医者の秘密① このジジイの昔話を聞いていただけますかな
「魔法は禁止ですからね。今日という今日は」
ザコルが風呂場の前で仁王立ちしている。
「ザコルの言う通りですわ。また魔力を枯渇させかけたのですって!?」
アメリアもその隣でピョコっと仁王立ちしている。かわいい。
「何でもうバレてるんですか。でも、まだ充電も残ってると思いますし、お風呂沸かすくらい誤差ですよ誤差」
「じゅ、じゅうでん? は緊急時のみにしか使わせません!! 軽々しくあてにするんじゃない!!」
「いいじゃないですかあ」
「よくない!!」
ギャイギャイギャイ。
「ほほ、コリー坊っちゃまもアメリア様も手を焼いていらっしゃいますわね。お三方、入り口を開けて下さるかしら。今日はちゃんとこちらで湯を沸かしておりますから。アメリア様だけでもお入りになって」
振り返れば、マージとメイドの数人がワゴンに湯を乗せて運んできた所だった。
「マージ様! わたくしだけ入るだなんて…!」
「では、ミカも一緒にお入りになったら。アメリア様のお世話をしてみたくはないかしら」
「します」
「お姉様!?」
流石はマージだ。私を乗せるのが上手い。アメリアの世話ができるなどと言われたら断れるわけがない。
私は真っ赤になるアメリアを連れ、脱衣所でスポーンと服を脱いだ。
「さあさあ!! 私にそのふわふわのお髪を洗わせてくださいアメリア!!」
「何をおっしゃっておりますの! わたくしがお姉様のお世話をするのですわ!!」
「いやいや、絶対に私がお世話するんです!!」
せっかく服を脱いだのにバスローブをなかなか脱がないアメリアを浴槽近くまで引っ張ってきて押し問答する。
「ミカ様、お嬢様。私達がお世話いたしますから。お二人は浴槽にお入りください。冷えてお風邪を召しますよ」
結局、後からぞろぞろと入ってきたナーの一族…アメリア侍女四人衆によって私達は隅々まで磨かれる事になった。
入浴後、遅めの夕食をいただいていると、シシが訪ねてきたと先触れがあった。
「もう呼んだの。手際いいねエビー」
「帰ってすぐ呼んでもらったに決まってんでしょ。また無茶しやがって。そっちのじゅうでん? がどんだけ残ってるかも把握しといた方がいいでしょうし」
エビーは充電池、ことザコルの方を目で指し示す。
「こっちを見るな」
ザコルは半分タイタの後ろに隠れている。食器を見ればもう空だ。
「何今更照れてんすか。またあのオッサンに馬鹿にされんぞ。シャキッとしろシャキッと」
「うるさい! シシなんかにどう思われようと関係ない!」
「ザコル殿、エビーはあなた様が貶められるのが我慢ならないのですよ。ザコル殿には随分と世話になっておりますから」
そうタイタに窘められ、ザコルは渋々と自分の席に戻る。エビーも気まずくなったのか顔を逸らす。
「……世話になっているのは、僕の方だろ。エビー」
数秒の沈黙ののち、先に口を開いたのはザコルだった。
「んなわけあるかよ。あんたが鍛えてくれなきゃ、俺は一生ヘラヘラして鍛錬も適当にやってたはずだ。あんたが強えのは血筋もあるかもしれねえけど、並外れた努力の上にこそ成り立ってるんだって思い知った。俺はこれでも尊敬してんだぞ。そんな人をガキだの未熟だの言われて、頭に来ねえわけねえだろが!」
エビーはぎゅっと拳を握り込む。
「だ、だが、僕は、ミカの前ではガキも同然だ。お前だってずっと僕に怒っていただろう」
「当たり前だろ! こんなに大事に思われてるくせに、疑ったり、締め上げたり、拒絶したり、ホント散々だよな!! ミカさんのためを思ったら引き離した方がいいと何度も思ったぜ。でもな、あんたにしかこの人を捕まえられねえんだよ。この人は、あんたのためにしか生きてくれねえんだよ…!!」
「エビー…」
涙まじりで叫ぶエビーを見て、ザコルが呆然と呟く。
私は食べかけのスプーンを置いた。
