誓い
私達は、もみくちゃにされた集会所を後にし、肩や頭についた花びらを指でつまみあげながら次の目的地に向かっている。
手首には、久しぶりに会ったリラが渡してくれた小さな花輪が通してあった。
「ミカさん、本気で気付いてなかったんすか? その気でいるもんだと思って止めなかったじゃないすか」
エビーが呆れたように言った。
「いや、マージ様のワンピースを皆に見せて回る事がただただ慰問になるものだと本気で…」
「それ、見ようによっては町長様の婚礼衣装すよね。避難民の人らは見たことねえだろうから知らねえでしょうけど」
エビーの言う通りだ。他ならぬ避難民がこの衣装の価値に気づけないのであれば慰問の意味など全くない。ただし、シータイに住む人々を誤解させるには充分な破壊力を持ち合わせている。
マージがこの町に嫁いできた日に着ていたワンピースを着て、ザコルの腕を取り町を歩く。まるでマージの輿入れをなぞるかのように。
光景に覚えのあるシータイ町民達は当然、婚約か結婚が成ったお披露目とでも思っただろう。
「私、どんだけ鈍いの!?」
「なんかそういうのには敏感とか言ってたくせにー。変なとこで抜けてんだなあ、ミカさんて」
ぐうの音も出ない。
「まさか式場の方からやってくるなんて…ッ!! やはり俺は出家するしか…ッ!?」
「落ち着いてタイタ」
「どうどうタイさん」
すっかり工作員モードで漢泣きするタイタを宥める。
こっちはこっちで、さっきまでは私をザコルから引き剥がそうとしていたくせに。結局、この子も私達をどうしたいんだろうか。
「そっか、同志へのサービスも兼ねてんだなこれ」
「………………」
果たして集会所に彼らは居合わせていたのだろうか。部下の姿は見られたので、報告は受けているかもしれない。
「……して、ミカ殿、いつの間にザコル殿とご婚約されたので?」
不意に我に返ったらしいタイタは酷い涙顔のまま訊いてきた。
「いや、してないよ…」
どうしてこうなった。まあ、思い当たる節しかないのだが…。
「義母やマージはすっかりその気だと思いますが」
「ですよねええー…」
「てか、ミカさんが言ったんでしょ、私にはザコル様が必要ですって。あんな大勢の前で頭まで下げてさ」
「ですよねええー…」
私は完全に頭を抱えた。
「ミカ、身内が勝手をしてすみませんでした。今回は流石に察しているものと思っていたのですが…」
ザコルの申し訳なさそうな声が降ってくる。だが、こっちは気まずくて顔も見られない。
「あ、あの。嫌とかじゃないんですよ、もちろん。急な事で、こ、心の、準備が…その…」
「準備などできてなくて当然です。僕に恥をかかすまいなどとも考えなくていい」
優しい…。どう考えても失礼な真似をしているのは私の方なのに。
というか、彼は落ち着きすぎではないだろうか。
「忘れがちすけど、ミカさん、まだ『ここ』に来て間もないんでしたね。心の準備どころじゃねーか…」
エビーの言う『ここ』とはこの世界の事だろう。確かに喚ばれてから一年も経っていない。
それもそうなのだが、今はただただ状況に頭がついていけていないのだ。ザコルとはつい最近付き合ったばかりという認識だし、それがいきなり婚約か結婚かという話になって戸惑っている。しかも、ほぼ自分の迂闊な行動のせいだというのもダメージが大きい。
「ごめんなさい、私の考えが足らないばっかりに、こんな、流されるように…」
彼の進退を完全に極まらせてしまった。
ザコルが執務室で絶句していたのも納得だ。外堀を埋められてしまったのは、私ではなく彼の方なのだから。
「僕のことは気にしないでください。その服も、ミカが選んで着た訳ではないのでしょう?」
「…えっと、はい。気がついたら着せられていました。マージ様のご指示だと。私の服は洗濯に持っていかれてしまって…」
「マージは義母の腹心でしたから、義母の考えを汲んだのかもしれませんね」
そうだろうか。確かにイーリアは私に優しいし、私とザコルの関係についても何も言わないが…。
「ああ…そっか。きっと逆ですよ。マージ様の気持ちをイーリア様が汲んだんです。マージ様は…。かつてご自分がイーリア様や町の人に祝福されて嬉しかったから…」
この領に来るなり水害に巻き込まれて着の身着のままだった私に晴れ着を貸し、民にはありったけの花を持たせた。
マージなりのお礼で、祝福で、サプライズだったのだろう。だったら、尚更しっかり気持ちを受け止めたかった気もする。
「いいように解釈する必要はありません。ミカが困るというのなら、今からでも否定してきます」
「困ってなんか…!」
エビーがゲシッとザコルの臀部を蹴った。
「何するんですエビー」
「卑怯な言い方すんなっての」
卑怯とは。
「やめてよエビー。違う、ザコルは何も卑怯じゃない。深緑色の服を着たり、身の回りのお世話をさせたり、そうとられてもおかしくない言動ばかりしてきたのは私だもん。その上、心の準備がとか、流されたとか、さらにはマージ様のせいにするなんて。卑怯は私の方…」
「ミカ、それも違います。僕はただ、形にこだわっていないだけです」
「かたち?」
ザコルは足を止め、戸惑うばかりの私を目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「…どこへなりとも、一緒に行くと言ったでしょう。僕としては、どんな形であれ、あなたの側にいられさえすればいい。主もそうお望みのようですし」
彼は私の片手を取って持ち上げる。
「こんな茶番や約束を取り交わすまでもなく、僕は、既にあなたのものだ」
ちゅ、と手の甲に口付けを落とされた。
ぷしゅう、と頭から何かが抜けていく。ついでにタイタも膝から崩れ落ちた。
ザコルとエビーが慌てて私やタイタの目の前で手を振っているが、音が妙に遠くに聞こえる。エビーが脇に抱えた私の鞄から紙束を出して何やら言っている。
先に立ち直ったらしいタイタが自ら自分の反省文を朗読し始め、その無駄によく通る美声に正気を取り戻した頃には、そこそこの時間が経過していた。
◇ ◇ ◇
「ずるい、ほんとずるい」
「何がずるいんですか。さっきからそればかりですね」
後ろでエビーが大笑いしている。
今から向かう臨時救護所、もといこの町唯一の宿屋には、妊婦や乳幼児を抱えた母親が数人滞在している。恐らく、彼女らは冬の間をこの町で過ごすことになるだろう。家や夫から離れ、さぞ不安に違いない。
「まあ、いいです。この慰問が終わったら、町外れに留めてあるという領境侵犯の者達を確認に行っていいですか」
「はい。それはもちろんです。今朝の尋問について判ったことも後で教えてくださいね」
「ミカ殿」
ニコォ…とタイタが圧を放ってくる。本当に何があったんだ。年齢制限のある同人誌を手に取った未成年を見て焦るオタクか?
