あの日 ー座敷牢はパラダイスでしたー
令和の世になって二年半くらいが経ったあの日の深夜。
私はめでたく十五連勤を記録し、しかも徹夜、いや三徹明けで三日半ぶりの自宅へと向かっていた。
会社のシャワー室とロッカーにあった着替えだけで何とかやり過ごしていたが、それももう限界だった。
終電で降り立った最寄駅からアパートまでは徒歩。バスなんてとうに無く、タクシーを呼びつけるのも迷う距離。
疲れと寝不足で鈍くなった頭と重い脚を必死で動かし、今はひたすら前に進む。
帰宅する前に、まずはコンビニに寄っておにぎりの一つでも買おう。
そうだ、食べる前にメイクを落とさないと、また座ったまま寝落ちするかもしれない。顔色を誤魔化すためとはいえ、どうせ会社から出ないのにメイクなんてしなければ良かった。
…洗顔ってどうしてあんなに億劫なんだろう。
部屋にあったメイク落としシートはカピカピに乾いている。
いっそ、コンビニで新しいメイク落としシートも買ってしまおうか。常に節約を心がけてきたが、今日くらい無駄遣いしたって許されるだろう。
何か腹に入れる事もメイクを落とす事も重要だが、部屋に戻ったら気力のあるうちに洗濯だけでも済ませなければ。
明日は朝イチで営業に同行し、客先で資料を説明するという任務が待っている。
連勤のせいで洗濯済みのまともな服などほぼ存在しない。カバンの中も洗ってない衣類で膨らんでいる。
…洗濯って何で干さなきゃいけないんだろう。
乾燥機能がない縦型を選んだ自分のせいだが、全自動洗濯機と名乗るくせに全く理不尽じゃないか。
そうだな、乾き易そうな化繊の白いブラウスを下着やなんかと一緒に急いで洗って、その間に立って食事、メイクを落として歯磨きして、洗濯物を干してすぐ寝る。シャワーは朝。よし、これだ。座ったら負けだ。冷蔵庫の中身もそろそろヤバそうだがそんなのの片付けは後日でいい。
よーし洗濯洗濯洗濯…と意味もなく唱えながら帰路を辿る。
コンビニまであと少しというところで、不自然に足元が光った。
「……?」
なぜか、足が地面に縫い付けられたかのように動かない。正直何かに抵抗するほどの気力もない状態ではあるが、これは流石におかしい。声も出ない。いや、咄嗟に声が出るほど頭が働いていないだけかもしれない。
靴擦れで傷んだ足が、パンプスごと地面に沈んでいく。カバンをぎゅっと抱き寄せながら、アスファルトに埋まっていく自分の体をただ呆然と見つめるしかなかった。
目線の先がアスファルトの地面に迫り、暗闇も束の間、急に明るい空間へと放り出された。
ドサ、と絨毯の敷かれた床に尻餅をついた私の目の前には、驚きに満ちた表情の、うら若き乙女。
西洋風の家具に囲まれ、フリフリのドレスを纏った金髪碧眼の美少女。
そんな彼女の背後には、みるみる顔色を悪くするメイドのような格好の女性たち。
「きゃあああああ!」
「えっ」
「お嬢様! お下がりください!」
どこかからシュバッと出てきた黒装束の人に腕を掴まれる。
「おじょ…? え?」
「囲め!」
「えっ、ひっ…!? そ、そんなっ!?」
あまりの事に間抜けな声しか出ない私は、後から湧いて出てきた騎士風の人々に拘束され、速やかに『お嬢様』の部屋から連れ出され、一旦屋外に出され、また違う建物に入り、抱きしめていたカバンを取り上げられ、あら小綺麗な部屋…と思ったら檻付きで…。
いわゆる座敷牢のような部屋へあっという間に収容されていた。
「なっ…なんで…」
座敷牢の床に手をつき、何とかひねり出した声は掠れていた。
慌ただしく施錠して去っていく人々。あちらも私の呟きみたいな問いに何か返す余裕はなさそうだ。
しん…と、静かになれば次第に気持ちも落ち着いてくる。
一人置き去りにされて混乱しきりなはずなのに、何故か、本当に何故か、小さく安堵してしまった自分がいた。
とにかく、今日はもう、仕事と洗濯の事は考えなくて良さそうだ。
◇ ◇ ◇
それから早いもので、一週間が経った。
牢生活は大変快適であった。
檻と監視の目はあるものの、荒れ果てていた自分の部屋を思えば清潔で過ごしやすい部屋だ。
格子付きだが窓もあって日中は陽光も入る。その上三食昼寝付、食事も普通に美味しく、そこそこ広いベッドに、トイレや更衣室も完備。風呂は夕食後に別室に案内されて一人で体を洗っている。シーツや服の替えも毎日届けられた。
お湯と石鹸だけでメイクを落とすのには難儀したが、一週間も経てば流石に落ち切ったことだろう。毎日ノーメイクでふかふかのベッドに転がる。最高だ。
この一週間、私の元に食事や着替えなどを運んでくれたのは、拘束された後にぞろぞろと私を見にやってきた騎士風集団のリーダー格っぽい男性一人だった。異性だが会話も最低限だし特に不便は無い。檻の外に立つ監視役は何人かでローテーションしているようだ。
ここはどこなのか、どうして拘束されているのか。いや、むしろこっちが突然現れた不審者なのか? …にしては破格の待遇のような気もするが、それもどうしてなのか。
疑問を持とうと思えばいくらでも湧いてくる。しかし私は一旦思考を放棄した。どうせ一人で考えても答えなど出ない。
最低限の世話以外では干渉されないのを良いことに、騒ぐことも、説明を求める事もせず、檻の中でただただ怠惰に過ごした。
自分がいなくなって仕事がどうなったのか全く気にならない訳ではないが、明日どうなるかも分からないのに心配するだけ無駄だ。
三徹してまで仕上げた資料は渾身の出来だったし、後は営業の中田がどうにかするしかない。がんばれ中田。私は寝る。
実際に私は十五連勤と徹夜明けの疲れから、拘束後二日程は思う存分、死んだように眠っていた。自分でも、この非常時によくそこまで寝こけていられるなと思う。図太いの天才かもしれない。
三日目の午後からはようやく暇を持て余すようになり、騎士風の彼にいくつか本を貸してくれないかと頼んでみた。
彼は驚いた顔をしたが、すぐに「承知した!」と顔を輝かせて威勢よく返答し、しばらくしてから何冊かの本と一緒に温かいお茶やお菓子なども届けてくれた。
最初はこの国の歴史が大まかに記された教育目的の本や、簡単な言葉遣いの絵本。
右も左も分からない私としてはありがたいチョイスだ。その後は少しずつ難しい本も持ってきてくれた。
読み終わるたびに催促していたら、頼まなくても実用書や歴史書を中心にどんどん運ばれてきた。
明らかに日本語でない文字なのに不思議と読み解くことができる。騎士風の彼とも普通に会話できているし、これが異世界チートというやつなのだろうか。
ここが本当にいわゆる『異世界』なのかということは私には判断できないが、何らかの超常的な現象があってにここへやってきたことは確かなので、まあ、異世界なんだろう。
日本では色々あっていわゆるブラック気味な職場に入ってしまい、毎日をただ機械的に目の前の仕事をこなすマシンと化していた私の唯一の趣味は読書だった。
忙しくてもちょっとした空き時間にスマホで電子書籍を読み漁る。子供の頃からよく図書館に通い、学生時代は古本屋で安売りしている本を大量に買ってきては読み漁ったものだ。
漫画ももちろん好きだが、小説などの文章が詰まった本の方が情報量が多く好ましい。ぶっちゃけ文字さえ書いてあれば何でもいい。漫画でもラノベでも純文学でも歴史文学でも専門書でも、古いホテルの引き出しにあるような聖書でも、祖母宅の仏壇にあった経本でも読んだ。根っからの活字中毒というやつだ。
昨今は異世界転生モノが媒体問わず多く発表されており、私も片っ端から読んでいた。あまり難しく考えずに読めるものも多く、脳が疲れ切った社会人の現実逃避には丁度良かった。
男性向けだとゲームのRPGっぽい世界に飛び、女性向けだと乙女ゲームや小説などのご令嬢なんかに転生、多くがそんな感じだ。男性向けにしろ女性向けにしろ、中世ヨーロッパ風の世界に転生するものが圧倒的に多い。
その世界でいわゆるチート能力を得て英雄のようになったり、外れスキルとやらを上手に活用して活躍してみたり、元世界の概念や専門知識を持ち込んで成功してみたり、何か真面目に教養やスキルを磨いて地位を得てみたり、女の戦いに勝利してイケメンに溺愛されてみたり。
皆方法は様々だが、身一つで転生したのにも関わらず、忙しく逞しく自分の居場所を確保し、世界や周囲に貢献しているような主人公ばかりだ。
主人公って皆偉いんだな…。私はベッドに寝転がりながら独りごちた。
振り返って自分はどうか。私の場合は転生ではなく転移や召喚のような形でこちらのお屋敷にやってきたようだ。