「エビー、あまりザコルに背負わせないで。私も自分が重いことは自覚してるよ」
「ミカ殿…、そんな、重いだなどと」
タイタが咎めるような、どこか悲しいような顔をする。
「ううん、この世界の誰よりも重たい自信あるよ。でも、あまり重荷になりたくない気持ちもあるの。我ながら往生際が悪いって言うか…」
「ミカ、僕なら平気ですから」
「ミカさん、すいません、俺、また余計な事を」
私は首を振った。
「大丈夫、重くても受け止めてくれるって、ちゃんと解ってもいるから。…それに安心してエビー。これ以上シシ先生がザコルに失礼を働くなら、私がどうしてそんな事を言うのか締め上げて吐かせてあげるから。ね?」
ひゅ、何故か三人から同時に息を飲む音がする。
「ま、待ってくださいミカ! 僕がしっかりすればいいんでしょう! もう、もう馬鹿になどさせませんから!」
「そうですか? 別に、ザコルは馬鹿にされるような事なんて元から一つもないですよ?」
「いや、そりゃそうだけど姉貴が直々に手をくだす事ねえだろ、な!?」
「遠慮しなくていいんだよ。私ね、エビーがザコルのために怒ってくれてるのが本当に嬉しいんだ。別にあの能力だって唯一無二のものじゃないみたいだし、オーレン様にもそろそろ会えそうだし、君が不愉快だって言うならいつでも切り捨てて」
「わああ、俺が、俺が悪かったですって、もう絶対に先走ったりしませんからあああ!!」
はて、何を今更シシを庇うことなどあるんだろう。
彼をアテにしたのは、魔力を見る能力があったからこそだ。他にアテがあるのならもう、シシにこだわってやる必要などない。
「むむ、流石はミカ殿。ご容赦がない。して、あの能力が唯一無二でないとするのには何か根拠が?」
「すぐには名を明かせないけど、あの能力を持っている人が別に見つかったんだよ。うまく言いくるめれば味方にもできる」
「なるほど」
「えっ、そんな人がいつの間に見つかったんすか!?」
エビーが私を見て、そして説明を求めるようにザコルの方を見た。
ザコルは首を横に振る。
「ミカ、いくら何でもあの者をアテにするのは危険です。どういう行動に出るか、シシよりも予測がつかない」
「そうですかねえ、誰よりも裏表がないですし、ザコルが強く言えば実直に守ってくれそうでもありますけど」
「それでも危険です!! 今の所はシシを頼るので我慢してください。エビーも、いいですね?」
「はい、ってか俺が呼んだんだ。異存なんてないすよ!」
こくこく、エビーが頷く。
「タイタも」
「お二人のご意向に従わせていただきます」
ザコルが私をじっと見る。
「私はザコルに従いますよ。元より、あなたのために生きてるようなものですから」
そう告げると、ザコルははああああ、と息を吐いた。
コンコン、執務室のドアをノックすれば、中にいたマージが出迎えてくれる。
その向こうではソファーから立ち上がったシシが一礼した。
「こんばんは、先生。それから、今日はイーリア様もいらっしゃるんですね」
シシの背後に、執務机の椅子にどっかりと座ったイーリアが目に入る。
「ああ。今日も魔力を枯渇させかけたらしいな、ミカ」
ゴゴゴゴゴゴ…。イーリアの後ろから恐ろしげな効果音が聴こえる。
「ええ、薪の乾燥はできるようになって日が浅いですから。魔力をどの程度消費するかの目安が今回分かってよかったです」
きょと、私が圧に怯まなかったからか、イーリアは一瞬拍子抜けしたような顔をした。
私はにこ、と笑って返した。
「エビーから『いつでも補給できる』状態とお聞きだったのでは。だからカリューに行かせてくださったんですよね。なので、今回は想定の範囲内です」
エビーは、ザコルがしっかりしないとシータイを出られなかった、と言っていた。
どこまで詳細に聞いているかは判らないが、イーリアはザコルが私から魔力譲渡を受けられる事くらいは把握していたはず。