「タイタ、話せる所だけしか聞かないよ。ザコルだって私を無駄に怖がらせるような事は言わないだろうし」
何をどうして尋問したかなどまで詳しく訊き出すつもりなんてない。あまり詮索しては仕事をやりにくくさせてしまう。
「僕が必要なことだけまとめて報告します。さあ、あっちにもミカを待ち構えている者達がいますよ」
顔を向けると、道の端で籠いっぱいの花びらを持った子連れのグループがこちらに向かって大きく手を振っていた。
男性が子供に足を取られそうになって持っていた籠をひっくり返してしまい、中身が風で一気に舞い上がった。
吹雪のように花びらが舞う中、子供達がキャッキャッと嬉しそうに跳ねた。
宿の食堂の一角を占める救護所では、軽い怪我をした町民が二人ほど手当てを受けているくらいで、のんびりとした空気が流れていた。あの水害直後の戦場のような夜が嘘みたいだ。
ただし、調理場の方は先程まで昼食用意のために戦場だったようで、宿のスタッフや同志村からの助っ人が燃え尽きたように椅子に座り、避難民に配った料理の残りをつまんでいた。その一人が私達が来たのに気付き、慌てて立ち上がった。
「あ、いいよそのままで。やっとお昼休みでしょう。お疲れ様」
手で制して再び座るよう促すが、そんなわけにいかないと皆次々と立ち上がって厨房へ行ってしまった。
「しまった、ここはもう少し後で来ればよかった」
「お昼食べ損ねましたねえ」
「それは彼らもでしょ。せっかくの休憩に申し訳なかったよ」
残り物が乗っていた食堂のテーブルはあっという間に片付けられ、まっさらなテーブルクロスが敷かれた。
「今、すぐに用意しますから! もうしばらくお待ちください! まだ行かないでくださいよ!」
厨房から焦ったような声が聴こえる。初日と次の日は救護所に詰めていたから、調理場で料理をしていた宿のスタッフとも顔見知りだ。
「じゃー、俺は手伝ってこよっかな」
「では俺も」
私よりもずっと救護所で大活躍だった護衛二人が立ち上がった。勝手知ったるとばかりに、燃料の薪をチェックして補充したり、井戸から水を汲んできて水瓶に足したりする。
私は部屋の隅に置かれた大きな瓶を見つけて拾い上げた。
「これ、使い切っちゃったんだ。結構な量あったのに」
「ミカ、その瓶はまさか、フジの里で押し付けられた…?」
「そう。あの火酒です。あ、飲んだりはしてませんよ。傷口や手の消毒に使ったんです」
例の、度数が高すぎる焼酎。
渡された時は正直荷物になるとすら思ってしまったが、どこで役に立つか分からないものだ。
「なるほど。傷の縫合をする際に、度数の高い酒を器具や傷口にかけるところは僕も見たことがあります。よく咄嗟に思い付きましたね」
「私の故郷には、医療用や食品衛生用に作られた高濃度アルコールというものがありましてね。割と広く使われているんです。手術や傷の手当てにはもちろんですが、感染症の予防として、食事前などに手指につけて消毒したりとか」
例の感染症騒ぎではそのアルコールが不足し、度数の高い焼酎が代用品として出回ったりもした。
「手指に酒を…。そんな事で流行り病が予防できるんですか」
「もちろんそれだけじゃダメですけどね。アルコールによって病の元となる菌やウィルスがある程度死滅しますので、こまめに行えば一定の効果はあると思います。アルコールが効かないウィルスもありますが」
ノロウィルスとかね。
「菌、というのはわかります。化膿の原因になるものですね。ですが、うぃるす、というのが解りません」
「そうですか…。翻訳チートが効かないという事は、この世界では菌の存在は認知されているけれど、ウィルスの存在まではまだ発見されていないってことなのかな」
目に見えないという点では菌もウィルスも一緒だ。高性能な顕微鏡が存在するのかまでは判らないが、その違いをしっかりと定義するには及んでいない、ということだ。
「ええと、私もそんなに詳しいわけではないんですが…。菌よりも細かくて感染能力の高い存在です。よくある風邪も色んなウィルスが引き起こしているんですよ。ウィルスの種類にもよると思いますが、例えば飛沫感染なら…こうして話したり、くしゃみや咳をすることで空気中に放たれ、それを吸ったり口に入れた人が同じ風邪にかかり、そして流行るんです」
「ふむ、なるほど。伝播する呪いのようなものですか」
「呪い…ちょっと違いますけど…。まあ、そうですね。体液を介して伝播する呪いみたいなものかもしれません。耐性のある人なら発症しないか軽症で済みますが、耐性がなく、体力も落ちている人だと命に関わることもありますからね」
ザコルがそう言うということは、この世界には、呪いという概念、攻撃手段が実際にあるということなのだろうか。
「ありますよ。かつて人を呪うことのできる魔法士が存在していたようです。発動する条件が限定的らしいのですが、一国の王族が次々と呪われて騒ぎになった事があるとか」
「怖っ」
呪い。一応心に留めておこう。
厨房はまだバタバタとしているようなので、私はその間に二階の妊婦や母子を見舞う事にした。
食後でお昼寝中の妊婦や子供もいるみたいなので静かに部屋を覗いていく。今回話ができたのは妊婦一人と母子一組だけだった。妊婦の彼女はもう臨月。胃が圧迫されて苦しいらしく、食後で辛そうだったので励ましの言葉だけ贈ってすぐに部屋を出た。
赤ん坊とはたった数日でも成長するものらしい。ここに来た頃は小さな籠の中で寝ているだけだった子が、母親用のベッドでうつ伏せになり、顔を必死に上げようとしていた。
「ミカ様、見てください。うちの子、寝返りできるようになったんです! 仰向けからうつ伏せに。でも、うつ伏せから仰向けにはまだ戻れなくって、すぐに泣き出すので目が離せなくて…」
言うが早いか、赤ん坊はふええ、と泣き出した。ああ、と母親が焦って抱き上げる。眠たいのか、母親の胸に顔をこすりつけて指をしゃぶった。
「ミカ様が作って下さった肌着は大活躍しております。すぐに汚すので洗濯が間に合わなくて…」
「使ってくれているんですね。また縫って届けますよ。赤ちゃんってすごいですね、二日前に見た時より大きくなっている気がします。お母さんは寝られていますか?」
「ええ、夜は相変わらず細切れですが、日中お昼寝もさせていただいてますので」
少し寝不足のようだが顔色は悪くない。
