽々しく婚約を結んでいいものなのだろうか。
思わず言い返してしまった私にも、イーリアが優しい微笑みを崩す事はなかった。
「ミカ、そう自分を卑下する事はない。あなたは既にこの地で功績を残した聖女であり、それは誰の目にも明らかだ。それにテイラー家の後ろ盾も得ている。そうなれば元の出自などさしたる問題ではない。愚息が申し込まないのであれば、私が口説き落として領の要職に就けていた所だ。どちらがいい。私と共に生きるか」
イーリアが流れるような仕草で片手の指を開き、私に手を差し伸べるようなポーズを取った。
「ぐ、ぐふう…っ! 女神のお誘い…っ」
「義母上、ミカは引き抜かせませんよ。…全く、挑発するような真似ばかりして…」
ザコルが私の肩を抱いてを引き寄せた。
「テイラーの。貴殿はいいのだな」
イーリアは何故かエビーに目を向けた。
「前にもお伝えした通りですけど、俺には何の権限もないんすよ子爵夫人様。この件に関してはセオドア様から、ミカさんの意志を尊重しつつ適度に引っ掻き回してこい、って言われてるだけですし」
「引っ掻き回してこい…? エビー、セオドア様からそんな事言われてたの?」
「別に大した事じゃねえすよ。むしろ、ミカさんの意志を尊重するってとこが大事なポイントなんで。俺は護衛でもありますけど、半分はミカさんの従者として、心身のサポートを命じられてここにいるんすよ。ミカさんが『ここ』を愛してくれるように力になれってね。だから、ミカさんがいいならいいんすよ」
従者とは引っ掻き回すのが仕事なのだろうか…。
しかし、そうか。そういえば今朝、イーリアはエビーの事を『侍従』と呼んでいたように思う。
第三者から見ても、エビーの働きは護衛というより侍従、従者に相当すると思われていたということだ。
「エビーは僕らが失踪してもしなくても、どこかで合流する気で動いていたんですよ。他の護衛隊員とは初めから立場が違う」
ザコルがエビーを軽く睨みながらそう言えば、エビーはへへっと軽く笑った。
エビーはアマギ山で私達を見送った後で密かに追い、様子を見つつ必要があれば私の話を聞いたりサポートしたりする役割を命じられていたようだ。深緑湖の街で私達が失踪したために、結局捜索隊に混じる羽目になったようだが…。
「うーん…なるほど。君は私のお目付役というか、保護者代理だったという訳かな」
「だからそんな大したもんじゃねーっすよ。ミカさんが決めた事にどうこう言う権利はねえし。セオドア様からは、何をおいてもミカさんの味方でいろって言われてます。ただ、それだけすよ」
従者とは私の味方をするのが仕事らしい。
要は、私のやりたい事を尊重しつつ、それが私の損や害につながらないようそれとなく誘導しろとか、そういう繊細な役目を負っているという事だ。あるいはザコルと『上手くいかなかった時』の保険の役割でも担っているのか…。
こんなところでエビーの、セオドアからの信頼度の高さが窺えた。
「でも、従者として一言申しますとお、別に、相手は違ったっていいだろって何度も何度も…」
エビーが隣にいるタイタをちらちらと見る。
このセクハラ護衛改め、お節介従者め。やはりタイタをそういう意味でけしかけようとしていたか。
引っ掻き回すのは結構だが、人を無闇やたらに巻き込んでやらないでほしい。
「そうだったのか…。カニタ殿もそうした密命を受けていたのだろうか。俺にお二人の様子や会話を記録しろと言ったのも…」
いつの間にか我に返ったらしいタイタが呟くように独りごちた。
「え、カニさんが? タイさん、オリヴァー様に言われて会話のメモとかしてたんじゃねえんすか」
「いや、カニタ殿だ。残ってお二人の様子を記録し、それをカニタ殿宛に届けろと言われていた。オリヴァー様にお渡しするのだとは言っていたが…。ミカ殿やお前に注意されてからは護衛業務に専念する事にしてやめていた。…それに…いや、どういうことだ?」
タイタは逆にエビーの方を見て問う。
「どういうことって…。俺だって、カニさんまでそういう密命受けてるなんて事は聞いてないすよ。カニさんって実は深緑の猟犬ファンの集いメンバーだったりするんすか? オリヴァー様がカニさんに命令してたりとかは」
「いや。カニタ殿は違う。俺は集いのメンバー全員の顔と名前を覚えている」
「全員の…って何百人とかそういうレベルだろ、マジかよ」
「本当だ。これだけは自信がある」
前々から少し思っていたが、タイタは記憶力がいい。
複雑なサカシータ家の家族構成や、八年前の粛清事件の時の事もスラスラと詳細に語れるくらいだ。猟犬に関する事だけでなく、一度会ったきりのコマの風貌やセリフまで細かく覚えていたし…。
「ねえ、後で整理しない? その辺りは今議論しなくていいでしょ」
テイラーの内々の話はイーリア達には関係ない。
ちら、とイーリアやマージを見ると、優雅にカップを傾けている。薬草茶は私の前にも置かれていた。
私は一瞬だけ目を閉じて考えた。
「イーリア様。失礼いたしました。私は……ご子息が望んでくれるというのなら、この話は謹んでお受けさせていただきます」
イーリアがカップを置き、頭を下げる私に手を差し出した。その手をそっと握ると、両手で握り返された。
「よくぞ決めてくれたな。我が家としてもあなたとの縁ができて大変喜ばしい。良かったな、ザコル」
「はい。ありがとうございます。義母上」
私が彼と結婚するに相応しいのかどうかとか、姓はどうすんだとかなんか、そういう細かい事は一旦置いといて。
恐らくこの婚約話には何らかの意図、理由がある。そうでなくては、規律や外聞をあれほど気にするザコルが第三者を巻き込んでまでする話とは思えない。
であれば私は今まで通り、ザコルの側を離れなければそれでいいはずだ。
話がついたので、私は断って席を立ち、マージの傍らに立って礼をした。町にいる人達が喜んでくれたと伝えれば、マージはますます笑顔になった。
「わたくし、子供がいないでしょう。この思い出が詰まったワンピースはもう誰にも着て貰えないのだと、ほんの少し寂しく思っていたの。ミカ様が着てくださった今日の事、きっと忘れませんわ。恐れ多い事ですが、心の中で娘のように思わせていただいてもいいかしら」
