第二王子の襲来
「と、言う訳でね、私はかなり酔っ払っていたから、帰り道の記憶は曖昧なんだけどね」
結局、次の日の午前を寝潰した私は、午後からホノルとアイスティーを飲みながらおしゃべりを楽しんでいた。
「それはそうでしょうね、ザコル様に抱えられて帰ってきた事は覚えていらっしゃらないでしょう?」
「えっ、そうなの!? そっかー、彼には迷惑かけ通しだったね…。ホノルもお世話させてごめんなさい。久しぶりのお酒だったから、思ったより酔いが回ったのかも。ランタンや月が綺麗だった事と、師匠に気持ち悪いって言われた事は覚えているんだけど」
バン! と扉が開いた。
「何故よりによってそこだけ覚えてるんですか!?」
「ザコル様。どんな文脈でも女性に気持ち悪いなどと言うのはよろしくありません。それからノックくらいしてくださいますか」
「いいの、ホノル。確かに私が呼び捨てを強要するのは気持ち悪かったと思う。ごめんなさい、師匠」
「な、何でそんな言い方をするんです。僕はあなたの立場を考えて…」
「ザコル殿、もう遠慮はしてやらないんだろう?」
ハコネがザコルの後ろから現れる。
「何ですか、ハコネまで…。もういいです。ミカ、ほら、行くんでしょう。今なら練兵場が空いていますから」
ザコルが外を指し示す。
「あら、せっかく安定したというのに、まだお二人で魔法の修練をなさるおつもりですか?」
ザコルには、晩餐会が終わった後も引き続き魔法のお試しに付き合って欲しいとあらかじめお願いしてあった。
「試してみたい事が色々あるんだよね。私って直接触れなくても氷を作れるけど、その範囲というか、射程距離も把握しておきたいし。他には、目には見えないような空気中の水蒸気を凍らせて、ダイヤモンドダストみたいなものは作れるのかな、とかね。もしできたらきっと綺麗でしょ?」
「まあ、素敵だわ。稀に北国で見られる現象ですわね。成功したらぜひ私にも見せてくださいませ」
「もちろん。それからちょっと、最近食べ過ぎというか、運動が不足しているといいますか…」
「ミカ、最近頬がふっくらしてきましたものね。それでも以前は不健康なくらいでしたし、今の方が可愛らしくていいと思いますけれど」
健康的になったと言われればそうかもしれないが、運動不足は気になる。別にダイエットがしたいわけではない。
「運動したいというなら僕が鍛えてあげましょう。見栄えはともかく少しは体力をつけた方がいいと思います。あれくらいの酒で潰れるなんて」
いや、運動したからといって酒に強くなるわけではないと思うのだが。
「はあ…見栄えがともかくとは…。そういうところですよ、ザコル様は」
ホノルが首を振る。
「おい、あまり張り切るなよ、ホッター殿を戦闘員にでもする気か?」
え、運動って戦闘訓練なの? ブートキャンプ的な…?
「まさか。危ない事をさせるつもりはありません。ただし修練は裏切りませんので。今日は魔法を使う前にまずは走り込みです!」
「えええー……師匠ってそんな熱血キャラだったんですか?」
「ホノル、何でもいいからミカにパンツスタイルの上下を用意してください」
「聞いてないや」
結局、有無を言わさず連れていかれ、夕方暗くなりかけるまで走り込んだ。ちなみに一緒に走っていたザコルは顔色一つ、息一つ乱していなかった。
本人にあまり語るつもりがなさそうなので詳しく訊くつもりはないが、絶対この人『文官みたいなもの』とかじゃない。意外にマッチョだし、脳筋みたいな事も言うし…。彼のいう『嗜み程度の戦闘力』とは一体どの程度を表すのだろうか。謎だ。
長袖長ズボンを用意してくれたからそれ程日焼けはしていないはずだが、日向で走っている最中に丁度お茶を差し入れに来たホノルには悲鳴をあげられた。即刻、日陰を走るよう指導され、手袋にスカーフにつばの広い帽子も追加され、すぐに汗だくになった。
外で食べるかき氷とアイスティーは最高に美味しかった。
毎日ザコルにしごかれて三週間が経った。
日焼けや熱中症を気にするホノルの進言により、トレーニングは早朝のうちに行われる事になった。
と言っても、雨の日や疲れの溜まっている日はストレッチやウォーキングのみなどに調整してくれたりもするので、決して無理をしているというほどではない。
今まで体育以外で運動なんかしたことはなかったが、走るって意外に楽しい。日々走れる距離も伸び、達成感もある。
少しずつ筋肉がついてきて血行が良くなったのか、寝つきや寝起きも良くなり、普段の身のこなしも軽くなった。早起きの習慣も定着しつつある。ほぼ会社に住んでいた不健全な生活が遠い昔のようだ。まだダイヤモンドダストは成功していないが、射程距離は大体掴めた。精度も向上した気がする。筋肉万歳。
「ミカは流され過ぎです。心配だわ。辛かったらすぐにおっしゃって。奥様に叱って頂きますから」
ホノルには定期的に釘を刺されている。いや、流されているだけで筋肉が付くならむしろラッキーではないだろうか。
最近はザコルを本当の師匠として尊敬もし始めている私だ。ホノルの反応を見る限り、高貴な女子が毎日走り込みをするとかあり得ないのかもしれない。まあ、私は別に高貴じゃないから大丈夫だ。
午後は読書や書き物の練習に充てたり、サーラやアメリアとお茶会を楽しんだりもした。日本の事を聞かれるままに答える事が多かったが、二人ともいつも楽しく聞いてくれた。
いつかのトレーニング中、オリヴァーがザコルをおちょくりに乱入してきた。せっかくなので一緒に運動しましょうと言ったら、毎日ではないが、ちょくちょく参加してくれるようになった。
側付きの人によると、オリヴァーは朝に弱いらしいのに頑張って起きる日が増えたのだとか。
また、剣術などの稽古をサボりがちだそうなので、私がストレッチなどをしている間、ザコルが軽く剣術や体術の指南もするようになった。ついでに私も護身術を習い始めた。
オリヴァーの事は、伯爵様や側付きの人にとても感謝された。
◇ ◇ ◇
そんな折、伯爵夫妻とその後継であるオリヴァーが、南方の公爵家のホームパーティーに呼ばれたとかで二週間ほど留守にする予定で出かけて行った。
アメリアは最近社交をお休み中らしく、午後は私達と一緒にのんびりとアフタヌーンティーを楽しむ毎日だ。なぜ社交をお休み中かというと、会うと嫌な絡み方をしてくる高貴な方がいるそうで、一年ほど自領に引きこもって顔を合わせない作戦中なのだと話してくれた。
今日は本邸のティールームを借りている。アメリアがザコルやホノルにも席につくよう促し、四人でお菓子や軽食を囲んでいる。
「ミカお姉様、最近はいかがですの? 体はお辛くありませんか」
最近、アメリアは私の事をミカお姉様、お姉様、などと呼んでくれるようになった。
「いいえ、むしろ調子がいいです。何年も慢性的に疲れていたのが嘘みたいで」
「ザコル、無理をさせていないでしょうね」
「はいお嬢様、体を壊しては元も子もありませんから。ようやく一般人程度には仕上がってきたところです。とりあえず目標は、丸一日くらい走ってもバテない程度を目指そうかと」
「丸一日…」
私は飛脚でも目指しているんだろうか。
「それは、まあ、私にできるものなら努力は惜しみませんが、師匠って他の仕事は大丈夫なんですか? 伯爵様にもついて行かなかったし、最近ずっと側にいてくれてますよね」
「先日、セオドア様から世話係に続き、専属護衛の任を賜りました」
「専属って、私の専属ってことですか…? いつの間に?」
どおりで最近護衛隊の人達を見ないはずだ。それにしても専属護衛とは。自称『文官みたいなもの』という設定はもういいんだろうか。
「いつでも僕が近くに控えていますからね。安心してください」
何だろうか、妙に得意げな感じがする。顔はいつも通りの仏頂面だが。
「言ってもいいですか?」
「なんです」
「気持ち悪いです」
「……………………」
静寂が流れた。
「ふふふ…っ…うふっ…ふふふふ」
横を見ると、アメリアが扇子を握りしめて肩を震わせていた。
「ふふっ……ミカお姉様。毎日ザコルのお相手ご苦労様です」
「世話係は僕の方なのですが…?」
ザコルが眉間に皺を寄せる。
「ええ、お世話係。そうですわね。お二人はあれからも毎日のように一緒にいるんですもの、もう少し違う展開を予想していたのですけれど、ザコルったら全くトンチンカンで。お母様はミカお姉様に申し訳ないとまでおっしゃっておりますのよ」
「私は楽しんでますから、大丈夫ですよ」
「気持ち悪いとまで言ったくせに…」
ザコルがジトリとした視線を投げてくる。先に気持ち悪いとか言ってきたのはそっちでしょうよ。
「それですわ。お姉様が本気で嫌がるようならすぐお止めするつもりでしたのに、何故かとっても楽しそうなんですもの。ですが確かに顔色や立ち姿などがとても良くなられたわ。美しさに磨きがかかったような…。わたくしもちょっとだけ、運動に参加したくなりました」
「アメリアお嬢様ったら。ばあや様が聞いたら卒倒しますわよ」
「解っていてよ、ホノル。でも、ウォーキングくらいから始めてはどうかしら。お散歩みたいなものよ」
「お嬢様のお気が晴れますなら。日差しにはきちんとお気をつけくださいね」
「もちろんよ。それからわたくし、お二人にご提案があるの。せっかく体を動かしていらっしゃるなら、乗馬とダンスも習われてみたらどうかしら」
「いいですね、乗馬。やりましょう」
ザコルが乗った。
「ダンスもですわよ、ザコル、あなたまともに踊れるんでしょうね」
「……………………」
「わー、苦々しい顔〜」
「頬をつつかないでください」
ペシ、指を払われる。
「乗馬の指導はザコルに任せるとして、ダンスの講師はちゃんとお呼びしておきました。明後日の午後二時、ドレスを着て本邸のホールにおいでくださいね。ザコルもですよ」
有無を言わさないのは皆共通なんだろうか。それでも、きっと私のためにしてくれている事だ。今日は後で図書室に行ったら、乗馬とダンスについて書いてある本を借りよう。
ザコルは運動神経抜群みたいだし、社交ダンスもやればできるのだろうと勝手に思っていたが、リズム取りに苦手意識があるらしく、本で予習してきた素人の私とどっこいどっこいの出来だった。
