慰問
「ちょっと目を離すとこれだよ。何すかその顔。また返り討ちに遭ったんすか?」
「うるさいエビー」
「解釈違いのお顔だと思っておりましたがミカ殿と出会われてから引き出された新しい表情だと思うと何だか胸が熱くなりますね」
「タイタは早口で一体何を言っているんだ」
「ねえねえ顔見せてくださいよー。二人は見てるのにずるいです」
「ミカは自分の足元でも見ていてください。つまづかないように」
ザコルに手を掴まれ、後ろ手に回されたまま歩く。
これから町長であるマージを訪ねるつもりでいる。部下代表の男性とピッタにも声をかけるつもりだ。具体的にどう人々を入浴させたものか、合理的なアイデアは全く思いついていないが。
大勢の人を一度に入れるのなら大浴場並みの浴槽を一から作るしかない。それか、樽に貯めて手桶で汲み出して使ってもらうか。せっかくなら湯船に浸からせたいが、体を洗ってからお湯に浸かる方が衛生的だろう。そうなると大きな浴槽も樽もどちらも必要になるのだろうか。
自衛隊の災害支援のようにビニール製の浴槽やタンクやポンプ付きのシャワーなどがあればいいが、そんなものはあるわけがない。有りもので使えそうなのは家畜用の大きな水飲み用の水槽くらいだが、そんなものを避難民の浴槽として持ち出すわけにはいかないだろう。
町長屋敷の近くまで来たらやっとザコルが手を離してくれた。その頃には元のスンとした顔のザコルに戻っていた。
玄関に向かうと、精悍な男達と山の民リーダーが屋敷の中からぞろぞろと連れ立って出てきた。
「おう、ザコル様にミカ様だな。俺らに任せろ。突貫で作ってやるぜ!」
「えっ、何を」
「ザコル様、ミカ様。お目にかかるのはお久しぶりでございます。今回のことは我々の警戒が緩んだばかりのことで、誠に申し訳ありませんでした。この失態、必ずや挽回してみせます」
精悍で快活な男達と、腰を折る熊のような山の民リーダー。
「いえ、僕がいながらの事ですので。むしろ僕が不在の間ありがとうございました」
「ザコルの言う通りですよ、山の民のリーダーさんが謝る事は何も。で、あの、すみません、何を作るんですか?」
「詳しくは奥様…いんや、もう町長だったな。マージ町長に聞いてくれ。急いで取り掛からなきゃならねえ」
「他の山の民の男達を集めて先に行っております。西側の森でいいですね」
「ああ、あの辺りはどうせ間引きしなきゃならねえ若木がまだある。俺らもすぐに行く」
「ザコル様、ミカ様、また後程。御前を失礼いたします」
そんな会話を交わした後、男達はそれぞれの目的地へと足早に去って行った。
町長屋敷から使用人が出てきて出迎えてくれる。何度も出入りしているので、多くの使用人が顔見知りだ。あちらも私達の顔を見るなり笑顔になって、どうぞどうぞと案内してくれた。
執務室にはイーリアとマージが優雅にローテーブルを囲み、お茶を飲んでいた。
「ザコル様、ミカ様。護衛のお二人に、同志村の代表者の方々。おはようございます。昨夜は大変な事でございましたね。皆様お怪我などはありませんか」
マージが立ち上がって一礼する。モリヤや集会所にいた女性たちから報告を受けているのだろう。
「おはようございますマージ様。こちらは誰も怪我はしておりません。ご心配とご迷惑をおかけしました」
「ご無事ならば何よりですわ。町に曲者の侵入を許しました事、深くお詫び申し上げます」
お互いに頭を下げる。
「謝罪はその辺でいいだろう。山の民が差し入れてくれた薬草茶だ。朝方、森で摘んだものを煎じたそうだ。ミカも飲むか?」
「素敵ですね。いただきます」
私が勧められるままに一人掛けソファーに座ると、使用人が湯気の立つポットからカップに黄金色の液体を注いでくれた。爽やかな苦味に、柑橘っぽい香りがふわりと広がる。レモングラスとか、その類のハーブかもしれない。
同志村の二人にも椅子とお茶が勧められ、護衛三人は私の後ろに立った。
「ザコル様、領境を無断で侵した者については町外れの牢に留めてございますわ。今朝までに三人。一人毛色の違う者がおりますが、うち二人は恐らく昨日捕らえられた者達の仲間でしょう」
正規の手順で門をくぐっていない侵入者は問答無用で捕らえられているらしい。
「そうですか。では、後で確認させてもらいます」
「おっしゃってくださればいつでも案内させますわ。同志村にある荷馬車の中身もそちらに移送しましょうか。門の外では警備にも不安がありますから。もちろん関与する人間には緘口令を敷きますので」
「ではお願いします」
マージの申し出はもっともだった。
モリヤが衛士の一人を見張りにつけてくれているとはいえ、暴れたら皆も怖いだろうし、もし教徒の仲間みたいなのが助けにやってきたりしたら同志村の人達が危険に晒されるかもしれない。
秘密をしっかり守ってくれると言うなら、きっとそちらの方がいいんだろう。
「それから、何かの資料らしき紙が礼拝堂近くの小道に落ちていたようですので回収させました。ここに」
使用人の女性が執務机の上から、角がくたびれて土や足跡もついた紙束を持ってくる。
「あーっ、タイタの反省文!!」
「えっ」
後ろに立つタイタから声が漏れる。
「ありがとうございますマージ様! 後で回収に行こうと思っていたんです!」
「ミ、ミカ殿! 今すぐ燃やしましょう!!」
「嫌だ。今度こそ大事に包んで失くさない。写しも作る」
「何をおっしゃっているんですか!? こ、こちらにお渡しください!! お願いでございますから!!」
言い募るタイタを放置し、枚数を数える。
「はー…よかった。全部ある」
「ミカはその紙束がえらくお気に入りですね。僕が代わりに燃やしましょうか」
「駄目です。燃やしたら三日三晩、いえ半年は泣きます。ああーこの無駄な美筆が愛しい! おかえり反省文ちゃん!」
