病み上がり④ 公式聖女様万歳!!
「ずるい」
「何がですか」
「ミカは得意なことがたくさんあってずるいです」
「ザコル程じゃないですよ」
「まさか。僕が料理などできると思っているんですか」
「少なくとも林檎や芋の皮剥きとカットは常人レベルじゃないでしょ。煮込みとかはしたことないだけですよね」
謎の文句をつけられながら、私は残りの肉を煮込んでいる。
アメリアは刺繍や編み物に取り組むと言って侍女と騎士を引き連れて元食堂に向かい、イリヤは領民の子達と遊ぶ約束があるとかで一人出かけて行った。屋敷の目の前の畑に集合だそうだ。
「イリヤは大丈夫だろうか。ああ、心配だ」
ザッシュは心配しているようだが、マージやメイド長が止めなかったのだからきっと大丈夫なのだろう。
「ご安心くださいザッシュ殿。先程ミイ殿とゴウ殿も追いかけて行かれましたよ」
恐らくマージの影とか、そういう人もついていったに違いない。まあ、イリヤの実力を思えば彼の身には余程のことは起きないだろう。心配するとすれば建物の破壊とか、急な天候不順くらいである。
ちなみに、角煮を味見した料理長は調理場の隅でずっと号泣している。不味くて泣いているわけではなさそうなので放ってある。
「ずるい」
「まだ言ってる…」
「いんや、俺もずるいと思います。あれは美味すぎっす」
「エビーまで」
「そうでしょうエビー。僕はもう一生ミカに何かで勝つことなどないような気がしてきました」
「世界に名を轟かせる最終兵器が何言ってるんですかねえ」
ザコルの力は国が大金を積んででも欲しがるようなものだ。断じてお惣菜作りのスキルに並ばせるようなものではない。
「編み物だって、もう私が勝てるレベル超えてるじゃないですか」
「いいえ。結局はミカが考えたアミグルミが一番売れているんですから。僕は教わった通りに作っているだけです」
「私は馬車いっぱいには作れませんよ。それにあれはジョーさんの手腕です」
生み出したのは私で量産したのはザコルだが、買い手の購買意欲を刺激し、流行を作り出したのは紛れもなくピラ商会のジョーである。
「僕は、もう一生ミカのカクニとやらの呪縛から解き放たれることはないでしょう」
「そこは胃袋掴まれたって言ったらどうすか」
うんうん、エビーのセリフにタイタが満足げに頷いている。
「いいえ呪縛です。カクニを質に取られたら僕は従うしかないです」
「そこまで?」
どんだけ角煮が気に入ったんだろう。
「うーん、醤油が手に入ればもっと本場の味に近づくんですけど…」
「ショウユ、とはどんなものですか」
「大豆を発酵させた、黒くて塩味の強い液体調味料ですよ」
「マージ」
ガコッ。
ザコルの呼びかけに、天井の蓋が開く。
「はい坊っちゃま。調べておきますわ」
「よろしくお願いします」
最強工作員も唸る、最強の情報収集力を持ったねえやが動き始めた。調味料の捜索ごときにオーバーキルではないだろうか。
ミリナに先触れを出し、許可が出たので訪問する。大勢で押しかけるのも何なので、ザッシュとエビタイには廊下で待ってもらうことにした。
「あ、コマさん。ここにいたんですね。鹿の角煮をお持ちしたんですよ」
「俺様の分もあんだろうな」
「もちろんです。鍋いっぱいに作ってきましたから」
じ…っ。ザコルがずっとワゴンに乗った鍋を凝視している。
「ザコルは二回も味見したでしょ」
む、と眉を寄せられる。子供か。
ミリナはベッドで半分身を起こして座っていた。どこか落ち込んでいるように見えたが、すぐに笑顔で私たちに会釈した。
「おはようございます、ミカ様、ザコル様。ミカ様はお元気になられたのですね、イリヤが喜んで教えてくれましたわ」
「おはようございますミリナ様。昨日やっと外出許可が下りたところなんですよ。ミリナ様は今日のお加減はいかがですか」