「あり得ませんわ。それでも歴史ある子爵家の人間なのかしら? もし今後公式な場でミカお姉様に同行する事があったらどうするおつもりなの。お姉様にも恥をかかせるんですからね。この機会にしっかり習得なさい」
社交術に関して、アメリアはスパルタだった。
ダンスの講師として呼ばれた男爵夫人はアメリアの乳母の一人で、ホノルやホノルの母親とも旧知らしい。貴族の乳母って何人もいるものなんだね。ちなみに、ダンスレッスンの後は楽しいお茶会マナーレッスンが待っていた。ザコルは始終アメリアに叱られていた。
マナーの本も借りて来よう。次はきっと完璧にこなしてみせる。そして隣で燃え尽きている師匠のフォローもしよう。
◇ ◇ ◇
そんな風に運動したり学んだりして実に楽しく過ごしている中、伯爵夫妻の不在時にも関わらず、渡り人への挨拶という名目で来客があった。しかも王族だ。その日の朝に先触れがあり、その日の午後には参ずると知らされた。随分と急だ。
客は第二王子で、以前からアメリアは目を付けられているとの事。高貴なストーカーって第二王子の事だったんだ。社交界で会えないからってまさか自宅に突撃してくるとは。
「王子殿下に対して不敬になってしまうのですけれど、あの方、少々思い込みが激しいというか、勘違いなさっているというか、こちらの話をあまりお聴きいただけないというか…。それでも王族なのでこちらから強くは言えないのですが。はあ、きちんと陛下にご許可いただいているのかしら。お姉様の事は世間にまだ内密にされているはずなのに。困ったわ」
アメリアが本気で困っているのは私が部屋に出現して以来初めて見た。なかなかに厄介な人物のようだ。
「本来、わたくしがお相手をするべきなのでしょうが、わたくしがいると余計に話が拗れる可能性がありますの。そうなりそうな時はお相手をザコルにまかせて一旦退出させていただきます。その隙に何かご用意して、折をみて話を遮りに参ります。そうして徐々に煙に巻いて、時間を稼ぎましょう」
いや、どれだけ話が通じない相手なんだ。そもそも王族相手にそんな態度はアリなのか。
「さっき王宮とお父様にも早馬を出したけれど、今からでは返しも遅くなるでしょう。長期戦になるかもしれませんわ。ミカお姉様、やはり無理にご協力いただかなくても大丈夫よ。体調が優れないとか、理由はいくらでもつけられますから。最悪、身支度に時間がかかると言って待たせておけば、何時間かはどうにかなりますわ。…はあ、あの方、平民とはまともにお話なさらないから嫌なのよ。今この屋敷にいる貴族子女はわたくしとザコルくらいなの。もし平民の使用人達に酷なお言葉を吐かれたら……ああ、考えてはだめね、覚悟してお相手するしかありませんわ」
そう言って拳を握るアメリアだ。このコミュ力の高そうな子をそこまで悩ませる相手とは。逆に興味が湧いてきた。
「私なら大丈夫ですよアメリア。これでもいい歳した大人ですから。変な方に何を言われても気にしませんし、失礼にならない程度にあしらうことくらいはできると思います。むしろそういうのは得意な方なんですよ。時間稼ぎくらいは協力させてください。お茶会のマナーを習っておけて良かったです」
よし、見事煙に巻いてみせようじゃないか。社畜の接待トーク、とくと聞くがいい。
「お姉様、本当にご無理はなさらないでくださいませ」
「いえ、一応名目上は私、渡り人への挨拶ということですしね。あくまで下手に、無難に、ゆっくりお話しして差し上げますから大丈夫です。師匠、頑張りますね。もしフォローが必要になったらすみませんがよろしくお願いします」
私も拳を握ってやる気をアピールしてみる。私が参加するなら専属護衛の彼も道連れだ。だが何とか彼に頼らずやりきってみたい。
「大丈夫ですよ、ミカ。あなたが必要以上に頑張ることはありません。無理になったらすぐに言ってください。殿下の意識を刈り取ってでも話を終わらせます」
「あはは、師匠も冗談なんて言うんですねえ。そうならないように適当に相手してみせますから。まかせてください」
「ザコル、解っているわね。流石に気絶なんてさせてはダメよ」
「………………」
アメリアったら、冗談を真に受けているんだろうか。流石に王子相手に暴力を振るうなんて。言葉のあやだよねえ。
「僕はほん…いえ。そうですね、暴力はいけませんね」
…あやだよねえ?
◇ ◇ ◇
面会は本館のティールームで行われる事になった。私は例の宵闇色のドレスの一式をホノルに着付けてもらった。
着付けの最中、後日、それとは別に新しく紺色のドレスを新調しましょうとアメリアは言った。つい小市民的な感覚で勿体なく思ってしまったが、いつまでも中古のドレスでは相手にも失礼だと言われては納得するしかない。
果たして今回の王子様には中古対応でいいんだろうか、などと突っ込んではいけないようだ。
「新しく作るとしたら、形はシンプルにして紺地に金糸の刺繍を入れてはいかがでしょう。そうだわ、わたくしもブルー系の生地に銀糸の刺繍を入れたものを作らせてお姉様とお揃いに……はっ、も、申し訳ありません、勝手に盛り上がってしまって」
「ふふ、お揃いなんて嬉しいです。楽しみですね」
アメリアとお揃いになんてしたら私が完全に引き立て役になるだろうが本望だ。むしろ全力で引き立ててみせる。
「ええ、公式の場で衣装を合わせて仲の良さをアピールすれば、我が家とお姉様との絆を知らしめることもできますから。社交界でお姉様が軽んじられる可能性も低くなるでしょう。楽しみですわ」
ただのニコイチやペアルックのノリじゃなかったようだ。
彼女はよく会話の流れの中で、社交界のルールや駆け引きについてさりげなく教授してくれる。そういった事は本に書かれていないのでありがたい。これで十七歳とは末恐ろしい。
第二王子は、馬車を出迎えたアメリアと、平民出身だがそれなりの地位を持つハコネに案内されてティールームに入ってきた。
その他の平民出身者についてはできる限り避難させたようで、いつもより人の気配が少ない。
「初めまして、第二王子殿下。今回渡り人としてテイラー伯爵家のお世話になることとなりました、ミカ・ホッターと申します。お会いできて光栄です」
「ああ。あなたが母上と宰相がコソコソ話していた渡り人か。ミカ・ホッター、不思議な響きだ。私も会えて嬉しく思うぞ。私はサーマル・オースト。オースト国の第二王子だ。ミカ嬢とお呼びしても?」
「ええまあ、お好きなようにお呼びください」
彼は簡単な自己紹介が終わるなり、じろじろと私の頭から足先までを不躾に眺めた。
「ふむ……なるほど、黒水晶のような瞳に髪、それに肌の色もユニークだな。少し痩せ過ぎのようだが、私は一向に構わんぞ。細身の方が好みなのでな!」
褒めているのか貶しているのか…。とりあえず王子の好みのために痩せている訳ではない。運動したら引き締まってしまっただけだ。もっと鍛錬を重ねれば筋肉がもりもりになって痩せているなどと言われなくなるだろうか。運動後にプロテインでも飲んだ方がいいだろうか。
「年齢はまあまあ上だとも聞いたがどうだ、そうは思えんな。十代にも見えるのではないか? 今からでも王族の権限で十代と書き替えてやろう、その方がそなたも男の気を引きやすいのでは」
「いえ、年齢まで偽るつもりは」
斜め後ろにいるザコルの顔を見るのが怖い。あと十代と詐称するのは流石に無理があると思う。
「そなた水を凍らせる一芸を持っているらしいな。愚かな貴族共に見せつけて回るのも一興だ。調子に乗っているあやつらもきっと私を凄いと言うだろう。フッ、なかなかいい案じゃないか。すぐにでも私のパートナーの一人として王宮に招こう!」
凄い。全然人の話聞いてないし、清々しい程に失礼の極みだ。この王子様は王族のくせに美辞麗句が苦手なんだろうか。今まで外交問題とか起こした事ないのかな。いや絶対あるでしょ。
「サーマル殿下。ミカお姉様が魅力的でいらっしゃるのは同感ですけれど、そのようにおっしゃっては渡り人様に対して失礼に当たるのでは?」
アメリアが扇子で口元を隠しながら、すこぶる穏やかな口調で言った。
「妬いてくれるな、アメリア。お前の事は変わらず私の一番のお気に入りだ。たとえ私が他にどんなにパートナーを作ろうともな。婚約さえ整えばしっかり可愛がってあげるから安心するといい」
「お戯れを。わたくしなどより高貴で殿下にふさわしい女性は他に何人もいらっしゃいます」
「はは、まだそのような事を。お前ほど若く美しく聡明な女が他にいるものか。よもやそれが他の男の物になるなんて身の毛がよだつ思いだ。ましてや、あの朴念仁な兄上では特にね。お前は私のものになる運命なのだ」
ジリジリと王子がアメリアに近づく。きもい。
スッ、とアメリアが後ろに引く。
「アメリア?」
「婚約に関しては父に一任しておりますので。…どうにも、わたくしがここにいると使者としてのお仕事をお邪魔することになりそうですから、一旦退席させて頂きますわ」
ススーッ、とアメリアはそのまま扉まで後退する。
「アメリア、どこへ」
「今、我が家のシェフがはりきってスイーツを作っていますのよ。おもてなしのご用意が整いましたらまたこちらにまかり越しますわ。ザコル、後は頼みましたよ」
「かしこまりました」
ザコルが一礼すると、アメリアも深く一礼して、そそくさと部屋を出ていった。
王子すごいな、アメリアから出ているあの「だまれ」という圧を受けて怯まないなんて。私なら寝込む。
「ふ、全くアメリアも素直じゃないな。ああ、勘違いしないでくれ、私は懐に入れた女性は平等に可愛がる男だよ、ミカ嬢」
「はあ、そうなんですね」
どの口が言う。さっきアメリアの事が一番のお気に入りだって言ってましたよね? とは、すんでの所で飲み込んだ。
私が着席を勧めると、王子はやれやれと首を振りながらソファにどっかりと座った。
私もその向かいの一人掛けソファに腰を下ろす。メイドがササっとやってきて手早く紅茶を出してくれた。どうやらホスト側が先に口を付けるのがマナーらしいので、とりあえず口を湿らす程度に紅茶を啜った。
王子は流石に茶器で音を立てることもなく優雅に啜ってみせたが、姿勢は良くない。というかわざと斜に構えているのか。
せっかくイケメンに産んでもらえたのに何て残念な……というか、本当に王族か?
