穴熊達の望み② 彼らを愛していますか
昨日の普通が明日の普通じゃないの前後、修正しました。2024/10/20/17:45
イーリアは何と言っていただろうか。
いや、ザッシュが女見知りという以外何も聞いていなかったと思う。同じくザッシュからも何も聞いていない。
とすれば、穴熊が私に秘密を明かすかどうかは、穴熊の意思にかかっていたと見るべきか。イーリアやザッシュとしてはどちらでも良かったのかもしれない。
ただ、穴熊達の望み通りにと…………。
そして穴熊達は明かすことを選んだ。領外から来た私に。
「彼ら、随分と人生を諦観していたようですね」
「彼ら? ああ、彼らね。保護したのは僕とリアだからよく知ってるよ。彼らはもう、普通の幸せは諦めてるみたいだ。色々あったせいで、自分達と同じ目に遭う子はいない方がいいと思ったんだろう。狙われなかったとしても、あの力を持ちながら社会に馴染むのは難しい。僕は、静かに生きさせてやりたいんだ」
オーレンは自分の手を揉みながら、そこに目を落とした。
「オーレン様は、彼らを愛していますか?」
「愛? ふふっ、おじさん同士だよ」
「イーリア様は、領の民はすべからく愛しているとおっしゃいました。オーレン様はいかがですか」
オーレンは少しだけ困ったようなムッとしたような顔で私を見て、また視線を手に戻す。
「…もちろん。皆が悩みなく過ごせるのが一番だと思ってるよ」
「悩みなく、ですか」
「そうだ。僕はね、本当は、普通の幸せなんてものは信じてない。日本ではよく、結婚して子供をこさえて一人前、なんていうだろう。それが普通だって。じゃあ、苦労して捕まえた奥さんに逃げられた僕は一体何だったんだろう」
遠い目、そんな顔でオーレンは天井をあおぐ。
「こうしてこちらの世界に生まれて知ったことは、環境が変われば、結婚して子供を持てることは決して普通ではないってことだった。貧しさ、人口の少なさ、兄弟の何番目に生まれたか、男か女かってのもあるかな。正直、結婚や出産なんてしてる場合じゃないって人も多い。日本も昔はそうだったんじゃないかと思うよ。僕は明治以前や戦時中をほとんど知らないけれど、きっとね」
オーレンの産まれ年は、第二次世界大戦の終わり頃から戦後数年の間か。八〇年代にいい歳でサラリーマンをしていたならそれくらいだろう。
「そう思ったら、なんだ、あの『普通』は昭和のあの時代だけの普通だったんだって、急に馬鹿らしくなっちゃった。今思えば、あの頃の『普通』って贅沢だったよね。女性への贈り物や結婚式に大金を使って、靴や時計や車にこだわって、上司や同僚と毎日飲みに行って…。あれらはただ、贅沢や社交のできる自分達に浸りたかっただけじゃないかと僕は思ってるんだ」
少々極端だな、とは思いつつ、私は曖昧に頷く。
時はバブル、お金をパーッと稼いでパーッと使うことがステータスみたいな風潮も確かにあったのだろう。もちろん周りの評価どうこうに関係なく、心底楽しんでいた人もいただろうが。
「外に出て、たくさんの友人や、恋人を作った方が素晴らしい人生だ、っていうのも実は偏った考え方なんじゃないかな。少なくとも僕にはそう思えない」
それには黙って頷く。
私も日本にいる間、友人など多い方じゃなかった。多いのは同僚という名の知人ばかりだ。それでも、余暇は読書に没頭していれば充分楽しく生きられた。
しかし、やはりそれは寂しいとか、外に出て人と交流しないと人生損してるみたいなことをわざわざ言う人もいる。はっきり言って余計なお世話だが、逆もまた然りだ。私が彼らの生き方をどうこう言う資格もない。
大事なのは、押し付け合わず互いの違いを認めること。それも個性だよね、と。令和の今、学校教育や教育番組などでしきりに啓蒙されるようになったことだ。