「今朝は、こちらでお世話になるようになってから一番調子が良かったのです。コマちゃんが散歩を勧めてくれて、皆さんにも用意をしていただいて、イリヤも庭で待つと楽しみにしてくれて……」
だが、着替えていざ立ち上がったところで目眩を起こしたために、心配した使用人達の手前、散歩は取りやめたということだった。
「まあ、単に寝すぎだと思うがな」
「寝すぎで目眩を起こしたってことですか?」
「ああ。あまり横になってるとな、平衡感覚が鈍んだよ」
「そんなことあるんだ…」
しかしあの過保護なメイド長はそうは取らないだろう。まだ安静にした方がいいとミリナを諭したに違いない。
部屋にいた魔獣達が声を上げる。ミリナが落ち込んでいるので、自分達が担いで外に連れてってやろうかなどと言っている。
「部屋でできる対策はないんですか」
「さっきから首から上を動かすようにさせてるとこだ。寝すぎが理由なら、耳管を振りゃ目眩も収まる。治らねえようなら他の原因を疑うまでだ」
コマは、ミリナの散歩に私を付き合わせるつもりだったらしい。私ならばミリナに半ば強引に風呂などを勧めるので、遠慮しいなミリナも世話を受けるだろうと踏んだようだ。
「ミリナ様、休憩がてらこのお肉を試食してくださいませんか。柔らかく煮えましたから、少しずつならミリナ様にもお召し上がりいただけると思います」
「まあ。ミカ様が調理なさったのですか」
「はい。野菜や果物ばかりでなく、肉料理に挑戦してみたい気分でしたので」
ミリナのために作ったなどと言うと恐縮させそうなので黙っておく。
「さっき皆にも試食してもらって、好評だったんですよ。イリヤくんにも褒めてもらいました」
「ありがとうございますミカ様。お忙しいでしょうに、イリヤの相手までしていただいて」
「いえ、遊んでもらってるのはこちらですよ。それに、鍛錬はあと三日禁止と言われてしまいましたからね。暇なのです」
まあ、とミリナがクスクス笑う。
鍋から角煮をよそっている間、魔獣達がザコルに寄っていって撫でられている。
「モフと推しの絡み尊すぎて吐きそう」
「吐かないでください。彼らは何と言っていますか」
今ザコルに頭を押し付けているのは、鹿型のナラと猪型のトツだ。以前ザコルが名を教えてくれたので覚えている。
「戦場では世話になった、撫でさせてやるからこれからもミリナ様の平穏のためにこの屋敷を守れ的なことを言ってます」
「そうですか…」
ザコルは一瞬撫でる手を止めたものの、ぐいぐいくる魔獣達の圧には逆らえず、撫でるのを再開した。
ミリナは、私が多めによそった角煮を全て平げて絶賛してくれた。コマはもちろんお代わりした。
「お昼までにお元気になるようでしたら、今日こそお風呂に入っていただきましょう」
「えっ」
「ああ、頼む」
遠慮しようとするミリナに代わり、コマが返事をする。彼がこうして素直に頼むなどと言うことは珍しいことだ。
ミリナの部屋を出ると、メイド長が深くお辞儀していた。
「少し食べ過ぎられたかもしれません。温かい飲み物を用意して差し上げてください」
いくら柔らかくても、脂っこいものだし胸焼けなど起こしてはいけない。
「初日以来、お肉はお出ししてもほとんど召し上がれなかったのです。ありがとうございます、ミカ様」
そう言われてはたと気づく。
ミリナは王都の屋敷にいる間、肉類などはほとんど食べさせてもらえなかった可能性が高い。一度酷い腹痛に見舞われた後では、食べ慣れないものは怖かったのではないだろうか。
「無理に勧めてしまいましたかねえ…」
「二口目からは自分の意思で食べていましたよ。常人がカクニを口にして正気でいられるはずありません」
それは個人の感想では…。というか、さっきから角煮を呪いのアイテムみたいに言わないでほしい。