この王子、渡り人というよりは、アメリア狙いでやってきたんじゃないのか。だったらせめてこの場だけでも狙いは一つに決めるべきでは。私まで『平等に』口説いてどうする。女とみるや見境なく迫るようではただの変質者だ。
「ミカ、もし気分が悪ければ退出の許可を願い出ますが」
「いえ、大丈夫です。せっかくのご機会ですから」
ザコルに向かって首を軽く振る。
ザコルは先日の晩餐会のように、一応は着替えさせられて前髪を上げられていた。マントは深緑のままなのでとても浮いている。袖や裾は直してもらえたようだが、腰回りなどは相変わらず生地が余っている感じがする。きっと既製服が体型に合わないタイプなんだろう。
「お前は何だ。単なる護衛じゃないのか。渡り人たる彼女に馴れ馴れしい態度を取るとは。正式に名乗れ」
矛先がザコルに向く。
「名乗りの機会を賜り、恐悦至極にございます。私はサカシータ子爵オーレンが八男、ザコル・サカシータ。本日はミカ・ホッター様の護衛兼補佐としてお役目を賜っております」
おお、王族相手にはこういう言葉選びで挨拶するのか。勉強になるなあ。
「ふん、下級貴族の息子か。そんなサイズも合わない礼装に古ぼけたマント姿でよくも私の前に顔を出せたな。テイラー伯爵家ではこんなみすぼらしい者を渡り人の側付きにしているのか。まあ、貧乏ったらしいお前としては私に名を売りたい所だろうが、あまり出しゃばり過ぎるなよ」
出しゃばるなとかお前がゆーなや大体お前が名乗れ言うたんやろがい、と心の関西人が叫んだ。
「ああ、サカシータといえば、確か王宮魔方陣技師の筆頭も同じ姓だな。お前は何だ?」
「特に役職はございません。普段はテイラー伯爵様の配下として政務の補佐などを行っております」
「ふん、いち貴族の雑用しかできない無能が。これ以上ミカ嬢に不敬を働くならば私が直々に斬り捨ててやるからな」
「肝に命じておきます」
持参した煌びやかな剣の柄をわざとらしく指先で弄ぶ王子。あれで威嚇しているつもりなんだろうか。
ザコルは経歴がよく分からない所もあるが、決して無能ではない。
何より伯爵様が渡り人である私の事を一任しており、屋敷の人々もそれをごく自然に認めているのだ。本人が言うようなただの雑用や使い走りとは思えない。それなりに特殊な立場であることくらいは私でも薄々感じている。
ふーん、この人にそういう事言っちゃうんだ…。
「恐れながら殿下、私に発言をお許しくださいますか」
「ああ、もちろんだミカ嬢。あなたの声色は鈴や琴のようで実に心地いい。いくらでも聞こうじゃないか」
王子は鷹揚に頷く。女相手には『寛大な男キャラ』を演じるのがこれまた苛立たしい。お前は取引先のモラハラ社長か。
よーし、同じように応対してやる。
「ありがとうございます殿下。ここにおられるザコル様を始め、身辺のお世話をしてくださる方には、名前で呼んでくださるよう私からお願いしているのでございます。事故とはいえこの素晴らしきオースト国に喚ばれたこと、大変な幸運とは存じておりますが、突然にして生まれ育った元の世界との繋がりを失ったのも事実。どうにも最近、淋しさを感じて止まないものですから…」
そう言ってわざとらしく頬に手を当ててみせる。
ちなみに全然淋しくはない。むしろ日本にいた時よりも賑やかに過ごしている。
「使用人の皆様はこんな私を氷姫などと呼んで慕ってくださいますが、やはり気を楽にできる方は得難いものですよね。ですから、心を許した方々には、ぜひとも親しげに呼んでいただきたいと安直に考えてしまいましたの。ミカ、という声を聴けば、ともすると孤独に呑まれそうな心が一時安らぐのですよ。王子殿下におかれましても、高貴な身の上ゆえの孤独をお感じではありませんか」
「おお、さ、流石は渡り人だな。よく解っている。確かに高貴さゆえの孤独? 覚えがあるな!」
孤独とかちゃんちゃらおかしい。私は毎日かき氷作って面白おかしく生きてるぜぃ!
ゲフッ…と後ろで咳き込む音がする。やっぱり、ザコルって私の独り言か何か拾ってないか…? 恐ろしく耳がいいのか、でなければ霊感でもあるのか。
さて、頭をフル回転だ。なるべくまわりくどく小難しく高尚に。
大袈裟に言って煙に巻く作戦、発動である。
「そう、全て私のはしたなくも無作法な申し出のせいなのです。ですから、こちらにお仕えの方々にあまり厳しいお言葉をいただくと、我が事を叱られているようで悲しくなりますわ…」
シュン、と目を伏せてみせる。
「ああ、どうか悲しまないでくれ、黒水晶の君。あなたを叱るなんてとんでもない。使用人に名前を呼ばせることであなたの心が安らぐというのなら仕方あるまい、私も大目に見ようじゃないか」
大目に、ねえ。今持っているカップをカチンコチンに凍らせてやろうか。それにしても『黒水晶の君』に吹き出さなかった私を褒めてほしい。
「お優しいのですね。やはり一国の王子ともなると、寛大で柔軟で気高いお心をお持ちなのだわ。感服致しました」
「いやいやそんなことはない。ただ王子に生まれた以上、常に国民のため、王族としての役目を果たそうと必死なだけの男さ」
「まあ。なんて素晴らしい志なのでしょう。お若くとも王族としてのお覚悟をしっかりお持ちなのですね。感動して心が震えておりますわ。私、王族の方に直接お声をかけていただくのはこれが初めてなのです。高貴なるあなた様と席を共にできたこと、私のような下賤の出の身にはあり余る光栄。生涯の思い出として心に留めおきますわ」
「そうかそうか、光栄に思ってくれるか。ならばぜひともこの高貴なる私の側に侍るがいい。思い出と言わず、一生でも構わんぞ」
王族だからって自分で高貴とか言うなよ…。ウィンク飛ばしながらパチンと指鳴らしてくんな。トレンディ俳優か?
「いいえ、いいえ。高貴で気高きあなたの情をいただくのが、この世界の教養も充分にない下賤な年増であるなど。何より私自身が許せることではありません。畏れ多くも私をお望みいただけるというのなら、その栄誉を胸に、再び世の理を超えて身を引く覚悟でございます」
「再び世の理を越える…? とはどういう…?」
しまった、王子がついて来られてない。回りくどすぎたか。
「あちらの世界に帰るか、あなた様の目の届かぬ所へと身を隠すという意味ですわ。それも、あなた様の輝かしいご将来を想えばこそ。下賎な私にできる事はただ身を引くのみであると存じます。ああ、美しく誇り高い王子様…。あなた様ならば必ず真なる運命の姫と結ばれる事でしょう。陰ながらお幸せをお祈りいたしております。どうか、どうか、どうか!」
涙を拭く真似をしながら圧力をかける。
「わ、わかった。ざ、残念だが」
「ありがとうございます!!」
変質者が引いた。しかし反撃はここからだ。終わったと思うなよ。
「わたくし、畏れ多くも一度は殿下に望まれた事、心内に大切に秘め、これからの人生の糧と致しますわ。それにしても殿下のお召し物は素晴らしい意匠でございますね。ああ、その靴のツヤひとつにも高貴さが滲み出て」
つま先から頭まで全身を舐めるように見てやる。王子も流石に居心地が悪くなったか、僅かに眉を寄せた。
初対面でジロジロと品定めされ、珍獣扱いされた上、コレクションの一つとして王宮に連れ込もうとした事は忘れてやらんぞ。もし私が渡り人でなく王国民だったら立場的に断れなかった可能性もある。
そして、うちの師匠をみすぼらしいだの無能だのと言ったのは絶対に許さん。
「その美しい朱がかったブロンドの髪も目を奪われますわ。確か三代前の第五十二代国王陛下がそのような髪色だったと本で拝見いたしましたがきっと賢君と謳われた彼のお方の血を色濃くお継ぎなのですねあの素晴らしい防災政策を行った方を高祖父にお持ちの殿下は当時は諸外国でも話題になったというあの大規模治水工事に関してどのように思われますか」
「…えっ、あ、そうだな、私も素晴らしいと思っている、ような」
私がいきなり息継ぎもそこそこに早口で話し出したのにびっくりしたか、王子の反応がワンテンポ遅れる。
「ええそうですよね私も素晴らしいと思いますかの方の偉業あってこそ現在の貴国の繁栄があるのでしょうからああ勉強不足で申し訳ございませんがあの河川の名は何でございましたでしょうかきっとご聡明な殿下ならばご存知と思いまして」
未だ混乱中の王子に畳み掛けるようにして言葉を浴びせる。
「う、な、なな、なんだ…っけ」
「そうですわナンダケ川! 流石でございますようやく思い出せましたわ殿下はご本は多く読まれますでしょうかきっと私などよりもずっと高度なご教育を受けられているのでしょうから愚問ですわね第三十二代国王陛下の治世に書かれたあの哲学書はお読みになりましたか私ひどく感銘を受けましてこの国ではあのように哲学への造詣を深くする方が多いのですね殿下」
「あ、い…」
「それはそうと初代国王陛下の…」
「う、え」
「六代前に隣国に嫁ぎなされた王姉殿下の…」
「お」
王子がひらがな数文字しか喋らなくなって三十分ほど経った頃だろうか。トントン、と扉を叩く音がした。アメリアだ。意外に早かったな。
「殿下、お庭に茶会の準備を致しました。今日は陽射しが柔らかく過ごしやすい陽気ですわ。ご一緒にいかがでしょう」
「あ、ああ。ありがとうアメリア。ぜっ、ぜひ相伴に預かるとしよう!」
王子がセクハラも嫌みもかまさず、素直に連れていかれる。頭が疲れたのかもしれない。
「ミカ、あなたは疲れていませんか」
「大丈夫です。どうってことないですよ。面白かったです」
心配そうに私の顔を覗き込むザコルに、笑顔を向ける。
「結果的にあなたがほとんど相手をする形になって申し訳ありませんでした」
「いいんです。私もちょっと調子に乗っちゃいました。あの王子様は歴史のお勉強とか得意じゃなさそうですからねえ、でも流石にご自分の先祖様の事を知らないなんて言えないでしょ。ふふっ」
「……これは相手が悪かったな」
側に寄ってきたハコネが少し気の毒そうな顔で王子の背中を見送っていた。
◇ ◇ ◇
わたくしの指示のもと、庭には丸テーブルがセッティングされ、その上に置かれたスタンドには可愛らしいお菓子がたくさん並んだ。よくぞこの短い時間でこんなにも種類を用意してくれたものだ。さすがは我が家のシェフ。心から誇りに思う。
王子はザコルが作ったミカに関する調書を手にし、向かいに座るミカへぽつぽつと質問を投げかけている。勢いのない王子に、ミカは落ち着き払って無難に対応している。思っていたよりずっと肝が据わっているようだ。いつもの飄々としつつもどこか遠慮がちなミカからは想像ができない。
わたくしはそっとザコルを呼び、テーブルから離れた場所で、表情を変えずに小声で話しかけた。
「ザコル、殿下に何をなさったの。お怪我は無さそうだけれど、急に大人しくなられたわ」
「ミカが徹底的にやりこめていました」
「ミカお姉様が? あなたが睨みを利かせたのではなく?」
「殿下は僕の事をご存じなかったようで、名乗ったくらいでは牽制になりませんでした。力不足で申し訳ありません」
「まあ、なんてこと…ああ、そうね、殿下は昨年まで他国に留学していらしたから。それにしても勉強不足がすぎるようですが…。あなたに責任はなくてよ、わたくしの考え不足でした」
「いいえ、お嬢様の落ち度ではありません。最悪、僕が自分から経歴をお話しすれば良かったのですし。その前にミカの反撃が始まってしまいましたが…」
「反撃…? ミカお姉様は何をなさったというの? 」
「ええと、殿下は、僕がミカと呼び捨てている事がお気に召さず、牽制めいたことを仰いました。それをミカなりにフォローしようとしてくれたのでしょう。要約しますと、元の世界を離れた自分の孤独を埋めるために身近な者には下の名を呼ばせており、それを咎められると自分が叱られているようで悲しくなると」
「まあ! …あ、いけないわ」
声のトーンを上げかけて、咄嗟に扇子で口元を隠した。
「お姉様はそんな風に思っていらっしゃるの?」
「いえ、そんな風には微塵も思っていないと思いますよ。ちゃんちゃらおかしい、毎日かき氷作って面白おかしく生きてる、みたいな事を独り言で呟いていましたし」
「ちゃんちゃら…? ともあれ、孤独とは方便ですのね、安心したわ」
ホッと胸を撫で下ろした。自分なりにミカに寂しい思いをさせないよう気をつけているつもりだったし、父母や弟ともそう約束していたから。
「あなた、本当に耳がいいのね。わたくしにはお姉様の独り言なんて聞こえた事がないのですけれど」
「耳がいいのは生まれつきです。その独り言の続きですが、大袈裟に言って煙に巻く作戦発動、だと」
わたくしが、徐々に煙に巻きましょう、と言ったのをなぞったようだ。
ザコルから大まかにミカが言った内容を聞き出す。よくもそこまで舌が回るものだと、ザコルが感心しているのがおかしい。
「泣き真似まで交えて」
「まあ。演技までお上手なの」
本当に、あのミカがそこまでしたのだろうか。
邸内で行った顔合わせの晩餐会で、ひたすら恐縮していた姿が脳裏によぎる。ミカは聡明だが人が良く、あまり駆け引きや計算が得意なタイプだとは思っていなかった。
「結局、小難しい言い回しについていけなくなった殿下が折れました」
「そう、良かったわ。ちゃんと丸く収まったのね」
「…変質者が引いたと…っふ」
「何ですって?」
今、もしかして笑ったのかしら?