私は紙束に頬擦りし、大事に大事に肩掛け鞄へと仕舞った。
「ミカ様、イーリア様よりお話は伺いました。お力をふるってくださるそうですね」
「はい。もっと早くからお力になれたら良かったのですが…」
「いいえ、隠されていたご事情はもっともだと思います。それに、今回ふるってくださる力は昨夜目覚められたものとお聞きしましたわ。決してご無理はなさらないでくださいませね。わたくし、知り合いに魔法を使える者がおりまして。力に目覚めて直後は加減が解らず、使いすぎて気を失った事があると聞いたことがありますの」
「えっ、魔法士の知り合いが?」
「はい。とは言っても、小さなつむじ風を起こせる程度の力で、国に仕えるような魔法士にはならなかったそうですが」
そうか、魔法が使えるからと言って、誰しもが国に仕えているわけじゃないのか…。
「あの、私、これまで他の魔法士にお会いした事がなくて。本やザコル様の知識頼みでずっと手探り状態だったんです。今までは氷しか作ってきませんでしたが、まだ気を失ったことはありません」
「ミカには、練兵場に巨大な氷塊を毎日のように作れるくらいの力があるのは解っています。真夏だというのに、全部溶けるのに朝までかかる事もありましたね。昨日も樽五個の水を温めたり凍らせたりを繰り返していましたが、それくらいでは何ともなさそうでした」
夏の間、毎日のように魔法の検証に付き合ってくれていたザコルが補足してくれる。
「何と、それはなかなかの力だな。私の故郷にも魔法士はいたが、起こせる奇跡はもっと小規模だった。しかし、大人数の入浴となれば必要な湯量はかなりのものだろう。気をつける事に越したことはない」
そう言うイーリアの祖国は大国だ。魔法士の数もそれなりにいたんだろう。
「そうですね。熱湯を作る力が氷結の力と同じような消耗具合で済むかどうかもまだ判りませんし、充分注意して試していきます。しばらく検証にご協力いただけますか、町長様」
「もちろんですわ、我が町で存分にお試しくださいませ。先程、りんご箱職人に木で大きめの浴槽を作るように指示いたしました。山の民も木材の調達に協力してくださるそうですわ。材料が揃い次第取り掛かると思いますので、形などにご要望がありましたら早めにおっしゃってくださいませ」
りんご箱職人とは、さっきの男達がそうだったのだろう。昨日の荷馬車にも積まれていた出荷用の木箱を作っているのは彼らだったのだ。日本でも、青森などの林檎の産地では林檎専用の木箱を作る職人がいると何かで読んだ事がある。
「それは頼もしいです。木工のスペシャリストが協力してくださるなんて。湯船の形については私も悩んでおります。なるべく効率のいいやり方や構造があればとは思うのですが…」
「それでは、こんなアイデアはいかがでしょうか」
マージが提案してくれたのは、まず浴槽となる大きな木箱を作り、その周りに湯が巡る水路のようなものを作る。その水路から湯を汲んで体を洗い、洗った者から浴槽に浸かるという仕組みだった。同志村から連れてきた二人もなるほどと頷く。
「畜舎の飼料や水は、そのように路を作って横に流す事で効率化しておりますので。ミカ様は浴槽に浸からせる事にこだわりをお持ちと聞きましたから、まず数人が入れるような大きくて丈夫な木箱、すなわち浴槽をとと指示してあります。それができましたら、水路を作らせてみてもよろしいでしょうか?」
「はい! もちろんです!」
現状、それ以上のアイデアなどない。
「場所は、まずこの屋敷の庭をお使いになってはいかがでしょう。我が家の浴室では、怪我人や病人の入浴も一部行っております。介助している使用人らの意見も参考になるかもしれません」
「ぜひ! あ、それなら、浴室で少し魔法を試してみてもよろしいですか? 現状、どうしても熱湯しか作れませんので、差し水の加減などを確認しておきたいのです。入浴される方がいればお手伝いもいたします」
「お湯を沸かす事だけでもご助力頂けたら使用人の負担がかなり減ると思いますわ。ありがとうございます、ミカ様」
「いいえ、私自身、この力を試してみたくて仕方ないのです。氷を作るだけよりずっと実用的な能力ですし。私の場合魔法を使わないと魔力酔いのような状態になって心身の調子を崩しますから、大々的に使える方が助かるんです」
今日からもう魔力酔いに悩まなくていい。イライラや大泣きが回避できると思うだけですごく気が楽だ。
「まあ。それでは苦労なさったでしょう。今までどうなさっていたのです?」
「例えばこの執務室では、暖炉の上のやかんを凍らせたりしていました。溶けたらまた凍らせるんです」
大泣きしても解決…という話はとりあえずしないでおく。涙に関する事を言及しては、また叱られてしまいそうだから。
「それであの大きなやかんが暖炉の上に残されていたのね。こんなに白湯が必要だったのかしらと不思議でしたのよ」
「この屋敷で一番大きなやかんをと、僕が執事に頼みました」
ザコルの補足にマージが納得したように頷く。
「町長…マージ様、発言をお許しいただけますか」
エビーが礼儀正しく声をあげた。
「もちろんでしてよ、エビー様。わたくしは貴族の生まれではないわ。気楽にしてくださって結構よ」
「いえ、町長様すから。俺の方こそ敬称なんていらねえっす。魔法が使えるお知り合いは、気を失われた後どうされてましたかね。自然に起きられたんでしょうか」
エビーは私がもし魔力切れで倒れたらどうすればいいか分からないと気にしてくれていた。
「恐らくね。わたくしが直接見たわけではないけれど、その方は過去の笑い話としてお話ししていたから。深刻な事にはならなかったのではないかしら」
「ありがとうございます。少し安心しました。あ、でも積極的に倒れないでくださいよ、ミカさん」