エビーは私達の『進捗』をザコルから聞いて把握していたはずなので、イーリアにジャムの効果を報告するついでに、どの程度魔力譲渡できているかについて言及していてもおかしくない。というか、その保険がなければシータイを出してもらえなかっただろう。
くっ、とイーリアが噴き出すように笑う。
「いよいよ肝が据わってきたな。だが、無茶を容認はせんぞ。途中走ってまで間に合わせたそうじゃないか。しばらくカリューでも語り草になるだろう」
「次にカリューに行けるのはいつかと考えたら、一本でも多くと思ってしまって。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「無事ならいい。無茶をさせたのには、途中から同席できなかった私にも非がある。すまなかったな」
「いいえ。私が好きでしている事です。今回も我が儘にお付き合いくださり、ありがとうございました」
そう伝えると、イーリアは少しだけ苦い顔をした。
これでも申し訳なく思っているのだ。彼女の立場では、私を強制的に働かせるような事は本来できないし、しかも私の無茶を知っていて黙認したとあればそれだけでもサカシータ側に責が生じてしまう。
だから、実際役に立とうが立たまいが、私が我が儘を言って無理に動いているていを通すのが一番円満である。それに、本当に自己満足なところもあるのであまり気にしないでほしい。
シシが発言許可を求め、イーリアが鷹揚に頷く。
「ミカ様。我が儘とはおっしゃるが……いえ。改めてご忠告申し上げておきましょう。魔力を枯渇させるのは本当に危険です。魔力とは生命力に等しいものだ。尽きるまで出し切れば命に関わる。幸いと言っていいかは分からないが、あなた様には翻訳能力が失われるというはっきりとした前兆があります。今後ともどうぞお気をつけくださいますよう」
「はい。シシ先生」
にこ。
「まあ。シシは本当に信用されておりませんわねえ」
おっとりと小首をかしげるマージ。愛想笑いが速攻でバレた。
「町長、そうおっしゃってくださいますな。私の不徳の致すところです」
もや。胸に何か嫌な感情が広がる。私は慇懃に頭を下げるシシからそっと目を離し、一礼を返す。
「とりあえず、診察をお願いしてもいいですか、先生」
「ええ、もちろんでございます」
シシはテンプレ通り、私のまぶたの裏や首筋などをそっと触って異常がないか確認し、体調の変化で気づいた事はないかと問診も行った。
一瞬言語が解らなくなったが、すぐに『補給』を受けて解決した事も正直に話す。シシは私の隣に座るザコルの方も見遣った。
「ふむ、ザコル様のお色を見る限り、まだ『補給』はできそうですな。どのように合意を取ったのですか」
どう合意を取った、と言って見つめるのが、私ではなくザコルの方向というのがまた気に障る。
「合意も何も、私達、元からそういう関係ですから。最近は拗らせちゃってたから苦労しましたけど、リハビリと称して少しずつ」
「お優しいですなあ…」
何が優しいんだと突っかかりたくなったが、我慢して飲み込んだ。
いかんいかん、こんな事ではすぐ喧嘩を売ってしまいそうだ。
「先生が何を思ってらっしゃるか知りませんが、無理強いしているのは私の方ですので」
「ええ、ええ。そういう事にしておきましょう」
これ、もしやわざと煽ってるんだろうか。だったらこの挑発に乗るのは慎重にしたほうがいい。他ならぬイーリアとマージの目があるからだ。
私達は彼を切り捨ててももうそこまで困る事もないが、この町の人々は違う。
サカシータでは、平民でも魔力が人より高い人が多い。それはコマやサーマル第二王子の言葉からも推測できる。そんな領の片隅にシシのような能力者が医師として常駐しているのは、まさに適材適所と言えるはず。