この、せいぜいが眉を寄せるくらいしか感情表現をしなかった、この男が…?
…いや、最近は頭を抱えたりムキになったり得意げに胸を張ったりもしていたような気もする。いずれもミカに引き出されたものだ。
そうだ、ミカは駆け引きや計算を積極的に行うようなタイプには見えないが、この男の動揺を誘う事にかけては天才的だった。
「変質者です、お嬢様。ミカが、王子殿下をこっそり変質者と何度も呼ぶもので」
「まあ。ふふっ……変質者ですって? ふふふっ」
それはいけない。この男でなくとも笑ってしまうわ。
「ふふ…っ、でも確かに、王族であらせられなければ、一度くらいは衛兵に取り押さえを命じたかもしれませんわ」
「ハコネは殿下ではなく僕を取り押さえる気満々でしたが」
この男は、王族が相手だろうと容赦する気は微塵もなかっただろう。
「あなたの殺気が通じないなんて、殿下も大物でいらっしゃるわ。…確か武術の方はあまりお得意ではなかったわね。お姉様が上手く収めてくださって何よりよ。……ごめんなさい。やはり、わたくしが相手できていれば何も問題はありませんでしたのに…。お姉様にも謝罪申し上げなければ」
わたくしが不甲斐ないばかりに、ザコルとミカに綱渡りのような真似をさせてしまった。もっと早くに部屋に戻っていれば…。
「お嬢様は予想より早くお戻りでした。それにミカは、どうってことない、面白かった、とも言っておりました」
思わず、隣のザコルを見上げてしまう。
「まさか、わたくしを気遣ってくださっているの?」
「…何ですか、僕とてお嬢様に同情くらいはしております」
ふん、と眉を寄せられる。とても同情する相手に向ける顔ではない。
「……茶化したつもりはありませんのよ。驚いただけですわ」
「そうですか」
「またそっけない返事を…。あなたはそれだから周囲に誤解されるのですわ」
「誤解、ですか。僕は別に……ああ、でも、ミカが、僕への暴言は絶対許さないと言ってくれました。少しはあの言葉に報いるべきですね」
「そう…自慢かしら? その弛み切った顔を何とかなさい。…全く、殿下の事だからそれ相応の暴言を吐かれたのね。あのミカお姉様がお怒りになるなんて…」
「いいえ、暴言といっても可愛いものでしたよ」
「あなたの経験からすれば取るに足らないような言葉でも、ミカお姉様にとっては衝撃を受けられたに違いないわ。ああ、お心を乱されていなければいいのだけれど」
「あの女がそのような殊勝な事を考えるタイプだとは…あ、いえ、何でもありません」
第二王子とは二つ違いで、最近は他の貴族令息や令嬢とともに交流も増えていた。
以前から彼と交流のある人からは素直で純朴な性格の少年だと聞いていたのに、何があったのか、急に兄の王太子を嫌悪するようになり、自分本位な女遊びを繰り返すような人物に成り果てていた。このままでは、王族といえども待つのは破滅である。
しつこく言い寄られるの困るが、正直恨みがあるという程でもない。あの姿が彼本来のものでないとするなら、どうにか改心して破滅を免れてほしいとも願っていた。
だがそれもこれも、ミカに手を出そうとするのなら話は別だ。あろうことか国を挙げて護るべき渡り人まで飾り物のように扱おうとするなんて。父に話して厳重に抗議してもらわなくては。
ふと顔を上げると、屋敷から執事がこちらへと駆けて来るのが目に入った。
「お嬢様、早馬の一報が返ってまいりました」
「宛先は?」
「第二王子殿下宛に、王妃殿下からの書状です」
「ふふ、これはお叱りのお手紙ね。すぐお渡しして」
「かしこまりました」
王子は書状を受け取り中身を改めると、そそくさと帰り支度をし、挨拶もそこそこに発っていった。
「ミカお姉様にもお話を聞かなくてはね」
見送りが済んだわたくしは足取り軽く、屋敷へと引き返した。
◇ ◇ ◇
変質者、いや第二王子殿下が無事に去り、アメリアがお疲れ様会を開こうと言って皆に声をかけた。
使用人や騎士団員、その家族も招いてのガーデンパーティー、要するに打ち上げをするのだ。
貴族も平民も渡り人もなく、本邸前の庭にテーブルや食器を出し、皆でワイワイと準備をした。ちなみに、王子が粘って居座った時のためにと晩餐の用意もしていたそうだ。高級そうな食材を気前よく使った料理が次々に運ばれてくる。
もう秋口なので風が涼しく、月も綺麗で、気持ちのいい夜だ。
「蜂蜜酒は行き渡ったかしら? 子供達には採れたてのぶどうを絞ったジュースもありますからね! 皆、今日は朝からご苦労様でした! 父伯爵からも、皆にねぎらいをと一筆いただいているわ! 今夜は大いに飲んで食べてくださいませ!」
アメリアが皆に声をかけて回る。
アメリアお嬢様もお疲れ様でございましたと、使用人の面々からも言葉が飛び交う。
「テーブルに全ての料理が並んだかしら? 調理場の皆もご苦労様! もういいわよ。片付けも明日にしましょう! わたくしも手伝いますからね! 無礼講よ!」
周りの使用人から笑い声が上がる。明るくて可愛いアメリアお嬢様は、屋敷のみんなにとても愛されているようだ。
「さあ、皆さま! 今日の最大功労者であられる氷姫こと、ミカ・ホッター様に捧げましょう! 幸多からん事を!」
『幸多からん事を!』
「ふへ、ありがとうございます皆さん」
乾杯が終わると、日頃私の世話をしてくれているメイドさん達や、かつての護衛隊のみなさんから次々と料理や飲み物を手渡され、始まってすぐにお腹がいっぱいになった。
ハコネとホノルが五歳と三歳の息子さん達を連れて挨拶に来てくれたので、私はその場にあったぶどうジュースに魔法をかけ、フローズンドリンクを作って手渡した。
それはもうキャーキャーと目を輝かせて喜んでくれて、ふと気がついたら目の前に行列が出来ていた。一人ずつ、持ってきたドリンクに魔法をかけていく。
会場にいたほとんどの人のドリンクを残らずフローズンドリンクにしたところで、背後に控えていたザコルが顔を覗き込んできた。
「ミカ、ふらつきなどはありませんか。王宮の魔法士でも、魔法を使いすぎると体調を崩すと聞いたことがあります」
いわゆる魔力切れみたいなものか。
「そういえば私、魔力を使い切った事ってまだないんですよね。でも、まだまだ元気ですよ。体力にも余裕があります。日々の修練のおかげですね」
「ミカ、渡り人には強大な魔力があると言われてはいますが、あまり過信してはいけませんよ。気をつけてください」
「はい。ありがとうございます。魔法をどれだけ使ったら限界がくるかも調べておきたいですね。もしやるとしたら長丁場になるかもしれませんが、付き合ってくれますか」
「もちろんです。準備しておきましょう」
「ねえ、こおりひめさま、こんど、こおりのおしろをつくってよ」
幼稚園から小学低学年くらいの、小さな子供達が集まって声をかけにきた。ハコネのところの兄弟もいる。みんなフローズンドリンクは飲みきってしまったようだ。
「いいね、そのアイデア。もし練兵場を一日貸し切ってもいいなら、思い切って氷のお城を作ってみようか」
私の氷結魔法は若干の念動力も含まれているのか、しっかりイメージできればその通りの形の氷を作る事も可能だった。
「ほんと? わたし、おしろのえをかいてきてあげる!」
「おれもおれも。カッコいいのがいい」
皆可愛いな。どんな絵を描いてきてくれるだろう。
「とうもつくってね。はねばしと、たいほうもね」
「うんうん、分かった」
「れんぺいじょー、かしきれる?」
「どうだろうねえ」
「ねえねえ、しんりょくのきょーけんさん! だんなさまにおねがいしてちょーだい!」
「しんりょくの……何て?」
ブフゥッ!