「分かってるよ。ありがとうエビー。体調が崩れたりしたらすぐに言うから。その時点でどれくらい使っていたかも把握できたらした方がいいね」
「それは僕が見ていますよ。調査係ですから」
ザコルがいつもの調子で言う。
「ふふふ、そうでしたね」
彼の任務はそもそも、私の能力と召喚の謎を調査する事だった。
「それで、同志村の皆さんには目隠しと風よけのための天幕かテントの設営をお手伝いいただきたいのです。今でも充分支援していただいているというのに、図々しいお願いになるのですが…」
マージが同志村の部下二人に向かって頭を下げながら言った。
「いいえ、元より避難民入浴のお手伝いはするつもりでしたので。我々としても張り切らせていただきますよ。しかし湯を沸かすのに魔法を使われると言うのは予想外でした。目の前で魔法を見せていただけるかもしれないなんて、この支援に同行して本当に良かったです。なあ、ピッタ」
部下代表の男性がピッタに話を振る。部下代表、確か名前をカファといった。
「はい! かの深緑の猟犬様にもこうしてお会い出来ましたしね。若頭が毎日のように語るので私達もどんどん詳しくなってしまって。ここ最近は猟犬様に加えてミカ様の話も頻繁にしていましたから、どんな素敵なお姫様かと…」
「お姫様!? ちょっ、同志は一体私の事をどんな風に語っ…いえ、いいです! 何でもありません!」
しまった、墓穴を掘りそうな事を訊いてしまった。
「何だ、いいじゃないか、ミカ。私も聞きたい。話してくれないか」
イーリアがニヤリとして言った。意地悪そうな顔すら美しすぎて目に毒だ。
「ミカ殿あなた様がザコル殿のしごきを耐え抜き王族にも靡かずそれどころか殿下のザコル殿に対する暴言に怒ってやり込め後からザコル殿の経歴を知っても全く態度を変えずザコル殿が子爵領へ行くとなったらセオドア様に頭を下げてまで懇願し女性の身でありながら過酷な旅への同行を強く望んだという武勇伝は」
「工作員は黙ってて」
早口で流れるように語り出したタイタを止める。
「そうそう、ここ一週間くらい、うちの工作員…いえ若頭も同じような内容を何度も何度も唱えておりましたよ」
カファが苦笑しながら言った。ピッタも頷いている。
「黒髪黒目のとても美しいお方だとも聞いていて。お目にかかれるのを楽しみにしていたんです!」
「それは期待を裏切って申し訳」
「裏切るだなんてとんでもない!! 被災下でろくにお手入れもなさっていないでしょうに、それでこの肌! 艶々の髪! 光を失わない瞳! 品のある立ち振る舞い! 慈悲深く、それでいて気さくな面もお持ちで! なんて、なんて尊い存在なんでしょうか…!! 私は一瞬でミカ様のファンになりました!」
いや、何でだ。そこに比較にならないような美の化身がいるだろうが。イーリアをちらっと見たら極上の流し目を寄越された。そろそろ私は爆散しそうなのでその目で見つめるのはやめて欲しい。
大体、私の肌の調子が変わらないのは自己治癒能力のせいだし、髪が艶々なのはロクに洗えていないせい、つまりは脂のせいだ。
「お世話係は他の商家の女達も交えて争奪戦でしたが、最後は腕相撲で決着をつけました」
「腕相撲で!?」
「いざという時にミカ様をお守りできる力があった方がいいに決まっていますから。私がミカ様にお恵み頂いたお湯は、他の者に見られたら嫉妬で殺されそうでしたので隠して使うのが大変でした」
「それは、かえって大変だったね、申し訳」
「いえ!! ミカ様が手ずから魔法をお掛けになったお湯ですよ。ありがたいに決まっているじゃないですか。頂いたからには一滴残らず私が使いましたとも。心なしか肌や髪の調子が良くなったように感じます」
「まあ。そんな効能が?」
マージがぱっと表情を輝かせる。
「いえ、そんな効能は全く確認されていませんからね。ですが、マージ様がご入浴なさるなら喜んで沸かします。この後いかがですか」
「あら本当に? 仕事も落ち着いているし、お言葉に甘えようかしら。ですが、イーリア様が先ですわ。よろしければわたくしがお世話いたします」
「そうか、ではそうするとしよう。検証第一号だな。お前と一緒に風呂に入るのは久しぶりだ、マージ」
女神と一緒に、お風呂に入る…?
「ミカ様、わたくし実は、子爵邸で働く使用人の一人でしたのよ。イーリア様の身の回りのお世話もよくしておりました」
余程私が疑問に満ちた顔をしていたのだろう、マージが解説してくれる。
「お前は何でもしてくれたな。着替えから鼠取りまで。二十年前、ドーランの元に嫁ぐと言い出した時はどうなることかと思ったが。案の定、あの男はお前におんぶに抱っこだったようじゃないか」
「あの人は私に一生お世話されて呑気に暮らしていればよかったのです。それに玄関口を守るのは使用人の務めですわ」
ふふふ、とマージが上品に笑う。あ、この人、いわゆるダメ男製造機では…。
「優秀なお前が嫁がなければ、違う者を次期町長に指名していた所だった。結果的にお前に全て任せる事になってしまったがな。苦労をかけてすまない」
「町長夫人として、少しでも領に貢献できたのであれば望外の喜びでございますわ。この町こそは私の子供、誇りなのです」
マージは胸に手を当て、穏やかに微笑んだ。
「…そうか、幼い頃にリア母様に拳骨を喰らうドーランを見た記憶があったのですが、きっとマージを娶る事になったタイミングだったのですね」
ザコルが納得と言った口調で言った。今、リア母様って呼んだ? 子供時代はそう呼んでたんだろうか。かわいい。吐きそう。
「そうだろうな、マージと既成事実ができたから娶りたいなどと言い出したので、あの男ごと証拠を隠滅してやろうかと思ったのだ。あのボンクラ、いつの間にうちの可愛いメイドに手を、と」
美人の殺気エグい怖い死にそう。