同志からの食材差し入れもあって、しっかり三食食べられているのもありがたいと言っていた。授乳しているとものすごくお腹が空くらしい。
「ミカ様。私、避難してきてすぐの夜は、夫の安否も分からず、不安で気がおかしくなりそうだったんです。…夜中、何度も白湯を届けて下さいましたね。ミカ様も巻き込まれたお立場だというのに笑顔で、気丈でいらして。ザコル様と再会できて、ミカ様が泣かれていたと後で聞いたんです。私、それを聞いて私、本当に良かった、良かったって…」
泣き出した彼女の背を撫でる。赤ん坊がそんな私を不思議そうに見つめたので、小さくて柔らかい頭もそっと撫でた。
彼女の夫は無事だった。母子が避難してきた次の日の夜には荷馬車に乗せられてこの町へ来たそうだ。集会所で名簿を漁り、汚れ落としもそこそこに宿に駆け込んできたらしい。今は下流の町に戻り、浸水した自宅を片付けているそうだ。
「この花をどうぞ。他に何も差し上げられるものがないのですが、せめてもの気持ちです。受け取ってくださいませ」
「ありがとうございます。嬉しいです。ザコル、髪につけてくれませんか」
そう言うとザコルがスッとその花を私の手から取り、編み込まれた髪に差してくれた。
彼女は赤ん坊を抱いて散歩しながら道端の花を摘み、宿のあちこちに飾っているらしい。赤ん坊の世話もあって何も手伝えない事を気にしているようだ。
「明日以降になるかと思いますが、避難民の皆さんにお風呂を用意する予定です。良かったら先に入って感想を聞かせてください。今後の参考にもしますので」
「え、お風呂を? そんな、私などが入っていいんでしょうか…」
大量のお湯を沸かして湯船に溜めるようなお風呂は、この世界の一般庶民にとっては贅沢に当たるようだ。温泉でも湧いていれば別だが、基本的には清拭か水浴びで済ませている人が多いらしい。
「実はね、私、氷が作れる魔法士なんですよ。それが、何故か昨日からお湯も沸かせるようになりまして。せっかくなので、検証がてら皆さんの入浴のお手伝いができればとマージ様の許可をいただきました」
「まあ、ミカ様は魔法士様でしたのね。それで護衛が。てっきりどこかの国のお姫様かと…」
皆、本気でそんな事を思っているんだろうか。
私も別に始終気を張っているわけではないので、言動の端々に隠し切れない庶民感がただよっているだろうと思うのだが。
「今朝、試しに沸かしてイーリア様とマージ様に入っていただいたんですよ。どれくらいの量が沸かせるか分かりませんが、私の能力の全容解明にご協力いただけたら嬉しいです」
背筋を伸ばして胸を叩くと、若い母親はクスクスと笑って了承してくれた。
一階の食堂に降りると、豪華なサンドイッチの盛り合わせを持ったスタッフ達が笑顔で迎えてくれた。
「ザコル様、ミカ様、おめでとうございますー!!」
階段の途中で足の力が抜けそうになったが、何とか笑顔で踏ん張った私を褒めてほしい。階段を先に降りていたザコルが慌てて手を出しかけていた。そのまま手を取ってエスコートされ、宿の厨房スタッフと救護所スタッフによる拍手の中、食堂のテーブルについた。
「皆勘違いしているようですが、僕とミカは婚約したわけでも成婚したわけでもありませんよ」
ザコルがそう言うと、ええー!? とその場のスタッフ達が腰を浮かせた。
「訳あってミカの立場もあやふやですし、テイラー伯爵家の意向もはっきり聞いていません。それに王家の判も必要ですから。形にするとしたら少なく見積もっても半年はかかると思います」
まるで時間の問題みたいな言い方をしているが、本当に後で困らないんだろうか…。
「そういう訳なので、他の方にも訂正しておいてください」
腰を浮かせた人々が脱力したように椅子に座る。
「なあんだあ。今日はおめでたい日だと思ってもてなしてくださいって、町長屋敷の使用人が皆に触れ回っていたからてっきり…」
「まあまあいいじゃないの。その服、マージ様が昔着ていたものでしょう? お似合いねえ。今日はミカ様達にお礼をする日よ、充分おめでたい日だわ」
宿のスタッフである町民女性がそう言ってにっこりすると、和やかな空気が流れた。
「そうだな。ミカ様はもちろん、皆さんがいなかったらこんなに上手くいっていたかどうか。皆さん、色々、色々、本当にありがとうございます。せめてもの気持ちですから、どうぞ召し上がってください」
ハムや卵やチーズやベリージャムなどが挟まれ、一口大に切られた美しいサンドイッチ。昼食を作り出す前に仕込みだけして、あとはカットするだけにし、私達が来るのを待っていてくれたらしい。
一つつまんで口に入れる。新鮮なバターの香りがふんわりと広がる。
エビーとタイタもそれぞれが厚くお礼を言われていた。夜通し避難民の手当てをし続けて、力仕事までして。二人とも本当によく働いてくれたと思う。
「救護所はかなり落ち着いたみたいですが、厨房はずっと忙しいですよね。皆さん休めていますか?」
「ええ、そこの同志の部下さんたちが手伝ってくれますからね。丸一日とはいかねえが、ちょくちょく休ませてもらってます」
「あなた達にも感謝してるのよ、また改めてお礼するから」
同志村から来た助っ人二人が照れくさそうに会釈する。
「ここの厨房がこんなに忙しかった事なんて無えよなあ」
「確かにねえ。ここは町営だからやたらに売上を気にする必要はないけど、泊まるような客もたまにしかいないし、町の常連が食事か酒盛りに来るくらいしかないからねえ。非常時じゃなけりゃお酒もお出ししたのに」
「ミカに飲ませると碌なことになりませんから、勝手に飲ませないでください」
ザコルがすかさず釘を刺しにいく。
「相変わらず過保護ですねえ」
「過保護で結構。ミカが酔うと僕が酷い目に遭うんですよ。忘れたとは言わせませんからね」
「ちょっと歌ったりしただけなのにー」
「歌…あれは酷かった。よりにもよってジーク伯爵方の前で…。あの火酒の件も。本当の本当に肝を冷やしました。あんな思いはもう懲り懲りです」
「あれは本当にごめんなさいです。事故みたいなものでしたが、再発防止に努めます」
「あなたは努めなくていいです。僕が管理しますから」
スタッフ達は皆、ザコルと私のやりとりを面白そうに見ている。
「火酒って、あの消毒に使った酒っすよね。マジであんなの飲んだんすか、マジで?」
「そう。目の前のコップに何でもない感じで注がれてたからさ、透明だし水かと思って…。初めてお酒で死にかけたわ」
「もーマジで良かったすよ何もなくて…」