「師匠!?」
後ろで飲み物を口にしていたザコルが盛大に吹いた。
「今、何て言ってた?」
「えっとねえ、はねばしとたいほーだよ!」
「違う違う、その後。貸し切れるといいねの後。何て言ってた?」
「しんりょくのきょーけんさんに、おねがいしてもらうの。だんなさまとなかよしだから」
「しんりょくの、きょーけん、さん? それって何? もしかして、そこにいるザコルさんの事?」
「そうだよ、こおりひめさましらないのー? きょーけんはね、おそれられてるんだよ!」
がおー、と男の子が怪獣の真似のような仕草をする。
「ふかみどりのマントに、ヤバいぶきいっぱいかくしもってるんだよ」
「ぜんぜんねないんだよ! やこーせいなの」
子供達が興奮して身振り手振りを交えて教えてくれる。大人気だな。私は初耳だけど。
「でも、かーちゃんが、こおりひめさまのほうがつよいって言ってた」
あっ、ホノルの息子ちゃんだ。
「もしかして、まほうのパワーできょーけんがやられるの!?」
「すっげー!!」
しんりょくのきょーけんVS氷姫様の怪獣戦争ごっこを始める子供達。
周りを見渡してみたが、皆それぞれ楽しくやっているようで、子供達を止めようとする大人の姿は見当たらない。
「こおりひめさま、いっしょにしんりょくのきょーけんたおす!? おれたちがやっつけてやる! おれたちいっぱいいるからきっとかてるよ!」
「ふふ、味方してくれてありがとうね。でも、倒しはしないから。ちょっと待っててね」
シュシュと拳を繰り出す幼児をいなし、後ろで未だにゲホゲホと咳き込んでいるザコルの背中をさする。
「大丈夫ですか、師匠」
「だ…っだいじょ、ぶ、ごほっ」
「これ、拭くもの。どうぞ」
手近にあったナフキンを差し出す。
「ねえねえ、なんでシショーってよぶの?」
「師匠はね、異世界の言葉でね、先生って意味なの。私にとっては色々とこの国や世界のことを教えてくれるし、運動とか馬の乗り方とかも教えてくれる大事な先生なんだよ」
せんせい…。と呟きながら子供達が顔を見合わせる。そして口にナフキンを当てたザコルを取り囲んだ。
「ねえねえ、きょーけんは、せんせーなの?」
「あんさつしゃ、やめた?」
ザコルが観念したように身を起こし、コホン、と咳払いをした。
「…ぼ、僕は元から暗殺専門というわけではな…、えー、そう、そうです。きょーけんは卒業したんです! そう、やめました!」
「きょーけんやめたの? なにになった?」
「…えー、今は氷姫様の、世話係というか護衛というか、ええと、シショー? をやってます…多分」
自信無さげだな。
「こおりひめさま、シショーってつよいの?」
「さあ、私はよく知らないんだけど強いんじゃない? 人に稽古つけられるくらいだし。…ねえ、あのマントの後ろ、見てみよっか!?」
「みたーい!」
子供達と一緒になってマントに群がってみる。
「ちょっ、やめ! 危ない! やめろと言っているだろうが!」
『えぇー』
ぶーぶーぶー。
「えーじゃありません! 本当に武器があるんですよ!」
「本当にあるんだー。じゃあ一個だけみせてよ師匠ぉー」
「シショーいっこだけー」
子供達と一緒になって両手を前に合わせてみる。
「ミカまで……ああ、もう、ぐっ」
ザコルは数秒逡巡し、何かを飲み込んだ。
「み、見せるだけですよ!? 触らないでくださいね!?」
『は~い!』
ザコルは腰裏に手をやり、音も無く何かを抜いた。…おお、本当に何か出てきた。
「これは、投げナイフ。常に複数身に付けています。僕は指に掛けられるように、リング付きのものを特注しています」
そう言って小さなクナイのようなナイフを見せると、指にかけてクルクルと回し、碌な予備動作もなく不意にシュンッと投げた。
無人のテーブルに盛られていた小さな林檎に命中したと思ったら、その林檎ごとふっ飛ばし、その先の椅子の背もたれに林檎を縫い止めた。
「おお…!? 何あれ、全然思ってたようなレベルじゃなかった。流石は師匠」
「す、す、す…すげぇー! かぁっけぇぇー!」
「み、みえなかったぁ…」
まさか実演までしてくれるとは。お願いしてみるものだ。
「ねーねーどくは!? どくもってる!?」
一個だけで満足する子供達ではない。いいぞもっとやれ。
「一個だけと言ったでしょう…。もう、いいですか、これは本当に、本当に絶対に触ってはいけませんからね」
そう言って紐で厳重に口をくくられた小さな革の巾着のようなものを出して見せる。押しに弱いな。
「これは、対人間用の麻痺毒です。僕はナイフの刃先などに吸わせて使用します。毒の中では強い方じゃないので余程死ぬような事はないですが、大量に体に受けると痺れが取れなくなる可能性もあります」
「すげー! ほかにはほかには?」
「…どく、こわい…しぬ?」
「しなないっていってたよ、だいじょうぶ」
盛り上がっている子達と、引く子達に分かれ始めた。そろそろ止めようかな。
「さあさあ、一つだけって約束だったよ。二つも見せてくれた師匠に拍手ぅ!」
おおおおおーっ!!
「えっ」
可愛らしい手の音を想像していたら、お笑い番組の歓声みたいなのが背後でドッと湧いた。
いつの間にか子供達の親を始め、大人達が大勢集まってきて見物していたらしい。
「いやあ、投げナイフ凄かったな、動き見えたか!?」
「暗器なんて初めて見たわあ!」
「大道芸人がするのとは全く違うわねえ」
「何がどうして林檎が飛んだか解んねえが、あれで狙われたら瞬殺に違いねえや!」
「流石は深緑の狂犬だあ!」
狂犬! 狂犬! 狂犬!
狂犬コールが巻き起こった。皆相当酔っ払ってるな…。
どうやらザコルの素敵な二つ名は広く周知されているらしい。何で私には教えてくれないんだろ。
「た、正しくは! 深緑の猟犬! です!」
深緑の、猟犬…。
「ぶ…ふっ! ふふっ、ふ、あははははは…師匠! ツッコむとこそこですか…!?」
「狂犬よりはマシです!」
「そんなに変わらなくないですか! あはははははは」
「ミカは笑い過ぎです! なんだ、僕の正体などとうに知って…」
「そんなの知ーりませんよぉー、あはは…ふひい」
爆笑しすぎてお腹が痛い。
「しっかりしてください。もしや酔って…あっ、まさか、これ飲みました!?」
ザコルが空のグラスを掴む。
「師匠が飲もうとして吹いて残してたグラスですかあ? 喉乾いてたからさっき飲んじゃったー」
「この酒、度数が高かったはずですが!?」
「ザコル様にお出ししていたのは、十年物の蜂蜜酒のストレートでございます」
近くにいたメイドがサッと来て教えてくれる。
「そーなんだぁ、よく分かんないけどアルコールキツいなと思ってたー。ふふふ、それ、おいしかったよー。…はれ?」
足元がふらつき、体勢を崩す。咄嗟にザコルが私を支えた。
「こ…っ、この酔っぱらいが! 人が飲んだグラスに軽々しく口をつけるんじゃありません! ほら、しっかり立って。向こうで休みましょう。誰か! ホノルを呼んできて下さい!」
「はーい! ぼくよんでくる!」
ホノルの上の息子ちゃんが走る。
「おい、氷姫様が飲み過ぎたってよ、お嬢様に報せてくる」
「ただいまお水をお持ちします」
ザコルに引きずられながら子供達に手を振る。建物に近いテーブルまで移動すると、先程居合わせたメイドがサッと椅子を出してくれた。
彼女が渡してくれた水を受け取り、座ってちびちび飲んでいると、ホノルが駆け付けた。
「ミカ…! 大丈夫ですか!?」
「かーちゃんつれてきたよー」
「ありがとー息子ちゃん。君、いいねえ、ホノルがお母さんだなんて羨ましいよ」
ホノルの息子ちゃんの髪をなでなでする。ニコニコしていて誇らしそう。いいな…。
「もう、ミカったら…。倒れたと聞いて焦りましたわ。お酒はどれくらい、いえ何杯飲んだのです」
「お酒ぇ? お酒はね、たぶん、七杯か…うーん、十杯くらい」
「そ、そんなに!? ザコル様! ちゃんと見てお止めしないとダメでしょう!」
「すみません…酒とは気づかず…」
ホノル母さんに怒られる師匠、可愛いな。
「ミカお姉様! 具合が良くないと聞きましたが、どうなさいました? 大丈夫ですの!?」
アメリアが焦った様子で走り寄ってきた。
「アメリアだあ! 今日も超絶可愛いね。王子は超絶キモかったね。全然具合なんて悪くないよぉ。師匠がね、私には自分の事ちっとも教えてくれないんだぁ。かなしー」
「えっ」
語彙力が低下している自覚はある。言葉が勝手に滑り落ちてしまう。
「…ザコル? あなた、まさかミカお姉様に自分の経歴を全くお話ししていないのかしら?」
「ええと…話すタイミングを伺っていたところで…」
「ミカお姉様がうちにいらっしゃってからもう半年以上よ? …そう。あなたの経歴を知らずにいたからお姉様は今日殿下の相手を自ら買って出てくださったのね。あなた、お姉様に守られたのよ。恥ずかしくはないのかしら!?」
「うぐ…っ」
「お嬢様、その辺りでご容赦を」
ハコネが下の子を抱いて走り寄ってくる。家族の時間を邪魔しちゃって悪かったな…。
「ザコル殿にも事情があるでしょうし、王子殿下の件はザコル殿が悪いというわけでもありませんから。ザコル殿、ほら、あっちの椅子に刺さっていたナイフだ」
「ありがとうございます、ハコネ」
ハコネが自分のハンカチで林檎の汁を拭き取りつつ、ザコルに投げナイフを返している。
「ハコネ兄さんだー。息子ちゃんたち、お利口で超可愛いねー」
「ああ! そうだろうそうだろう! 二人ともホノルに似て可愛いだろう! ホッター殿、また随分と飲んでいるな。また記憶が飛ぶのではないか」
「晩餐会の時よりは飲んでませーん。まだ大丈夫ー」
「いや、絶対嘘でしょう?」
ザコルが怪訝な顔で覗き込んでくる。
私は椅子から立ち上がって、ザコルの右肩をべしん、と叩きながら寄っ掛かった。
「ちょっ、ミカ、座っていてください」
「えーとぉ、師匠はねえ、ちゃんと私の体調よく見てくれてたよ。魔法使い過ぎないようにって、注意もしてくれたしー。お酒はねえ、皆にもらったのを返せなくて全部飲んじゃっただけだから、私が悪いの。みんな、ありがとう。いつも私と仲良くしてくれて。ここに来られて、本当に幸せ。…でも。あんまり、役に立ててなくてごめんねぇ…」
どうしよう、急に泣きたくなってきた。
「ミカ、どうしました…」
「何をおっしゃるのミカお姉様! お姉様が我が家に来てくださって幸せなのはわたくしの方ですわ! それに今日はご活躍だったではありませんか。お姉様はいてくださるだけで充分……はっ、お姉様、もしや本当に孤独を感じてはおられるのでは? お淋しい想いをさせては…」
「何言ってるのお? 私、日本にいた時の方が断然孤独だったよ。ねえ、アメリア。私ね、伝えたかった事があるんだよ」
私はザコルの肩から手を引き、アメリアの華奢な手を両手でギュッと握った。
「あの日、私を追い出さないでいてくれて、本を選んで届けてくれて、心配してくれて、本当にありがとう」
「ミカお姉様…っ」
「あなたのおかげで、私、生きてると思う。生かしてもらったの。右も左も分からない時に、あなたが届けさせてくれた本がね、あの易しい本達が、私に『ようこそ』って一番最初に言ってくれたんだよ。嬉しかったなあ…」
アメリアが最初に選んでくれた数冊は、まさに子供の手習い用、といった感じのラインナップだった。間違いなく、異世界から来たばかりの私を慮ってのチョイスだったはずだ。
「……っ…………」
アメリアのアクアマリンのような瞳。きらめいて綺麗だ。
「ありがとう、アメリア。最初に読んだ絵本、今でもよく借りて眺めてるんだぁ。騎士とお姫様の話。絵も凄く綺麗で、見ているだけでも幸せになれそうで」
ぽた、と、宝石から宝石がこぼれ、私達の手の上に落ちる。
「ふふ、私の可愛い可愛いお姫様。大好き」
「わっ、わたくしも大好きですわ! 決めました、わたくしお姉様と一緒になりますわ! 見目ばかりで頼りないくせに偉そうなだけの男などと結婚するなんて絶対に絶対に嫌‼︎ お姉様どうかわたくしをお選びになってくださいませえ…っ!」
アメリアがワッと泣き出し、私の胸に飛び込んでくる。何か知らんが男に理想があるらしいな。
「よーしよしよし、アメリアたんは私の嫁ー」
柔らかい金髪を撫でる。フワフワだ。
「…これは、お止めした方がいいのでは」
「アメリアお嬢様も珍しく少しお酒を召されていらっしゃるし、お楽しそうですからいいのでは」
焦るハコネをのんびりした様子のホノルが気遣っている。
「かーちゃん。こおりひめさま、おじょーさまとけっこんするの?」
五歳の息子ちゃんがホノルのスカートを引っ張った。
「そうねえ、氷姫様次第かしら」
「ふーん?」
息子ちゃんは不思議な顔で首をひねる。
「……何だか、久しぶりに故郷の山を見たくなりました」
ザコルが遠い目をしている。…なぜ?