「義母上、ミカが怖がっています」
「ああ、すまない、ミカは相変わらず勘がいい。マージはあの男がいいのだからと、ザラミーアに窘められたので許してやった」
「イーリア様、夫は今どうしておりますでしょうか」
「もちろん下流の町で働いているさ。民家の泥の掻き出しを喜んでやっている」
「そうですの。たまにはいいですわね。帰ってきたら褒めて差し上げなければ」
マージは再びにっこりと笑った。
◇ ◇ ◇
「うーん。水とお湯は三対一くらいかなあ。外は寒いからもう少し熱湯が多くてもいいかも」
町長屋敷の浴室で、洗濯桶を使ってお湯と水を混ぜ、適温となる割合を模索する。
大体の割合が分かった所で本番、付き添いで来たザコルに手伝ってもらい、浴槽にお湯を溜めてみる。この屋敷の浴槽は陶器製なので、貯めた水を直接熱湯にしても浴槽自体が傷む心配をしなくていい。
「木製の浴槽や桶で何度も熱湯を沸かしたら木が傷みますかねえ」
気になっていた所だ。どんな木材を使うのかにもよるかもしれないが。
「ミカありきの期間限定の入浴設備なのですし、長持ちさせる事は考えなくてもいいのでは?」
「確かに。細かい事は気にせずガンガン沸かした方が効率いいかもしれませんね。そうだ、一応祈っておきますか。肌綺麗になれー色々治れー元気になれー」
こんなのでニキビの一つでも良くなれば儲け物だ。
「…何となく、洒落にならない効能を付与しそうだからやめましょう」
「大丈夫じゃないですか? 今まで、私が作った氷を口にした人から何か言われた事はないですし」
ザコルは首を横に振った。
「無意識のうちに何か変化があった可能性もなくはないですよ。エビーも氷が病みつきになるなどと言っていたじゃないですか」
「氷の冷たさは一度知ってしまうと病みつきになるものです。私も冷たい飲み物が無性に飲みたいと思ってたんですよ、そしてカップが凍ったわけですが…」
「暑くなり始めの頃でしたね。珍しくホノルが狼狽して飛び込んできて驚きました。そして今回はお風呂に入りたいあまりに湯沸かしですか。あなたの動機は慎ましやかと言うかなんというか…」
「ふふ、生活感たっぷりですよね」
私が沸かした熱湯に、使用人達が水を差して適温にしてくれる。やはり水と熱湯は三対一くらいがちょうど良さそうだ。途中で冷めた時のために差し湯用の熱湯も用意し、脱衣用の部屋で待機していた使用人に声をかける。
「さあ、イーリア様達をお呼びしてください。私達は執務室でお待ちしております」
使用人が二人を呼びに行ったので、私とザコルは浴室を後にした。
執務室に戻る途中、そうだ、と思い立ち、怪我人の世話に奔走する使用人に声をかける。
「忙しいのに呼び止めてごめんなさい。発熱したり、炎症で患部が腫れたりしている患者さんはいませんか。冷やす手立てがあるのですが」
「冷やす手立てですか…。それでしたら、最上階に重症の者が集中しております。ご案内しましょうか」
「いえ、最上階に行ってそちらで声をかけます。ありがとう」
忙しそうな人に道案内させるわけにいかない。
この町長屋敷は三階建てで、浴槽のあるこの階は一階、執務室は二階だ。最上階である三階は本来町長夫妻のプライベートスペースのはずだが、寝室を重傷者に明け渡しているとマージからも聞いている。
「マージ様、昨日ちゃんと寝たのかな…」
「さあ、仕事は落ち着いていると言っていましたが。昨夜は僕達がゴタゴタを起こしてしまいましたからね」
「そうでした。イーリア様もきっと夜中に起こしてしまいましたよね。それなのに朝早くに駆けつけて下さって…私は寝坊した上タラコになってて…」
「く、ふ…っ、思い出させないでください」
「ザコルにウケたなら何よりです」
ザコルと二人で三階に上がる。お湯を沸かすだけだからと、エビーとタイタは執務室で待たせてある。早く戻らないと探しに来るかもしれない。
三階で世話をする使用人を捕まえ、洗面用のタライや桶などの容れ物と水を用意してもらう。キューブ状の氷を大量に作って満たし、その様子に驚いているメイドに託した。どうにか活用してくれれば嬉しい。
「遅かったすね、いちゃついてたんすか」
執務室に入るなりエビーの冷やかしに遭った。
「違うよ、お湯を沸かした後、氷も作って三階にいたメイドちゃんに渡してきたんだよ。せっかくだから看病に使ってもらおうと思って」
部下代表とピッタは、テントや天幕の用意をするために同志村へ戻ったようだ。
「ミカさんもあのお二人の後に入浴してきたらどうすか。自分で沸かせるんですし」
「そんな、悪いよ…」
浴室にただの水を運ぶだけでも大変そうだった。
「ミカ、あなたがお風呂に入りたいと願って得たような力なのに、当のあなたが入らなくてどうするんです。昨日もあまり洗えなかったでしょう」
「ザコル殿の言う通りすよ、昨日はかえって体冷やしたみたいですし、ちゃんと温まってきたらいいじゃないすか」
「ミカ殿、浴室の外はしっかり警備いたします!」
護衛三人の後ろでは、部屋の隅の方に控えていた使用人の女性もうんうんと頷いている。遠慮し続けるのも悪い気がしてきた。
「じゃあ…そうね、もし入るのならザコルにはできるだけ離れててもらわないといけないから、警備は主にタイタとエビーに頼むことになるけど…」
「どうしてザコル殿は離れる必要が?」
タイタがキョトンとした顔をする。
思えば、タイタはチッカの広大なスイートルームからの同行だ。パズータでは心神喪失して朝を迎えていたから、知る機会が無かったのかもしれない。
「あのね、ザコルの耳が良すぎて、今までトイレからお風呂から、全ての音を隣の部屋で聴かれてたんだよ、私」
ぐるん、とタイタがザコルの方を見る。