「ミカ殿、俺も酒を無理に飲まされて危ない目に遭った事がありますよ。気をつけませんと」
タイタは確か下戸だ。
騎士団は男所帯だし、飲まされそうになる機会も多いのだろう。
「タイちゃん、お互いに気をつけようね。どんな飲み物でも確認せずあおるのは良くないよ」
うんうん、と自分で言って頷いていたら肩にズシっと手を置かれた。
「…非常時だからとやめていましたが、次の食事から毒味も再開しますから。今夜あたり、誰かが気を利かせて酒を出してくるかもしれませんし」
「もー、ほんと過保護なんだから。そこまでしなくたって、ちゃんと気をつけますから大丈夫です。私よりタイタの方が毒味が必要ですよ、下戸みたいですし」
「そうなんですか、タイタ」
「は、恥ずかしながら…。父も同じ体質で、貴族時代は苦労したようです」
蜂蜜酒の開発に関わってるって言ってなかったっけ。いや、下戸の杜氏も存在するくらいだからいいのか。
「ではもう酒は全て断りましょう。もうこの四人では飲みません」
「えー、たまには飲みたいですよー」
「俺も飲みたいんですけど!! モナドン!! 子爵邸に着いたら出してくれるって言ってましたよね!」
「残っているかどうか分からないと言ったでしょう。父が水代わりに飲んでいるかもしれませんし…」
元コメリ家と違ってサカシータの血筋はザルだ。
アルコールだけでなく毒物全般に耐性が強いようなので、ザルと表現して正しいのか分からないが。私のコップに注がれた例の焼酎をぶん取って、一気飲みしていたザコルを思い出す。
「皆さんはそれぞれお立場が違うようなのに、仲良しでいらっしゃるのねえ」
「失礼になっちまうかもしれねえが、エビーさんは平民出身だろ? タイタさんはよく分かんねえが」
宿のスタッフ二人が興味深そうに言った。
ザコルはもちろん貴族だし、私もあやふやな立場だが一応は貴族家の縁者という設定だ。こうして身分関係なく気安く盛り上がっている様子は不思議に見えるのかもしれない。
「タイさんは元貴族ですけど、俺は平民、テイラー領都にあるしがないパン屋の息子すよ」
「へー、パン屋さんなんだー」
「姉ちゃんが婿取って継ぐって張り切ってたし、俺は体動かすのが得意だったんで騎士団に入ったんすよね」
「エビーの実家のパン屋は領都でも人気の店ですよ。女性使用人の間でもよく話題に上るようです」
タイタが補足してくれる。
「姉ちゃんが見た目の可愛いパン作って話題集めしてんすよ」
「へー、面白そう! テイラーに帰ったら絶対連れてってよ」
「もちろんですよお、お姫様」
エビーがおどけて胸に手を当てる。
彼は弟だったのか。なんとなく納得。女性に慣れてる感じがいかにも姉のいる弟っぽい。
「タイタもきょうだいはいるの?」
「いえ、俺は一人息子です」
「あ、そうだったね。意外に女性に慣れてるみたいだから姉か妹がいるのかと思っちゃった。さっきの挨拶も素敵だったよ」
挨拶とは何…とザコルがこちらを向きかけたが、タイタの次の言葉にかき消された。
「俺には婚約者がいましたので。挨拶に関しては母に仕込まれて…」
『婚約者!?』
私とエビーが同時に驚きの声を出す。
「って、ああ、そっか。タイさん嫡男だったんすもんね。いて当然か…」
いて当然なのか。
粛清当時タイタはまだ十五歳だったはずだが…。貴族の嫡男とはそういうものなのか。
「もちろん婚約は白紙になりました。同じ派閥の男爵令嬢で、四つ下の妹のような存在でした。彼女の家は処分を免れたので、今は高位貴族のご令嬢の侍女として勤めているはずです。今もたまに手紙が」
「タイさんは独り身仲間だと思ったのにぃ! 四つも下の女の子と文通してるなんて!」
エビーがテーブルを叩く。カップに注がれた牛乳の水面が揺れた。
「だから、妹のような存在だったと言っただろう。彼女の兄とも友人として交流がある。と言っても、個人的な手紙を偽名でやりとりするのみだ。あまり関わりを持っては迷惑をかけるからな」
「ほおーん、手紙でどんなやりとりすんすか、ええ?」
ハムのサンドイッチを口に放り込みながら投げやりに言うエビー。食に無頓着だった私が言うのも何だが、せっかく用意してくれたご馳走なんだからもう少し大事に食べてほしい。
「たわいもない事だ。近況や、趣味の話や、王都や貴族の噂話とかな。最近だと、兄から見合いを薦められていると書かれていたので、結婚が決まったら祝うので報せてくれと書いたら、今は仕事が楽しいので考えていないと返ってきた。きっと充実した毎日を送っているのだろう」
おお? これは…
「タイタってさ、あのいかにもナイト様っぽい、花に例えて傅くような挨拶、彼女にもしてあげてた?」
「もちろんです。会う度に必ずしておりましたよ。母からも厳しく言われておりましたので。季節や時間帯などで言葉と花の種類を変えて褒めるようにと、どんなに幼くても一人前の淑女として扱えと、それから剣士は傅いて姫よと言えば間違いないと」
「英才教育すご…。それでそれで? タイタはどう思ってるの、彼女の事」
「ど、どうとは…。そうですね、その、幸せになってほしいと思っています。俺に願われても困るだけでしょうが。彼女が結婚するまでは俺も独り身を貫こうと思っています。自己満足でしかありませんが、幸せにしてやれなかった俺なりのケジメです」
チラッと隣に座るエビーを見たら、エビーがこくりと頷いた。
「応援しませんよ俺ぁ」
がく、と肩を落とす。
「何でよ。何で今頷いたの。今こそ余計なお節介が必要な時でしょ」
コソコソコソ。
「即うまくいく奴らなんて応援しても面白く無えし」
コソコソコソ。
「もう、変なとこ屈折してるんだから…。会う度に傅いて姫扱いしてくれた歳上の優しいお兄ちゃんだよ? 絶対拗らせてるって。ねえ、そう思いますよね」
向かいの宿の女性スタッフに話を振る。
「私はその挨拶とやらがどんなものか知りませんからねえ…」
「タイタ、お願い。やってあげて」
「は、はい…こちらの女性にご挨拶すればよろしいので?」
タイタが戸惑いながら立ち上がり、四十代くらいであろうその彼女の前でスッと跪いた。
「失礼。たおやかな百合のように麗しい姫よ。貴女をエスコートする栄誉をどうか私にお恵みくださいませんか」
そう言ってタイタが微笑み、指先まで洗練された所作で片手を差し出すと、女性は顔を赤らめて自分の手を預けた。
「はい、喜んで……」