ただ、オーレンの生きた昭和は、そういう多様性を重んじる時代とは言えなかったのだろう。啓蒙はされ始めていたかもしれないが、会社では女子社員が当然のようにお茶汲みをし、男は妻子の有無で一人前だ半人前だと揶揄され、上司や同僚とゴルフや飲み会に行き『うまくやる』のがある意味、社会のルールとされていた時代だ。
きっと、オーレンはそういう昭和の空気に馴染めなかった人の一人なのだ。だからこそ人にもそれを無理強いしたくない。みんな、あまり多くと交流せず静かに暮らした方が楽だろうと思って、家族や配下にも配慮している、ということか。
彼は異世界で、旧日本社会に蔓延っていたハラスメントと今も戦い続けているらしい。
「父上。僕も話していいですか」
ザコルがピッと挙手した。
「ああ、いいかなミカさん」
「ええ。もちろんです」
コホン、とザコルが咳払いをする。
「僕も、一人になりたいと思うばかりの人生でしたが、最近、考えが変わりました。どうやら僕は、精神が未熟だった上、周りに恵まれていなかったようなのです」
「周りに?」
「はい。人と関わるだけの情緒が育っていなかった僕にも責任はありますが、例えば人をこき使う無神経な上司、女そ…いや望まない変装や肉壁になることを強要してくる同僚、口先で褒めておきながら陰で化け物と罵る貴族、統率も何もあったものじゃない暗部のゴミども、僕に破壊活動をさせてみたいだけの王族に、頼んでもないのに表舞台に呼びつける王族。とにかく進んで会いたいと思える相手に恵まれてこなかった、と今になって思うのです」
王都はとにかく楽しくなかった、というのがよく伝わるスピーチである。
「テイラー邸やシータイで過ごした期間は僕の意識を変えました。特にシータイでは毎日が賑やかで、新しい出会いと発見ばかりでした。……全く変わった者ばかりで、戸惑いも大きかったですが」
ふ、と穏やかに笑った八男に、オーレンとザラミーアが目を見開く。
「僕を叱る者、揶揄う者、喧嘩腰の者、それから…心配する者、慕う者、感謝する者。色々いましたが、僕はどうやら、彼らと明日も会えなくなったことを……寂しく、思っているようなのです」
「まあ、コリー…」
ザラミーアが心配そうに眉を下げる。
「僕は最初、ミカが僕に『お友達』ができるたびに喜んでいた気持ちが解りませんでした。ミカを慕う者が増えるのも気に入りませんでしたし。ですが、彼らは僕らの平穏を心から願ってくれました。僕は、そんな善良で優しい人々との別れを確かに惜しんでいます。ミカも、いえ、ミカこそそうでしょう、あなたは聞き分けが良すぎるんです。もっとイリヤのように泣けばいいんだ」
傍らに跪かれ、膝に置いた手を握られる。思わず潤みかけた目をまばたきで誤魔化す。
「…ふへ、そんなこと言ったら本当に泣いちゃうからやめてくださいよ。私、寂しいですけれど、楽しみでもありますよ。オーレン様やザラミーア様のお話ももっとお聴きしたいですし、これからも知り合いは増えるでしょう。それに、シータイで仲良くなった人達との再会も楽しみです。今生の別れというわけではありませんから」
「……確かに。そうですね」
ザコルは立ち上がりながら私の髪に少しだけ頬擦りし、何事もなかったかのようにまた私の背後に立った。
「…うちの息子は、いつからそんなイタリアの男みたいになっちゃったの。昨日といい今日といい、人前で随分と見せつけるじゃないか」
「いたりあ? 別に、見せつける意図はありません。逆に、父上はどうして我慢するのですか? 夫婦なのですし、膝にでも入れてにおいを堪能しながら話せばいいじゃないですか」
ザコルはザラミーアを手で指し示しながら何でもないような風に言った。
「え、私を? 膝に? においを? オーレンが?」
指されたザラミーアの方が慌て出した。オーレンは苦笑する。
「ちょっと、そんなリアみたいなことしないよ。分かるでしょ、僕は日本から来たおじさんなんだ。おじさんは普通、そういうことをしないんだよ」