すぐに囚われた上に何の説明も受けてないせいもあるが、この一週間、毎日ように食事と余暇と惰眠を貪り、監視の人に話しかけてみるような事もせず、支給されたロング丈のゆったりワンピースを着て、暖かな日が差し込む窓辺に座り、紅茶らしいお茶をお上品に飲みながら読書をする。
つまり、あまりに快適なので今日までダラダラと過ごしてしまった。
控えめに言って最高だ。
ああ、囚われの身ってこんなに気楽なのね。自由がないってこんなに自由なんだ。ここにいる限りは仕事やプライベートの雑事に何の責任を負わなくてもいい。最の高じゃあないですか。
せっかくの異世界? かもしれないけれど、正直チートもイケメンもいらないし、仕事もしばらくはいい。救国の聖女みたいな仰々しい肩書きなんか断固お断りだ。
そうなると、もはや自分が何者かでさえどうでもいい気がしてきた。もう、名前も要らないんじゃないだろうか。
一生この、なんだ、どちらのお宅か分からないけど、あの金髪美少女が敷地のどこかにいる屋敷の一角で珍獣か何かとして飼い殺しにしてもらえないだろうか。
まあ、そんな妄想はさておき、そろそろ運動不足が気になり始めたところだ。一生囚われるとしても最低限の健康は維持したい。
スカート姿ではしたないかもしれないが、今日はこの場でできる簡単な運動でもしてみることにしよう。
コンコン、檻の外で壁か扉をノックする音がした。多分あの騎士風の彼だ。
「失礼する! 今日はこちらの…ん? きっ、貴殿! 何をしている!」
「あっ、おにーさんっ、さっきはっ、お茶をっ、ありがとうっ、ございっ、ますっ、ふんッ」
私はワンピース姿のまま、ベッド脇でスクワットをしていた。
◇ ◇ ◇
少々動揺したらしい騎士風のお兄さんの横には、初めて見る男性が僅かに眉を寄せながら立っていた。
年齢は私と大差ないように見える。ここが実はエルフの国で誰もが物凄く長寿、みたいな設定があったりしなければだが。
コホン、小さく咳払いした騎士風の彼は、取り直したように表情を引き締めた。
「突然ですまない。紹介しよう、こちらはザコル・サカシータ殿だ。伯爵様の代理でこちらへいらっしゃった…話せるか?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。お兄さんにも名乗ってなかったですよね。初めまして。私は堀田みかと申します」
「ホッタミカ、は種族名か?」
「いえ、個人名ですし種族はヒトです。堀田が姓で、みかが名前です。姓名の順番は逆でしょうか? なら、ミカ・ホッタです」
名を捨てて飼い殺しにされようと思っていたのに、思いの外すぐに名乗る機会がやってきてしまった。
そういえば私はホッタミカという名前だった。ホッタミカ!とアクセントを変えて勢いよく読んでみるだけで、そういう北欧の森にいそうな生き物のような響きになるとは初めて知った。さすがは異世界だ。
「こちらこそ名乗りが遅くなり失礼した。俺はハコネ。屋敷の衛士として代々テイラー伯爵家に仕えているが、平民なので姓はない。ここのところ毎日顔を合わせているが、こうして名乗るのが遅くなってしまった事をお詫びする。ミカ・ホッター殿」
聞き違いか発音の問題か分からないが、堀田がホッターになってしまった。まさか、異世界でどこぞの魔法使いのように呼ばれる日が来るとは。エクスペクトなんとか〜と叫んだら浄化魔法が発動しやしないだろうか。
「僕はザコル・サカシータと申します。普段は主の政務を補佐しています。一応子爵家の八男ですが、貴族としては末端、平民に近い身ですので、ただザコルとお呼びください。ホッター様」
アホな事をぼーっと考えていたら、新顔の男性が胸に手を当て、丁寧なご挨拶をしてくれていた。敢えてなのか、彼はにこりともせず無表情だ。私も慌てて手を前に合わせて腰を折る。
「ミカ・ホッタァ…です。地球という星の日本という国からやってきました。私の意志ではないとはいえ、こちらのお嬢様…? のお部屋にいきなり現れてしまってすみません。突然の事にも関わらず、お部屋や食事などをお世話していただき大変感謝しています。私こそ元の世界では完全なる一般庶民でしたので、ミカなりホッターなり、気軽に呼んで接していただければ幸いです」
面白いので発音違いを訂正するのはやめた。聖女や勇者はゴメンだが、魔法使いならばなってみたい。生活の役にも立つかもしれないし。
「…いえ、ホッター様が感謝や謝罪をされる必要はありません。この度は、このような監視付きの部屋に説明もなく一週間も拘束する事になってしまい、大変申し訳ありませんでした。この邸の主である伯爵様からはこれを預かっています」
立派な封蝋が押された封筒と、可愛らしい包装がされた箱を手渡された。手紙はその場で開けさせてもらって目を通した。
ザコルが言うように、大袈裟な筆致で大袈裟な謝罪文が書き連ねられ、最後にサインが為されていた。セオドア・テイラー様とおっしゃるようだ。可愛い包みは、セオドア様の奥様からのプレゼントらしい。お菓子か何かかな。
「後々詳しく説明させていただきますが、ホッター様は何かしらの魔法能力を秘めておられている可能性があります。非礼は重々承知の上ですが、どんな力なのかを把握するまでは、貴人である主人とそのご家族からは物理的な距離を取らせていただく事になります」
えっ、魔法能力、魔法能力って言った…? いや、それより、しばらくはこの生活が続くって事だろうか。やった…!
「そうなんですね。伯爵様には直接お礼が申し上げられなくて残念です。あ、でも全然大丈夫ですので」
とりあえず魔法能力とやらは聞き流す事にし、適当な返事をする。
「今喜びかけませんでした…?」
ぎく。偉い人に会わなくて済みそうだから安心しただのとは口が裂けても言えない。
「え、よ、喜んでなんかいませんよ。気のせいじゃないですか。ああー残念残念」
ザコルが僅かに怪訝な表情をしたようだが、またすぐに感情の読めない顔に戻った。
「そうですか。それから、こちらはお預かりしていたお荷物になります。中身には手を付けておりませんので」
そう言ってザコルは私がこちらに来た際に持ってきたカバンを手渡してくれた。
一応確認のために開くと、会社から持ち帰ってきた使用済みの下着類が入ったビニール袋が目に入り、うんざりとした気持ちになった。財布やカード類もあるが、どのみちここでは用を為さないだろう。スマホの電池も切れている。
別室にお茶の用意があると言って同行を促されたので、ひとまず手紙と箱とカバンは部屋に置いて出た。あの下着類は後でこっそり棄てさせてもらおう。
座敷牢を出て、二人の間に挟まれながらしばらく館内を歩いた。連行されているようだけどしょうがないので気にしない。
案内された部屋は、渋い赤の絨毯が敷き詰められ、大きな窓に立派な織り模様のカーテンがかけられた広い部屋だった。小さなシャンデリアもあり、部屋の中心には重厚な感じのローテーブルと、美しい波のような彫刻がされた肘置きに、金糸やタッセルの装飾が眩しいソファセットがドーンと置かれていいる。
わあ…宮殿!? 中世ヨーロッパ!? それっぽい! 異世界っぽーい!
内心とてもはしゃいでいたものの、表面には出さず、勧められた席に大人しく腰を降ろした。
改めて二人の出立ちを見た。他人とこれほど長く対峙するのは久しぶりだ。
ハコネは学ランのような詰襟の上着に、ベルトを締め、帯剣している。色は上下とも臙脂色で縁取りは黒。襟には徽章のようなバッジをつけてもいる。シンプルだが、シュッとした騎士らしい装いだ。
ザコルは首まである灰黒のダボっとした上下に、革のベルトを上衣の上に締めていて、肩に長めのマントを羽織っている。装飾は無く、厚く重そうで、藪にでも入れば目立たなくなりそうな深緑色のマント。日本の庶民には目に優しい仕様だ。
地味とは言わないが、どこか迷彩服に近い風合いで、この豪華絢爛な部屋からは少々浮いている気もする。
しかし私はといえば、すっぴんに一つに括っただけの髪、支給されたロング丈のワンピースドレス、靴はヒールのないバレエシューズみたいなのを借りて履いている。
借り物に化粧気もないザ・日本人の私こそこの空間から浮きまくりだろう。何となく勝った気分になった。
脳内のアホらしい勝負に巻き込まれたザコルが心なしか微妙な顔をしながら向かいの席に座る。
ハコネは扉の外でティーセットやお菓子の置かれたワゴンを受け取り、ローテーブルの横につけた。彼が給仕をしてくれるようだ。
「ええと、ホッター様。本日は先触れもなく伺ってしまい失礼いたしました」
ザコルが手元の資料か何かを見ながら話を始める。