「マージ様、私の年齢をご存知でしょうか。マージ様とは母娘というより、少し歳の離れた姉妹という方が自然かと。私の方からもお願いします。妹として、マージ様をお慕いしてもよろしいでしょうか」
私が腰を落としてマージの手を取ると、驚いたような瞳と視線が合った。その瞳はすぐにきらめいて溶け出すように涙が溢れた。
「…ええ、ええ。嬉しいですわ。一緒に町を守ってくれたわたくしの大切な妹。何かあれば必ず、わたくしにご相談くださいませね」
「はい。ありがとうございます。マージお姉様」
マージとは三日前に出会ったばかりだが、この三日間は本当に濃厚な三日間だった。
マージを始めとした町の人達との間には、あの大変な夜を一緒に駆け抜けた事で、絆のようなものを感じるまでになっている。
二人で手を取り合って嬉し泣きしていたら、イーリアも寄ってきて私達の肩に手を置いた。
「私を除け者にしないでおくれ。男ばかりでなく可愛い娘が欲しかった私に、お前達を愛でる権利をくれないか」
「このワンピースはイーリアお母様からの贈り物ですことよ。ねえ、ミカ」
「はい、マージお姉様のその暖かな髪色にはきっとこの若草色が映えたでしょうね。愛がたくさん詰まった一着です」
「ミカの柔らかな黒髪にも映えるとも。山の民に頼んで生地から特注した甲斐があった。娘二人に着てもらえるなど望外の喜びだ」
当然オーダーメイドだろうとは思っていたが、生地からとは何と贅沢な…。イーリアとマージの関係の深さが窺える。
「ありがとうございます……イーリア、お母様」
呼んでいいものか迷いつつ、やっと口に出した言葉に耳が熱くなる。
イーリアがかがみ、私とマージの頭を自らの胸に寄せた。
「よく頑張ってくれたな、ミカ、マージ。感謝している」
マージが顔を覆って泣き出した。
私はというと、イーリアの豊満でいい匂いのする胸部から何とか意識を逸らそうと必死だった。
抱き寄せられて一分も経たないうちにザコルに引っぺがされた。
◇ ◇ ◇
町の小道を、マージが案内を命じた男性使用人の後について歩いている。
私達はこれから領境侵犯の者達の顔を確認しにいく所だ。
町長屋敷でワンピースを脱ぎ、手持ちのニットとワイドパンツに着替えてコートを羽織ってきた。今朝まで履いていた山の民スカートはまだ乾いていなかったようで屋敷に預けたままだ。
そろそろ日暮れ時に差し掛かりそうだが、まだ明るいうちに確認できそうでよかった。
同志村に預けていた曲者達もそこへ移送されているはずだ。何事もないだろうが、一度は様子を見ておかないと護衛達も安心できないだろう。
カファとピッタは夕飯の炊き出し準備を手伝うからと言って先に同志村へと戻って行った。
「あの、すいません、ミカさん。俺、今までちゃんと話してなくて…」
私が無口なのを不機嫌と捉えたらしいエビーが謝ってくる。
「ううん、謝る事なんかないよエビー。何か思う事があって黙ってたんでしょ」
つい忘れがちになるが、エビーもタイタも、私達が無事にサカシータ子爵邸へ入るのを見届ける監視役でもあるのだ。また失踪したり、大きく予定を外れるような兆候があれば止めなければならない。その目的のために黙っている事があったとして、特に不自然でも理不尽でもない。
「むしろありがとうね、エビー。心身のサポートという面では本当にお世話になってるし。まあ、時々悪ふざけというか、お節介が過ぎるようだけど…」
にこ、笑顔でエビーを見やる。
「やっぱ、お、怒ってます? そのニコォ…ってすんのやめてくださいよお、へへ…」
「全然怒ってないよお」
ニコニコニコォ。
「ヒィ! 滅茶苦茶怒ってるじゃないすか!」
「別に、セオドア様からの密命を黙ってた事には何にも怒ってないよ」
「じゃ、じゃあ何を…」
そんなの、私の好く相手を勝手にすげ替えようとした件に決まっているだろう。
私に世界を愛させるためだか何だか知らないが、そもそも恋愛だけがこの世界を愛する手段じゃないだろうと、それだけは声を大にして言いたい。今後のためにも。
「いい? 今から言う事、よく考えてね。私は、エビーの事だって大事に思ってるんだよ。もちろん『そういう意味』じゃないけどね。それでも、君のためにだって私は力になりたいとも思う。そういう気持ちは、信用してもらえてないのかな」
エビーは一瞬、虚を突かれたように黙った。
「…い、いや、信用してないとか、そんな事は。 俺はただ、そういう相手っつうか、特別な相手がいれば、もっと『ここ』に愛着を持ってくれるかと…」
「もちろん、一般的にはそれも理由の一つになりうると思うよ。でもそればっかりじゃないでしょ。私は、何人も天秤にかけられるほど器用じゃない。相手にも悪いし。ていうか、この旅の名目って私の婚活なの?」
「そんなことは」
「まあ、私も人のことは言えないけどね。これまでの言動を思えば、公私混同っていうか、頭がお花畑みたいに思われてても仕方ないかも」
エビーは首を横に振った。
「ミカさんが、誰よりも公私の『公』のために考えて動いてんのはちゃんと解ってます。でも、だからこそ、心開けるってか、甘えられる存在も必要だって…」
「気持ちだけ受け取っとくよ。私にとって、そういう相手は存在するだけでも奇跡だからさ」
「…?」
発言の意図が解らなかったか、エビーは怪訝な表情をした。
「…私は、そういう相手がいてもいなくても、『ここ』が平和であってほしいと心から願ってる。それだけ多くの人のお世話になってからね。そういう人達にはずっと笑顔でいて欲しい。期待にも応えたい。どう言ったら伝わるか分からないけど……私に一人を選ばせてハッピーエンド、みたいなのは、私に善意で関わってくれる全ての人に失礼だとも思う。もし選んだからって話は終わらないだろうしね。自分の立場が特殊だって事は解ってるよ。でもね、そんな恩知らずだとは思われたくないかな」
エビーは少し考え込むようにしてから口を開いた。
「……なるほど。解りました。その辺はセオドア様の意志ではなく、俺の価値観だったと思います」
そして私にしっかり向き直り、頭を下げた。
「余計なお節介、というか、考えを押し付けて申し訳ありませんでした」
「謝罪を受け入れます。彼にもきちんと謝ってよね」