そんな得難い医師と私が大っぴらに対立したとして、イーリアやマージはどちらの肩を持ってくれるだろう。いや、迷うべくもない。間違いなく彼女らは私とザコルの味方をする。身分的にもそうせざるを得ない。
シシを頼りにしている患者がいる以上、私の軽率な行動で彼を退職に向かわせるようなことだけは避けねばならない。仮に、それを彼自身が望んでいたとしてもだ。
「ミカ様の魔力は、いつもよりかなり減っては見えますが、弱々しいという程でもない。これならば少々多少お泣きになったり、氷を作ったりするくらいならば平気でしょう。今日積み込まれていったジャムは圧巻でしたな。私の目には、荷馬車ごと光っているようにさえ見えました」
そんな風に見えていたのか…。あのジャム、関係ない病や怪我まで治しちゃうかもしれないな。変な尾鰭でもついたらどうしよう。
と、そんな動揺は愛想笑いの後ろに隠す。
「そうですか。皆さんのお手を借りてまで加工した甲斐があったというものです」
「この地に住まう民の一人として、同胞ため、お力を尽くしてくださる事にどう感謝申し上げればいいか。今日は何万本という薪を乾燥させてくださったとか。水害によって失われた冬支度の帳尻合わせとでも申しましょうか、ジャムに薪の乾燥と、言葉に聞くだけではその功績を理解できぬ者も多いでしょうな。ですが、この冬が終わった時、ミカ様の功績は必ず民の笑顔によって証明されるでしょう。あなた様は、魔法能力の高さもさることながら、その知識と先見の明とでも呼ぶべき発想力、想像力に得難いものがございますなあ」
「先生ったら持ち上げすぎじゃないですか。私なんて所詮、異世界から来た変な女ですよ」
ふふん、とシシは自分の顎を撫でる。
「いいや、あなた様を侮っては誰しもが痛い目を見る。こうして対峙していて、こうまで見透かされたような気になる相手などなかなかおりませんのでな。同じお年頃で言えば、第一王子殿下以来ですよ」
「第一王子殿下、ですか?」
シシの口から出た、予想外の人物に思わず声を乱しそうになる。あれ? 私はてっきり…。
「…少し長くなりますが、このジジイの昔話を聞いていただけますかな」
覚悟を決めたようなシシの様子に、素直に頷く以外に何の反応もできなかった。
◇ ◇ ◇
シシは、元は山の民出身の異能力者である。
と言っても顔立ちは一般的なオースト国人とそう変わりなく、こちらから言わない限り出自がバレた事はなかったのですがと、特に驚いた様子のない私に含み笑いを寄越した。
小さなつむじ風が起こせる程度の魔法士でもあり、その事実は当時のサカシータ子爵を通して王宮に報告してあった。魔力を視認できるという能力も含めてである。
オースト国では、どんなに弱い魔法能力でも、発現したら必ず国に報告する義務があった。山の民は自治区民なので本来は王国の法に沿う必要はないが、周辺への影響を考えて報告するのが慣わしだった。
シシが十六歳で成人を迎えた頃、シシに王宮への出仕を要請する手紙が当時の国王から来た。当時の王太子、すなわち現国王に魔力視認の能力が発現し、それが原因で王太子の様子がおかしくなった、同じ年頃で同じ能力を持つ者として、寄り添ってやってはくれないかといった内容だった。
基本的に、山の民がオースト王家の命令に従う義理はない。
というより、周辺の山派貴族と同じく、相互不干渉の取り決めがされていて、対外的な意味でも王太子の側付きなどを輩出したなどという実績は作れなかった。
当時から山の民を取り仕切っていたチベトは、周辺の山派貴族のトップを招集し、今回の要請について相談を持ちかけた。
実は、そうした不干渉の取り決めが法制化される以前に、現代から遡って三代前の王家には山の民、もとい元ツルギ王朝の姫が嫁いでいた。王太子に魔力視認の能力が発現したのは、明らかにその血によるものだった。
魔力を視認できる能力は、元々ツルギ王朝の王族とその近親に受け継がれていた固有能力、加護に近いものだったのだ。