「その目は何ですかタイタ。耳がいいだけなので仕方ないでしょう。ミカに指摘されてからは、入浴するというタイミングでできるだけ距離を取っていましたよ」
「脱衣所で服を脱ぐ音を聴き取ったタイミングで、でしょ」
タイタが私の肩を持ってスススとザコルから離す。ザコルの顔が険しくなる。
「…タイタ、ミカを離しなさい。そもそも、君は僕とミカの同室を勧めていたじゃないですか」
「あれが護衛として正しくなかった事は認めます。しかし隣室から淑女の立てる音を全て聴き取っているなどとは…うちの母が聞いたら卒倒いたします」
タイタは元お坊ちゃまらしい事を言った。
「それに俺は勘違いしておりました。猟犬殿は人との触れ合いに苦手意識をお持ちなのだと。ミカ殿がそれを少しずつ解いていく様を思い描いておりましたが…。むしろ、ミカ殿へのスキンシップは激しめでいらっしゃいますし、それに、それに、あの尋問時の卑猥さたるや……っ」
タイタがすうう、と息を溜めた。そして、
「ミカ殿には、まだ早い‼︎」
そう言い放った。
◇ ◇ ◇
「全く、ザコルは尋問で何をしているのやら」
「卑猥だって事は確かすね」
「卑猥…」
「ミカさんに対してはほんっとヘタレなんすけどねえ。卑猥な変態の癖に」
結局、タイタはザコルを見張るだのと言って執務室から動かなくなったので、エビーを連れて浴室に向かっていた。執務室に控えていた使用人は準備のため、先に報せに行ってくれている。
イーリアとマージはもう上がって髪や肌の手入れなどをしているらしい。二人とも湯に浸かるのは久しぶりだったようで、とても嬉しそうだったと通りすがった若いメイドが伝えてくれた。
「エビー、他に何か吹き込んでないだろうね、彼に」
彼とは、タイタのことだ。
「何の事すか。確かに距離を取るとヘコむとは言いましたけど。意図が伝わりませんでしたよねえ」
エビーがへらりと笑って答える。
「しらじらしい…。あの子はそんな気ないんだよ。そんな風に仕向けられてると知ったら『解釈違い』だって苦しむのはあの子なんだからね。やめてあげて」
「ミカさんが可愛がってるんじゃないすか、きっとあっちも満更じゃないと思いますけどお?」
「私は経験積ませた方が自信につながるかと思って連れ回してるだけだよ。ていうか私、こう見えてそういう気持ちや下心には敏感な方だからね」
「ホントかよ…」
どうも馬鹿にされているようだが、そういう勘には自信がある。
彼の場合、私相手よりも、よっぽどザコル相手の方が脈アリに見えるくらいだ。
「ザコルも彼を可愛いって言ってたしね。その関係を崩すのは私にとっても『解釈違い』ってだけだからさ。ね? エビー」
隣を歩く青年に笑顔を向ける。
「そのニコォはやめて! もう、ホンットに何にも仕込んでませんから!!」
「分かればいいよ」
釘を刺せて丁度よかった。あの可愛い彼とはこれからもザコル推し仲間でいたい。
脱衣室で服を脱ぎ、用意されていたガウンを羽織って浴室に入ると、見知った使用人の女性達が水の入った桶を持って待っていた。
「あれ、私にはお世話はなくても…」
自分で湯を沸かして差し水して勝手に入るつもりだったのだが。
「そんなわけにいくもんですか。ミカ様を隅々まで磨いて差し上げるように奥様、いえ町長より言いつかっております」
「さあミカ様、この浴槽の水に魔法をかけてくださいまし。その後はわたくし達にお任せを」
後ろからガシッと二人がかりで腕を掴まれる。
「え、え、ええええええ」
女性達の圧には逆らえず、私は生まれて初めて入浴介助のフルコースを受けたのだった。
全身を隈なく洗われてマッサージされ、肌と髪にいい匂いの香油を擦り込まれ、水気をしっかりと取りながら髪を梳られ、髪を複雑に編み込まれ、軽く顔に粉をはたかれ、マージが若い時に着ていたという若草色のワンピースを着せられ、見事に令嬢然と仕上げられた私が鏡の中に立っていた。
「これが…私…?」
定番のセリフが口をついて出る。
全身を人に世話されたのはホノルにドレスを着付けられた時以来の事だ。それでも入浴の介助までは頑なに断ってきたので、隅々まで磨かれるとこんなに見た目が整うのだなと心から感心してしまった。
「ミカ様はどんなお姿でもお美しゅうございますがね。お世話すればもっともっとお綺麗になるでしょうにって話していたんです」
「そうですわねえ、このお屋敷ではもう、お若いご令嬢をお世話できる機会はなかなかありませんもの。念願叶ったような気分ですわ」
「なんてお可愛らしいのかしら。嫁いでいらした頃の奥様を思い出すわねえ」
「あのドラ息…いえドーラン様にはもったいないって、皆が口々に言って」
「何があろうとも私達だけは奥様のお味方でいようと一致団結しましてね」
世話してくれた使用人のマダム達は大盛り上がりだ。彼女達は今や町長となった奥様、マージの味方であるらしい。
マージはこの町が誇りだと言うが、マージもまた町の人にとっては宝物のような存在なのだろう。何せ、あのドラ息…いやドーランに嫁いできてくれた奇跡の嫁だ。
「この若草色のお召し物も懐かしいわ。確かイーリア様からの結婚祝い品の一つでしたわね」
「なっ、そんなに大事なものなんですか!? 私が着ていいものですかこれ!?」
マージが避難民に供出せず大切にとっていた一着だ。それなりの品だろうと思っていたが、嫁入り道具じゃないか。
「他ならぬ奥様がご自分ではもう着られないから着ていただきたいと言うんですよ。どうか今日はこれで町を回ってくださいませんか」
「今日だけ、奥様と町の者を喜ばせると思って」
「ね、ミカ様。ミカ様にしかできませんわ」
「ミカ様」
圧がすごい。
「わ、分かりました…。どのみち、町の様子は見たいと思っていましたから…」
「ありがとうございます! イーリア様と奥様、それにザコル様がお待ちですわ」