私は黙ってついてきているタイタの方に目配せした。
エビーは大概タイタに酷い。
最初は護衛にふさわしくないと排除しようとしたくせに、最近は私が可愛がっているからとけしかけたりして。もしエビーが何かしらの思惑や意図を背負っていたとしても、タイタにだって選ぶ権利というものがあるはずだ。
「タイさん、すみませんでした」
「お、俺か? どうした、エビーに謝られるような事なんて…」
「いや、タイさん。後でちゃんと話すんで」
「そうか? …分かった。話を聞こう。しかし、きっとお前は悪くない」
タイタはニコリとエビーに笑いかけた。
「…っ、タイさあん…!! すんませんでしたあああ!! 愛してますううー…!!」
「分かったから。あまりしがみつかないでくれ」
鬱陶しそうにエビーを剥がそうとするタイタの様子が新鮮で、こんな顔もするのだなと少しだけ驚いた。
◇ ◇ ◇
町外れを目指し、ザクザクと落ち葉を踏んで歩く。この辺りは広葉樹が多い道だ。紅葉していたかもしれないが、先の大雨でほとんどの葉が落ちてしまったのだろう。
「ミカ、僕の事も叱ってくれていいんですよ」
「ザコルは何を言っているんですか…」
「エビーばかりずるいじゃないですか。僕だって無理を通した自覚くらいあるんです」
「へえーそうなんだへえー」
「……やはり、怒っているのでは?」
ザコルが気まずげに眉を寄せる。
「怒ってなんかいませんよ。それに…嬉しかったです。ザコルが今日私に贈ってくれた言葉はきっと一生忘れません。でも、そうですね。ザコルにも何か理由があるんだとは思いますが、正直、急すぎて何が何だかという気持ちの方が大きいです。大体私達、お互いの事をそういうふうに見始めたのはつい最近じゃないですか?」
いくらザコルやイーリアが出自など問題ないと言ってくれたとしても、私があやふやで異質な存在である事実は変わりない。
町医者がザコルの魔力の色とやらに変化が見られると言った件も気になる。ザコルは魔法の事は自分で検証すればいいと言ってくれたが…。こんなに都合よく彼ばかりを利用していいんだろうかとも思ってしまう。
「…ずっと訊きたかったのですが、ミカは、どの時点で僕とそういう仲になったと認識していたんです」
「どの時点。そりゃ、深緑湖の街でしょう。どこへでも一緒に行くと言ってくれました」
「そんな段階でですか。というより、あれはちゃんと通じていたんですね」
「は?」
「え?」
………………。
思わず声が出て、お互いに顔を見合わせてしまった。
「…ふーん。なるほど。私が鈍いからって馬鹿にしてるんですね」
今のは聞き捨てならない。
「ば、馬鹿にしてなんか」
馬鹿にしていたというか、伝わっていないと思って私を試していた、が正しいかもしれない。コマには『男女の関係にあるわけじゃない』と目の前で否定してくれたし。
「コマは一応他領の…」
「ええ、彼は他領の工作員ですからね。秘密保持の観点からっていう言い分は解りますよ。でもザコル、正直言って、コマさんに隠す気なんてこれっぽっちも無かったでしょう? やりたい放題でしたもんねえ。だからこそ余計にショックで……はーあ、あの一言で私がどれだけ不安になった事か」
黙ってしまったザコルに目を眇める。
「叱って欲しいんじゃなかったんですか。小屋を飛び出したってのに、なかなか追いかけてきてくれませんでしたよねえ。どうせあの森を私が一人で歩ける訳もないから、自分から戻るしかないって思ったら腹も立ってきちゃって」
「そっ、その節は…」
頭を下げかけたザコルの肩に、バシッとエビーの手が大きな音を立てて置かれた。
「猟犬殿ぉ…森ってあれですよね、ジーク領の魔の森。そんな所で姫を一人にしたんすかあ?」
底冷えするような低い声。
何だか、ザコルを責めるアメリアの声色を思い出して懐かしくなった。元気かな…。
「いや、あの、薬草採取ギルドのある町の近くにあったコテージの敷地内ですので魔の森の範囲では…」
「言い訳は結構すよお。報告書に書かせて貰いますからねえええ?」
ジーク領の魔の森、フジの里がある辺り一帯の通称だ。
手綱はザコルが持っていたので実感はないが、変な磁場でもあるのか、方向感覚がおかしくなる事で有名な場所らしい。地理に関する本にも必ず載っていた。日本で言うと、富士の樹海みたいなものだろうか。ああ、もしやそれもあってあの隠れ里はフジの里という名前に…? まさかね。
「あの森を迷いなく真っ直ぐ目的地まで進めるって、ザコルは本当に凄いよね。あの時の速度を考えたらほぼ直線で来たとしか思えない時間で着いたもん。私なんてザコルの側を離れたら即迷子だなって思ってた」
「それは凄いですね。地元の者でも度々行方不明者が出ると有名な場所ですよ。しかし、速度と時間で進み具合を把握なさっているミカ殿も流石です」
タイタがうんうんと頷きながら答えてくれた。
「二人とも、何を呑気に喋っているんですか! ミカからもエビーに話してください! あのコテージは魔の森の範囲でもないし、僕は屋外にいるミカの気配くらいちゃんと把握できて…」
「ふーん。気配が分かっていれば、私がコテージの前でクリナと寂しく立ち尽くしてたって別に構いませんよね。あの時もどうせコマさんに言われて追って来たんでしょ」
「そ、そんな事は…いえ、コマに言われたのは、そ、そう、ですけれど……」
ザコルがどんどんしどろもどろになる。
まあ、あの時点ではザコルの中で、私とはそれ程進展していない事になっていた、ということだろう。その割には耳食まれたりもしてたけど。
「このクソヘタレ魔王が。コマとかいう人に感謝してくださいよね」
私が森の中でなく、コテージの前にいたと言及したので、エビーが矛を収める。
「コマさんね、本当にいい人なんだよ。お前らの間には金輪際入らねえからな! って言われちゃったけど」
「いい人なものか! あいつは僕を暗部に引きずり込んだ張本人で……っ」
「そうなんですか? それ、私が詳しく訊いてもいい話です?」
私がザコルの過去に興味があると言ってから、ザコルは少しずつ自分の過去を口に出してくれようとしている。暗部に入った経緯にコマが関与していたとは。話してくれるのならぜひ聞きたい。