「ちょちょちょ! うちの女房をどこに連れてくつもりだよ!!」
宿の男性スタッフが慌てて手を引っぺがす。この二人は夫婦だったようだ。
「はああ、どうしましょう。動悸が止まらないわ…。お貴族様って怖いわねえ。手と口が勝手に動いたわあ」
「どうしてくれんだミカ様。俺が捨てられたら…!」
「嫌ねえ、私があんたを捨てるわけないでしょう」
「おまえええ」
夫が涙目になって妻の手を握りしめた。これは悪い事をした。
「すみません。これ程の威力とは思わず…」
「ミカさんは薔薇とか姫とか言われても平然としてましたもんねえ…」
私は自分でも感覚がズレていると思う。だがタイタの言葉選びと所作は素晴らしかった。参考にしたい。
「ミカ」
「ぶびっ?」
エビーの反対隣でずっと黙っていたザコルが私の頬をむんずと掴んで無理やり自分の方に向けた。
「何を勝手にタイタに口説かれているんです。説明してください」
「ちゅうおうくぃずぉくずぃくぉむぃとやああくぃにぬぁっえ…」
中央貴族仕込みとやらが気になって…。説明しろと言われたができなかった。
宿の夫婦に「若いっていいわねえ」などと囃されたため、ザコルは気まずそうに手を離した。
◇ ◇ ◇
サンドイッチを食べ切り、私達は食堂を後にした。
次は診療所だ。同志の天才医師がいるか、町医者の先生がいるか。
「おや、ミカ様?」
今日、診療所にいたのは町医者先生だった。水害の夜からは慌ただしくて、実は彼とは数える程も顔を合わせていない。五、六十代くらいのナイスミドルだ。
「その服、もしかして奥様の…!」
ここでも、看護師や数人の患者達が私の出立ちを見て言葉を詰まらせた。マージは本当に町民から慕われている。
「お忙しいところすみません。この服で皆様のお心を和ませるようにとイーリア様から仰せつかりまして」
「そうでございましたか。ようこそおいでくださいました。ミカ様、ザコル様。丁度手が空いたところですから、狭いですが奥へどうぞ」
町医者は診察室に私達を招き入れてくれたが、言葉通り診察スペースは狭く、二人入るのがやっとだった。
エビーとタイタには待合スペースで待ってもらうことにし、椅子を勧められて町医者の前に座ると、まるで私が診察を受けにきたような格好になった。
「今日は患者も少ないですが、あの夜は戦場のような有様で…。ミカ様が早めに救護所を作って軽傷の患者を引き受けてくださらなかったら、手遅れになる患者もきっといたでしょうな。多くの命を守るために行動いただき、誠にありがとうございました」
町医者は深く頭を下げた。診察室の続き間である処置室にいた看護師数人も揃って頭を下げる。
「いえいえ。たまたま傷の手当てができる騎士が二人もいてくれたものですから。それに、重傷の患者が次々とやってくる中で、一人の命も取りこぼさなかったのは先生や看護師の皆様の功績でしょう」
「ミカ様が度数の高い酒を傷や手指に使って消毒していると聞いて私も思い出したんですよ。患者が差し入れてくれた蒸留酒がたくさんあったなあとね。煮沸が追いつかなったので、器具を消毒するのに使いました。そのまま使うよりは化膿も少なかったようですし、時間のない中では有効的でしたな」
もちろんアルコール消毒だけでは不十分だった場面もあったのだろうが、この先生一人と数人の看護師だけで夥しい数の処置をしたのだ。単純な使い回しよりはきっとマシだっただろう。
彼は同志の一人である若き天才医師の事も褒めていた。コミュニケーションに難はあるが、診断の正確さと処置の速さはとても常人ではないと。安心して診療所を任せられる人間が来てくれて本当に助かったと語った。
看護師達も、最初は指示が分かりにくくて困りましたがすぐに慣れましたわ、彼の事は尊敬します、と、町医者の言葉に頷いている。
相変わらずドーシャ以外の同志とはロクに話もできていないが、彼らの存在には改めて感謝しかない。
「先生、公表が遅くなってしまい今更なのですが、私、水さえあれば氷と熱湯を作れる魔法士なんです。熱湯を沸かせる事は昨日判明したんですが…」
「ああ、やはり。そうですよね。なるほど、水温を操る魔法士様でしたか」
町医者は驚きもせず頷いた。
「…? 私が魔法士だとご存知だったんですか?」
「いいえ。実は、私も少し魔法が使えるんですよ。小さな風を起こせる程度なので、せいぜい暖炉の火付けに役立つくらいですがね。そのせいか分かりませんが、人の魔力の色のようなものを目で見ることができるのです」
そうか、マージが言っていた魔法の使える知り合いとは、町医者先生の事だったのか。
「え、でも、私にはそういった魔力の色? は見えませんよ」
「ならば、これは珍しい能力なのかもしれませんな。魔法を使えない人間でも多かれ少なかれ魔力を持っているのです。体調の悪い時にはその魔力が濁ったり滞ったりするのが分かるものですから、どこが悪いのか直感的に判断できることも多いんですよ」
「それは、お医者様には素晴らしい能力ではないですか」
まるで気功師やオーラ診断のできる占い師みたいだ。魔力は皆持っているものだったのか。初めて知った。
「はは、そうでしょう、幼い頃からそれが分かっていたもので、医者を目指す事にしたんですよ。今、私のこの能力を知っているのはこの町の人間くらいですがね」
その能力を広く公表すれば名医として名を馳せる事もできたかもしれないのに。不躾にもそう口に出してしまったら、故郷で町医者としてのんびりと暮らすのが性に合っていると笑っていた。
そういう訳で、以前から彼には私の魔力が見えていたらしく、とにかくその濃さというか、魔力の高さのようなものが気になっていたようだった。
「おや、ザコル様、その魔力は…」
町医者は私の後ろにいたザコルを見て少しだけ眉を寄せた。
「僕が何か」
「いえ、以前に見た時よりもやや色が濃くなっているようですし…。何やら交ざっているような」
私はザコルを振り返った。
「どういう事です」
「どう説明申し上げればいいか…。私も、魔力が後から濃くなったり一人に人間に魔力の色が複数ある例は見た事がなく…。いえ、あまり適当な事は申せませんね。ザコル様のお姿を見るのは久しぶりですし、濃く見えるのは私の記憶違いかもしれません。しかし事実だけ申し上げれば、今のザコル様には魔力の色が違って見える部分がありますよ。特に、左の小指の付け根あたりに濃く。この色は…」
ざあ、と血の気の引く感覚があった。左の、小指…!?