「ほほ、食事にほとんど興味のなかった坊っちゃまがそうまでおっしゃるなら相当に美味しいのでしょうね」
「ええ相当です」
「今朝のパウンドケーキはどうだったよ兄貴」
「……ミカのせいで味に集中できませんでした」
メイド長も含め、ザコルあーん、の現場に居合わせていた全員が一斉に吹き出した。
◇ ◇ ◇
その日を含めた三日間は、大変平和なものだった。
…いや、私の見ていないところでは平和じゃなかった可能性もあるが、少なくとも私の周りは一見平和だった。
鍛錬は禁止だったが、二日目にはダンスの練習を再開した。皆が楽しみにしているのは分かっていたので、楽器のできる人に声をかけ、避難民達には事前告知もした。そのお陰もあって、私達が集会所にやって来ただけで大歓声だった。
いつも通り、タイタとアメリアが見本のダンスを踊ってくれた。優雅の一言、というか毎度バックに宮殿の幻が見えるレベルだ。
タイタ自身はよく分かっていなさそうだが、彼には密かにファンがついている。そんなファンのご婦人方からはうっとりとした溜め息がエンドレスで漏れていた。アメリアには老若男女の幅広いファンがいるので当然大盛り上がりだ。
ちなみにザッシュにも一緒に習おうと誘ったのだが、流石にハードルが高すぎたようで心神喪失しかけた。まあ、そんな話をしている横でアメリアも似たような感じでフリーズしていたので、私もその辺でやめておいた。
ザコルがダンスだけ不得手なのは変わりない。しかし、音感に問題があるということだったので、敢えて音楽無し、手拍子も無しで踊ってみたらまあまあできた。だが、音をつけてみるとやっぱりズレる。まあ、動きだけでも覚えられたのは大いなる進歩である。
「ちげえよ、何度でも言ってやるけどな、姐さんと手をつなぐせいでポンコツ化してんだって」
「でも、音を止めたらできたじゃない」
「音も苦手かしれねえけど、やあぁぁぁっっっっと照れに耐性がついてきたんだろ。どんな動きでも一度習えば完璧にトレースできんのによー、ダンスだけできねえのおかしいと思ってたんだよなあー」
「うるさいエビー!!」
集会所の前で雪玉がヒュンヒュン飛ぶ。ギャラリーも笑っていた。
ミリナの方は一日一回の入浴を習慣化出来た。
以前氷姫とかいう迷惑女が入浴後に貧血で昏睡した例もあり、初入浴後は慎重すぎるほど経過を観察されていたが、特に問題は起きていないそうだ。むしろ入浴後から食欲が増進し、目眩も治ったらしい。
次の日にはコマが付き添って屋敷の中を歩かせていた。自分の意思で外出できるようになる日も近いだろう。
「ミカ、明日は多分、母様がカリューから戻ってくるわ」
三日目の夕方、シシの診療所からの帰りにロットがそう声をかけてきた。
「衛士の格好がお似合いですね」
「嫌味!? あたし騎士団長なんだけどぉ!?」
相変わらずリアクションがお笑い芸人並みだ。
イーリアは結局、三日間カリューから帰って来られなかった。ここのところ午後から雪が強まることが多かったのも理由の一つだ。
「久しぶりにあの麗しいお姿が見られるんですねえ。ドキドキします」
「伝えたわよ。で、ミカ。あたしにもカクニ」
「さあミカ行きましょう」
「ちょっ、途中で遮んじゃないわよザコル!」
「うるさいです。罪人にくれてやる馳走などありませんので失礼します」
「罪人とは随分ね。さてはアンタ、義姉様が残したカクニ全部食べてんでしょ!?」
「まさか。味見に付き合っている程度ですし、義姉上が食べなかった分はイリヤに出されているはずです。あと、あのクソコマに…」
ギリィ…。悔しそうに歯軋りするザコル。意外にレアな表情だ。
「そんな言い方はよせザコル。コマ殿は義姉上の治療をほぼ無償で引き受けてくれているのだ。飯くらい良いものを譲るのが筋だろう?」