元々、このツルギ山の山神に仕える神子一族を王家として繁栄したツルギ王朝は、特殊能力者や魔法士を多く輩出する事で興盛を誇った国だった。
現在山派貴族と呼ばれるサカシータ、モナ、タイラは、そのツルギ王朝を守護する騎士の家系に当たる。
数百年前に王朝が衰退し始め、代わるように勢力を増してきたオースト国に取り込まれたのは割と近代の話である。その辺りの歴史は、オースト国視点の歴史書には明確に記されていない。ただ現在も相互不干渉の取り決めが残り、山の民の自治権が脅かされていないところを見るに、全てオースト国側が有利に進めた話ではないことくらいは想像がつく。
血族による統治を行う部族や国にはままある事情だろうが、山の民の中でも近親の婚姻を繰り返した結果、まともな子が産まれにくくなった。
そこで少しずつ外部から人を取り込むようにした結果、長い年月をかけて魔力視認の能力を受け継ぐ者も減っていき、当代ではシシ以外にはカオラの姉でカオルの母、つまりシリルとリラの母方の祖母カオリのみとなった。シシはカオラとカオリの従兄弟でもある。能力の保持のため、歳の近いシシとカオラは婚約させられていた。
チベトは当時の山派貴族達を説き伏せ、シシを王家にやる事に決めた。それは決してオースト国のためではなく、山の民の血を色濃く継いだ迷える同胞、王太子自身のための決断であった。
既に婚約関係にあったカオラには告げる事なく、シシは十七の時に個人的な出奔という形で山を出る事になった。シシはその後、自分よりも三歳年下の王太子、現国王に寄り添い、能力との付き合い方を共に模索していくこととなる。
現国王は元々、人間関係を円滑に築けるような器用な性格ではなかった。現国王の能力はシシよりも強く、魔力を視認する事によって相手の気分まで推し測れてしまう程だった。すなわち、彼は陰謀渦巻く王宮の中にあって、相手の心がある程度読めてしまうという生き地獄に晒されていた。さらには思春期に突入し、人間不信になった彼を周囲は完全に腫れ物扱いするようになっていた。
シシの助力もあって無事即位まではしたものの、結局は執務などの義務からは逃げ続け、当時の宰相や王妃に全てを丸投げするような君主となった。
最初に王妃として嫁いできたカリー公爵家の姫は、国王とは幼馴染でもあり、彼の特性をよく理解していた。公爵家で淑女教育のみならず帝王学なども徹底的に学んできた優秀な女性でもあった。
国王は、彼女の魔力はいつも優しく安定していて居心地がいい、とシシにもよく話しており、公爵家から来た王妃の事を全面的に信頼していたそうだ。
国王が二十歳、王妃が十八歳で婚儀は上げたものの、なかなか子宝には恵まれず、第一王子が産まれたのは国王が二十六歳になった年であった。産後まもなくして王妃は体を壊して亡くなった。今際の際に息子をよろしくと頼まれた国王は、第一王子を最愛の妃の分身として大切に育てさせた。
国政に関しては、カリー公爵家から次期公爵となる長男が派遣され、宰相であったシュライバー侯爵とともに執務に当たった。そんな折、要職を持たないくすぶった中央貴族をまとめ、一派閥を築き始めたのがホムセン侯爵だった。
ホムセン侯爵は、自分の遠戚をたどり、隣のメイヤー公国から縁談を持ち込んだ。現王妃のエレミリアだ。
当時、シシは国王の側近という肩書きではなく、表向きは宮廷医師として働いていた。医学の習得は、シシがチベトとオースト王家に提示した出仕条件の一つだった。
シシは、国王の指示で第一王子が産まれた直後から主治医兼遊び相手として面倒を見ていた。魔力視認の能力がこの小さな王子にも受け継がれていると確信したのは、王子が三歳、そしてエレミリアが現れたのとほぼ同時期であった。