「ミカ様、どうされま…………いえ、やはり私の勘違いでしょう。今、申しました通りですから」
町医者は机の上で、近くにあったペンと紙をとって何かを書きつけた。それを綺麗に折り曲げてザコルに差し出す。
「これはオーレン様への伝言です。お渡しいただだけますでしょうか。酒を飲もうとお約束していたのをすっかり忘れていたんです」
ははは、と町医者は快活に笑い、氷が作れるのなら是非にとタライと水の入った桶を持ってきた。
私は何とか笑顔を作ってタライや桶にありったけの氷を作り、発熱している患者に届けてくれるように言った。町医者は出来上がった氷を見て一瞬真顔になったが、すぐ取り繕ったような笑顔になり、必ず届けると約束してくれた。
「ミカ。深刻に考えることはありません。僕はこの通り、不調もありませんし」
「………………」
差し出された左腕。いつもならすぐ手のひらを回すところだが、躊躇ってしまった。
「勝手につなぎますよ」
ザコルはそんな私の手を無理矢理取って腕に回した。手から伝わる体温に涙が出そうになる。
「どうしたんすか、何かあったんすか?」
「ミカ殿、顔色が…」
はっとして顔を上げると、待合室で待っていたエビーとタイタが心配そうにこちらを見ていた。
見送りのために診察室から出てきてくれた町医者に目配せをし、護衛二人の方を目線で示した。
医者は二人を足先から頭まで見て、首を振った。この二人には魔力の色が交ざって見えるとか、そういう事はないのだろう。
「何でもないよ。お待たせ、行こうか」
待合室にいる患者や看護師達の目もある。私は努めて笑顔で言った。
◇ ◇ ◇
私達は診療所を後にし、町長屋敷に戻る事にした。太陽が傾き影が長くなり始めている。このワンピースもそろそろ返さないと。
相変わらず、道ゆく町民や避難民から温かい声をかけられる。精一杯の笑顔で一人一人に手を振り、お礼を言った。
「タイタ、同志で天才医師の彼、町医者先生が大絶賛だったよ」
「それは良かったです。彼は、会話が苦手なせいで看護師に嫌われるのだとよくこぼしておりましたが…」
「そっちも大丈夫そうだったよ。あそこの看護師さん達はすぐ慣れたって、尊敬もしてるって」
「後で必ずお伝えさせていただきます」
タイタがニコニコとして答えた。
「タイタ、ドーシャの他に、工夫次第で会話ができそうな同志はいますか」
ザコルが私を挟んで向こう側を歩いていたタイタに言った。
「そうですね…個別に声をかけて、まずはミカ殿にお話しいただいて…」
面談か。
「難儀すねえ。そろそろちゃんと顔見てお礼とか言いたいすよねー」
エビーの言葉に、ザコルが無言で頷いた。
あまりよく知らない人と会話するのが苦手なのは、ザコルの方も同じだろう。そんな彼とて、同志やその部下達があちこちで民の力になり感謝されている姿を見れば、言葉を交わしたいと思うのは自然な事だ。
いくら自分が彼らの推しで、息しているだけで充分だなどと言われたとしても。
「タイタにも何か返したいと思っているのですが…。僕にはせいぜい尋問官に仕立て上げる事くらいしか…」
「そんな、俺は本当に」
「いやいや、これ以上タイさんを狂気サイドに引きずり込むのやめてくださいよ! まともなのが俺しかいなくなるでしょーが!」
「狂気とか今更じゃない? それにエビーも大概っていうか」
タイタは元から猟犬狂いでまともじゃない。まさに今更である。
「大概とか、ミカさんには言われたくねーっす」
「なんで!」
「あの笑顔めっちゃ恐怖でしたよねえー」
「それは同感です」
ザコルにまで頷かれてショックを受ける。
「ふんだ、どーせ二人して陰で私の悪口言ってるんでしょ! いいところも言って!」
ぶーぶー! 酷いんじゃないですかー!!
「ミカ殿。あなた様は博識でありながらさらなる学びを求められる勉強家であり、謙虚かつ寛大、勇気と行動力に富み、そして類い稀なる慈愛の精神をお持ちであられます。まさに聖女の名にふさわしく」
「ひえええ、やめてやめて! そんな大層なもんじゃないよ!!」
「事実を申し上げているだけですのに」
タイタがほんの少しだけ不服そうな顔をする。
「ほら、どーせ褒められたら困るくせに。へへっ」
「褒められて悲鳴を上げるのは相変わらずですね」
エビーには揶揄われ、ザコルにはなぜかそっぽを向かれてしまった。
「あ、そうだ。俺、いいこと考えちゃいましたよ。同志を集める作戦!」
急にエビーがパン、と手を叩いて言った。
「な、なになに?」
ザコルの機嫌が悪そうなので気まずかった私は、チャラ男の急な話題転換に乗った。
エビーがこちらを見てニヤリとする。
「そうすねえ…明日の明朝、動きやすい格好で放牧場に集合! って事でどーすか」
「どーすかって…」
「エビー、俺にも分かるように言ってくれ」
タイタが眉を下げている。
「僕にも分からないのですが、鍛錬でもするつもりですか」
「はい当たり! タイさんばかり可愛がっちゃってズルいじゃないすか。俺にも稽古つけてくださいよ、猟犬殿」
エビーはそう言って今度はザコルに向かってニヤリとした。
「それは構いませんが…。僕も体が鈍ってきた所ですし」
「稽古ならば俺も参加させてください!」
「じゃあ私も私もー」
仲間はずれは嫌なので積極的に挙手しておく。
「ミカさんもすか? んー…いや、どっちみち一緒に来てもらうしかねえのか…まあいいや。そんな感じで、ザコル殿が仕切る自由参加の鍛錬イベント? っつうの? を開けば、同志の人達も自然と集まってくれるんじゃねーかって思ったんすよ」
「ほおおおおお、その手があったか…!」
「その手?」
パチパチパチパチ…
ザコルはピンと来なかったらしいが、タイタは拍手していた。
「エビー、お前は天才か…!? そのような催しがあれば絶対に、ぜっっっっったいに参加するに決まっている! 支援に対する見返りとしても破格のファンサービスだ!」
タイタが頬を紅潮させて叫ぶように言った。
「いや、破格…ですか? 鍛錬するのは本人達なのですよね? 僕は何の身銭も切っていませんが」
ザコルが戸惑ったように言ったので私は彼の腕をペチペチと叩いた。
「ザコル、厚意の支援に対して身銭を切るなんてそれこそ支援してくださった方に失礼ですよ。鍛錬イベントへの参加権、これは猟犬ファンなら狂喜乱舞に決まってます!」
「ミカ殿のおっしゃる通り! やはりエビーは天才だ!!」
「いやー、照れますねえ。もっと褒めてくれてもいいんすよお」
「流石はエビー! 略してさすエビだよ!」
さっすエビ、さっすエビ、とタイタと一緒になってエビーをやんややんやする。
「ええと、ミカ、僕はどうすれば…」
「簡単ですよ。ザコルが同志達にザコル流の鍛錬を叩き込めばいいだけのイベントです。七日間の短期集中軍隊式訓練プログラム、その名も猟犬ブートキャンプ! 同志村に帰ったらすぐにでも告知しましょう」
ブートキャンプって何だっけ、アメリカ軍の新兵向けの訓練だっけ?