「ザコル様の反応が楽しみですわね」
「いえ、どうでしょう。私が着飾ったからって自発的に褒め言葉が出てくるような人じゃありませんけど…」
服装に関しては、促すかねだるかしないと褒めてくれない。
が、別にそこに不満がある訳ではなく、ザコル自身が服に無頓着なので仕方ないと割り切っている。
皆を待たせているならば早く行こうと、手荷物をまとめ始めた。さっきまで着ていた服は洗濯に持っていかれてしまったのか見当たらない。
「はあ、ザコル様にもミカ様はもったいな…」
「シッ! それ以上はダメよ」
「噂に聞いていた程酷くはなかったけれど」
「せめて髪を整えていただきたいわ」
「そうね、イーリア様から言っていただきましょう」
コソコソ話がやけにはっきり聴こえる。最近少し耳や目が良くなったような気がするが、長らく電子機器や都会の喧騒などから離れているせいだろう。自己治癒能力とは多分、関係ないはずだ。
「うわ、ミカさん、めっちゃくちゃ綺麗ですよ! やけに時間がかかってると思ったら! いやあ、役得っす。髪も服も印象違っていいすねえ、肌の透明感がすげえわ。え、マジでこんなに綺麗になります? 普段だって充分可愛いのに。お姉さん達さすが、職人技すねえ!」
使用人マダム達に伴われて廊下に出ると、護衛に立っていたエビーが開口一番で褒め称えてくれた。
「そうでしょう、そうでしょう。私達が磨いたんですよ!」
「エビーさんは素敵ね。うちの娘の婿に来て欲しいわ」
マダム達に気に入られてる。
「ありがとうエビー。相変わらず褒め上手だね」
「いや、事実ミカさんは可愛いし綺麗っすよ。さあ行きましょう。猟犬殿の反応が見ものっす」
このチャラ男、結局どっちの味方をしているつもりなんだろう。
「エビーまで何言ってんの…」
解っているつもりなのに、そこまで言われたら期待してしまうじゃないか。これでザコルの反応がイマイチだったら気まずいからやめてほしい。
「不安そうな顔して。反応がイマイチだったらケツ蹴り上げてやりますから安心してください」
「もー、そこまでしなくていいよ」
「なーに照れてんすか、可愛いなあー」
「調子に乗るのもいい加減にして」
エビーを睨みつける。
「へへ、その顔は全然怖くないっすよ。ザコル殿も、怒ってても蔑んでてもミカさんは可愛いって言ってましたし? …まあ、あのニコォは別モンすけど」
確かに、ザコルは私が機嫌悪く当たり散らしたとしても怒らず気遣ってくれる人だ。いくら服装に無頓着だろうと、私に興味がないわけではないくらいのことは解っている。
浮ついたような不安なような、そんな気持ちが少し落ち着いた。
「…行こっか。待たせてるしね」
「はい。その荷物持ちましょう、お姫様」
エビーが私が抱える鞄とコートを取り上げる。服にシワがつく前にマージとイーリアにこの姿を見せたかったので、お言葉に甘え、執務室まで持ってもらう事にした。
ノックをして執務室の扉が開くと、そこには輝かんばかりの女神が二人いた。
「うっ眩し…っ」
イーリアとマージが美しすぎて眩しい。
それはそうだ、二人とも被災下で何のチートも持たずしても美人だったのに、磨かれて整ったらその比でなくなるのは当たり前だ。私ごときが何を浮ついていたんだろう。急にこの若草色のワンピースに対して申し訳なくなってきた。
「おお、ミカ、なんという美しさだ。よく似合っているぞ、なあマージ」
「ええ、なんてお可愛らしいの。想像以上ですわ」
女神達が下々の私に無相応な褒め言葉をくださる。いたたまれない。
「そのワンピースも喜んでいるに違いないわ。あなた達、素晴らしい仕事ぶりよ」
マージが、私の後ろについてきた使用人達にも声をかけた。
「光栄でございます」
使用人マダム達が頭を下げる。
「マージ様、こちらの皆さんに私の世話をお命じ下さったと聞きました。その上、大事なワンピースまでお貸しくださって。感謝申し上げます」
「ミカ様ったら。わたくしがそのワンピースを着たあなた様を見てみたかったんですのよ。勝手をいたしましたね」
「いえ…そんな」
「あれは私がお前に選んだものか、マージ」
「ええ、そうですわ。イーリア様に贈っていただいた一着です。あれを着て、初めてこの町の門をくぐったのです。今は亡き義父母も町の皆も、心を尽くして歓迎してくれました。ああここへ来て良かったと心から思って…っ」
マージが声を詰まらせる。イーリアがそっとその肩を抱いた。
「ミカ、今日はその姿を町の者達に見せてやってくれないだろうか。美しい聖女を一目見ればきっと皆の心も和む」
…そう言う美の化身イーリア様こそが慰問パレードでもすればいいのに思いつつ、このワンピースを見せて回る事に意義があるのだろうと思い直す。パステルカラーでAラインなこの服は、れっきとした大人の女性である二人が着るには少々デザインが若すぎる。実年齢より童顔に見えるらしい私が着るしかないのだろう。
「承知しました。町の皆様にとっても大事な思い出の一着でしょうから、しっかり披露してきます」
モデルが私で心底申し訳ないが、喜んでもらえるように頑張ろう。
「おい、ザコル。お前も何か言ったらどうだ。ザコル?」
イーリアが私から視線を外して呼びかける。
さっきからタイタと並んで立つ姿は目には入っていたが、ずっと真顔で無言だ。
彼は女性のファッションなどには特に疎い。何をどう褒めればいいのか分からなくなっているに違いない。イーリアが責め出す前にフォローしなければ。
「ザコル、マージ様がお貸しくださったんです。素敵な色でしょう」
「え、と…」
「ほら、裾の刺繍がとっても精緻で。マージ様と背格好が近くて良かったです。このブーツとの相性も良くって」
伯爵夫人サーラに借りたブーツは私が入浴しているうちに誰かが手入れしてくれたらしく、久しぶりにツヤを取り戻していた。