「え、ええと……あの、聴かなかった事に」
「そう。分かりました」
残念だが仕方ない。
「シュンとしないでください! あなたに落ち込まれると落ち着かないんです!!」
「落ち込んでなんかいません。私には話したくないんでしょ? 無理に聞き出すのは主義に反しますから」
「どうして僕の過去の話になると聞き分けがいいんですか! たまには我儘を言ってくれたって…」
「じゃあ、聴かせてくれます?」
「え、あ、その……ええと」
「ほら、ザコルが困るなら別にいいですよ。困るって事は仕事が絡むんでしょう。ザコルも、そこまで公私混同しなくていいですから」
むぐう…と黙ったザコルの腕をポンポンと叩いて撫でた。
エビーが憐れみの目でザコルを見ているような気がしたが、気のせいだろう。
話しながら進むこと二十分程度。門とは反対側の町の端に着いた。大きめの馬小屋のような建物の前で使用人が足を止める。
「こちらでございます。見張りのものが二人、中で控えております」
「ありがとうございます。君は戻っていいですよ」
使用人がスッと頭を下げ、屋敷に戻って行く。彼、背後で私達が散々騒いでたのに一度も振り返らなかったな…。使用人の鑑だ。
馬小屋に扮した建物の中はしっかりとした牢になっていた。粗末な扉の向こうに石造りの厚い扉があり、逃走を防ぐと同時に、ある程度防音もできるようにもなっているようだ。
「昨日の人達もここにいるんですよね…」
私を襲った四人と、囮作戦で捕まえた七人。それから町中で捕まった五人。
「ミカさん、大丈夫すか。俺と一緒に外で待ちますか」
エビーが心配そうに私の顔を覗き込む。彼は、私の怯えた顔が頭にこびりついて眠れなかったと言っていた。
「ミカ、もし怖いならエビーの言う通りにしましょう」
ザコルも私をいたわるように言う。タイタも遠慮がちにこちらを伺っている。私は首を横に振ってみせた。
「大丈夫です。三人とも心配してくれてありがとう。これは私の問題ですから。今後のためにも、顔くらいは見ておかないとね」
強がりでなく言ったのが伝わったか、ザコルが黙って扉のノッカーを持ち上げて叩く。
しばらくして扉がゆっくりと開き、中から見張りの若い衛士が一人顔を出した。彼は一礼し、中へと案内してくれた。
石造りの牢屋の中は暗く、ひんやりとして寒い。しかしそれよりずっと気になる事があった。
ここには、最初に私達を襲った四人…自分達のにおいを消すために家畜に身を擦り付けていた連中と、同じく試行錯誤してにおいを紛らわし町に入り込んでいた連中、そしてまだ例のラースラ教徒が好む香とやらを身に纏ったままノコノコ領境を超えてきたらしい連中などがまとめて収容されている。
牢の中は寝台と便器が剥き出しで置かれているのみ。昨日捕まったばかりの罪人に清拭などのサービスがあるはずもなく、怪我人の包帯は放置、さらには長時間の拘束で粗相した者もいるとみた。
…つまり、体臭と便臭と獣臭と血とお香のにおいが入り混じり、牢屋は凄まじい臭気に満ちていた。
「くっせーな…。ミカさん、なるべく早く出ましょう。せっかく綺麗になったとこだってのに服や髪ににおいが付きますよ」
エビーが自分の上着を私の肩にかけてくれる。ザコルは胸ポケットからハンカチを取り出し、口に当てているようにと渡してくれた。
「まず、他と毛色の違う一人というのはどれですか」
「こちらです」
ザコルに訊かれた衛士は入り口近くにある小さな房を指した。独房のようだ。
中を見ると、長い暗色の髪を一つに束ねた小柄な人物が寝台に座っていた。
捕まっているというのにどこか余裕のある佇まいをしたその人物は、ゆっくりと首を動かし、こちらに顔を向けた。衛士が下げたランプの光がその人物の目元を照らす。
炎色では正確な色は分からないが、大きく煌めく瞳がこちらを見据えた。
「来るのがおっせえんだよ、猟犬」
「……コマ。何故お前がここにいる」
ザコルが低い声で呟くように言った。
「えっ、コマさん? コマさんなの!?」
「よお、姫さん。また会ったな」
どこからどう見ても美しい女性にしか見えないその人物から、既視感のある口調と声が聴こえる。
脳が混乱する。
「……何だろう、今日はもう色々あり過ぎて…今すぐテントに帰って寝たいかもしれない」
「そうですか。では僕が寝かしつけてあげます」
ザコルは私の肩を持ってくるっと回転させ、出口へと向ける。
「おい、待ちやがれこの変態唐変木が。…一線超えてねえだろうなお前ら」
「超える訳ないだろ。だが婚約はするつもりだ」
ザコルはそうはっきりと告げる。
さっきコマの前で否定しただの何だのという話をした直後だからか。話に出したのは私だが、何だかむず痒い気持ちになる。
「はあ? その変な女と婚約ぅ?」
「変な女とは何だ」
「いや、最初に変な女って言ってたのって確かザコルでしょ…」
頭痛がしてきた。いや、この頭痛は臭気のせいか。
「えっと…。この人、例のコマさんて人なんすか…? 何か聞いてたのとイメージが違うんすけど…女性?」
「し、しかしこの声は男性の…」
エビーとタイタも混乱しながら言葉を発した。
「さあどうかな、兄さん達。試してみるかい?」
コマらしき人が急に声色を変え、腕と脚を組んで蠱惑的な笑みを浮かべる。声が変わるとますます女性にしか見えなくなった。
「コマはこんなナリですが男ですよ。気色悪いでしょう」
「余計な事言うんじゃねえよクソ犬が。お前も十年前は」
「うるさい。その口ごと掻っ切るぞ。ミカ、においも酷いですしもう出ましょう」
ザコルが私の肩を後ろからグイグイ押す。
「……ほーう。姫さんは知らねえか。そいつの初仕事は」
「はつしごと?」
「ミカ、耳を貸してはいけません」
コマがニヤリと口角を上げる。
「この俺様が腕によりをかけて磨き上げてやった、ザコリーナちゃ」
ヒュッ、キン! と何かが空を切る音と石壁に金属がぶつかる音がした。
体を斜めにしてその何かを避けたらしいコマが、ゆっくりと姿勢を戻す。
「おい、顔を狙うんじゃねえ。そんで、とりあえずここから出せよ」
「……これ以後口を開かないというなら考えてやる」
「手遅れになったって知らねえぞ。教えてやったろ、情報ってのはナマモノだ」