困った弟を優しく宥める人の好いザッシュお兄様。
「筋というなら、鍋と金の交換に応じるべきです!」
「断られたか。流石、コマ殿は高潔だ」
昏睡した私を診てもらったあたりから、ザッシュの中でコマの株が爆上がり中である。
確かにコマはいい人だ。が、断られたのは恐らく、コマにとっては金貨よりも私の魔力がこもった食べ物の方が価値が高かったというだけだろう。
「ザコル、人様に出した料理を鍋ごと金貨で買おうとしないでください」
「ですが!」
「冬が終わったら、その金貨で肉と甘味料をしこたま買いましょう。あなたのためにしこたま角煮作ってあげますから」
ぱあ、分かりやすくザコルの表情が明るくなる。
「約束ですよミカ」
「はい、約束です。ふふっ、うちの子はほんとに可愛いですねえ」
余程嬉しかったのか、ザコルが私を抱き上げる。私は少しモサついてきた頭をいーこいーこと撫でる。そろそろ散髪してあげた方がいいかな。
ああああああ、と雪の上でのたうち回るロットをエビーが宥めるのも恒例になってきた。
「推しが幸せそうなのが幸せすぎてつらいのです」
「解りますぞ執行人殿。毎日よくぞ至近距離で気を強く保っておられますな!」
薮から出てきて合流した同志達とタイタが語らっている。今日は夕食後、マージ主催の茶会、というか座談会が開かれるのだという。
「カ、カカ、カクニとやらの味が気になって気になって…」
「蜂蜜を大量に使うそうだね。魔法を使わないとなると、相当な時間煮込まないと肉が柔らかくならないとか」
「薪も食いそうですな」
「甘味料はお高くつくかもしれませんが、冬場に暖炉やストーブの上で作ればいいと思いますよ」
なるほどお! と同志達が拳をポンと打つ。角煮に限らず、こちらの一般家庭ではそんな感じで冬の煮込み料理を作っているのではと思う。
最近は、聴取のために呼ばれただけだったはずの辺境エリア統括者マネジまで白装束を着込み、町の至るところで出没するようになった。私には感知できないが、ザハリの心療を行っている洗脳班メンバーや、打ち合わせなどで訪れる臨時物販本部のメンバーもちょくちょく町に出ているそうだ。
領民はもはや彼らの行動は気にしていないし、何なら自然な感じで薮の中に話しかけたりしている。隠密と気配察知能力に優れた人々の高度なコミュニケーションである。
「ていうか大雪に負けない同志達ですよねえ…。誰も遭難してませんし」
「ああ、モナ領出身者はともかく、ジーク領からきた者達もかなり慣れたようだな」
「順応力の高さには僕も驚いています」
ザッシュやザコルが感心するほどだ。町に侵入しておいて凍死する曲者は後を絶たないというのに。
「推しがおわします土地に適応できぬなど深緑の猟犬ファンの集い古参会員の名折れ!!」
「むしろこの『雪国』こそは推しを育んだ聖地!!」
「なれば雪はもはや同志と呼べるのでは!?」
彼らの推しは、雪を『あんなのは邪魔、機動力が落ちるだけ』などと貶していたが。
「…コホン。雪合戦や雪踏みはいい鍛錬になりますので。少しは雪の価値を見直したところです」
「何より、姉貴が喜んでっしな、毎日飽きもせず雪の舞だーとか言って」
む、と黙るザコルをキラキラした顔で覗き込む同志達。
「くるくる回っちゃってかわいいもんなー。デレデレしやがっ」
「うるさいうるさいうるさい!!」
雪玉が飛ぶ。同志が倒れる。今日も通常運転だ。
遅れて、私はタイタの後ろに引っ込んだ。全部チャラ男のせいだ。
ザコルはあの謎の舞をかわいいと思って見てたのか……
「考えない考えない考えない」
「おやミカ様。何に照れておられるのですか」
「考えないなどとおっしゃらず是非とも言語化を! 我々に供給を!!」