こいつぁ面白くなってきた。
「ミカ、面白がってないで真面目に考えてください。大体、僕の鍛錬なんて一般人がついて来られるとは…」
「あの人達、一般人てレベルじゃなくないすか」
エビーの言う通り、少なくとも隠密スキルにかけては本職並みだろう。
「ザコル、私だって最初は一般人以下でしたよ?」
「ミカはそうでしたね。やっと一般人レベルになったところです」
…やはり、一般人に求めるレベル設定が高すぎると思うのだが。
自分で言うのも何だが、そこらの一般女性よりは体力も筋力もあると思うし、殺気を感知できるまでにもなった。これ以上となると、いよいよ『一般』の枠を踏み越えてしまう気がする。
「ふむ、分かりました。七日間で彼らをできる所まで鍛え上げればいいわけですね」
よし、ザコルがやる気になった。明日の朝が楽しみすぎる。マージかピッタに頼んで動きやすい上下を貸してもらおう。
◇ ◇ ◇
町長屋敷にも戻ると、すぐに庭へ案内された。
庭では、朝に見たりんご箱職人の男達と山の民の男性陣が集まって何かを囲んでいた。同志村部下連合代表、カファとピッタの姿もある。
私達が庭に入ると、彼らは一斉にこちらを向いた。
「おおミカ様! 浴槽と水路できましたぜ! 見てくれえ!」
「えっ、もうできたんですか!? 早過ぎじゃないですか!?」
「はっは、突貫にしちゃなかなかいい出来だぞ!」
「切り出してすぐの木だから長持ちはしねえだろうが香りはいい…」
「待って、待ーって! 私にミカ様を愛でる時間をください!!」
成果を話し出そうとする男達を遮り、ピッタが私の方に走ってきた。
「……女神ぃ!!」
二メートル先で止まったピッタはその一言を叫んだきり、今にも泣きそうな複雑な顔で固まった。その後ろで男達がガハハと笑っている。
「ピッタちゃんよお、人の話遮っといてそれしか言う事ねえのか。そら、憧れのミカ様だぞ」
「そ、そうですけど…! こ、こんな神々しいとか聞いてない…!!」
「いや大袈裟だよ。でもありがとね、ピッタ」
ガハハハ! と豪快な笑い声が響いた。
「ミカ様のその服、奥様が着てた服だろ、輿入れの時に。懐かしいなあ」
「ドーランが妬ましくて殺してやろーかと思ったぜ。あのクソ野郎にあんな綺麗で賢い娘が嫁いでくるなんざ…」
「今頃になってツケ払わされてんだ、ダセエよなあいつも」
現町長と違い、元町長の評判は散々である。
私は未だに固まっているピッタの背を押し、出来上がったという浴槽と水路を見にいく。
木の香りがむんむんする。杉かな。お湯を張ったらさらに匂いが強まりそうだ。
りんご箱を巨大にして、周りを補強したみたいな湯船が二つと、程よい幅と深さのあるくの字型の水路。これだけの大きさの湯船なら一度に大人が五、六人くらいは余裕で入れるに違いない。湯船と水路は二セットある。男湯と女湯だろうだ。
「凄い、凄いです! それにいい匂い! これを今日一日で本当に⁉︎」
「俺らが全員でかかりゃあこんなもんすぐさ!」
ベテランらしい箱職人の男性がドン、と厚い胸を叩いた。
エビーとタイタも感心しながら湯船を見ている。
「でけえな…。こりゃ、マジで魔法でもなきゃ無理すよ。この大きさの箱に湯を張るなんて薪がいくらあっても足りねえわ」
「ミカ殿、こんな量のお湯を作るなんて本当に大丈夫なのですか」
「うん、多分大丈夫。今日も湯船二杯分は沸かしたし氷も結構作ったけど全然平気だったよ」
体調にも変化はない。むしろ魔力を適度に放出しているおかげで絶好調だ。
「ミカ様、本当に魔法士様だったんか…。奥様、いや町長やイーリア様の言葉を疑うわけじゃねえが」
「そりゃ、そんな反応にもなりますよね。待っててください。明日にでも実演してみせますから」
私はできたばかりの浴槽の縁をペチペチと叩いてみせた。
「ミカ様。今、この浴槽と水路をどんな風に配置して、どうテントで囲むかって話をしていたところなんです」
固まっていたピッタが復活し、現状報告を始めた。
テントにスリットを入れて水路を一部テントの外に出せば、中に入浴する人がいてもお湯を足せるだろうという案が出たようだ。確かに、いちいち中で裸になっている人に了解を得てお湯を足しに行っては非効率だし、外気も入って寒いだろう。
実際にやってみなければ分からないが、すごく合理的な仕組みに思える。
「報告ありがとうピッタ。素晴らしいアイデアです。湯船にもテントの外からお湯を足せるといいですよね」
源泉掛け流しなイメージだ。
「それなら、湯船の上に立てかけるような水路も作って、テントの外に出せるようにするか?」
「スリットがもう一箇所必要になりますね。湯船用の水路の完成を見て調整した方がいいかな、カファ」
「そうだなピッタ。とりあえずぐるっと囲めるような天幕と屋根の他に、幅の狭い幕をいくつか用意するか。臨機応変に形を変えられるようにするんだ」
りんご職人とピッタとカファがわいわいと議論を重ねる。
「木工作業自体は慣れてるから人数がいりゃすぐだが、それより普通、木を切り出して運んで、木材にするまでが苦労すんだよ。山の民がいて助かった。あの手際は流石だな」
りんご箱工房にある木材はどれも箱の寸法に合わせてカット済みになっており、今回の湯船を作るには長さが中途半端なものばかりだったようだ。それで木材の調達が急務となった。たまたまイーリアに挨拶するために町長屋敷を訪れた山の民リーダーが協力を申し出て、今回の共同作業が実現したらしい。
「我々は常々ツルギ山の樹々を手入れしておりますので。染織と同じく家業のようなものです」
皆の輪から外れて静観していた山の民のリーダーが胸に手を当てて恭しく言った。
「家業…。山の民の皆さんって、布の生産だけでなく山の森の管理までしてるんですね。いや、麓社会への貢献度めちゃくちゃ高くないですか?」
自治区民なのに、王国民の暮らしを守り過ぎではないか。
「…驚きました。樹々の手入れと聞いて、それが麓への貢献でもあると瞬時にご理解いただけるとは。流石、濁流を見てすぐさま下流の水害を予見されただけある」
「え、いや」
山の民リーダーが感心したように目を輝かせている。やめてほしい。
山の木をやたらに伐採すると土砂崩れや水害の原因になり、かといって一度人間が手を入れた山林を放置するとそれはそれで災害の元になるというのは、日本では義務教育レベルの知識である。
「ミカ。ツルギ山を守る山の民は、サカシータやモナなど麓の領にとって無くてはならない存在なのです」
ザコルが口を挟めば、山の民のリーダーは首を横に振った。
「いいえ、我ら山の民こそ、麓をお守りくださる各領のおかげで長らえているようなもの。山を守るのは皆々様への恩返しでもあるのです。今回の水害によって山も森もかなり荒れてしまいました。時間はかかるでしょうが、きっともとの恵み多き山に整えていきますゆえ。ミカ様、いずれ我らが集落へも足をお運びください」
「はい。もちろんです。シリルくん達の無事も確認したいですし。もし可能ならあの美しい布や刺繍が生まれる所も見てみたいです」
「ぜひともご案内しましょう。織り手や刺し手も喜びます」
そういえばこのリーダーさんの名前を知らない。