縁談の話に戻すが、国政を任せていた次期公爵や宰相シュライバー侯爵からして当然、反対勢力を助長しかねない話だった。国王は自分に変わって国を治めてくれる善良な彼らを信頼していた。逆に、悪意にも似た野心が透けて見えるホムセン侯爵は苦手で避けていたまであった。
しかしメイヤー公国の手前、会うくらいしなければ礼を失することになると他ならぬシュライバー侯爵に説かれ、渋々会うことを了承した。
まだ十七歳、年若かったエレミリアも歓迎されていないことくらいは感じ取っており、敵だらけかもしれない王室に、また十二歳も上の相手に差し出される事にも不満を感じていた。失礼な態度でも取ればていよく追い返されるかしら、いっそ修道院にでも送られた方がマシだわ、と、そんな風にすら考えていた。
かくして、人間不信の国王は元より相手の令嬢さえ望んでいない中、ホムセン侯爵だけが乗り気というその見合いというか謁見は始まった。もちろん、当の男女は形通りの挨拶口上を述べたきり、会話らしい会話もなく沈黙した。
そんな気まずい沈黙を破ったのは、昼寝で謁見に遅れた幼い第一王子であった。
直前までグズっていてシシに抱かれたまま現れた第一王子は、ホムセン侯爵が半ば強引に連れ帰ってきた不遜な顔のエレミリアを見て、目を輝かせてこう言った。
「ちちうえ、シシ、みて。あのひと、すっごくきらきら。ほら。たいようみたい、とってもきれい」
「ああ、確かに美しい色ではある。お前はあの公国の娘を気に入ったのか。ならば娶ろう」
え、とその場の誰もが国王の顔を二度見した。国王の不機嫌さに失策を悟って青ざめていたホムセン侯爵すらもだ。
嫁ぐ気の無かったエレミリアは動揺し、何か言おうと口を開きかけた。その瞬間、シシの腕から飛び降りた第一王子は彼女の元に駆け寄った。
「ねえ、おかあさまになってくれるの!? うれしい、うれしいな」
「まあ…なんてこと」
飛び跳ねるようにして喜びを表現する第一王子に、エレミリアは一瞬で落ちてしまった。この子の母になれるのならと、つい笑顔で頷いてしまったのだという。そして表情や言葉は少ないが、子煩悩であることだけは解る王にも初めて好印象を持ったそうだ。
エレミリアは一通りの淑女教育は受けていたものの、王妃教育と呼べるような教育は受けていなかった。それでも、可愛い王子と優しいが頼りない王のために必死になって勉強した。ホムセン侯爵の手先として警戒されていたエレミリアだが、そのひたむきな姿勢には誰もが心打たれたという。元より聡明だった彼女は、努力の甲斐もあり、いつしか敵派閥であるカリー公爵子息やシュライバー侯爵の信頼さえも勝ち取っていった。
ホムセン侯爵一派の干渉とコネクションなどの要求は凄まじかったが、カリー公爵子息とシュライバー侯爵がそれとなく気にかけ、真面目な彼女が執務や勉強に集中できるよう力を貸していた。
シュライバー侯爵が娘であるセーラを侍女に送り込んだのも、政治的な意図よりも孤独になりがちなエレミリアを気遣っての事だった。
◇ ◇ ◇
「エレミリア殿下はことのほか第一王子殿下を溺愛なさっておられましてなあ。普通ならば、こうした魔力視認の能力など気味悪がる者もおりますゆえ、継母となるエレミリア殿下にお告げするのも慎重にならざるを得なかったのですが…。エレミリア殿下は、この子は神に選ばれたのだと屈託なくおっしゃって幼い殿下を抱きしめられました。そんなお姿を見て、あの碌でもないホムセン侯爵もたまにはいい事をすると感心したものです。結局、あの一派は当の王妃殿下と第一王子殿下の画策によって粛清される運びとなりましたがな」
シシはそう言って、第一王子の直属工作員であったザコルの方を見た。
「脱線しましたな。その後、エレミリア殿下と陛下の間には第二王子殿下がお生まれになった。彼もまた我々と同じ能力をお持ちだったが、陛下や第一王子殿下程の鋭さはなく、人の周りを漂う光の流れをぼんやりと視認する程度だった。いわば私と同程度と言っていいでしょう」