「ザコル殿、ホッター殿が素面の時にきちんと話せ。必要なら俺も同席してやるから」
「ありがとう、ハコネ。どうも最近、反省する事ばかりで…ついにはミカにまで『悲しい』と…」
「ねえ、師匠ぉー、どうして悲しい顔してるんですかぁー」
「いえ、僕が悲しんでいるわけでは」
「悲しんでない? そっか、ならよかった。師匠もー、ずっと私の側にいてくれてありがとう。大好き」
アメリアを正面に抱いたまま、ザコルの右腕に左腕をからませて、ギュッと引き寄せた。
「……は?」
「お姉様ったら! だめよ離して! ザコルにはお姉様のような方もったいないわ! もうわたくしのものよ!」
「も、もう! 勘弁してください! お嬢様も落ち着いて…!」
「お姉様から離れなさいザコル!」
「離してくださいミカ!」
何やら可愛い二人がギャイギャイと私の側で騒いでいる。
ふふふ、二人とも、私が守ってあげるからね。
◇ ◇ ◇
「…そういうわけで、そのあたりでまた記憶が曖昧になってるんだけどね」
「ええ、ええ。存じておりますとも」
翌朝、本邸の客間らしき豪華な部屋で目を覚ました私は、ぼんやりとしながらホノルが運んできてくれた朝食に手をつけていた。
「反省…猛省…大猛省です…。本当に申し訳ない…。薦められるままにどんどんお酒飲んじゃうの、もう絶対やめる。気をつけます」
「それがよろしいでしょう。飲みすぎはお体にも障りますからね。そうだわ、ザコル様は飲んでも全く酔わないそうですから、今後は全て彼にお渡しすればいいのでは」
「そうだ! 師匠は!?」
「扉の外に控えておられますよ」
私は行儀悪くもガタッと立ち上がる。急に目が冴えた。
「師匠!!」
「ミカ! 待って、そのままでは!」
ホノルの制止を振り切って扉に駆け寄ろうとしたら、ガチャッとひとりでに扉が開いた。
「どうしました、何かありま…」
ズザァッ。
「……ミカ? 何の真似ですか」
「土下座です。おはようございます」
「おは…いえ、僕はその体勢の意図を訊いているんです。それにその…格好も…」
「調子に乗って申し訳ありませんでした」
「…………どの件の事ですか?」
「何から何まですみませんでした」
「は? どうしてミカが、いや違う、僕の方こそ謝らないといけない事が」
「お願い! 実家に帰らないでぇ」
「だから何の話です! そんな格好で足に縋り付かないでください!」
一人で故郷の山になんて行かせない。謝り倒せば残ってくれるかもしれない。何しろ彼は押しに弱い。
その時、カツン…と廊下に靴音が鳴り響いた。
「ア…アメリアお嬢様…」
ごくり、ザコルが喉を鳴らす。
「ザコル、あなた……お姉様に何をさせているのかしら?」
鈴を転がすような声なのに、地を這うような迫力がある。
「あ、おはようございますアメリア。今、私が勝手に昨日の醜態を詫びていた所です」
アメリアは床に這いつくばる私ににっこりと笑顔を向け、そして優雅に一礼した。
「おはようございますミカお姉様。醜態などと。お姉様はいつでも素敵ですわ。さあお姉様、まずお着替えをいたしましょう。そんなあられもないお姿をザコルごときにお見せしてはなりません」
「ごとき」
そう言われて自分の格好を見れば、まだ起き抜けの薄いネグリジェ一枚だった。
「あーほんとだ、ごめんなさい。だらしなかったですね。私の薄着なんて見ても誰も得しないよねえ。ふふっ」
立ち上がってぱっぱっと前を払った。
これで出るとこ出てるような体型だったら、少しは『あられもないお姿』らしかっただろうに。こんな出るとこも出てない痩せぎすでは、棒にレースが付けられているのと大差ない。
「ミカ、額が赤くなっていますよ。もう、床に擦り付けたりするるから…」
「ん」
ザコルが私の額に手を伸ばして触れたので声が出てしまった。ひんやりした手だ。気持ちがいい。
「ザコル…?」
またアメリアから地を這うように鈴を転がした声が…ややこしいな。
ザコルはパッと手を離して引き下がった。
「ミカ、とりあえずこちらを羽織ってくださいませ。さあ、テーブルに戻って。朝食の続きをして、お着替えしたらまたお話ししましょうね」
ホノルが肩にガウンをかけながら優しく言ってくれた。あれ? 私、介護されてる?
違和感を覚えつつも、私はとりあえずザコルとアメリアに頭を下げる。
「えっと、行儀の悪い真似をしてすみませんでした。また後で」
「はいお姉様。お体を冷やしませんよう。ホノル、お世話をお願いね」
「ミカ、焦らずゆっくり食べてください。喉に詰まらせないように」
あれ? やっぱり私、介護対象だと思われてない?
◇ ◇ ◇
その日の昼過ぎ、ザコルが改まって話があると言うので、本邸のティールームを借りる事になった。
アメリアやハコネ、ホノルまでもが同席したいと言ってくれたが断った。ザコルが話したい事だけをザコルのペースで話せばいいと思ったからだ。周りがどう判断しようとも、彼が話したくない事まで聞くつもりはない。
第三者の同席は断ったものの、部屋の隅にはメイドが立って控えている。未婚の男女は密室で二人きりになってはいけないという貴族的な事情だ。こればかりは仕方がない。
「ミカ」
彼がそう呼び捨てにしてくれるようになってしばらくが経った。実は未だに慣れておらず、たまに心臓が跳ねてしまうなんて事は内緒だ。
「まずは、今回の事、大変申し訳ありませんでした」
「何がですか、師匠が謝るような事は何も」
「いいえ、聞いてください。あなたに謝るべき事は大きく分けて三つあります。…まずは王子の対応を丸投げする形になってしまった事、それから酒の飲み過ぎに気づいてやれなかった事、そして、僕の経歴をしっかりとお話ししていなかった事です」
ザコルは淡々と、しかし少しだけ早口に喋る。緊張しているのかもしれない。
「そんな、私こそ…。王子はどうでもいいですが、飲み過ぎは自分のせいですし、しかも酔った勢いで変な事を言ってしまいました。こちらこそ調子に乗ってごめんなさい。話したくないのかなと思って、私も敢えて聞かなかったんです。今だって別に、話したくなければ話さなくてもいいんですよ。大丈夫ですから」
にへらっと笑ってそう告げると、ザコルはわずかに唇を引き結んだ。
「……あなたに、誤解を与えている事も謝らないといけません。決してあなたを軽んじているわけでも、信用していないわけでもありません。ただ、僕が……あなたに、その、軽蔑されるのを恐れていただけで」
「それは、信用が無いという事と同義では?」
何となく自分の手元に視線を落とす。
結局のところ、私が経歴を聞いたくらいで目の前の彼を軽蔑するような人間だと、そう思われていたというだけだ。
静かだと思って顔を上げれば、ザコルがは絶句したように私を見ていた。
「…あ、そんな顔しないで…違うんです、責めたかったわけじゃないんです。続けてください」
彼は軽く咳払いをした。
「失礼を。確かに僕は、あなたという人を見くびっていたと思います。ちゃんと話しますので、聞いてくれますか」
「もちろんです。ゆっくりどうぞ」
私は既に空になったカップに、ポットからお代わりを注いだ。ついでにザコルのカップにも注いで渡した。
「…僕は北方の辺境、サカシータ子爵家で生を受け、幼い頃から武術の類を一通り叩き込まれてきました。以前に魔法陣技師を輩出する家系だという事はお話ししたと思いますが、魔獣を喚ぶにはまず、その場にいる者が自らの実力をもって魔獣を制するのが第一条件なのです」
「えっ、まさか、力技で従えるって事ですか? 契約するとかではなく?」
「はい。現状、魔獣の意思を縛るような契約方法などは存在しません。魔界では単純に、力の強い者を頂点として序列が決められているそうですから。魔界からきた彼らも当然そういう考え方をします。最初は特に、こちらの方が強いと示さなければ従える事はおろか世話の一つもさせてくれません。そういうものなのです」
それで私が魔獣と疑われた際には騎士団長を差し出してきたのか…?