「ですが、ニホンでは馴染めなかったのでしょう。父上は人に『普通』を押し付けたくないと言う割に『普通』に縛られているように見えます。僕は『普通』という概念は先程会話に出てきた『都市伝説』とやらに似ていると思いました。一人一人、境遇も性質も全く異なるというのに、根も葉もない噂のようなものに踊らされ、わざわざ皆で同じ生き方をするなんて全く非効率です」
「ああその通りだ。だからね、僕は誰も無理をしないように考えて」
「言っておきますが。父上のように一人が楽な者もいれば、孤独でかえって病む者もいます」
「えっ、孤独で病む?」
そんなの初めて聞いた、とばかりにオーレンが目を点にする。
「はい、ロット兄様はそう言っていました。山中では孤独のあまり鎧を話し相手にしていたようですが、シータイで気楽に話せる相手を得てからは、ずっとあの鎧を脱いだままでいます。ナカタとも冷静に話し合えました」
冷静に…。何か後半はちっとも冷静でなかった気もするが、とりあえずカズは振り向いたようなので良かったと思う。
「まあ、ロットさんが? オーレンがどうせ市井になんて馴染めないから山にいる方が幸せなんて言うから、私てっきり…」
「そ、それは、ロットは僕に似て肝の小さいところがあるし、傷つくくらいならその方が」
「父上、ロット兄様は父上ではありません。ロット兄様の幸せをどうして父上が決めるのですか。孤独も仕事ならば割り切る必要があると思いますが、そうでない我慢をさせてきた自覚を持った方がいいです」
「我慢…。僕、ロットに我慢させていたのかい?」
「そのようですね。ナカタに病的な執着をしたのもそれが理由でしょう」
「僕の、僕のせいだったってことかい、全部、そんな…!」
オーレンが頭を抱えてしまった。
「ちょっと、オーレン様ばかり責めないでくださいよ。ロット様だっていい大人なんですし、お互いに話し合いが足りなかった結果でしょう?」
私が割って入ると、ザコルはフンと鼻を鳴らして引き下がった。
「ザッシュ様がちゃんと、全てはオーレン様のお気遣いであると伝えていらっしゃいましたよ。ロット様はご自分が期待されていない存在だと思い込まれているようでしたが…」
「そっ、そんなことないよ!! 期待できない者にアカイシを任せるものか!!」
オーレンが焦ったように顔を起こす。
「はい。それも、ザッシュ様が誤解を解いてらっしゃいました。それにこれからはカズがいますから、もう孤独になんてさせてもらえないでしょう」
何なら滅茶苦茶束縛される未来が待っている。南無三ッ。
「でも、カズちゃん、ロットさんから逃げ出してしまったでしょう」
ザラミーアが悩ましげに片頬を指先で撫でる。
「それがですねザラミーア様、実はカズも普通の結婚出産に強い忌避感のある子でして。貴族で、第一夫人の息子であるロット様の気を引くことに罪悪感のようなものを持っていたみたいなんです。ロット様のことは好きでも、結婚や出産の義務は受け入れられない。それではロット様のためにも、サカシータ家のためにもならないだろうと考えたようです」
「ああ…なんてこと! あの子、あの明るい笑顔の裏でそんな風に悩んでいたのね、思い至ってやれなくて申し訳なかったわ」
「それもザッシュ様が、今のサカシータ家は孫世代も既にいるし、ロット様のことは好きにすればいいと。それでカズも納得したみたいです。彼女が急に積極的になったので、ロット様の方が逃げ出そうとする始末で」
「まあ。ふふ、押すと逃げ腰になるのはやはりオーレンにそっくりねえ」
ザラミーアは再び表情を和らげ、微笑んだ。
「私、カズとロット様が仲直りしてくれたことが本当に嬉しくて。人の恋バナ…恋愛話なんてかけらも興味なかった私がですよ。不思議な感覚です。私も元は会社と家を往復していただけの引きこもり人生で、それに満足もしていたのに」