という事は、第一王子の能力も現国王並み、心を読めてしまう級の力だという事か。
「愛情深く聡明なエレミリア殿下ですが、なぜかご自分のお子であるサーマル殿下に対しては、愛情の寄せ方が不器用だったように思います。第一王子殿下を王太子として尊重するあまりだったのか…。本当の心内は、ご本人にお聞きしてみなければ解らない事ですな」
そんな第二王子サーマルは十四歳になる年に留学という名目でメイヤー公国に送られ、シシとの接点はなくなった。
その頃には第一王子からも能力の事で困り事を相談される機会は減っていたし、国王はより自室に引きこもるようになって、シシともあまり話さなくなった。
そうして、相談役としてのシシの役目は終わった。
宮廷医師を引退した後、シシは王家の紹介状を持ってサカシータ領へやってきた。表向きは出奔した事になっているので山の民に戻る事はできず、オーレンからはシータイの町医者として過ごす許可を得た。
「こうして故郷を眺めながら余生を過ごせるのは、全てオーレン様とこの町の皆様のお蔭でございます」
そうシシは吐き出すように言い、目の前に置かれた白湯のカップに口をつけた。
「なるほど。シシは、第一王子殿下の強火ファン? 過激派? という事ですか。それで僕が気に入らないのですね」
そんなザコルの言葉に、シシは「は?」と意表を突かれたように顔を上げた。
「な、何をおっしゃいます。気に入らないなどとは」
「いえ、僕はそういう態度を取られるのには慣れてますから特に気にしてはいませんよ。ただ、ミカやエビーが怒るので、フリだけでも尊重してくれればとは思っていますが」
珍しく焦りをにじませるシシに、一点の曇りなきまなこでそう言うザコル。
「それから、陛下や殿下方の能力の件は機密に相当するでしょう。どうして今ここでそれを話したのです。場合によっては謀反の疑いであなたを拘束し、我が上司たる第一王子殿下の御前に突き出さなければなりませんが」
ザコルはまだ暗部に籍を残している。
ザコル自身は王宮など更地にしてしまえだの、国に誓う忠義は無いだのと、謀反さながらの発言を繰り返しているが、それらを棚に上げて罪人を逮捕する権限くらいは持っているのだろう。
ガタッ、シシが立ち上がってザコルを睨みつける。
「あ、あなた様がそれをおっしゃいますかな。誰より王国の、いえ殿下の輝かしい未来を脅かす存在であったあなた様が。第一王子殿下は寛大でお優しいお方だ。私が何度ご忠言申し上げてもあなた様の事を庇っておられた。『彼は人の味方だ』と…。いくら敬愛申し上げる王子殿下のお言葉でも、私にはどうにもそうは思えませんでしたのでな、大体、兄上である魔法陣技師のイアン様とて碌でもない権威主義者で…」
はっ、とシシはイーリアの方を見る。
イーリアは口角をクッと上げて不敵に笑った。
「確かに、イアンは我が子ながら碌でもない。今や罪人の身でもあるし、不敬だのと責めるつもりはない。それよりいいのか? ザコルを侮辱すると、目の前の聖女を敵に回すぞ」
シシはばっと私に視線を移した。
「…ふふっ、シシ先生ったら、意外におっちょこちょいなところがあるんですねえ。よりによって私の前で取り乱されるだなんて。先程の機密を含む昔話、興味深く聴かせていただきました。先生には王国に対する不満や叛意がおありなんでしょうか?」
チャキ、わざとらしく、ザコルが腰の短剣に手をかける。
「ち、違…っ」
「では、第一王子殿下のご意向に基づいてお話しくださったのでしょうか。それとも、何がしかの取引を持ち掛けたくてお話しくださったんでしょうか。……例えば、山の民の間諜として」
だら、とシシの額から汗が流れる。
「まあ、私としてはどちらでも構いません。このお話を聴かせてくださった理由をお伺いしましょう。さあ先生。お座りください」
にこ。
シシは力が抜けたようにすとんとソファに腰を下ろした。
つづく