チッ、と背後から舌打ちが聴こえる。
「ここじゃ奥の有象無象に聴かれる。あいつら、弱そうだが根性だけは大したもんだ」
聴かないふりをしていたが、奥の牢からずっと呪詛のような呻きが聴こえている。元気そうで何よりだ。
「すまねえな姫さん。あいつらがよく喋りやがるせいで余計な事まで聴いちまった。俺は知らねえ事になってたんだがな」
コマが一応申し訳なさそうに言った。
余計な事とは、もしかしなくても私が渡り人だという件だろうか。
例え猿轡をしていたって食事の際には取らなければならないだろうし、ここにいては嫌でも教徒達の会話が耳に入ってしまうだろう。
見張りの衛士に視線をやると、彼にも申し訳なさそうな顔をされてしまった。
「別にいいですよ。今広く知られるのはマズいというだけで、一生隠しておく予定ではありませんから。少なくとも春には公表される予定のはずですし」
春にはテイラーへ戻って社交デビューの予定だ。この情勢ではどうなる事やら判らないが。
「見張りのあなたも気にしないで。この方はザコル様の味方です。町長様に釈放の許可を得てきていただけますか」
衛士にそう声をかけると、彼は敬礼し、牢の外へと出て行った。
「おー、下々のモン相手にも堂々としたもんだな。流石は高貴な姫」
「生まれが高貴な訳じゃありません。でも、変にへりくだっても困らせるだけですから」
「へっ、相変わらず可愛くねえ女だ」
やはり容貌と口調のギャップが激しくて脳がバグを起こしそうになるが、少し慣れてきた。この人はやはりあのコマだ。
「コマさん、奥から聴こえた事で、他に気になる事はありますか?」
「俺様にタダで喋らせようなんざ、流石はお育ちがいいこったな」
ふんぞり返った姿勢のまま目を眇められる。
どうしても私を小馬鹿にしたいのか、いや、もしかしてまた、何か試されでもしているのか…。
…そうだ、こちらも何か情報を差し出せば快く協力してくれるかも。
「あとでお風呂を用意してあげますよ。私、お湯も沸かせるようになったので」
昨日判明したばかりの採れたて新鮮ナマモノ情報だ。氷姫と呼ばれていますが実は湯沸かし女でもあった件。
「ほお…。あんたが背中も流してくれんなら考えてやるぜ」
あまり好みの情報ではなかったらしい。
「おいあんた、ザコル殿の元同僚だか知らねえが、流石に不敬だろ」
エビーが思わずといった様子で前に出る。
「エビーがそれを言うかな」
ぎく、とエビーが肩を上げ、こっちをチラッと振り返る。
「お、俺のは冗談みたいなもんすよ…」
「コマさんのも冗談みたいなもんだよ。私、この人の毒舌嫌いじゃないんだよね。大体、コマさんって他人に身体とか触られるの苦手そうだからさ。背中なんて見せてもくれないよ、きっと」
コマの大きな瞳が僅かに見開く。そして声を落として話し出した。
「…ホント食えねえ奴だ。いいだろう。湯で勘弁してやる。奥の奴らは大人しく捕まってる気は無さそうだ。どうやら助けが来るもんだと信じているらしい」
ザコルの方を見ると頷いた。今朝の尋問でも同じような情報を得ていたようだ。近々、彼らの味方がここにやってくる可能性があるという事だろう。
「それから、あいつらの中に、何かの生き物を世話していた奴がいるようだ。声からして女だな。まあ、それくらいだな」
それは例の魔獣だろうか。もう一度ザコルの方を見るとタイタに何事か指示している。タイタが奥の牢へと確認に向かった。コマが指したのは集会所の方で捕縛された五人のうちの女三人、その誰かだろう。しばらくして、呪詛のような呻きが悲鳴に変わった。
「コマ、感謝する」
ザコルがタイタが尋問を始めたのを確認して、声を落として言った。
「この間から何だ、礼なんざ気色悪ぃからやめろ」
「あの赤毛だ。覚えていないか」
「赤毛……? ああ、もしかしてあいつ、あん時のデカいガキか。お前が粛清した家の子供だろ。何だ、結局面倒見てんのか」
やはり、暗部で赤毛を、つまりタイタを出迎えたのはコマだったようだ。
「違う。力になってくれているのは彼の方だ」
「はん、寝首かかれても知らねえぞ」
コマはタイタの背景を予め知った上で、ザコルの敵になり得ると判断して追い返していたらしい。
ザコルはそれをタイタに聞かせないよう、今のタイミングで切り出したようだった。
いや二人とも優しいな…。
「お前、彼が暗部に向いてないと言って追い返しただろう。彼を守ってくれた事に対する礼だ」
「何でこの俺がよく知りもしねえガキを守んだよ。事実を言ってやっただけだ。あのクソ真面目そうな奴に向いてる訳無えだろが、即潰されんのがオチだ。それに、もうお貴族様出身のポンコツを世話するのはうんざりだったんでな。お前も全く使いモノにならねえまま筋肉ダルマに成長しやがって。折角この俺様が手練手管を伝授してやったのによぉ」
「僕に嘘と演技は向いていない」
磨いてやった、ザコリーナちゃん、手練手管、嘘と演技。床屋の主人を惑わせる程の愛らしさだったという、十六歳のザコル。
「ミカ、情報を繋げないでくれますか」
「…なるほど、初仕事はハニートラップですか」
ザコルの顔がみるみる間に渋くなる。エビーが盛大に吹き出した。
「僕の話したくない事は訊かない主義では…?」
「うっかり聴いてしまったものは仕方ないとも割り切っています。姿絵は無いんですか姿絵は」
「食いつかないでくださ…」
「ザコリーナちゃんにご執心だった上層部の奴が自分で描いた絵があるんじゃねえか、拠点のどこかに」
「なっ、何でそんな物が…!? というか誰だそいつは!!」
ザコルが牢の柵を掴む。
「暗部の拠点かあ…王都か」
「絶対に、ぜっっっっったいに連れて行きませんからね!!」
奥から響いていた悲鳴と自白の声が止み、タイタが戻ってきた。
「確認が取れました。女の一人が魔獣と思しき生き物の世話を一時期していたようです。獣の形の詳細は…」
手に付いた血を払いながらタイタが報告を上げる。
「タイちゃん、女性にも容赦ないね…」
「ミカ殿を脅やかす輩に男も女もありませんから」
タイタがニコニコとして答える。
「…案外素質のある奴だったか、惜しい事したな」
コマがタイタを値踏みするように眺めて言った。