その様子がいかにも事務的というか、役所仕事みたいで面白い。彼は何というか、初対面の異世界人だというのに何故かとても親近感を覚える人だった。
中肉中背でもっさりした暗い茶髪に、前髪から見え隠れする暗い色の瞳、猫背気味で目元に隈も見える。
仕事でたまに関わるIT系エンジニアにこんな感じの人が多かった気がする。まあ、この人から見れば私もきっと似たような状態だろう。疲れ切った社畜で髪も伸び放題。お揃いだ。ふふ。
「あの、体調はいかがでしょうか」
「体調? 良好ですよ。どうしてですか」
一週間も休めば流石に睡眠不足は解消されている。ここ数年の中では抜群のコンディションだ。
「こちらにいらした直後は、顔色も悪く、日中はほとんど寝込まれていたとハコネから報告を受けておりましたので。こちらの対応のせいで精神的な負担をお掛けしたかと…、もう一度お聞きしますが、どこか調子が悪いといった事はないですか?」
なるほど、ショックで寝込んでる、みたいに思われていたのか。ただの寝不足と疲労で惰眠を貪っていただけとは言い難い。
「いえ、特には…。そんなに顔色悪いですかね?」
「まあ、良くは見えま…」
ハコネがザコルの後ろに回って小突いている。
ザコルは失言を誤魔化すようにコホン、と咳払いをした。
「事後報告で申し訳ないのですが、一度だけホッター様のご就寝中に、医師が訪問して脈や体温などを測らせていただいたようです。こちらで用意した食事はそれなりに食べていただけたようですし、医師の見解としては、病気というよりただ過労に近い状態では。との事でした」
ふむ。惰眠を貪っていたことはしっかりバレていたか。
「ホッター殿、本を貸して欲しいと、初めてこちらに要望を出してくれた時には正直こちらも安堵したぞ。このまま衰弱した状態が続いたらどうしようかと思っていたのでな。アメリアお嬢様もずっとご心配されていて、貴殿のためにと自ら本やお菓子をお選びになっていた」
ハコネがハキハキとした様子で話してくれる。
彼の方は少し年上だろうか。茶色の短髪に茶色の瞳、キリッとした太眉、長身でガタイも姿勢も良い。いかにも体育会系のお兄さんという感じだ。
「アメリア様、というのは私が最初にお会いしたお嬢様でしょうか。…そっか、彼女が本を選んでくれてたんですね。私みたいな不審者のことまで気に掛けてくれるだなんて。ああ、なんて優しいお嬢様なんでしょうか…!」
あの美少女が私のために菓子や本を…。恋してしまいそうだ。
「不審者、自分で言いますか…。まあ、お嬢様も、ホッター様がご自分の意思で召喚された訳でない事は分かっておられますので。驚いて声を上げたことなどを謝りたいご様子でしたよ」
「そうですか。では、私からは、お気遣いに大変感謝していますとお伝えください」
それから、私は自分自身の事とこれまでの経緯を順を追って説明していった。
堀田みか。地球という星の日本という国から来た二十五歳。
十五連勤の帰り道、いきなり足元が光って引きずり込まれた事。そして場面がお嬢様の部屋に急転した事。寝込んでいたのは単純に仕事での疲労が溜まっていたせいだということ。
「ホッター殿、こうして話してみると全く動揺が感じられないな。一週間も拘束されていたというのに」
ハコネがおかわりの紅茶をティーカップに注ぎつつ言った。
「ああ、まあ、そうですよね。一応最初は動揺もしたんですけどね」
そうか、あまり動揺していないのもおかしいか。ここは貴族の邸宅のようなので、万が一、渡り人を装った盗人や潜入者みたいに思われても面倒かもしれない。
「もう少しくらい取り乱しているべきでしょうか。怪しいですもんね」
決して怪しい者ではありません、とでも言ったとて、私は怪しい者以外の何者でもなかった。今後態度で怪しくないことを示していくしかない。
「いや、別に無理して取り乱す必要はないのだが…。不安に感じたりはしないのかと」
心配してくれているだけだったようだ。
「お気遣いありがとうございます。元の世界では本当に忙しかったものですから、疲れから少々感覚が鈍くなっていたのかもしれません。やっぱり、二週間以上朝も夜もなく働くのは良くないですねえ…」
「…なるほど。十五レンキンとは場所か何かかと考えておりましたが、十五日間寝る間もなく働き詰めという意味なんですね。理解しました」
ザコルがこれまでの私の話を紙にメモしつつ、渋い顔で頷いている。彼もきっと雇われの身なんだろうし、なんやかんや共感できたのかもしれない。
「十五連勤は私史上最高記録でした。半分以上は会社に泊まり込みでしたし…。疲労もピークという中でこちらに喚ばれた? 感じです。こんな事を言ってはなんですが、正直言って天国にでも来ちゃったのかと思いましたよ。なんと言ってもフカフカのベッドがありましたから。これはもう、寝るしかない…! って」
「そうですか」
「働きもせずゴロゴロしているだけなのに、食事やお風呂の準備もしていただけますし、服も洗われて戻ってくるし、本もたくさん貸してもらえますし、こんなに長期間ダラダラ休んだのなんて小学生の夏休み以来かも……えっ…ここって本当に天国だった…? 私死んだ!?」
最高の生活だった事をぜひ伝えたく、少々テンション高めに語り倒す。実際この一週間はただの天国だった。ビバ異世界。
「安心しろ、死んではいないぞ。貴殿は確かに生きているし、峠も越えたと医師もそう言っている!」
「峠、って…もしかして、本気で死にそうだったんですかね?」
「ああ、一時は呼んでも揺すっても起きなかったからな。昏睡状態に近かったのではないか」
OH…。
どうやら過労死寸前だったような雰囲気だが、とりあえずは生き残ったらしい。
私、生きてる。…そう改めて口に出せば、何故か少し涙が出そうになった。休養を取り、体調が整ったおかげで、色々と麻痺していた感覚が戻ってきたのかもしれない。
久しぶりに会話した人が、正直そうなザコルと人の良さそうなハコネの二人で良かったなとも思った。
「えー、これまでホッター様が…」
「あの、ザコルさん。できれば様をつけずに呼んでくださいませんか。何しろ庶民なので居心地が悪くて。すみません」
テンションが上がってきたので我が儘を言ってみる。様付けされて居心地が悪いのは本当だ。
「そうですか…ではホッターさん。この国でのあなたの立ち位置は異世界からの渡り人ということで、この国では国賓としてそれなりの地位が与えられることになるでしょう。公式の場では敬称呼びになると思いますが、それは構いませんか」
「ええー…そんな、囚われの不審者に国賓とか地位とか分不相応では…?」
「僕が与えるわけではありませんので」
「確かに。ザコルさんに文句を言っても仕方ないですね。ではそれで構いません。というかお任せします」
TPOというやつだ。普段はホッターさんでもいいが、偉い人の前ではホッター様とか、ホッター何某様になるよという話だろう。それは彼らにも立場によって求められる振る舞いがあるのだろうし、しつこく文句を言うつもりはない。
「じゃあ、ザコル様にハコネ様。よろしくお願いします」
ふ、とハコネが僅かに吹き出す。
「当てつけか…? 僕らの事はどう呼んでくれてもかまいませんが、様を付けるのだけはやめてください」
ザコルには真顔で却下されてしまった。
「ホッターさんがこれまでに読まれた本が既に何十冊にも及んでいて、その中には我が国の歴史や風土、王侯貴族、文化に関する本も含まれているので、それなりに我が国についてご理解いただけている前提でお話を進めます。もし分からない点があれば、その都度質問いただけますか」
「はい」
ザコルは手元の資料を一枚一枚めくりつつ話を進める。
「ひたすらに読み耽る姿を見て知ってはいたが、ホッター殿は勉強家だな」
「いえ、時間をたくさんいただきましたから」
本の虫に暇をあてがった結果というだけだ。
ハコネは『殿』呼びを変える気はないらしい。何となく、様付けよりは気にならないし、彼の雰囲気にも合っているのでそのままでもいいかと思った。
「現在、渡り人を個人で勝手に召喚する事は多くの国で禁じられております。これは異世界からの渡り人の中には、膨大な魔力を秘めている方が多く、リスクを伴うからと一般的に言われています」
へえー、そうなんだ。今も昔も、そんな魔力とやらを持っているような自覚はないのだが。
「なぜホッターさんがこちらに来てしまったのか、お心当たりはありますか」
「ないです」
「ご自分の能力にお心当たりはありますか」
「ないです」
「そうですよね。すみません、確認でした。召喚された要因についてはこちらでも調査中です。ええと、それから」
ザコルがひたすら事務的に話を続ける。問診か?