「そ、の…」
「レースも手が込んでて見事だし、着心地もいいんですよ。イーリア様のお見立てが素晴らしいんですね。お若いマージ様にはきっともっとお似合いだったはず」
マージの髪色は温かみのある栗色だ。黒髪の私よりも柔らかい印象の彼女なら、この淡色のワンピースの魅力を最大限に引き出したに違いない。
私はくるっとスカートを翻してみせる。裾の刺繍とレースがふんわりと広がった。
「あ、の…」
ゲシッ。
と、いつの間にかザコルの後ろに回っていたエビーがザコルの臀部を蹴り上げた。
「何するんですエビー」
「早く何か言えっての。代わりにタイさんに言わせますよ」
「お、俺か? なぜ」
「駄目です! 中央貴族仕込みのタイタに勝てるわけないでしょうが!」
「解ってんならとっととあっちに行って手を取るとかしろこの馬鹿兄貴」
三人がコソコソ言い合っている。当然聴こえている。
「あの隣に立てって言うんですか、釣り合いの取れていない事が一目瞭然になるだけだ」
「だから団長にせめて髪と服くらい整えろって口酸っぱく言われてたんだろが。てか釣り合いなんざどうでもいいからいい感じの事言えって」
「いい感じの事って何ですか。僕はトンチンカンな事しか言えません」
「もー何開き直ってんだよ…。だからさあ、可愛いとか綺麗とか普通に」
「ザコル殿、花にでも例えてはいかがでしょう」
「花?」
「そうです、今の時期なら」
コソコソコソコソコソ。
「ふっ」
私が声を漏らしたので三人が一斉にこちらを見た。口を押さえる。大笑いしてしまいそうだった。
「ミカ、何を笑っているんですか」
「ふふ、ザコル…っ、伯爵邸でドレスを着た時は流暢に褒めてくれたじゃないですか。ホノルが台本を用意したんですっけ?」
「あ、あれは……そうです。ホノルに百回くらい練習しろと言われて」
「あんな美辞麗句は期待していませんから、何か言ってくださいよ」
「何かって…」
「それとも寝袋被ってる方がいいですか」
「それは……っ、そ、そんなわけ」
ザコルも思い出し笑いしそうになって口を押さえた。
「ほら、可愛いでしょう? ね?」
再びスカートを翻してみせると、ザコルが、はあ、と観念したように息をついた。
「……はい、可愛いですよ、あなたはいつだって」
「ふへ。ありがとうございます」
私としては非常に満足だったのだが、周りを見遣ると、イーリアと使用人マダム達の顔が険しい。
「どうやら教育が甘かったようだな。ザコル、髪を整えてこい」
イーリアが視線をやると、使用人マダム達がさっと頭を下げて行動を起こした。ザコルの両隣にサササと移動し、手の平で扉を差し示した。
「ザコル様。一階の浴室へ降りていただきますよう」
「お預かりしているお召し物の洗濯も済んでおりますから、お召替えもいたしましょう。少々埃っぽいご様子ですし」
そういえば、泥のついた猟犬コスチュームが一着屋敷で回収されていたな。
「ぼ、僕は、人に頭を触られるのが苦手で…!」
「ああ、それなら私が切ってあげましょうか。私には触られても平気そうでしたよね?」
「ミカ、助かりま…」
「ミカ様にそのような事をさせるわけに参りません。お分かりですよね、ザコル坊っちゃま」
ギン、と使用人マダムの一人に睨まれてザコルがビクッと肩を上げた。
「さあ、一階へ」
ザコルも女性達の圧には逆らえず、引っ立てられるようにして部屋の外へと連れて行かれてしまった。
◇ ◇ ◇
ちなみに。ザコルを待つ間、参考までに中央貴族仕込みだというタイタの美辞麗句が聞いてみたいと言ったら、
「ご、ご期待に添えるかどうか分かりませんが…。えー、コホン。…ああ、目が覚めるような思いでございます。まるで朝摘みの薔薇のような輝きだ。どうか今日という一日、麗しいあなたのお側に侍る栄誉を賜れますか、我が姫よ」
彼はそう言って跪いて私の手を取り、手の甲を額に近づけるようにした。所作も自然で洗練されている。
ほう、という溜息と共に拍手が起きた。お姉様方の評価は上々のようだった。
◇ ◇ ◇
戻ってきたザコルがノックもせず扉をガチャッと開けたのは、それから十五分も経たない頃。薬草茶をエビーとタイタの分まで淹れてもらい、皆で口を付けた所だった。
伸びかけてもっさりしかけたサイドと後ろ頭がスッキリし、目にかかる髪も短くなった。
「さっぱりしましたね、服もまるで新品みたいです。マントはどうしたんですか」
「マントは洗濯に持っていかれました。髪なんか切った所で釣り合うようになるとは思えないんですが…」
「素敵ですよ、ザコルの方がずっと」
「世辞は要りません」
すっかりムスくれている。
伯爵家を出立した日も、ハコネやオリヴァーにこんな感じで髪を整えられていたんだろうか。
「ザコル坊っちゃま。髪を切る時のあの形相は何ですか。子供じゃあるまいし。すぐ席を立つから細かい調整ができなかったではありませんか」
使用人マダム達も文句タラタラで部屋に入ってきた。
「苦手なものは苦手なんです。ハサミを突き立てられたら避けられないでしょうが」
お茶を吹きそうになる。
「一体何と戦ってるんですか。その形相、ちょっと見たかった…」
ザコルは彼女達から逃げるように、スタスタと私の傍らにやってきた。
「昔、王都で床屋に入ったら店の主人にハサミを首に当てられ、奥に連れ込まれそうになって以来生理的に無理なんです」
「え」
それって結構重めのトラウマじゃ…。
「ああ、王都に行かせた頃はまだお前も小柄で可愛らしかったものな。変な気を起こす者は王都にもいたか」
可愛らしかった、だと…? 私は横にいるザコルを見上げた。
「末の双子はな、我が最愛のザラミーアに似て天使のような愛らしさだったのだ。今は見る影も無いが」
「な、なななそこの所」
くわしく! kwsk…!!