私をずっと護衛してくれていた彼女らや長老様の名前もだ。
「今更で失礼とは思いますが、リーダーさんのお名前を伺っても?」
「こちらこそ名乗りが遅れて失礼いたしました。私はラーマ。集落ヴォッカを治める一族の一人にして、此度の隊のまとめ役を任された者です。どうぞお見知り置きを」
ラーマは熊のような大きな体躯を折り、胸に手を当てて再びお辞儀してくれた。
前々から思っていたが、山の民は皆、言葉遣いも振る舞いも綺麗で品があるように思う。
何となく『原住民』らしからぬというか。
「ではラーマ様。改めまして、ミカ・ホッタです。訳あって…いえ、元は庶民でしたが魔法の力が発現し、テイラー伯爵家預かりとなりました。この冬の間だけは、サカシータ子爵家のお世話になる事になっております。水害当日、ラーマ様を始め山の民の方々が荷馬車を動かして下さらなければ、多くの命が失われた事でしょう。一緒に戦ってくださり、ありがとうございました」
こちらはカーテシーで頭を下げれば、ラーマが慌てたように首を横に振った。
「ミカ様、私のような者相手にそのような…」
カーテシー自体、相手によっては仰々しく映るようで、こういう反応をされてしまうのが悩みの種だ。実のところ、それ以外には跪くくらいしかこっちの流儀を知らないだけであり、いわば馬鹿の一つ覚えである。
しかし、伯爵家縁者という看板を背負った立場としては、時にこれくらいの堅さは必要ではとも思う。丁寧にしすぎて怒られることはあまりない。
「一緒に戦うとは面白い表現ですね。ラーマ、少しいいですか」
ザコルが庭木の影になったあたりを指し示すと、ラーマは再び一礼し、私達について歩き出した。
ラーマを伴い、賑やかな輪を離れる。エビーとタイタも付いてきたが、山の民のリーダーとザコルの間の空気を読んだか、エビーがタイタに耳打ちし一歩離れた所に立った。
「改めて、僕からも礼を言わせてください」
「ザコル様、お礼ならば子爵夫人様と町長殿よりお言葉を頂戴しております」
「いえ、ミカの専属護衛という立場からしたいのです。僕が不在の中で、ミカをこのシータイまで無事に送り届け、混乱の中でも身辺を護ってくれたことに、改めて感謝を」
ザコルはラーマと同じようにして胸に手を当て、深く頭を下げた。
私も一緒になってもう一度頭を下げる。
「お二方とも、どうかお顔をお上げください。ご恩に報いねばならないのはこちらの方なのです。お二方こそ、重要なお立場にも関わらず、子供からの懇願を捨て置かず駆けつけ、我が一族の者を見事救い上げてくださった。特にあの子、シリルは我らの次世代を担う貴重な児。護衛の補佐程度の働きでは到底釣り合いません。これからもどうかお力になる機会を。ザコル様、ミカ様」
ラーマはさらに腰を折った。
「そう畏まらずとも。では、ミカ。次はあなたにも」
「ひゃい?」
ザコルが急に私の方を向いたので、びっくりして変な声が出た。
「そう身構えないでくださいよ…。褒めろとか、いいところを言えとか言ったのはミカでしょうが」
ザコルはそう言って私の右手を取った。さっきの口付けを思い出して心臓が跳ねる。
「…ミカ。あの日、急に荷を捨ててクリナを走らせた僕を信じ身を任せてくれた上、あなた自身もシリル達を救うため、迷わず行動してくれましたね。ここシータイでも、すぐに民を守るために考え、行動してくれました。あの日あなたの働きが無ければ、今日の皆の笑顔は無かった。戻ってきた僕をすぐに下流へ遣ったあなたの判断もそうだ。その言葉に甘えてしまったのは僕の責任ですが……しかし、あなたは自分の正しさを信じるべきだ。下流の民は、あなたがいたからこそ救われたのです」
ザコルは一度にそう言い切り、ふう、と息をついた。
「水害の日から、いえ、きっと『ここ』に来てから、一日たりともあなたが人のためにと考えない日は無かった。ミカ、僕はあなたを尊敬します。僕達が尊重するものを同じように尊重し、救ってくれたこと。本当にありがとうございます」
そう言ってザコルは私の手を押し抱いて膝をつき、深く頭を下げた。
彼が、こんな風に手放しで私を褒めて、お礼を言ってくれたのは実は初めてかもしれない。
ずっと自分を危険に晒すなとか、何故前に出てきたとか、私が無茶をするのを責めるのが彼だった。それが私を心配しての発言である事は解っているので傷ついていたわけではない。
しかし頭の片隅に、勝手な事をして心配させた、護衛達を困らせた、という思いがずっと棘のように引っかかっていたのだ。
涙がじわりと湧き上がる。私は本当にザコルの役に立てたのだろうか。彼に尊敬してもらえるような自分だっただろうか。
「そんな、こと、言ってもらえるほど、わたし…っ」
「これだけ言っても、素直には受け取れませんか。ではミカ。さっきは形にこだわらないと言いましたが、撤回します。僕のために一つだけ約束してください」
ザコルが顔を上げ、真っ直ぐ私を見た。その真剣な眼差しに、私は小さく頷いた。
「どうか、この手を離さないでください。僕は、尊敬するあなたを守ってこの先を生きたい」
眉間に皺一つ寄せない、穏やかな表情だった。
目に張った涙でザコルの顔が歪む。思わず俯いたら、涙がぽた、と自分の右手の甲に落ちた。
「わた…わたし、変な女ですよ」
「知っています」
「すぐ調子に乗りますし」
「よく知っています」
「まだ、魔法も、何もかも解らない事だらけで」
「僕で思う存分検証すればいいでしょう」
「ザコルが、危ない目に遭うかもしれません」
「頑強さにかけては自信があります」
「あやふやな存在です。いつどうなるかも…」
「それでも今、あなたはここにいる」
顔を上げると、相変わらず穏やかで真っ直ぐな瞳があった。
焦茶と榛色の交じる双眼に、私のみっともない泣き顔が映り込んでいる。
「僕だけを見てください」
ザコルの手にほんの少しだけ力が入る。彼の緊張が伝わってくるようだった。
「……私は、ずっとザコルだけしか見ていません。多分これからも」
するりと言葉がこぼれ落ちる。
「……そうでしたね。僕もこの先、ミカだけを見ます」
ザコルが私の手に目を落とす。
「ラーマ」
そうザコルが呼びかけると、ラーマが一歩前に出た。そして私達の繋がれた手に恭しく自らの手を添えた。
「……?」
その様子を不思議な気持ちで見ていたら、ラーマが優しく微笑んだ。
「このラーマ、立会人となる栄誉をいただき、恐悦至極でございます。これから先、お互いだけを見るという宣誓、しかと聞き届けました。お二人の名とお覚悟をツルギの山神に捧げ、これを以て婚約の承認といたします」
「……え?」
ツルギの山神? とは?
「ラーマは山に仕える神官です。現オースト王家などよりも古く、神聖なるツルギの山神を祀り、この山一帯を聖域として守り続ける由緒正しい一族の末裔。サカシータの者は、婚約や成婚に際してまず、王家より先に彼らの承認を得る必要がある」
「…へええええ?」
「手を繋ぎ『お互いだけを見る』という言葉の交わし合いをするのは婚約の儀の要。山は、僕とミカの仲を正式に認めてくれたようです」
ザコルが悪い顔でニヤリと笑った。
つづく