彼が次にめくった資料をハコネが後ろから見たらしく、何やらギョッとした顔をしている。
「ホッターさんが召喚された時に現れた魔法陣が、魔界から魔獣を喚ぶ際の魔法陣に酷似していたと主張する者が」
「おいザコル殿、それは言わなくてもいい…」
「へえー、なるほど、まかいからまじゅうを」
復唱してみせた私に、ザコルがしまったという顔をした。
「まかいから、まじゅうを……?」
「ええと、し、失言? でした。別に、僕やハコネがあなたを魔獣と疑っていた訳ではなく」
「魔獣と疑っていた!? 私を!? 魔界から来た、魔獣に…っ、……ぶふぅっ…!!」
思わず吹いた。
「こっ、こんなヒョロガリのやつれた社畜みたいな魔獣をわざわざ喚ぶ意味!」
「もっ、申し訳ありません、配慮が足らず。この話には続きが…」
「ふふ、ふふっ、まっ、魔獣!! それで檻に!! 社畜を檻に!! シュール!! あははははははは」
変なツボに入ってしまった。社畜を檻に、家畜じゃなくて社畜を。野生の社畜を檻に。何やってんだ召喚主。
「わっ、笑うのはやめてくれませんか、お怒りなのは分かりましたから……!」
「怒ってません…けど…っ! ふっ、魔獣っ、くふっ、日本は魔界でした説っ、ふぶっ、あはははははははははー!!」
「だから笑うのはやめろと!」
いっそキレ気味に慌てるザコルの様子もおかしく、私はしばらくお腹を抱えて笑っていた。
「あーははは…ふう。すみません。やー、いっそ魔獣になりたい人生でしたね」
「はあ…? あなたは一体何を言っているんですか?」
私の妄言に、ザコルがうんざりしたようツッコんでくる。そんなザコルをハコネが後ろから再び小突いた。
妄言だが半分は本気だ。魔獣の立ち位置がこの世界においてどんなものかは分からないが、もしこのまま檻でペットとして飼っていただけるのなら魔獣として生きるのも悪くない。
「今更何なんですが、魔獣ってどんな生き物なんですか? こんなにヒョロ…風が吹けば飛びそうな弱っちい人間にも務まるんでしょうか」
「この後に及んで嫌味を…。コホン、魔獣は、国の管理の元で一定数召喚し、軍事目的で飼われている生き物になります。魔獣の中には人型に似たタイプも一応存在しますので、使用人の間では魔獣か渡り人かの判別ができず様子見していたようですね」
軍事目的で飼われるならば、それなりに能力や戦闘力を求められるという事だ。残念ながらヒョロガリには務まりそうにない。
それにしても、不審者どころか人かどうかさえ疑われていたとは。
「何て面白いんだ異世界」
「面白がらないでください…。魔獣かと疑ったのはせいぜい最初の数日だけです。長時間姿に変化がないこと、着衣や湯浴みなどの身だしなみを習慣化されていること、言葉遣いや食事の摂り方も丁寧で、本や茶を好まれること。決して魔獣などではなく、人間の文化にしっかり染まった方だということは、はたから見ていてもよく分かったと見張り騎士の一人が」
「ほう、あんなにダラダラと過ごしていたのに文化的と。評価が甘過ぎではないでしょうか」
「魔獣は余暇を楽しみませんので」
ザコルが真面目な顔で私のセリフを切る。
そうか、魔獣はダラダラしないのか。私はもしや文化に染まっただけの魔獣以下の存在なのかもしれない。一週間も引きこもっていたせいで人間としてまともに生きる自信がなくなってきた。
「自信をなくさないでいただけますか…。余暇を純粋に楽しめるのは、まともに自律した人間だけですよ」
「もしやさっきからフォローしてくれてます? ザコルさんって優しい…!」
両手を組んでキラキラとした視線を送ってみる。途端に鬱陶しそうな顔になった。
どことなく人の気持ちに疎そうな彼だが、案外こっちの反応は気にしているようだ。しかし私なんぞがキラキラ女子ムーヴをしても気持ちが悪いだけなのですぐにやめた。
「で、私が魔獣として召喚された理由について、考えられるものはあるんですか? 理由があるから魔獣かどうか疑われたんですよね」
急にスンとした私に肩透かしでも食らったか、ザコルは咳払いをして表情を無に戻した。
「まあ、そうですね。今の所ですが、お嬢様に対する悪意と言いますか、嫌がらせという説が挙がっています」
「彼女、魔獣を差し向けちゃうような過激派? みたいなのに狙われてるんですか?」
突如現れた不審者を見た時の驚愕と恐怖に染まった顔しか見ていないが、どう見ても争いとは無縁そうな線の細い子だった。それに私のような不審者にさえ心砕いてくれるようなお方だ。きっと中身も優しいんだろう。
「アメリアお嬢様は、美貌もさることながら、優秀で気立てもいいと評判の方なのだ。家格は伯爵家と中位ながら、王族の婚約者候補にまで挙げられる程だぞ」
ハコネが代わりにそう答えてくれる。
「妬み嫉みを向けられやすいお立場、という事でしょうか」
「そうだ。貴殿、話が分かるタイプだな」
褒められちゃった。
「妬み嫉み、まあ、そうですね。先程、異世界から人を喚ぶ事は禁止されていると説明しましたが、魔獣を個人が勝手に呼ぶのも現在は禁止されているんです。お嬢様のお部屋で魔獣が暴れればもちろん被害が出たでしょうし、もしもお嬢様ご自身や伯爵様の関係者が魔獣なり異世界人を勝手に召喚したと疑われれば醜聞にもなり得ます」
「なるほど」
私自身がスキャンダルの証拠みたいな感じなのか。一週間も拘束される訳だ。
「そんなわけで、まだ真相は分かりませんが、伯爵家の体裁だけでなく、ホッターさんの身の安全を守るためもあって、あなたの存在はまだ世間に伏せられたままの状態です。ただ王家には内々に報せてあります。あなたの無害が確認された後、正式に王宮に呼ばれる事もあるでしょう」
はて、私の身の安全のためと言ったか…? もしやアンチ渡り人勢とかがいて、存在を消そうとでもされるんだろうか。
しかし、そうか。私をスキャンダルの種ごと消したいのはむしろ伯爵家だろうに、私を護ってくれようともしているのか。…何だろう。親切すぎやしないか?
ふう、とザコルが小さく息をつく。もしやこの人、あまり喋り慣れていないんだろうか。
「取り急ぎ僕が主から命じられているのは、ホッターさんの体調及び生活環境をしっかり整える事と、召喚した犯人の特定、ホッターさんがお持ちかもしれない力の調査です」
「力って、さっきおっしゃっていた、魔法能力というやつですね」
「そうです。ただ、まだ情報を漏らせないので外部から詳しい者などは呼べません。我々だけで地道に能力を探っていくことになるのですが…。心の準備ができてからでも構いません。ご協力いただけますでしょうか」
地道でもなんでも、魔法が使えるかもしれないのならば、それはぜひやってみたいに決まっている。
「もちろん協力します。 何か皆さんの役に立てるような能力だといいんですが」
「役に立とうなどと考えなくてもいいんですよ」
すげなく言われて思わず肩が落ちる。
「そんな。喚ばれたからには何か成し遂げた方がいいんじゃないですか…」
一応私の中では私が主人公だ。紛れもなく異世界人ではあるのだし、こうなったらチートで世界最強くらいは目指そうかと思ったのに。
「…実際、過去に異世界からの渡り人がその能力を用いて、世界の危機を救ったり、一つの国に貢献したり、歴史に名を残したりといった例はあります。ですが、その異世界から来た偉人達を支えた者達、つまりこちらの世界の者が渡り人と接する中で取り決めた事もまた、この世界では広く啓蒙されています」
その直後、ザコルとハコネが同時に口を開く。
『もしも渡り人が現れたなら この世界を愛して貰えるよう 常に願い努力すべし』
二人は私を真っ直ぐに見つつ、唱えるようにそう言った。
「細部は違えど、同じような内容が世界各国の条文に記されています。理由は様々でしょうが、基本的には僕達こそがあなたを大事にしないといけないんですよ。こうして数々の無礼を働いている状況では説得力がないでしょうが」
「いえ、充分大事にしてくださっていると思いますよ」
一週間も放置したとは言うが、別に世話を怠られた事実はない。今もこうして丁寧な説明をしてくれているではないか。
「いいえ、充分とは言えません。大体、担当も僕なんかですし…。少なくとも、一方的に喚ばれてしまったあなたが、我々のために気負う必要は本来どこにも無いんですよ。貴方のしたくない事はしなくて構いませんし、逆にしたい事があればなるべく叶えます。あなたに心穏やかに過ごしていただくこと。それが第一です」
彼の淡々とした口調に嘘は感じられない。当然だというようにハコネも頷いている。
どうやら、私は渡り人だから大事にされないといけないらしい。
なぜ?
誰が何のために喚んだかも判らない、のに…?
元々、そんな風に大事にされる程、私は特別な人間じゃない。せいぜいが会社で回り続けるただの歯車の一つで、使い潰されるくらいしか能のない人間だ。
それが、救国するわけでも見せ物になるわけでもないのに、別世界から渡ってきたというだけで大事にされていて本当にいいんだろうか。…タダより高いものは無い、そんな言葉さえ脳裏に浮かぶ。
黙り込んだ私に、ザコルは続けた。
「あなたが警戒する気持ちも解ります。もちろん、この世界とて色んな人間がいますから。あなたの能力や異世界の知識が知られれば利用しようとする輩も現れるでしょう。幸いここ、テイラー伯爵家は経済的に豊かすぎるくらいの家ですから、あなたを使って権力や金を得ようなどとはどなたもお考えではありません。それに、祖先に渡り人もいらっしゃいますし」
「えっ、そうなんですか?」
ザコルが頷く。
「あの、その祖先というのはどんな方だったんでしょうか?」
「エレノア・テイラー様とおっしゃいました。金髪碧眼の女性で、傷や病を癒す力をお持ちだったそうです。こちらに渡られたのは三百年ほど前、当時は戦禍にあり聖女として国に多大な貢献をなさったと多くの文献に記載されています。元の世界には帰らず、専属護衛だった騎士と結ばれました。結婚の際に王家から爵位を賜ったそうです。テイラー伯爵家の興りとして有名な話ですよ」
「そうなんですね」
それなんてヒロイン。なんてリアル乙ゲー。
素っ気なく返したものの心の中は興奮の嵐だ。詳しく書かれた書物があれば読みたい。
「テイラー伯爵家には、今も聖女様の故郷にちなんだ名前のリストが残されており、直系のお子様はその中から名をつけられる慣わしになっているそうです」
エレノア、テイラー、セオドア、アメリア。もしかしたらイギリス人かその流れを汲むお人だったのかな。
それより。
「気になったんですが、元の世界に帰るかどうかって、渡り人自身が選べるんですか?」