コマがいる独房から廊下を進んで曲がった先には、数人をまとめて収容できる広めの牢が四室あった。
手前右から最初に襲撃してきた四人、向かいにはその仲間でノコノコと町に戻ってきて捕えられた二人と、集会所で捉えた男二人、奥の右には同じく集会所の女三人、その向かいにザコルとモリヤによって沈められた七人がまとめて収容されていた。
まずは新顔、ノコノコ戻ってきた二人の顔から確認だ。
近づくと、例のお香のにおいがより強くなった。正直、気分は良くない。この手のエキゾチックなお香に特に苦手意識なかったはずなのに。ザコルから渡されたハンカチをぎゅっと口と鼻に当てる。
最奥に控えていたもう一人の衛士が牢の鍵を開けて中に入り、猿轡などを外してランプを彼らの眼前にかかげた。
「確認だが、お前達、牧夫を装っていたあの四人の連れか」
「………………」
猿轡を外されたというのに、二人はザコルの質問に何の返答もしない。ふっ、と鼻を鳴らして小馬鹿にしている。
どうやら、この二人も先の四人と同じく、暗部の元構成員らしい。
「お前達も暗部にいたのなら、僕を敵に回すということがどういうことかくらい解っているだろう」
ザコルに対して二人は、くっくっ、と無言のまま笑っている。
無性にイライラしてきた。
「ザコル、凍らせてもいいですか?」
「えっ」
私の発言にザコルが振り向いた。
「うちのザコルを馬鹿にするなんて何様のつもりかな。四肢欠損でいい?」
生体を凍らせたことは無いが、人間も九割は水のはずだ。きっとできる。
「ま、待ってくださいミカ!」
「ミカさん止まって止まって!!」
「ミカ殿! 手足がなくなると介助が必要になって衛士方の仕事が増えます!」
タイさんそこぉ!? とエビーがタイタにツッコミ入れた。
「それは一理あるね。じゃあ片手の指からにしとこうか」
ニヤニヤと笑う一人の指に狙いを定めて手をかざす。
「……あれ?」
魔法を使っているはずなのに、指が凍る様子はなかった。
「生体には効かないのかな」
牢の二人は何が可笑しいのか大笑いだ。
肩掛け鞄に入れていた水筒を思い出し、中に入れたまま手を当てて念じてみる。いつもなら一瞬で外側にまで霜が付くはずだが、まるで変化が無い。
魔法が使えなくなった…?
頭痛がどんどん酷くなっている気がする。吐き気もしてきた。牢の中はあらゆる悪臭で満ちているはずなのに、例のお香だけが鼻から入って脳を刺激しているような…。
「う……」
あまりの痛みに眉間を押さえる。ザコルがサッと私を引き寄せた。
「ミカ、出ましょう。大丈夫です。…後できっちり締め上げておきますから」
ザコルが鋭い殺気を向けると、笑っていた二人は急に喉を詰まらせたように黙った。
狭い廊下を戻り、コマの独房も素通りして牢の外に出る。新鮮な空気が肺に入った。
「ミカ、ミカ。どこか痛むんでしょう、頭ですか」
ザコルが私の顔を両手で挟み、顔を覗き込んでくる。彼の手はひんやりとしていて気持ちがいい。
「ん、大丈夫…。少し、座ってもいいですか…」
そう言うと、ザコルは私の膝に手を入れて横抱きにした。
座ってはいないが、楽にはなったので遠慮なく身体を預ける。
「ミカさん、水飲みますか、確か水筒を持って…」
「水筒。そう、水筒取って、エビー」
エビーが私の肩掛け鞄を預かり、中から木製の水筒を出して渡してくれた。飲むよりまず先に念じてみる。
「凍らない…」
「凍らない?」
私はその水筒のコルクを抜き、口に含んだ。冷たい。凍ってはいないが、冷蔵庫に入っていた飲み物程度には冷たくなっている。
逆に温まれと念じたら、水筒の中身はぬるま湯になった。
「弱い」
「弱い?」
「魔法の出力が弱い、です」
疑問符を浮かべたザコルの方を見て言い直す。
冷えろで凍結、温まれで熱湯。どうあっても結果が極端だった私の魔法。
それが微妙な温度変化しか起こせなくなってしまっている。これじゃお風呂を沸かせない。かき氷も無理だ。
「以前魔力酔いをした時のような酷い頭痛と吐き気がします。外に出たら少し軽くなりましたが…。あの、におい…」
「どのにおいですか」
「多分、お香のにおいです」
魔力の出力が弱まった事と安易に結びつけるべきではないかもしれないが、頭痛の元は十中八九あのお香だ。
「町医者に診せましょう。何か解るかもしれません。タイタ」
「は、町医者殿ですか、分かりました。こちらにお連れします」
タイタがすぐ町の中心へと駆けていく。
「ミカさん、今日は町長屋敷に泊まりましょうよ。ベッドを用意してもらって…」
エビーが私の鞄からホノルが編んだストールを出し、私のお腹と脚の辺りにかけてくれた。ふと見れば辺りの木々は西日に包まれている。吹き抜ける風が冷たくなって来た。
「ううん、急にそんなことしたら皆を心配させちゃう。まずは町医者先生に診てもらって、様子を見てから…」
「そんな顔色で、様子なんか見てる場合かよ」
同志村スタッフはもちろん、屋敷の使用人達も、私が渡り人で邪教に狙われているなんてきっと知らない。
現段階で渡り人という出自を正式に知っているのは、私達以外ではイーリアだけだ。マージも耳に入れている可能性は高いが。
「…じゃあ、コマさんが釈放されたらイーリア様にお時間をいただいて、できればマージ様にも同席をお願いして…。ザコル。今朝の尋問で判った事について、重要な部分を先に教えてください」
「ミカ、頭が痛いんでしょう、休みましょう。少しでもいい。せめてタイタが戻るまで」
ザコルがギュッと私を抱く腕に力を込める。
「でもっ……」
「大丈夫、大丈夫です。完全に頭痛が収まってから考えても遅くはありません。休んでください、僕がそうして欲しいのです」
「む……」
そんな辛そうな顔で言われては断れないじゃないか…。
「息をゆっくり吐いて、吐ききって」
ザコルの指示に従い、息を吐き出す。
「ゆっくり息を吸う。目を閉じて、力を抜いて、もう一度息を吐いて」
肺の空気が入れ替わる。少し、頭痛が和らいだように感じた。
「一旦落ち着きましょう」
私を抱く、ザコルの体温と息遣い。
私はどうしていつも気付くのが遅いんだろう、ドクドクと早い鼓動も胸の辺りから伝わってくる。これはザコルの鼓動だ。きっと動揺させたのだろう。しばらく、それを感じながら目を閉じていた。