「皆さん、同志相手にはほんと遠慮も何もないですよね…」
ここでいう『同志』には私も含まれる。
以前ザコルが、同志達が自分に遠慮して私には触れないようにしている、という話をしていたことがある。
最初はそうだったかもしれないが、今となっては『触れないだけ』だ。そこにはもちろん、伯爵家縁者もしくは魔法士や渡り人相手に不敬だとか畏れ多いだとかいう発想は一切ない。
仲間扱いされているとも言える。が、度々『推しから供給を引き出す人』扱いされていることからも、ザコルから珍しい表情を引き出す貴重な媒介か何かだと思われている節がある。
「供給を引き出す神、いやむしろミカ様こそ供給をつかさどる公式」
違った、公式だった。
「待って。ファンの集い本部っていうか、オリヴァーかタイタが公式でしょ? なんで私が」
「何をおっしゃる、我々は非公式団体ですぞ!」
何をおっしゃるはこちらのセリフである。最強でコミュ障な英雄を推しと崇める文化を作ったのもこの集いなら、今まで会員に向けて供給らしいことを行ってきたのも紛れもなくこの集いのはずだ。
「我々など、こうした機会でもない限り、推しに認知していただくことさえ発想になかったのですからな」
「はは、全くその通りです。今この時があるのは全て、ミカ殿が我々とザコル殿の間を縮めようと心を砕いてくださったからに他なりません。しかも非公式でしかない我々の存在を受け入れてくださったばかりか、ファンサをと、推し本人であるザコル殿に懇願までしてくださった。まさに公式、いや、『公式聖女』と呼ぶに相応しい」
「公式聖女!? 何それ一体どういう意味」
「公式聖女とは!! 流石は執行人殿、絶妙かつ素晴らしいネーミングだ!!」
「公式聖女様万歳!!」
ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!!
今日ここに、今度こそ全くもって意味不明な私の二つ名が爆誕した。
ずっと腹を抱えてヒイヒイ言っているエビーに、ザコルと一緒になって雪玉を投げつけながら町長屋敷を目指す。
「まあ、意味はよく分からんな」
「ほらあ、ザッシュお兄様も分かんないって言ってますよ!」
公式聖女の意味が分からないとさっきからクレームをつけているのだが、浮かれた同志達によって却下を繰り返されている。
「まさかまさか。これほどしっくりくる称号も他にありませんぞ!」
『公式聖女様万歳!!』
「うわーん全然話が通じないよおおお」
「泣かないでくださいミカ。ほら」
ザコルがいーこいーこと慰めてくれて少しは癒されもしたが、結局のところ、同志達を余計に興奮させただけだった。
ミカ様ー、と声がするので顔を上げると、屋敷の前の畑に幼児軍団の父親達が集まっていた。
彼らは、以前私が勝手に作ったスケートリンクの監視員を交代で務めてくれている。私が護衛隊に見守りを頼んでいたら、子供達のことだからと代わってくれたのだ。
「どうしました、氷が割れでもしましたか」
「実はそうなんだよ」
「えっ」
朝、一度表面を溶かして均したはずのスケートリンクに目を向ければ、確かに端から真ん中にかけて大きな亀裂が入っていた。
決してノコギリなどで地道に入れた亀裂なんかではない。何か大きな力が加わって割れたのは明らかだった。
「マジか…」
エビーが思わず言葉を漏らす。溶かした時の感覚では、氷は少なくとも五十センチ以上の厚みがあったはずだ。
「何かひずみでも生じたかな」
地面に接する雪までは氷にしていない。先に積もっていた雪の上に大きく分厚い氷の板が乗っているだけなので、不安定といえば不安定だ。氷自体かなりの重さだろうし、朝晩の気温差なども理由になりうるか……
「いや、違う。イリヤ様さ」
「えっ」
私が驚いて何か言うより早く、後ろに控えていたザッシュが一歩前に出た。