「それについては…申し訳ありません。個人で異世界人を喚ぶのが禁じられてから長い年月が経っておりまして、一般には召喚方法も送還方法も詳しく知られていないんです。王家か他の旧い家ならば知識を有しているかもしれませんが、今僕からは『帰れる』と断言することができません。
「そうですか…」
「あの、もちろん、あなたが望むなら僕の方でいくらでも調べるつもりですが」
ザコルが目を伏せる。さっきから彼なりに気を遣ってくれているのだろう。何だか申し訳ない気持ちになった。
「ありがとうございます。でも、別にザコルさんが気負うこともないですからね。喚んだのは別の方でしょうし。元の世界は一応生まれ育った故郷ですから愛着はあります。でも正直、大きな未練や心配事があるわけではありませんから」
営業の中田には悪いが、私ごときがいなくなったとしてもまあ大丈夫だろう。
「もともと父親はおらず、母親も十歳の頃に失踪してます。育ててくれた祖母は既に養護施設に入って今は叔母が管理してますから、私がいなくてもきっと平気です。仕事も私がいなくなったって早晩会社が潰れるような事はないでしょう。住んでた部屋の冷蔵庫のマヨネーズは爆発するかもしれませんけど」
そこまで言って、手元の紅茶に目を落とした。
「ただ、もし私に大した能力がなく、何の役にも立てなかったら、本格的に迷惑をかける前に去るか、あるべき場所に帰らなくてはと思っているだけで…」
ああ、しまった、今の言葉は卑屈っぽかっただろうか。私は言葉を切って俯いた。
「ホッター殿、よろしいか」
しばらく黙ってザコルの後ろに立っていたハコネが口を開いた。
「伯爵夫妻はここ数週間ほど王都に向かわれていて不在だった。実は貴殿の事を昨日の深夜にお知りになったのだが、突然現れた貴殿が渡り人らしいと報告を受けて大変喜んでおられるぞ。光栄な事だと。昨日は大騒ぎだった。これまで座敷牢に一人置かれていた事を大変嘆いていらっしゃって、昨夜は伯爵様自らホッター殿に今すぐ会いたいとゴネ…いや強く望まれてだな、側近が総出で止めていた。最終的にザコル殿が代表で挨拶に行くことで決着がついたのだが」
昨日は夜遅くまで本を読んでいたが、まさかそのような騒ぎがあったとは思えない静けさだった。この邸の主人が帰ってきた事にすら気付けなかった。恐らく邸の敷地が広くて、私のいる場所と母屋は相当離れているのだろう。
「貴殿、そもそも一週間も牢に捕らわれていたのだぞ。本来は女性の使用人をつけるべきなのに、魔獣かもしれないだの、能力が分からないだのと言って! 世話係がよりによってこの俺だ! もっと積極的に待遇の改善を要求しろ!」
「そんなことを言われましても…」
こちらとしては無償で世話をしてくれる人に文句をつける程クレーマー気質なつもりはない。というか自分が待遇の改善を要求できるような立場だとは知らなかった。
「庇うつもりはないが、アメリア様は女性を牢に閉じ込める事に難色を示されていたのだ。あのババ…老齢の使用人が、あの魔法陣は昔見た魔獣召喚のものに似ているだとか言いふらして…!」
女性にBBAはいけない。セクハラ案件だ。
「貴殿が恐縮したり自分を貶める必要などないのだ。本来貴殿は稀なる渡り人であって、大切に護るべき存在なのだからな。それを怠った我々をもっと責めろ!」
「ふふっ、熱いですねえ」
前のめりになりかけていたハコネがはたと我に返り、姿勢を正す。
「あ、失礼した、大声を出してすまない。つい…」
「いえ、励ましてくださったんですよね。こちらこそ卑屈な事を言い、失礼いたしました。私は充分に護っていただいたと思いますから、そちらを責めるような事は何もありません」
私の言葉に、ハコネが何とも言えない表情になる。彼としては不十分だと思っているのだろう。
「お話を聴く限りでは、きっと誰も悪くないんですよね。この邸のご主人がご不在だったのなら尚更、不審者はとりあえず隔離で正解でしょう。でもね、そんな不審者というか、どんな力を持っているのかも分からないような生き物に、ハコネさんを始め皆さん本当に親切にしてくださいました。それは確かです。感謝していますし、感謝させてください」
私は頭を下げて言った。
「私がいることによって、混乱を招いたでしょうし、皆の仕事も増やしてしまったでしょう。お願いですから私の待遇に関してはこれ以上揉めないでほしいです。私に不満は一切ありません」
見えない所でも、湯浴みや食事、お茶を準備してくれた人、私が着てきたヨレヨレのジャケットとスカートとシャツを丁寧に洗濯してくれた人、そして本とお菓子を用意してくれたお嬢様。充分お世話になっている。
そんな私の待遇が原因で、邸内で確執が起きているのは困る。いくら他社でも同僚間の揉め事は社畜の胃に悪い。
顔を上げ、ハコネとザコルの目を交互に見る。
「一週間ダラダラと無遠慮にお世話になってしまった身で何ですけれど、本来ならなるべく早くここを出て自立すべきなのではと思ったまでです。それができなくとも、社会人、いえ一人の大人として、ご恩をお返しする努力はするべきかと。一方的にお世話になるのは心苦しいので」
私は『文化を持たない魔獣』ではない。戦力にもペットにもなれないなら人として普通に働くしかないだろう。
この家の人々が私を上手に利用する気も無さそうだと聞かされてしまった以上、甘え続けるのは私の精神衛生上もよろしくない。
コホン、ザコルが咳払いを一つする。
「ホッターさん、あなたはもっと気楽に考えてもいいのではと思いますよ」
「気楽に?」
ザコルは小さく頷き、無表情のまま私の目を真っすぐに見た。
「自立がホッターさんの最終的な意志であればもちろん尊重しますが、慣れない世界ですぐに独立したり、何らかの成果を出したりするのは困難かと思います」
「でも、いつまでも居候というわけにはいかないでしょう?」
「ご心配なさらず。ここは裕福な貴族家ですから食客の一人や二人、大した負担ではありません。あなたが真に渡り人だと確認できた以上、今後はそれなりの待遇を約束させていただきます」
「えっ、待遇? そんなの要りませんよ、だって、本当に何もしてないのに」
「ホッター殿、俺達が言いたいのはだな、貴殿は何も悪くないのだから、ぜひこの家の客として堂々としてほしいという事だ。俺達は渡り人を不当に扱ったことを悔いている。申し訳なさそうにされるとむしろ心が痛む」
何だろう、この親切な人々はどうしても私を伯爵家のヒモにしたいらしい。
…いや、私を引き止める理由が他にもあるのかもしれない。あまりこの議論を続けてもこの二人を困らせるだけになりそうなので、この辺りで適当に切り上げるか。
「分かりました。私、今以上に図太く厚かましく頑張ります!」
「よし、それでいい!」
なんて清々しい返事だ。欲を言えばツッコんで欲しい。
「…ええと、とりあえず、ホッターさんの体調が整い次第、屋外に出て魔法が発動するかどうかを試しましょうか」
「それなら、今すぐでもいいですよ。流石に引きこもりすぎて体が鈍ってきたところでしたし」
「先程、部屋でスクワットの真似事をしていたのはそれでか…」
ハコネに微妙な顔をされてしまった。
「ところで、部屋のマヨネーズ? とやらは大丈夫なのか。爆発物なのだろう」
「すいません、気にしないでください。爆発しても建物が壊れるほどの威力はないので」
割に変なところを気にする人だ。
◇ ◇ ◇
その後、私の待遇とやらは大きく変わった。
まず、私の部屋に女性使用人が出入りするようになった。
そして、監視ローテーションの皆さんとも挨拶など軽いやりとりをするようになった。監視は護衛と名目を変えているが、誰かが常に近くに控える状態は続くらしい。
また、貴人の住まう本邸にさえ近づかなければ護衛付きで散策も許された。
その護衛隊のリーダーらしきハコネには、必要ならもっと待遇の改善を要求しろと言われたが、引きこもり万歳な私にはこれ以上望むことなどない。
住み慣れてきた座敷牢を出て別棟にある客間に移動するようにも言われ、素直に見学に付いて行ったらとんでもない部屋、いや、屋敷だった。
もちろん悪い意味ではなく、あまりに豪華すぎて小市民の心臓が圧死寸前になっただけだ。
私の居住区域とやらは屋敷のワンフロア全て。天蓋付きベッドのある寝室・広すぎる居間・書斎・ドレス満載の衣装部屋・大人数でバーベキューだってできそうなバルコニー・使用人待機部屋・シャンデリアに、それはそれは高そうな調度品、使用人がお世話に入れる広い浴室と、これまた広くて美しすぎるトイレも完備、そして全部屋に高そうなシルク製っぽい絨毯が敷き詰められていた。王宮かよ。
伯爵とは公爵、侯爵に次ぐ位の貴族様のはずだが、この家はその中でも特に裕福な方なのではないだろうか。でなければこの国自体がものすごく裕福ということになる。石油でも湧いているんだろうか。
とにかく、そんな豪奢すぎる場にやってきた自分があまりにも場違いに思えて仕方がない。図太く厚かましく生き続けるのは思ったより難しいらしい。もちろん、そんな王宮みたいな場所への引っ越しは丁重にお断りした。
それでも座敷牢のままではあんまりだと、ハコネや監視員の皆さん、女性使用人の皆さんが嘆かれるので、度重なる議論と妥協の末、上級使用人が与えられるような個室を借りる事になった。
これでももといたアパートの部屋に比べれば倍くらいの広さがある。木の床で調度品もシンプルだが、浴室やトイレも付いていた。シンプルな木製のクローゼットには、当面の着替えや下着が用意されている。
どの世界でも女性が月に一度苦慮している件については、女性使用人の一人にこの世界での対処の仕方を教えてもらった。正直そろそろ来る頃だと思っていたので助かった。新たに私専属という事になったホノルさんだ。歳は二十四、既に二人の子持ちらしい。
ハコネかザコルが付き添える時は、伯爵家お抱えの騎士団が使う練兵場で、魔法が発動するかどうかを試すようになった。
この世界、元々『魔法士』と呼ばれる人は希少なのだそうだ。自らの内なる魔力だかを使って魔法現象を起こせるような人はかなり少数なのだとか。
ちなみに魔獣を召喚するような魔法陣は一定の知識と特殊な道具を用意し、さらに陣を描く修練をすれば魔法士としての素養がなくても使えるようになるらしい。ただし、今は使用を厳しく制限されていて、おいそれと知ることのできない技術ではある。
魔法士の話に戻るが、そんな希少性もあって、現在確認できている魔法士はほぼほぼ国家専属で動向は注目の的。呼びつけるにも理由がいるらしいし、それなりに目立ちもする。私の存在を隠したいのなら避けるべきだというのは解る。