世の中に二種類の引きこもりがあって、どこにも行けない引きこもりと、会社に行けているだけの引きこもりがいる。私は言わずもがな後者の引きこもりである。
「…やっぱり、僕の感覚は普通じゃないと、君も言いたいんだね」
「いいえ。オーレン様のお話は共感することばかりです。業務外で強制参加させられる飲み会も、彼氏いないのか紹介してやろうかなどとしつこく絡んでくる輩も、早く絶滅しろと思っています」
ガタ、オーレンが椅子から腰を浮かす。
「…それ! 本当にそれだよ! 親切のつもりかしらないけど、人が離婚したからって、すぐに別の女紹介してくれようとするの何なんだろうね!? また裏切られたらどうしようっていう僕の不安な気持ちは、ぜーんぶ無視だ!」
「ええ、ええ。押し付けって本当によくないですよねえ」
「全くだ! 男は妻子を養って一人前とか、その歳なら結婚してるのが普通とか、余計なお世話なんだ!」
うんうん、と私は頷く。
「それで、今世のオーレン様は妻子を立派に養い上げていらっしゃいますね」
「そっ、それは、今の僕が普通の男じゃなくて、貴族で領主だからそれが普通で」
普通じゃないからそれが普通で……
「…あれ?」
「オーレン様。普通という言葉は、もしや呪いの言葉ではないでしょうか」
「呪いの?」
「はい。私にも、普通でありたい気持ちはあります。ですが、今も昔も、自分が『普通』だとはどうしても思えないんです。昨日信じた普通が、明日の普通じゃないこともあります。普通じゃない私は、間違っているでしょうか」
まるで、巷にはびこる不確かな噂のように。『普通』は移ろい、人々を惑わし続ける。
「……間違ってなんか、いないよ。だって僕は『普通』なんて信じちゃいないんだもの。ああ、確かに呪いだ」
本当、都市伝説みたいなものだね…と、気の抜けたように彼は息をつき、いかにも普通の枠に収まっていない八男の顔を見上げた。
「で、何の話だっけ」
「はい。オーレン様、よろしければ外にいる彼、いえ、彼らの『今日』の意見を聞いてみませんか?」
扉の前の気配。彼らの気配は独特な感じがするのですぐに判る。最近、よく会う人の気配は何となく嗅ぎ分けられるようになった。
「い、いや、それは、だって僕、彼らにも我慢をさせていたんだろう? どど、どうしよう、怖い…!」
「オーレン、落ち着いてくださいませ」
ザラミーアと私が、途端に立ちあがろうとするオーレンの半纏を同時に掴む。
「どうかお待ちください。彼ら、命尽きるまでサカシータに恩を返すと決めているそうです。それは、オーレン様を変わらず心から慕っているからに他なりません。あの件、先に私に話したのは、あなたが釣れると考えたからだと思いますよ。オーレン様が自分達を大事にしてくださっていることに賭けたんです」
穴熊達はザッシュの指揮下にいるが、本当の主はサカシータ子爵オーレンとその妻達だ。義理堅そうな彼らならば、主への意見伺いは必ずしようと思うはずだ。その主が捕まればだが。
ガチャ。
うぉう!
(姫、あなた様を釣り餌にした覚えはない!)
「そんなあ、せっかく釣り上げたんですから、褒めてくださいよー」
思わずといった様子で顔を覗かせた穴熊の一人は、ノックもなしに扉を開けてしまったことに気づいて慌てて閉めた。
「彼らと最後に顔を合わせたのはいつですか」
「……じゅ、十年以上前、かな。だ、だって、ザッシュに任せてたし! それに僕は上司や社長っていう生き物が一番嫌いだったんだ! いい上司っていうのは、部下に顔なんか見せないものさ!」
「いえ、たまには顔を見せてくれませんと、何か相談や嘆願があるときに困ります」
「うぐう」
トントン、控えめなノックが鳴る。
ザラミーアが応じると、穴熊達がぞろぞろと入室してきた。ティーラウンジ的な部屋があっという間に狭くなる。
…というか、私の方にこんなについてきていたのか。数えてみると十五人もいた。
つづく