「サカシータ家は、人並外れた戦闘力を持つ事で世界的にも有名な一族です。その力をもって、魔法陣技師としての技術を後世に伝え、ついでに辺境で外敵の侵略を防ぐのが我が子爵家の役割です」
…今、辺境の防衛をついでと言ったような気が…。
「要は、戦闘民族、と」
「はい。そういう呼び方をする人もいます。兄弟はみなそれぞれ武術に長け、得意な分野を極めています。代々伝えてきた召喚技術の全てを継承するのは家長となる者一人ですが、前にもお話ししたように、辺境の守りに徹する者や、他領で騎士や護衛などの仕事に就く者もいます。…僕が最も得意としたのは接近戦と投擲です。最近までは、国家直属の特殊部隊、通称『暗部』の一員を務めていました。今も一応、籍だけは残しています」
「特殊部隊! 何ですかそれカッコいいじゃないですか!」
思わず身を乗り出してしまう。ザコルが僅かに口角を上げる。これは苦笑、いや自嘲だろうか。
「…きっとあなたが考えるような面白い仕事ではないですよ。汚れ仕事が主ですし。潜入調査や証拠隠滅、中には直接手を下すこともあります。命令とはいえ、武器を持たない人間を相手にすることも…。恨まれる事もしょっちゅうですし、人に職を知られれば蔑視や忌避される事の多い仕事なのです」
うーん、そう聞いても個人的にはアウトローでカッコいいとしか思えないのだが、人の価値観は様々だ。しかし、国直属の部隊でもそんなものなのだろうか。ヤクザやマフィアでもあるまいに、蔑視や忌避とは…。
「そんな仕事を十六の頃から九年程続けていました」
「今二十六でしょう? 九年って言うと、ごく最近まで深緑の狂犬やってたんですね」
「猟犬です」
狂犬だとただ暴れ狂ってるだけの野犬みたいでしょうが、とザコルが言うのでつい笑ってしまった。
「はあ、あなた相手だとどうにも緊張感が続きませんね。深緑の猟犬というのは一時期、国家の命によって一部貴族の粛清に関わっていた時代に付けられたあだ名です。このマントが深緑色だからという安直な呼び名ですよ」
ふん、と鼻を鳴らすザコル。本人は気に入っていないらしい。
「その後、転機がありました。…なるべく分かりやすく話すつもりですが、解らなくなったら質問をお願いします」
「はい」
少々込み入った話になるようだ。私は聞き漏らさまいと姿勢を正す。
「僕が二十三の時です。隣国マサランで、我が国相手に戦争を起こそうという動きがあったのです。その取っかかりとしてまず、南方のカリー公爵領内にある原住民族の自治領で騒ぎを起こし、オースト国を逆恨みさせるように仕向ける。そして、あわよくばその原住民族を支援する形で戦に介入していく、というのが隣国の狙いでした」
戦争か。元の世界でも丁度、北の大国が戦争を起こしていた。
「その自治領へ事前調査といいますか、斥候として派遣されたのが僕です。その時には既に、オースト国兵に扮した隣国兵が原住民を攻撃し、七日が経過した頃でした。僕がざっと双方の情報を持ち帰った所で、王家と公爵家の兵を動かして鎮圧に乗り出す予定でした。しかし、たまたま原住民側に紛れて焚き付けていた隣国兵と遭遇してしまいまして。あちらは気づいていませんでしたが、不在の家から金目のものを持ち出したり、陰で女性に暴行を働いたりとかなり好き勝手にやっていました。放っておくと被害が増えそうだったので仕方なく捕らえたんです」
ごくり。カップに残った紅茶を一口で飲む。
「まあ、捕まえてしまったものは仕方ないので、それを担いだまま、偽オースト国兵団の元へと乗り込みました」
担いだまま乗り込んだ…? 本拠地はそこから近かったんだろうか。
「しかし、そいつを人質に使者として交渉を試みるつもりでしたが、最初から捨て駒だったようで首領とは話になりませんでした」
カップを見たけれど、もう紅茶が無い。私はカップの持ち手を握り込んだ。
「しかし、一応は使者として僕を首領のテントにまで連れて行ったのはあちらの失敗でしたね。僕は狭い空間での戦闘は得意な方なんですよ。囲んできた者は全て沈め、首領とマサランの高官らしき者は生捕りました」
「師匠、怪我は」
「怪我? 僕の方ですか? すり傷くらいはあったかもしれませんが…」
ほぼ無傷ですかそうですか。
そっか、なーんだ。ホッと胸を撫で下ろす。大きな怪我でもして引退したからここにいるのかと思ってしまった。
「あの狭い陣内で長い獲物を振り回すなんて。囲めばどうにかなると思っている時点で、大した敵ではなかったという事です」
場と獲物の相性や敵方の実力はよく分からないが、この人がそれなりの人数を一人で相手取れるくらいには強いという事は分かった。彼にとって大した敵でなかったのに、『転機』になったのはなぜだろう。
「残党はトップが落ちたと知ったらすぐ散りました。元々、傭兵やごろつきを雇えるだけ雇って、オースト国の軍服を着せて攻撃させていただけのようでしたから。生捕りした者を担いで原住民側に事情を説明しに行き、翌朝やってきた公爵家の兵に首領と高官は引き渡しました」
さっきから気になっているのだが、人間の一人や二人を担いで軽々しくあちこち移動ってできるものなのだろうか。
「公爵様からは領内のトラブルを最小限の犠牲で収めてくれたという事で、大変感謝されました。社交的で影響力のある方だったので、僕の所業があの低レベルな二つ名とともに社交界に知れ渡ってしまって…。暗部の人間の所業が表にまで知れ渡るなんて稀な事ですが、世論を無視できなくなった王家からは褒章を戴くことになり、僕は単身で戦争を未然に防いだ英雄として扱われるようになりました」
「英雄!? なっ、なぜ、そんな人がここで私なんぞの護衛や世話係をしているのか」
只者ではなかろうと思っていたが、そんな称号まで持っていたとは。戦力の無駄遣い、ここに極まれりだ。
「いいえ、他ならぬあなたの専属護衛となる者が生半可な腕であっていいわけがない。そういう意味では『英雄』を側につけること自体決して無駄ではないと思います。僕としては、自分のような者を英雄と担ぐ方が疑問です。いくら人助けをしたとて所詮は影。決して表に立ってはならない人間だった」
ザコルが自分の手に目を落とす。無性にその手を取りたい衝動に駆られたが、何とか耐えた。
「それに、見ての通り、僕はあまり人付き合いが得意な方ではありません。暗部の者と知ればあからさまに距離を置かれるは、僕に取ってはある意味で都合が良かったんです。が、急に社交界に引きずり出されることになりまして。僕は特に耳がいい方なので、称賛と陰口を一度に聴く羽目にもなって、情けない話ですが、少々人間不信に…」
「あー、それは大変でしたねえ…。私に何かできることがあれば言ってくださいね」
うんうん、と頷く私を見てザコルが何故か眉を寄せる。
「え、何か駄目な事言いました?」
「……いえ、何も。…それで、各方面に面が割れたせいもあって仕事にならないので、上層部の者にはしばらく隠棲したいと申し出ましたが、すぐには了承されず」
「そりゃ、引き止められますよねえ…。優秀なんですもん」
「? 僕は別に、自分が優秀だとは…。単に褒賞をやったばかりで王家の体裁が悪かったのと、機密を知り過ぎているせいだと思いますよ」
よく分からないが、重要な戦前の情報収集を一人で任される事ができて、さらに寄せ集めとはいえそこそこの人数がいた戦闘集団を一人で壊滅させてくる人が優秀でなくて何なのかとは思う。というか仕事丸投げされすぎでは…。
「あの件に関しては、斥候としての任務はほとんど果たしていませんでしたから。たまたま公爵様がお喜びになったので何も言われませんでしたが、本来ならば命令違反で処罰が下る所でしたよ。…まあ、それでもいいと思って行動したので後悔はありませんが」
「なかなか難しいんですね。原住民の皆さんが救われたなら良かったじゃないですか」
「そうですね、僕もそれはそう思います。公爵様もそうおっしゃいました」
ふふ、師匠も公爵様もいい人なんだ。そうか、公爵様はザコルが処罰されないようにするために、功績をあちこちで広めて回ったのかもしれないな。
「話を戻します。僕が隠棲を申し出てしばらくした頃、主様、セオドア・テイラー伯がお声掛けくださったんです。暗部には籍を残しつつ、セオドア様からの依頼という形でテイラー伯爵領に長期出向してはどうかと。テイラー伯爵家は王家の信頼が厚く発言力も高い。セオドア様から王家に打診していただき、お許しいただけました。王都に近い領ですから、何かあればすぐ戻れますしね。普段は伯爵様の側近兼護衛として務めることになりました。それもつい昨年の事、あなたがこちらへ喚ばれる半年程前のことでした」
「なるほど…」
ザコルはセオドアを『主様』と呼ぶ。暗部に籍を残しているとは言ったが、もう王家に忠誠を誓う気はきっとないのだ。
「幸い主様を始め、テイラー伯爵家の方々は僕を色んな意味で特別扱いするような方々ではなかった。振られる仕事も簡単な任務ばかりで、当初戸惑いもしましたが…。それはまだ、信頼を勝ち取れていないということなのでしょう」
どうしてそんなに自己評価が低いんだろうか。そもそも信頼していなければわざわざ側になど置かないと思うのだが。
「師匠、伯爵様は私にちゃんとおっしゃっていましたよ。『ザコルもハコネも私にとっては最も信頼できる部下だ』って。単にテイラー伯爵家の待遇がいいだけじゃないんですか」
「待遇は、もちろん。暗部とは雲泥の差ですね。比べるのも失礼かと思うほどです」
うーん、あまり響かなかったか。まあ、色々あったのだろうし、人の言葉くらいで意識を変えられるくらいなら彼もこれほど悩んでいないはずだ。
「まあいいです、懺悔は以上ですか? 師匠」
「えっ」
………………。
沈黙。
「? まだあるんですか」
「あ、ある…、ありますが…! あ、あなたは僕が暗部の仕事をしていたことに何も感じていないんですか?」
「師匠の仕事歴にですか? 別に何も…いえ、感じていない、というより、ピンと来ていない、が正しい表現ですかね」
「ピンと?」
ザコルは疑り深いようなので正直に言う方がいい。
「すみません、決して軽く考えているわけではないのです。私が生まれた国では、戦争は多くの民衆にとって遠い出来事でした。過去の戦争や、他国間の戦争については教育や報道という形で知ってはいましたけどね。だから、私は本気の戦闘行為を目の前で見た事がない。つまり、それが良いだの悪いだのと判断する程、現実を知らないんです」
「それは…………そうか、それで」
ザコルが口元に手をやる。がっかりさせただろうか…。
「言い訳に聞こえたら申し訳ないのですが、一応、体験記や物語などの書籍から、大まかな知識として斥候や密偵や暗殺者がどのような職を指すのかは『識って』います。でも、実際の現場を見た事はありません。ただ、それはどんな専門職でも同じ事です。例えば医者、大工や針子などの職人業、セオドア様のように領地を治めるお仕事もそうでしょう。私は識っている。でも、知らない」
ザコルは黙って頷いてくれる。この人は、たとえ相手が世間知らずでも、侮らずちゃんと話を聞いてくれる誠実な人だ。
「そういった前提はつきますが、私自身、仕事の内容で人を軽蔑した事はありませんし、するつもりもありません。職を全うするのは私ではなく当人ですから。当人がその仕事を苦に思わず、割り切れていて、心穏やかに勤められるならば何よりでしょう。結局のところ、仕事は仕事でしかなく、その人自身の全てではないと思いますので」