かと言って伯爵家にお抱え魔法士がいるわけもなく、従って教師役は不在。…なので、私は適当に火や水や風や土や光や闇などをイメージして放つポーズを繰り返している。厨二病みたいで非常に恥ずかしい。
ザコルいわく「魔法は知識として知っているが、コツまでは解らない」らしい。当初、少しでも手がかりになればと、過去に魔法士によって書かれたという本をいくつか借りてきてもらって読み込んだ。少しは理論や原理、系統などがまとまっているかと思いきや、全くそんなことはなかった。何冊も読んだが、結果をまとめると「人による」だった。
才能が見出されるきっかけも年齢も皆それぞれ違い、能力の在り方も十人十色。
例えば同じ水に関する能力でも、手から水を出せる人、雨を操れる人、水の温度を変えられる人、水の中でも呼吸ができる人、物の水分率を変えられる人など、細分化は果てしなく、限定的で、汎用性も低い能力が多いようだ。
あくまで『魔術』ではなく『魔法』であり、神の気まぐれによって与えられる奇跡のような力と捉えられているようだった。
とはいえ気づきもあった。どうやら、かつて存在した魔法士の中に『呪文』を用いる人がいないらしいことである。誰も彼も感覚で発動させているようなので、敢えて『いかづちよ、天を裂き悪を滅ぼせ!』みたいなことを叫ばないでいいのは救いであった。
魔法を試している間、ザコルやハコネ自身の話も色々と聞けた。
ザコルは伯爵様付きの側近の一人だそうだが、プライベートで召喚魔法陣に詳しかったから、私の聴取役兼魔法陣調査役に抜擢されたような事を言っていた。魔法陣オタクなのかな。なぜ禁制分野なのにオタクをしているのか。日本でいうミリタリーオタクとか、絶滅危惧種マニアとかみたいなものなんだろうか。
「異世界人の召喚魔法陣は長年国家機密扱いなので僕も見たことはないのですが、魔獣の召喚は近年まで貴族の領主クラスに限り許可されていました。僕も子供の頃に魔獣の召喚に立ち会った事があります」
そう話すのはザコルだ。
「貴殿が現れる前に、魔法陣が突如として部屋に浮かび上がったそうで、その場にいた何人もが目撃している。その際、例のババ…いや、ベテラン使用人が魔獣召喚の魔法陣だと騒いだのだ」
ハコネはどうしても例のベテラン使用人に思う所があるらしい。
「僕も後で特徴を聞きましたが、確かに魔獣の召喚魔法陣によく似ていたようですね。もしかしたら、召喚魔法陣はどれも似たような構成なのかもしれないですが。僕も直に見たかった…あ、いや、すみませんホッターさん。不謹慎でしたね」
無表情なのに、ザコルから申し訳ない気持ちが伝わってくる。
「いえ、私のことはお気になさらず。私の世界には魔法も魔法陣も無いですから、そういう会話を聞くと本当に異世界に来たんだなって正直ワクワクします」
私がそう言うと、ザコルが少しだけ口角を上げた、気がする。
「なかなか女性には好まれない話題なので、そう言われると何だか新鮮です」
この国の女性には冒険心というものがないのか。魔法陣なんて、厨二の頃に一度はノートに書いたことがあるようなものだろう。
「私の世界なら聞きたがる女性は沢山いると思いますよ。そういえば、魔獣がいるっていう魔界はどんな場所なんですか。例えば、知能を持った人間に近い魔族のような方は存在しているんですか?」
「いますよ。かつて強大な魔力を持った魔族の方を誤って召喚してしまって、その方の怒りに触れ、一つの国が滅びかけた事があるとか」
「怖っ」
「その魔族の方は自力でご自分の世界に帰られたそうですが、それ以来間違いが起きないように、魔獣召喚の際にはしっかりと場所を特定して行うようになりました。魔界の中でも決して知能の高い魔族の方が住まわないような深い森の中で、喚ぶ魔獣の戦闘力なども魔法陣の中で指定します。強い魔獣は扱いが難しいのでむやみに召喚しません。以上、かつて魔法陣技師だった父の受け売りです」
ザコルが生まれたサカシータ子爵家は、代々魔法陣技師を輩出してきた家系なのだそうだ。ザコルはただの物好きなオタクというわけではなかったらしい。
ちなみに、サカシータ子爵家の一番上のお兄さんは魔獣専門の魔法陣技師として王宮に出仕しているらしい。以下三男は長男の補佐として王宮へ出仕、五男と七男は他領の騎士団へ、次男と四男と六男と九男は実家で辺境の砦を守っているそうだ。サカシータ家、子沢山だな。
この世界には、節目節目に異世界や魔界からの召喚に頼ってきた歴史がある。魔界でない『異世界』が私が育った地球のみを指すのかは不明だが。
多くの恩恵に預かった一方で、甚大な被害を出したり、この世界なりの倫理的な問題に触れたりもし、その度に多くの人が後悔したのだろう。きっと多くの学びがあって、召喚を制限する方向へと進んでいるのだ。
幸い、今は国家間の大きな戦争や激甚災害もなく、異世界から力の強い人を敢えて喚ぶような情勢でもないらしい。
…誰だ、私みたいな社畜をうっかり喚んだのは。
もし役に立つ魔法能力とやらが無くて元の世界にも戻れないとなったら、どう責任を取ってくれるつもりなんだろうか。何となくこの家にいたら一生甘やかされそうな気もするし、周りと人種が違うからどこかに嫁ぐとか売られるとかですら難しいかもしれない。
どこかの公共施設の雑用係などでいいから紹介してもらえないだろうか。怠惰に生きたいのはやまやまだが、人間として自由と尊厳を認められてしまった以上、一生穀潰しになるのだけは避けたい。
「ホノルはしっかり仕えているだろうか。家では、ホッター殿が自分自身でほとんど身の回りの事を済ませてしまうので、あまり世話をさせて貰えないと言って悩んでいるのだが」
「えっ、ホノルさんってハコネさんと一緒に住んでるんですか?」
「ああ、使用人同士の夫婦には、世帯単位で暮らせる借家を敷地内に与えられるのでな。息子二人も一緒に暮らしているぞ」
「ええええ、ハコネさん達夫婦だったんですか⁉︎」
「そうだが、俺もホノルも言っていなかったか」
「初耳ですよ! ご夫婦揃ってお世話になってたんだ。知らなかった。そっかー、何だか嬉しいな。ふふ、ホノルさんに色々話聞いちゃお」
ハコネが急に神妙な顔をする。
「いいか、ホノルには俺がいつも感謝しているとしっかり伝えておいてくれ」
「そうですね。後、何聞こうかな。馴れ初めとか口説き文句とか愚痴とか…」
「それは聞かなくていい!」
「あははは。分かりました。この機会に色々お話してみますね」
「頼むぞ。せめて掃除くらいは自分にさせてほしいと言っていた」
「あー、良かれと思ってやってましたが…仕事を取ってしまいましたかねえ」
正直、読書と魔法のお試し以外やることがなくて心苦しいというか、手持ち無沙汰で不安になるのだ。牢に捕らわれていた時はまだ割り切れたが、最近は自分一人だけが働かないことへの罪悪感が日々募るようになってしまった。朝から掃除くらいしないと人間として本格的にダメになるのではないだろうか。とはいえ、着替えや湯浴みを手伝ってもらうのも気がひけるし…。よし、ホノルさんに交渉しよう。
その後、掃除はホノルさんと楽しく一緒に行うという取り決めをし、今日も今日とてザコルと一緒に練兵場に出ている。
何となく、最近彼の目の下の隈が薄れてきて、顔色が良くなっている気がする。このところ私に付き合う時間が増えたので、元々の仕事が免除されているのだとも言っていた。
毎日のように長時間付き合わせて申し訳ないと思っていたが、他の仕事に皺寄せが行っていないのならいい。何ならもっとサボりの理由に使って欲しい。
ハコネの方は外せない仕事が多いらしく不在が多かった。ちなみに、ハコネは伯爵家お抱え騎士団のうち、第二騎士団の団長をしているらしい。平民階級などと言っていたが、代々伯爵家に仕える家の出身であり、伯爵様からの信頼も厚いとのこと。
第二騎士団は主に屋敷に常駐して屋敷と領都を守る役目を果たしている。
ちなみに、第一は基本的に領境近くを守っているらしいので、屋敷で出会う確率は低いそう。第一騎士団の団長は古株のベテランで、ハコネを新兵から鍛え上げた人なのだそうだ。
それでなぜ、第二騎士団団長などという偉くて忙しそうな人が一時期私なんぞの世話を任されていたかといえば、当時の屋敷内で一番腕っぷしが強く、私が強い魔獣だったとしても制圧できる実力があったから、という単純な理由だそうだ。
ハコネが「世話係がよりによって俺だぞ!」と憤っていた気持ちも解る。
正直あの時の私なんて、若いメイドの一人にすら勝てなかったと思う。それくらいにはやつれきっていた。騎士団長クラスでは確実にオーバーキルだ。
「そういう事ではなく、うら若い女性のお世話をこんなむさ苦しい男に任せるなんて、という意味で言ったんだと思いますわ」
と、ホノルはフォローしてくれた。うら若い…か。少なくともホノルよりは年上なのだが。
ザコルはと言えば、本人曰く、
「僕もそれなりに闘うことくらいはできますよ。嗜み程度にですが。普段は文官みたいなものですし、雑用とか使い走りのような仕事が多いので少々鈍ってきていますね」
だそうだ。
ザコルの真の実力は計りようがないが、結局、私の相手は腕っぷしで選ばれているのかもしれない。密かにホノルの実力が気になっている所だ。
そんな日々が二週間、三週間と続けば慣れてもくる。慣れてもきたが、正直飽きてもきた。
毎日のように思いつく魔法をイメージして試してはいるが、何度やってもただザコルの前で厨二病ポーズを繰り返しただけで終わる。大して運動などしていないはずなのに、恥ずかしさで精神がえぐられるせいか地味に疲れる。ザコルもいつも真顔で見てるだけだし。いっそ思い切り茶化したりしてくれないだろうか。
検証がひと段落すると練兵場の隅のベンチに座り、休憩がてら二人でのんびり話をする。それもお決まりの流れになっていた。
「最近、少し暑くなってきましたねえ」
「春も終わりですから」
気分は完全に老人会だ。
「師匠、私、魔法能力に心当たりはないと断言してしまいましたが、一つだけ心当たりというか、疑問があるんですよ」
「何でしょう。というかシショーとは何ですか」
「師匠っていうのは、先生みたいな意味ですね」
ザコルの名前からハリウッドなんとかシショウを連想したから、というのは黙っておく。
「疑問というのは、こうして言葉がほぼ完璧に通じる事です」
「ああ、なるほど…。それは、不思議に思っても無理はないですね」
ザコル師匠は小さく頷く。
「ただ『神に遣わされた渡り人はあらゆる国の言語を解される』と伝わっているのです。昔から」
昔から。そういうものってこと?