サワサワと木々の葉擦れの音がする。鳥の鳴き声も。風の冷たさは日に日に増している。この地方の秋はそろそろ終わりだろう。
ふー…と息を吐く。頭痛や吐き気はもうほとんどない。
「……心配をお掛けしました」
「…回復したようですね。驚きましたよ、人に氷結の魔法など向けたのは初めてではないですか」
「ごめんなさい…」
「別に謝る必要などありません。魔法などミカの自由に使えばいい。僕から見ればオマケのようなものだが、あなたが得た力です」
「オマケ…」
魔法なんてオマケに過ぎません。ミカの真価はそこじゃない。
つい二日前にそのような事を言ってくれた事を思い出した。
「オマケのくせに、ミカの気分や体調に直結するのが厄介です。今回は魔法や魔力そのものというよりあの香によるものかもしれませんが…。その苛つきに任せた行動で、ミカが後から落ち込む事になるのは困ります」
衝動的な行動だったのは間違いないが、ザコルの事を馬鹿にされるのが許せないのは平時でも一緒だ。魔力酔いによる気分の変化は、私の本性を暴いているようにも感じられる。不調によって強制的に心の余裕が無くなるわけなので当然かもしれないが。
「そっか…。私って、思ったより根が凶暴なんですね」
自分の手のひらをじっと眺める。
可能性には気づいていたが、一度もやる気になれなかったのが攻撃としての水温操作だ。
体の一部を凍結させたら確実に壊死だし、血を沸騰なんてさせたら火傷じゃ済まない。
もしそれをやってしまったら、本格的に危険人物の仲間入りだ。知れば怖がる人も出るだろう。そう思うととてもできなかった。なるべく考える事も避けていたように思う。
さっきの自分は、それを迷いなくやろうとした。成功していたら一時的にスカッとしたかもしれないが、きっと後味悪いものになっていただろう。むしろ失敗して良かったと思うべきなのかもしれない。せめて、もっと追い詰められてから視野に入れるべき手段だ。
「思ったより、そうでしょうか。第二王子殿下の時にしろ僕を叱る時にしろ、容赦なくその口で叩きのめしてきたではないですか。曲者にも迷いなく刃を突き立てていましたし。前々から充分凶暴ですよ」
「それはそうすね」
ザコルの言葉に、うんうん、とエビーまで同意している。
「ふーん、ザコルもエビーも、さっきの続きしたいんだ…」
ジトリと目線をやるとエビーがシュッとどこかに逃げた。ザコルの後ろに回ったようだ。
「調子が戻ってきましたね。頭痛はどうですか」
ザコルが穏やかな口調で問う。さっきの続きはしないらしい。
「もう大丈夫です。さあ、もう一度やってみようかな」
手の中の水筒に向けて念じる。
霜が付くほどではないが、上下に振っても水音はしない。これは凍っている。
反対に温まれと念じると、コルク栓が勢いよく飛んだ。急に温まった事で中の空気が膨張したらしかった。飲み口から湯気が立ち上る。
「魔法も戻ってきたみたい。あー、良かった。今日コマさんにお湯を用意できなくなったかと思っちゃった」
「まさか、あの申し出は本気ですか。というかそんな事のために焦っていたんですか?」
「まあ、約束ですからねえ。明日から避難民入浴作戦も開始しなきゃですし」
「流石は姐さん、自分の体調不良より風呂すか」
ザコルの後ろから茶化す声が聴こえてくる。
「衛生は大事だよ。あの牢の中身も一度洗濯した方がいいね。ああ、でも、町医者先生が来てくれるなら、もう一度あのにおいを嗅いでみるべきかな」
「お、おいおい、いくら何でも冗談キツイっすよミカさん」
視界から外れていたエビーがシュッと戻ってきた。
「冗談なんか言わないよ。少しならこうして休めば抜ける事が判ったからね。もしあのお香が原因だとして、あれを攻撃に使われたら私は一気に無力化されちゃう。たかが頭痛や吐き気でも、酷くなれば動けなくなるよ。たった二人が体に纏わせているのを嗅いだだけでこうだもん、対策は練るべきだと思う」
「……それは確かに」
「ちょ、ザコル殿は止めてくださいよ! あんたら検証となるとすぐ目の色変わんだから…!!」
頷くザコルの肩をエビーが掴む。
「検証自体を目的にしている訳ではありません。…あの香、ラースラ教徒の礼拝などに使われるものかと思っていました。彼らは必ずと言っていい程身に纏っている。もしもミカだけ…いえ、例えば渡り人か魔法を使える者だけに効果のある薬物の類であると仮定すると…。ミカの言う通り、何らかの対策は必要になります。今後、ミカを危険に晒さないために」
「逆にあのお香じゃないとしたら、原因を特定しないと。ね、エビー、どうかな」
エビーは眉間に皺を寄せたまま目を逸らした。不満、というか少し怒っているように見える。
「俺は反対すよ…でも別に、ミカさんは俺の許可なんて取らなくていいんすけど?」
「はあ? 何言ってんの、私の保護者代わりっていうか、心身サポートはエビーの仕事なんでしょう。反対意見があるなら聞くよ」
恋愛観の押し付けについては思う所もあるが、エビーが私の身を案じてくれるのは職務であり、彼もプロなのだ。蔑ろにはしたくないし、細やかな事に気を配れる彼の意見を聞くのは、結局の所、自分や皆のためでもある。
エビーはクシャ、と頭を掻いた。
「…まあ、反対ですけど、俺もお二人の言う事にも一理あるとは思ってんすよ。ミカさんの脅威になるんなら、早めにはっきりさせといた方がいいのは確かすね。で、町医者先生はどうして呼んだんすか。今日は俺ら診察室に入ってねえから、あん時何があったのかまだ聞いてねえすよ」
「あ、そっか…。ごめん、今日テントに帰ってから話そうと思ってたんだよ」
私はエビーに、人の魔力の色が見られるという町医者の能力の事と、彼が言ったザコルの魔力の異変についてざっくり説明した。
町医者の能力に関しては自己申告でしかないが、左手の小指に私の魔力の色が集中しているような事を言っていたと伝えれば、エビーも眉を寄せてうーんと唸った。
「なるほど、また怯えた顔してたように見えたのは気のせいじゃなかったんすね…。先生は、左手の小指とだけ言ったんすか。ザコル殿、最初に涙を舐めて治ったっていう腕はどっちすか」
「右の上腕です」