「そうだったか、甥がすまない。子供達は」
「あっ、心配しねえでくださいザッシュの旦那。こんな分厚い氷を物理で割れるなんざ、流石はサカシータ一族だ! って、子供らも俺らも感心しちまってよお」
ははは、と笑う父親達。
「それに、ガットがうちにあった鉄の棍棒を勝手に持ち出してったのがそもそもで…。危ない真似させちまって、こちらこそ申し訳ありません」
ガットの父親が頭を下げる。
つまり、ヤンチャな男子達が棍棒を振り回して遊んでいて、イリヤにも貸した結果こんなことになったらしかった。棍棒は小さな子が使うには長すぎる獲物だったようだし、イリヤも誤って氷に当ててしまったんだろう。
「イリヤ様にも、他の子供らにも怪我がなかったのはよかったんですが、どうにもイリヤ様本人が気にしちまってなあ…」
「子供らも慰めてたんだが…。俺らがもっと気ぃ配ってやりゃよかったんです」
棍棒を振り回しているのを特に止めもせず眺めていたらしい監視係の二人が申し訳なさそうにする。既に、それぞれの妻にめちゃくちゃ怒られた後だそうだ。
イリヤが大人を伴わず、一人で子供達に交じって遊ぶようになって三日。
今日は魔獣もついてきていなかったようだし、本人も周りも気が緩んだところだったのかもしれない。
あの賢く責任感の強い子だ、他の子に合わせて力をセーブして遊んでいただろうに、今頃失敗したと落ち込んでいることだろう。
「ザッシュお兄様、イリヤくんを呼んできてはくれませんか。ちょっとだけ、お手伝いをお願いしたいんです」
「あ、ああ」
何をさせるつもりかと問いたかったようだが、もう夕飯まで時間もないし、ザッシュは言葉を飲み込んで屋敷の中に走ってくれた。
「同志の皆さん、木に残っている大きめの葉を採って集めてきてくれませんか」
『御意』
こっちは何故と訊く気もないらしくシュババッと散った。
雪が積もるようになってから樹上の葉などほとんど落ちてしまっているが、まだ少しは残っている。あの人数で集めればそこそこの枚数にはなる。樹上は彼らのテリトリーだし。
「ミカさま!」
屋敷から物凄いスピードで飛び出してきた少年は、私の二メートルくらい手前でビタッと止まった。雪上をあのスピードで走れば、止まるにも相応の身体能力が要るはずだ。そんなところにも彼の資質の高さが窺えた。
「ミカさま…っ、あ、あの、ぼく…ご、ごめんなさ…っ」
少年は俯き、何とか謝罪の言葉を紡ごうとする。
「ふふ、やらかしちゃったねえ、イリヤくん。君には一つ、罰を与えます」
「ぇ…っ」
少年が息を飲む。罰という言葉にいい思い出なんかないだろうから当たり前だ。私を制そうとするザッシュを、ザコルが無言で止めた。
「罰はこのスケートリンクの修繕のお手伝い。でね、この際もっと良いものにしちゃおうかと思って」
「いいもの、ですか」
ミカ様ーッ、と早くも同志達が戻ってきた。腕の中には広葉樹林の葉をたくさん抱えている。
「さあ、君の絵心を見せてもらおうか」
◇ ◇ ◇
翌朝。
鍛錬がまだ終わるか終わらないかという早朝に集合した幼児達が、わあ、と歓声を上げた。
スケートリンクのど真ん中に、大輪の花が咲いていたからだ。
「すっげえ!!」
「はっぱだ、こおりのなかにはっぱがはいってる!」
「すごい、きれい、かわいい! おはなのかたちだあ!」
「きのうのヒビもなおってる!」
イリヤがスケートリンクで私を呼んでいる。満面の笑みだ。
氷の透明度もバッチリ、まるで水の中に葉が浮かんで時を止めているようにさえ見える。そこに朝陽が差し込めば葉形の影もでき、光の屈折と反射が織りなすきらめきとともに幻想的な眺めになった。
早朝、夜中に降った雪を溶かして表面を整えておいたかいがあったな、としみじみ思った。
つづく