「このテイラー家の祖先に当たられる聖女様も、この国の言葉は召喚時には既に話すことができたと文献にあるのですよ」
「そうなんですね。異世界からやってくる時に神様が必ずくださる能力、ということなんでしょうかね」
「そうかもしれません」
「あの、人が主導して召喚しているんですよね? 召喚は『神に遣わされし』所業なんですか?」
魔術的なロジックがあって召喚されるのと、神の気まぐれで召喚されるのとでは少し意味合いが違う気がする。
「神というか、この世界と異世界の理に干渉する所業にはなるので、それを神の力を借りるという捉え方もできると思います」
捉え方の問題なのか。まあ、確かにそうか。そんな事を言ったら魔法だって神の力みたいなものか。
「その辺りは各国の宗教観にもよるのですが、我が国では魔法、魔法陣に関する事を宗教と結びつけることはありません。魔法は個性、魔法陣は技術の一つ、その力は広く世の為人の為にあれと今は教育されています」
「へえ、『今は』なんですね」
含みのある言い方だ。
「そう『今は』です。二百年ほど前に教会の一派が力を持った事がありまして。全ての魔法や魔法陣は神の力を借りた業であるとして、魔法士や魔法陣技師を教会で管理・独占し、その力を使って国家を乗っ取ろうする動きがあったのです」
「怖っ」
「僕個人としても、魔法や渡り人の能力を『神の御技』の一言で済ませるのはどうかと思っています。まあ何かしらの理由はあるのでしょうが、とりあえず今の段階で言えるのは、渡り人は何故か必ず言葉が通じる、そして強い魔法能力を持つ人が多い、という共通認識が世界中にあるということです」
言語能力もとい翻訳チートの搭載はデフォだということだ。私固有の能力でも何でもない。まだまだ厨二ムーヴもとい、魔法を試すのは続けないとダメだということだ。くそう。
「あの、翻訳チート、いや言語能力があって私は助かりましたけど、喚ばれた瞬間から言葉が通じるなんて都合が良すぎじゃないですかねえ」
ご都合主義、そんなのは漫画やラノベの中の話だけかと思っていたのに。いざ自分がその恩恵に預かるのは不思議な気分だ。
「ええ、言語にしろ強大な魔法にしろ、あまりにも喚ぶ側にとって都合の良すぎる能力ですね」
ザコルはまた含みのある言い方をした。何か、個人的に思うことでもあるんだろうか。
「……もしや私の魔法能力なんて、このまま発現しない方が平和のためじゃありません?」
ちら、もっさりした前髪の隙間から、暗い色の瞳が私の方を向く。
「気持ちは解りますが、もしも何かの拍子に強い力が発動して、あなたご自身も周りも危険に晒されるようなことがあっては困りますので」
「全くおっしゃる通りで」
「さあ、平和のために検証の続きをしましょう」
平和の事なんて、これっぽっちも興味がなさそうに見えるのは私だけか。
内緒で魔法士の人とか呼びましょうよー、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。そんなことはザコルも思っているに違いない。
結局、ザコルもハコネも、魔法に巻き込まれる危険を承知の上で付き合ってくれているのだ。きっとホノルだってそうだ。態度には決して出さないけれど…。ハコネとホノルの息子ちゃんたちのためにも、なるべく早く力を解明してコントロールできるようにならなければ。
「そういえば、師匠はご結婚されているんですか」
「僕は二十六年間ずっと独り身です」
ザコルが私の一個上だというプチ情報を得た。
◇ ◇ ◇
その後も順調に厨二病ごっこ…もとい魔法を試す日々を送った。
訓練で練兵場を使用していない時間を選んでいるので、午後の決まった時間しか行えない。何かあった時に、なるべく多くの人を巻き込まない配慮が必要だった。
気づいたら、この世界に喚ばれてからかなりの日数が経過していた。借りて読んだ本もかなりの冊数になったと思う。
テイラー伯爵領はオースト国の東側にあって、比較的温暖で肥沃な地域である。オースト国は海に囲まれた広大な島国で、資源や水に恵まれ、全国的に農作に適した土地が多い。日本と同じように四季もあり、一年を三百六十五日とする暦もある。地球のパラレルワールドみたいだ。
オースト国では十二ヶ月という考えも一応あるようだが、伝統的には四半期の九十一日を四季名で呼び、それをさらに前期四十五日と後期四十六日で区切っているようだ。冬後期だけ一日多くて、それが一年を締めくくる日。話に聞いていると、冬後期あたりには寒さが和らぐそうなので、こちらの年末年始は、おそらく日本の暦でいうと二月半ばから三月半ばに相当するのではないだろうか。日本と同じように、年末年始は家族や大切な人と過ごすようだ。
私がこちらに喚ばれたのは、こちらで言うところの春前期だった。今は春後期の終わり頃。日本でいえば、五月か六月くらいに当たるだろう。最近は段々と日中の気温が上がってきている。日本の梅雨ほど湿気てはいないが、雨の日が多くなり、屋外で魔法を試せない日も増えた。
ある大雨の降った日、今日は一日外に出られないだろうと踏んだ私は、朝から読書に専念することにしていた。ホノルが温かい紅茶を淹れてくれたが、気温が高いためになかなか飲み進まない。この世界には冷蔵庫がなかった。
「キンキンに冷やした麦茶や緑茶が飲みたいな…」
ぼんやりとカップに張った水面を眺め、日本の夏を想う。
突如、パシ、と音がして、その水面に雲のような模様が浮かび上がった。
「えっ」
パキパキパキ…。雲のような模様から、細かなヒビが広がるように水面全体が白い筋で覆われていく。
熱かったカップは持っているのが辛い程の冷たさになり、思わず取り落としそうになって、慌てて両手で掴んだ。
「は? えっ、こ、これ、まさか凍っちゃった…⁉︎」
「ホッターさん、どうかなさいましたか」
ホノルがのんびりした様子で、菓子の乗った皿を運んでくる。
「ホノルさん、私から離れて! 魔法かもしれない、ザコル師匠とハコネ兄さんを呼んできて!」
ホノルは私の手元を見てギョッとしたものの、コクコクと頷いた。
「わ、分かりましたわ! ホッターさんも、お、落ち着いて待っててください。大丈夫、大丈夫ですからね。すぐに呼んで来ます!」
ホノルが部屋のドアを開け、パタパタと廊下を駆けていく。…急に爆弾を持たされたような気分だ。
もし、ありのままの姿を見せたらここが雪と氷に閉ざされてしまうのだろうか。
…ダメダメダメ、氷の女王とか絶対に考えちゃダメなやつ間違いない。氷に連なるイメージを必死で脳内から追い出そうとして、何となくパッと浮かんだチゲ鍋の事を考えることにした。…そういえば辛いものもしばらく食べてないな。
チゲ鍋チゲ鍋チゲ鍋…………
チゲ鍋のおかげで少し冷静になることができた。
ずっと指先でつまむように持っていたカップをそっとテーブルに置いたところで、ザコルがホノルと一緒に部屋に駆け込んできて、少しの時間差でハコネが到着した。
私に発現した能力の分類は『氷結』という事で、ザコルによって報告書にまとめられた。
久しぶりにキンキンに冷えた某酎ハイを飲みたいような気持ちになったが、しばらくは迂闊に思い出さないよう、チゲ鍋の事ばかり考えている事にした。
◇ ◇ ◇
それからさらに二ヶ月。もう夏後期、日本で言えばお盆くらいの時期になった。
私は『氷結』を極めるべく、師匠と共に様々なことにチャレンジした。
大量の井戸水を樽などに貯めてもらって全力で凍らせてみたり、小さな氷像を作るなどの繊細な作業してみたり。
周りに迷惑をかけないためにも。力のコントロールは完璧にしなければならない。
ちなみに、私が全力で凍らせた氷塊をそのまま練兵場に置いていたところ、夕方私が部屋に引き揚げた後に、使用人やその家族、兵の皆さんが集まってくるようになった。
真夏に氷が珍しいらしく、触っては皆が喜んでいる。私はそれを窓から楽しく眺めていた。
そのうち大きめの氷塊を作る日は事前に通達するようになり、調理部門の方々が張り切って炊き出し屋台などを出し、子供達がキャンドルを持って集まり、さながら夏祭りの様相を呈するようになった。もちろん私はそれを窓から楽しく眺めていた。ぐすん。一緒に参加したかったなんて言わないもん。
使用人の奥様方が考案したという、氷塊を砕いてシロップをかけたスイーツは、新鮮な果物も添えられて伯爵様やご家族の下にも届けられたとか。異世界の夏にかき氷が爆誕した。
夏休み…いや、夏後期も終わる頃、私は手元で紅茶を一部凍らせて温度を調節し、アイスティーを自在に作れるくらいまでには成長していた。どこか夏合宿みたいで楽しかった気もする。
暑い日は朝からホノルと掃除をした後、一緒に二人分のかき氷を作ったりもした。部屋の隅にタライを用意してもらって氷を置き、クーラー代わりにすることを思いついて実行もしてみた。外で魔法を試せない日は部屋にザコルやハコネ、それに当直の護衛の方にも声をかけて、かき氷やアイスティーを振る舞って一緒に涼むこともあった。
◇ ◇ ◇
チゲ鍋チゲ鍋チゲ鍋…………
私は今、必死で頭の中をチゲ鍋でいっぱいにしている。
ついに伯爵様とそのご家族にお会いする事になってしまった。私の氷結の力が安定したとザコルとハコネが判断したからだ。
本日は本邸で行われる晩餐会にご招待されている。緊張しすぎて吐きそうだ。
もしも、もしもだが、緊張のあまり正気を失い、その場の水分を全て凍結させでもしたらどうしよう。まだ空気中の水蒸気とか、生き物に含まれる水分までは凍結させたことはないけ…いや、だめだ、今余計なイメージを膨らませるのはやめよう。私は目の前の水を氷にすることしかできない。それでいい。NO! グロ展開!