確かに町医者は、ザコルの全身の魔力が濃くなっているという事と、左手の小指の付け根あたりに特に違う色が見られるとしか言っていない。怪我をして治った場所の魔力の色が違って見えるとすれば矛盾している。
「左の小指は三回も折って治しましたもんねえ…。マジで頭おかしいっつうか…回数のせいか? それとも条件が違う? …キスか?」
エビーは顎に手をやってぶつぶつと呟いたのち、首を振った。
「いや、ここで考えててもしょうがねえな。先生が来たら話聞きましょう。あと、イーリア様にこれ以上能力の検証はすんなって言われてませんでしたっけ」
「…そうだった。まあ、あれは治癒能力の事だけど…。また嗅ぎに行ったら怒られるかなあ…」
「怒られるかどうかの前に、自分の体の心配してくださいよ。そのお香に中毒性とか他の作用でもあったらどうすんすか」
「そういう可能性もあるのか。確かにあの二人おかしかったもんね、やたらに笑ってたし…」
獣臭のする四人も変ではあったが、追加で捕まったあの二人からはさらなる狂気を感じた。
「僕は過去に何度か教徒に接触して嗅いでいますが、体調に変化がある訳ではありませんよ」
「ザコル殿はまず毒物が効かねえからな…。いや、町医者先生は魔法が使えない人でも魔力はあるって言ってたんでしょ。ザコル殿や俺らだって自覚できてないだけで何か変化があった可能性はありますよ。…うーん。そうすね、まず俺が嗅ぎに行きます」
決めた、とばかりにエビーが顔を上げる。
「エビーが!? どうして…」
「この中で一番、条件がフラットなのが俺だからすよ。自覚症状もないすしね、ちょっと嗅いだからってすぐにどうかなるこた無いっしょ。タイさんでもいいすけど、戻ってくるの待って説明してたら日が暮れそうです。ミカさんは魔力酔いするくらいの魔力の持ち主だし、ザコル殿は毒が効かねえ上に何か魔力が混ざってるらしいし。そうそう、話通りなら町医者先生も魔法使えるんでしょ、もし嗅がせたら体調崩すかもしれねえすよ。あの先生が体調崩したり能力に何かあったりしたら困るのは患者すよね。気をつけてもらった方がいい」
「本当だ、その通りだね」
「先生が来たらここで俺の魔力を診てもらって、そうしたら俺が中に入ってもう一度嗅いでくる。その後に変化を診てもらいます。変化があってもなくても、その結果を踏まえてイーリア様に報告と相談に行きましょう。あいつらの清拭は明日以降にしてもらいます。それでどうすか」
「…うん! いいね、さっすがエビーだよ。やっぱ意見聞いといてよかった」
エビーを犠牲にするようで少し心苦しいが、それならば各方面に対して丸く収まる。気遣い屋らしい抜かりのない案だ。
「へへっ、ミカさん。俺の事も撫でてくれていいんすよお?」
エビーがふざけて頭を傾けてきた。私はザコルに横抱きにされたまま、手を伸ばしてエビーのくすんだ金髪をワシャワシャと撫でた。
「えらいえらい。一緒に考えてくれてありがとね!」
撫でられたエビーは一瞬キョトンとした顔をした。
「何、そっちが撫でろって言ったのに」
かあ、と彼はみるみる間に頬を紅潮させ、そして勢いよくプイッと顔を背けた。
「お、俺なんて、お邪魔なだけかと思ってたんすけど!?」
「邪魔なんて言ってないよ。セクハラはよしてほしいけど」
「セクハラはミカさんでしょうが! 軽々しく人の頭撫でやがって」
「いや、だから撫でろって言ったのはエビーでしょ」
エビーに対して、文句や否定を言う事が続いていたな、と反省する。
職務であるにしろ、親身になって諫めたり心配してくれるのは決して当たり前の事ではないのだ。イーリアにもそう言われていたのに。
「いつもありがとう、エビー。これからも遠慮なく意見を言ってほしいです。私も頑固だけど、めげないでね」
「くそ、素直に聞く気は無えってか…。少しは自重しやがれください…よ…」
振り返ったエビーがこちらを見て硬直する。
「? どうしたのエビー…」
「ミカ、僕も解決策を思い付きました」
穏やかな声が斜め上から降ってきた。
「ザコル…?」
見上げると、満面の笑みを湛えた魔王の顔があった。ヒュ、と息が詰まる。
「このままアカイシ山脈の方へ行きましょう。川の水かさも落ち着いた頃でしょうし。ミカが前に行ってみたいと言っていた温泉もありますよ。これから冬になりますが、地熱のある場所を知っています。ほとぼりが冷めるまでそこで過ごしましょう。二人で」
ザコルは私を横抱きにしたままゆっくりと町の境界に向かって歩き出す。
「ど、どこ行くんですか、ザコル、ちょっ、止まって!!」
「わー!! すみませんて!! もう冗談でもセクハラなんか言いませんからあああ」
何を言っても叩いてもエビーが背中にしがみついても止まらない。腕に私、背中にエビーをくっつけたまま、何事もないかのように進んでいく。
どうしたら、どうしたら止まる? もちろん力づくで腕を外して降りるなんてことは無理だ。
「あ、ザコル、こっち見てください、私の顔に何かついてませんか、何だかヒ、ヒリヒリします! 香の影響かも!?」
「何です、何もついていな」
ザコルがこちらを向いた瞬間に、彼の首に手をかけて何とか上半身を持ち上げ、唇を塞いだ。
背中にしがみついているエビーの目も近いがなりふり構っている場合ではない。このままでは本気でアカイシ山脈に強制アタックだ。
唇を塞いでも何とか足を前に出していたザコルだが、執拗に唇を食んでいたらついに止まった。
ぷは、と口を離し、降ろしてくれるように言ったらスッと降ろしてくれた。背中のエビーもそろそろと降りる。
「あー、全力で首に掴まってたから腕が痛い…」
力が入りすぎて動きがぎこちなくなった手を曲げ伸ばしし、ザコルの手を引いて先程の牢屋に戻ることにした。
私とエビーがザコルと連れ、無言でぞろぞろ歩いて牢屋に着くと、丁度タイタと町医者、コマの釈放許可をもらいに行っていた衛士が一緒になって戻ってきた所だった。
「ザコル殿…まさか…また…」
タイタがザコルの様子を見て、そして私を見た。
…こっち見んな。いや、見ないでください。
つづくく
エキゾチック系の香の匂いは嫌いじゃないです。
しかし、たまーに脳天にくるヤツもあるなーと思ってます。