もっと健気なヒロインみたいに情に訴える慰め方でもできれば良かったのだが。あまり感情論や根性論は好きではないので仕方ない。
「もし、目の前で凄惨な現場でも見れば感じ方も多少変わるかもしれませんけどね。今日の話に関しては、ドキドキハラハラはしましたが、師匠への尊敬を新たにしただけでした。それに昨日の投げナイフの実演は格好良かったです。もっと見たいと思いました」
そう言えば、ザコルはなぜか、む、と眉間に皺を寄せた。
「変に持ち上げるのはやめてくれませんか。何かこう、居た堪れなくなります。…僕は生まれた時から戦闘技術に触れてきましたし、生計のためにそれを活かすのが僕の正義でした。だから、仕事について今更苦に思うことはありません。その、自分でも情けないとは分かっているんですが、良くも悪くも注目されるのはうんざりで…ミカは、それについても何も…」
ザコルが言葉を濁しながら目を落とす。
ああ、そうか。言いたくなかったのは、むしろこっちの方なのか。
暗部にいたという経歴もそうかもしれないが、何より人々の注目から逃げ出した事の方を恥じているんだ。彼がテイラー伯爵家に至ったまでの経緯を話そうとすれば、この『転機』の件を抜きには話せない。
「何をストレスに感じるかなんて人それぞれでしょう。ちなみに、私も称賛と陰口を一度に聴くのは嫌です。あと、注目され過ぎるのが嫌な気持ちも非常によく解ります。面倒事も増えそうですし…」
ザコルがガバッと顔を上げる。
「解ってくれますか。そう、本当に面倒だったんですよ…! 暗部は一応国の機関だというのに、個人的な恨みによる暗殺や浮気調査を頼もうとしてくる高位貴族は後を絶たないし、公爵様に取り入りたい人間や、国内の過激派まで擦り寄ってきて鬱陶しい事この上なく…!」
「うんうん、大変でしたねえ…。師匠は人を黙らせられるだけの実力があるのに繊細でもあるんですね。良心的な方に匿ってもらえて良かったじゃないですか。私の国では、人の噂も七十五日ということわざがありますよ。どうせ皆すぐ忘れますって。またのびのびと自分らしく働ける日が来ますよ」
「ミカの言う事には妙な説得力がありますね!」
そうか僕は繊細なのか、と頷いているザコル。彼の立場は複雑だ。英雄でもあり暗部の人でもある。王都を離れたことで何か嫌なことでも言われたんだろうか。
自分のストレス源をしっかり自覚して、そこから逃げる判断ができるというのも一種の強さだと私は思う。単なる逃避ではなく、あくまでも戦略的撤退、逃げるが勝ちというヤツだ。
元職場においても心身を壊しかけた後輩には迷わず休む事を勧めてきた。ストレス性の不調は、放置すると取り返しがつかなくなるパターンも多いからだ。
「じゃあ、次は私のターンという事でいいですかね。こちらも謝りたい事は山ほどあるんですよ。一人で実家に帰られても困りますし」
ザコルがまた眉を寄せる。ああ、この怪訝な顔よ。
「その、今朝から何なんですか。どうして僕が実家に帰る話になっているんですか?」
「昨日、故郷の山が見たくなったって言ってたじゃないですか。師匠がいなくなったら私の毎日の楽しみが半減…いや、鍛えてくれる人がいなくなるじゃないですか、困りますよ!」
むむ…、眉間の皺が一層深くなる。ついに指で揉み始めた。
「……ミカは、僕が言うのも何ですが変わっていますよね? あなたの体力ですが、今の時点でも予想を超える仕上がりですよ。正直ここまでついて来られるとは思っていませんでした」
「いえ、まだ褒めないでください。飛脚への道のりは長そうなので」
「ヒキャク…? いえ、とにかく、この席は僕が謝るために設けた席です。あなたに謝られては本末転倒だ。許してくれなどとは言いませんから、何か償いをさせてくれませんか」
「償い…? そんなの要ります…?」
「僕には要るんです!」
ザコルが何か必死で食い下がってくる。
うーん、うーん。償い…? 別に怒っている訳でもないのに何を償わせればいいと…。
「あ、そうだ。では、謝罪を受け取る代わりに一つだけ。お願いしてもいいですか」
「もちろんです。何でしょうか」
ザコルが身を乗り出す。
「私に、頼み事をしてください」
「はあ? 頼み事?」
そう、頼み事。我ながらナイスアイデアだ。現状、私からザコルに頼み事をするばかりだし、私だって人の役に立っているという実感が欲しい。
「何でもいいんです。魔法でこんな事をしてみてほしいとか、書類仕事があるならその手伝いとか、何か作ってほしいとか、何か運んでほしいとか、整理整頓とか、掃除とか、ゴミ出しとか、本当に何でもいいので!」
「償いをと言っているのに、どうしてあなたに雑用のような事をさせなければならないんですか!」
「今、もちろんって言いましたよね?」
「ぐ、そ、それはそうですが、何かしたいのは僕の方なのに…」
「それそれ。何かしてもらってばかりで心苦しいんです。仕事ください」
「意味が分かりません」
「分からなくてもいいから仕事ください仕事! しっごっと! しっごっと!」
拳を上げてアピールする。こういうのは勢いも大事だ。
「奇行はやめろ。そもそも、あなたは仕事に疲れていたんじゃないんですか。どうしてまた仕事なんてしたいんです」
どうして、うーん。確かにどうしてかと問われると…。
「そうですね…。私、今まで介護なり家事なり仕事なり、常に何かすべき事があったんです。でも今思えば、それが自分の存在を支えてもいたんでしょうね。人に必要とされる事で自分を保っていたといいますか…。あの、だから、今は、大した仕事もしてない自分が何故親切にしてもらえているのか…。渡り人だからだって頭では解っていても、どうにも心から納得できなくて…」
はあ…。ザコルに溜め息をつかれる。
「座敷牢での生活が天国だと言っていませんでしたか…」
「あの時は……。少々疲れが溜まっていましたからね」
「いや、少々の疲れなんてものではないでしょう。あなたはご自分で思う以上にボロボロだったはずです。ハコネや医者からは、身なりは清潔だが、極度に痩せていて、隈も濃く、髪や肌は乾燥し、いわゆる衰弱状態であると報告を受けていました。いざ面会してみれば……まあ、正直思ったよりは元気そうで安心しましたが、顔色を見るに、無理はさせられないと思ったものです」
「そっか、実はあれで心配してくれてたんですね…? ふふっ、師匠に心配されるなんて相当ですね」
今更だが、そんな酷い顔色を見せていたかと思うと恥ずかしいような気持ちが湧く。誤魔化すように冗談を言って笑えば、はあ、と溜め息で返された。
「失礼な、僕だって目の前の人の心配くらいはします。ミカは、普段の考え方もできなくなる程度には疲れていたんですよね。僕も任務があると解決するまで寝ずに突っ走ってしまうので、身に覚えはありますよ」
「解決するまで寝ずに…? いやいやいや、単身戦闘区域に乗り込んで軍隊一つ壊滅させてくるような人とは同列にできませんよ」
デスクワークと戦闘職では疲労の種類が全く違うと思う。共通項は寝不足くらいだ。
「しかし、あなたも仕事が原因で衰弱していたのでしょう。職種はよく分かりませんが、自分の時間と体力、精神力を削られるという点では同じことかと」
絶対違うと思うが…。まあ、これ以上どちらがより社畜か議論などしていても仕方ない。
「そうですね、今更ですが、心配してくれてありがとうございます」
ぺこ、と軽く頭を下げれば、ザコルは首を軽く傾げた。
「ミカ、もしや何か仕事に心残りでも?」
「心残りは特に。…あの時は、何とか三日くらい徹夜して資料だけは仕上げた所でした。完璧な出来だったと思います。でも明日プレゼンという所で喚ばれてしまったので、営業の中田には申し訳なかったです。まあ、中田が取ってきた無茶な短納期の仕事の一つだったんですけどね。あれ? 十五連勤も全部中田のせいだった気がする。申し訳なく思わなくてもいい気がしてきた」
「エイギョーのナカタとやらがあなたに無体を働いた事は解りました」
中田、私に仕事振れなくなって困ってるんだろうな。いや困れ。一度くらい困り果てろ。さすれば成長もするだろう。
「とにかくですね、何か仕事をくれないとそろそろ鬱になります。さあ命じてください。肩揉みでも何でも!」
両手わきわき。
「ま、待ってください。僕があなたにそんな真似をさせたらアメリアお嬢様に何と言われるか…! オリヴァー様あたりにはきっと社会的に抹殺されますから!」
「そんなに物騒な事になります!?」
ただの肩揉みで!? …あ、肩揉みは一歩間違えたらセクハラか。私は大人しく両手を膝に置く。
「あなたはそろそろ自分の立場を自覚してはどうですか。あのご姉弟は本気ですよ。主様や奥様も大概ですが。テイラー伯爵家は絆を大事にすると言えば聞こえはいいですが、愛の重さでは有名なご一家なんです。一度懐に入れた者を害されたら、地の果てまでも追われると噂されるくらいで」
「地の果てまでも…!?」
「この屋敷、貴族出身の者が少ないでしょう」
「はあ、確かに。伯爵家の方と師匠以外には見たことないですね」
アメリアの元乳母だというダンスのコーチは男爵夫人だったが、今は屋敷に住み込んでいるわけではない。
「テイラー伯爵家は裕福で王家や他の高位貴族達からの覚えもめでたいですから、取り入ろうと集まってくる貴族の関係者も多くて軽々しく懐に入れられないんです」
「何と、それは世知辛い」
「昔から伯爵領に根差した、ある意味で由緒正しい平民階級の系譜がいて、代々伯爵家の露払いをしています。これは割と知られた話なのでお話ししておきます。ただ僕も詳しく知らされていませんので、誰がどのような力を持っているかなどは」
「露払い…日常会話で初めて聴きました。あの、私は? その系譜の方にどう思われているんですかね?」
私など伯爵家に寄生する虫そのものではないか。抹消リストのトップテン入りとかしていたらどうしよう。せめて放逐くらいで手を打ってもらいたい。
「あなたは例外です。この世界で何のしがらみもない渡り人なのですから。最初こそあなたを主家の方々から遠ざけるよう徹底していたようですが、魔法さえ安定してしまえばあなたは謙虚で賢明な人だ。思い切り可愛がって世話を焼くに、こんなに都合のいい人はいません」
「私、もう可愛がられるような歳じゃないんですが!?」
「歳は関係ありません。あなたがたとえ子供でも老人でも、きっと大事にされた事でしょう」
……そうかも。私がたとえ性悪オババとかだったとしても、何となく普通に世話してもらえた気がする。
「あれ? 何か私の自己肯定感が下がった気がするんですけど」
「勘違いしないでください。しがらみがなければ誰でも可愛がってくださるというわけではないですよ。あなたが謙虚で賢明、そして愛を返せる人だから伯爵家に認められたんです。それにあなたは実際に可愛らしく」
「ヒッ……」
「何で悲鳴を!?」
コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。部屋にいたメイドが対応してくれる。
「サカシータ様、ホッター様。旦那様と奥様、オリヴァー坊っちゃまがご到着なされたようです」
「え、昨日の今日で!?」
いくら何でも早すぎないか。アメリアから片道二泊はかかる距離と聞いてたのに。
「夜会は一昨日の予定でしたから、昨日の昼までに早馬の報せを受け取ってすぐに発ち、休憩をほとんど挟まずギリギリの速度で飛ばせばこれくらいに着く…かもしれないです」
なるほどね。
愛が、重い。
その言葉の片鱗を見た気がした。
つづく
愛が重いというか馬の脚が速いです