「義母上。指示の通り警邏隊には行きましたけれど、その容貌のせいで追い返されたんですよ、僕は」
「そうか、それは思い至らなかった。しかしどうして暗部などに」
「それは酒場で……いえ、言いたくありません」
「何だ、話は最後まで言え」
ザコルがプイっとそっぽを向く。
イーリアの話を深掘りたいのは山々だが、ザコルが気の毒に思えてきてしまったのでやめた。
「ザコル、あの、茶化してごめんなさい、そんなに嫌な出来事があったなんて…」
「別に、きっちり不能に…いえ、自衛して再犯防止の措置までしましたから引きずっている訳ではありません。ただ、頭を触られるのだけはどうにも」
ザコルが頭を振り、不快さを飛ばすような仕草をする。
「そうだったんですね。そうとは知らず、以前は勝手に髪を拭いたりしてすみませんでした。あの時驚いてましたけど、大丈夫だったんですか?」
「深緑湖の宿でのことですか? 別に、あの時は頭を触られているのに不快感が無くて、逆に驚いただけです」
それを聞いてついほっとしてしまった。
「そう、我慢していたわけじゃないのなら良かったです。それなら尚更、次からは私が髪を切りましょうか」
「はい。今後はミカにお願いします」
ザコルのピリピリとした雰囲気が少し和らぐ。
「……ほぉーん、深緑湖ね。そんなに前から髪を触り合うような仲に」
エビーが低い声でつぶやくように言い、ズズ、と薬草茶を啜った。
「え、あ、違うよ!? あの時は成り行きで…」
慌てて否定する。イーリア達の前で語弊のある言い方はやめてほしい。
「護衛が僕一人だった関係上、仕方なく僕の入浴中に部屋で待ってもらった事があっただけです。ミカが当然のように僕の髪を拭き始めたのには色んな意味で驚きましたが」
ザコルが補足する。こっちこそ急に部屋に連れ込まれて驚いたと言ってやりたい。
「それはすみません、祖母の世話をしていた頃の癖で」
ばーちゃん、施設でちゃんとお世話してもらえているかな。
最近ずっとバタバタしていたせいか、祖母の事を久しぶりに思い出した気がする。
「ミカ様が慈愛深く献身的なのは、おばあ様のお世話をなさっていたからなのですわね」
マージが得心がいったように頷く。
「いえ、元はといえば全て、脚を悪くする前の祖母が私にしてくれていた事です。十歳で母が失踪した後、塞ぎ込む私に寄り添ってくれたのは祖母でしたので。祖母はよく、自分を憐れんだらお終いだよ、守られるんじゃなく守る側になれ、と言い聞かせながら私の髪を拭いていて…………そう、私は祖母という真っ当に育ててくれる人に恵まれました。祖母に返す事はもう叶わないかもしれませんが、恵まれた分は目の前の人達に還していきたいと思っているだけです」
ふと顔を ふと顔を上げると、皆がカップを置いて私を見ていた。
「ひい、あ、あの、すみません。私は決して自分が人より慈愛深いとか献身的だとはとても…」
急に気まずくなって皆の視線を手で遮る。
ザコルが自分の過去を語ったので私もつい昔の話題を出したが、何やら偉そうな事を言ってしまったような気がする。きっと比べ物にならない苦労をしてきたであろう歳上の人達を前に恥ずかしい。
「ミカの精神は尊いな。祖母君の金言、私も胸に刻むこととしよう」
赤くなる私に、イーリアが優しい眼差しを向けてくれる。大人だ…。
「自分を憐れんだらお終い、守られるのではなく守る側に。ええ、ええ。頷ける事ばかりですわ。おばあ様はきっと、ご自分にも言い聞かせていらっしゃったのね」
マージもそう言って微笑んでくれる。確かにそうかもしれない。
私の母は、当たり前だが祖母にとっては大切な子供なのだ。祖父…夫に先立たれ、最愛の娘も目の前から消えた。もう一人の子である叔母は離れた場所に住んでおり、ただ塞ぎ込む十歳の孫を前にして不安と孤独に苛まれたであろうことは想像に難くない。しかし、祖母はその不安を私に一切見せず、孫をたった一人で守り切った。
ザコルが私の傍らに腰を落とす。
「ミカ、寂しくありませんか」
その言葉に首を振った。
「寂しいわけないでしょ。私は恵まれています」
「そうでしたね」
私は自然と手が出て彼の短くなった髪を梳いた。
と、つい髪に触れてしまったことに気づいて手を引っ込めようとしたら掴まれ、再び髪の上に置かれた。
「ミカは触ってもいいんです。好きなだけ撫でたらいい」
「いや、犬かよ…」
エビーがそんなことを言うから、私はまた笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
はて。屋敷には避難民の入浴について相談に行っただけだったのに、何故だか綺麗な服を着せられて慰問に行く事になってしまった。
イーリアとマージ、そして使用人達に見送られ、町長屋敷を出ると太陽はもう真上に来ている。
もう昼食時だ。多くの人が腰を落ち着けている頃だろうから丁度いい。サクッとこのワンピースを見せて回って、汚さないうちに返そう。まずは集会所だ。
と、思っているのだが、町長屋敷を出てから通りすがった人に何度も呼び止められ、なかなか集会所にたどり着かない。特に、マージが嫁いで来た時の事を覚えているシータイ町民は、このワンピースを見て喜び、涙ぐみ、褒め称え、感謝しと、一連の感情をフルコースで表現しないと通してくれなかった。
「マージ様の人望が厚すぎる…」
「ミカ殿こそ。皆様に慕われておりますね」
ちなみに隣を歩くザコルは、避難民らしい男達に背や腕をバシバシと叩かれたりニヤニヤされたりしていた。
「僕はオマケだというのに…」
「まさか、ザコルはこの領のお坊ちゃんでしょ。むしろ私がオマケなのでは」
「本気で言ってるんですか」
ザコルが呆れたような顔をする。
「本気って、何が…? だって、ここはザコルの地元じゃないですか」
「着実に外堀が埋まっていますが、ミカは本当にいいんですか」
「そとぼり?」
「……まさか気付いていない…?」
ザコルの戸惑ったような顔が気になったが、またすぐに声を掛けられて話を続けることはできなかった。
そして、やっと辿り着いた集会所では大歓声で迎えられた。
「ミカ様お綺麗です!」
「ザコル様でかした!」
「おめでとうございます!」
「お幸せにー!!」
拍手が鳴り止まない。
町民も避難民も山の民もパズータの民も同志村スタッフも、皆が花びらを持って投げている。
…………オメデトウ、オシアワセニ?
「あー!! 外堀いぃぃ!?」
「今頃ですか…」
皆の手前、笑顔を保ちつつも絶叫するという器用な真似をしてしまった私に、ザコルの冷静な突っ込みが突き刺さった。
私の叫びは皆の拍手と歓声によってかき消された。
つづく