「いや、違う! チゲ鍋だよ! ノーモア凍結!」
ドレスを着付けてくれているホノルがビクッとした。
「凍結しちゃだめだ凍結しちゃだめだ凍結しちゃだめだ」
「ミカ? 大丈夫ですか? 緊張しすぎると良くありませんわ。一度かき氷でも作りますか? 私、お庭になっているベリーで新しいシロップを作ってみたのですよ。気分転換に」
「ホノル…私、もうダメかもしれない…。伯爵様を凍らせたらお邸追放、いや国外追放かな…? それとも処刑!?」
ホノルとはこの数ヶ月でかなり打ち解けた。一歳年下の彼女はとてもしっかりしていて、いつもいつも本当にお世話になっている。どっちが年上だか分かったものではない。
「大丈夫、大丈夫ですよ。力を暴走させたことなど、結局一度もなかったではありませんか」
「それはそうだけど…」
「ミカが作った氷は皆に大人気ですから、伯爵様も楽しみになさっていますわ。遠目にしかお会いできてない使用人の間でも『慈愛の氷姫』なんて呼ばれて慕われていますよ」
「はっ!? 何その二つ名! 初耳なんですけど! 恥ずかしすぎない!?」
「恥ずかしいものですか、使用人風情が真夏に氷の恩恵に預かれるのは氷姫様のおかげなんですから。その氷姫様が、人々が氷に集まる様子を窓から微笑んでご覧になっているから、慈愛に満ちたお方だと評判に……ふふっ」
ホノルが顔を背けて吹いている。
「笑ったね!? 別に慈しんだりしてないよ、ただ、楽しそうでいいなーって思ってただけで…」
「知っていますとも。伯爵様のお許しが出たら、夏が終わる前に必ず皆と一緒にかき氷を食べましょうね」
ホノルが優しく私の背に手を当てる。
「あああああー、それだよー伯爵様だよー。力の暴走なんて論外だけど、変な事口走って面接落ちたらどうしよう」
「面接…? ミカ、いつも通りでよろしいのですよ。いつも通り、気楽になさってください」
「いつも通り気楽…か。ねえ、私、ホノルやハコネ兄さんに無礼な事してない? 最近皆と話すのが楽しくて調子に乗ってる自覚があるんだけど」
「何をおっしゃるの、ミカは気にしすぎなのです。大体、あなたは故郷を離れて心細かったはずでしょう。もっと我儘を言ってもいいくらいなのにちっとも甘えてくださらない。むしろこちらとしては不甲斐なさを感じるばかりですのに…。いいですか、伯爵様に対しては決してご厚意を断ってはいけませんよ。謙虚も過ぎれば無礼になりますからね」
これ以上に与えられるご厚意って何だ…? 王宮みたいな屋敷への引っ越しは既に断ったが、それ以上のご厚意など用意されても正直キャパオーバーだ。
「不安だよおおおおおおおお」
「落ち着いてくださいませ」
そうこうしているうちに、ドレスは着付け終わり、ヘアセットやメイクまでホノル一人で完璧にしてくれた。
ホノルが私の手を取って大きな鏡の前に立たせてくれる。
「これが、わたし…?」
何ということだ。もはやテンプレのようなセリフしか出てこない。
膨らんだ袖のついたプリンセスラインで、装飾は少なめ、腰をサッシュベルトで締めたシンプルな形のドレス。色は落ち着いた紺青のワントーン。アクセサリーはプラチナ製らしい鎖にネオンブルーの宝石があしらわれたネックレスとイヤリングのセットだ。
昔見た宝石図鑑の知識の中では、パライバトルマリンとか呼ばれるレアな宝石に近い気がするけれど、もしもっと価値のあるものだったら怖いから聞かない。逆に安物のわけがないから絶対聞かない。
髪にはドレスと同色のリボンを使ったバレッタをシンプルに装ってくれた。全てこの屋敷の衣装部屋からの借り物だ。私の要望通り、派手すぎず落ち着いた色味のものをホノルが選んで持ってきてくれた。
メイクはといえば、これも私が会社に行くためだけにイヤイヤやっていたものとは大違いの仕上がりだ。肌のくすみなどが完全に無かったことにされている。
七五三なんてしたかどうかさえも覚えてないし、成人式はバイト優先で行ってすらいない。おまけに人の結婚式にも呼ばれたことがなかったので、これが人生でも初めてに近い盛装体験だ。
「お綺麗ですよ。もっと明るいお色も似合いそうですね」
「つつつつ次の機会があれば」
「もう、ミカ、本当に落ち着いてください」
コンコン、と扉がノックされた。
「ああ、きっとザコル様ですね。私が参ります」
ホノルがデキる侍女然として扉を開けに行った。
入室したザコルがいつもと違い、かしこまった一礼をしてから歩を進めてくる。
「ホッターさん、こんばんは。いい夜ですね。これはこれは、いつにも増してお綺麗です。氷姫らしい涼しげで素敵なお色を選ばれましたね。あなたの美しい象牙色の肌を一層引き立てている。まるで宵闇に咲いた一輪の薔薇のようだ」
思わず絶句してしまった。何やら棒読みな気もするが、こんな長文の褒め言葉を人からもらったのは初めてだ。心臓が変な打ち方をしている。口が半開きで閉じてくれない。
「…何ですかその顔は。せっかく噛まずに言えたというのに」
余計な一言を付け加えたザコルに、隣でホノルがふるふると首を振っている。そういうところですよザコル様は、と小声で言っているのが聞こえる。
彼もまた貴族の令息か。淑女への挨拶がわりに美辞麗句を噛まずに言えるスキルを持っていたとは恐るべしだ。
彼も派手ではないが、黒い上着とベストに優美なシルクのシャツで、準正装といった格好だ。ただ、少しサイズが合っていないのか上着の腰回りや袖口がもたついている気がする。良かった、あっちも借り物感満載だ。
もっさりしていた頭は一応ちゃんと整えられており、いつもの猫背も心なしか伸びている。こうして髪がスッキリ上げられていると、それなりに上品な顔立ちをしていたことにも気づく。いつも前髪の陰になっていたせいで黒に近い焦茶一色の瞳だと思っていたが、こうして見ると虹彩の一部が榛色のグラデーションになっていたようだ。これは、珍しいのではないだろうか。
無遠慮にジロジロ見ていたら、ザコルが眉を寄せ始めた。よし少し冷静になってきたぞ。半開きの口もようやく閉じた。
「すみません、褒めてくださってありがとうございます。師匠も素敵ですよ。なんていうか、ちゃんと貴族のお方に見えます」
「ありがとうございます。いつもは貴族には見えていないという事ですね。…あの、今更というか、前からずっと気になっていたんですが、どうして僕の事をずっとシショーと呼ぶんです」
「それはもちろん、ハリウッドですよ、ザコル師匠」
「ハリ…? 何ですって?」
この怪訝な顔よ。やっぱり彼はこうでなくっちゃ。ああ落ち着く。
パンパン、ホノルが手を叩いて場をシメる。
「ミカ、緊張が解けたのなら何よりですわ。いつも通りになさったらいいけど、ふざけすぎてはいけませんからね」
「ありがとう、ホノル。明日はベリーのシロップの味見をさせてね」
はあ、とザコルが溜め息をつく。追求するのは諦めたらしい。
「そろそろ行きますよ。その格好は歩きにくいはずです。エスコートするので手を僕の腕に添えてください。細かいマナーはあまり気にしなくていい。気楽にしてください」
ザコルが腕を軽く曲げて差し出してくれるので、遠慮なく手を掛けさせてもらう。
…おや? 手を掛けて初めて判ったことだが意外に太い腕だった。いつも服がダボダボしてるから気づかなかったが、この硬い感触、全て筋肉では…。
ホノルに見送られて部屋を出ると、ハコネがビシッと良い姿勢で待っていた。護衛役だ。
「おお、ホッター殿。似合っているじゃないか、流石はホノルの見立てだな」
一見私を褒めているようでただの妻自慢だ。仲良し夫婦だ。推せる。
「ええ、ホノルすごいですね、着付けからヘアメイクも全部してくれました。この色も気に入ってます」
「そうだろうそうだろう。彼女のセンスは奥様やお嬢様にも褒められることが多いのだ」
「へー、今度流行のファッションや小物の話でも聞かせてもらいますね」
ハコネが前を歩くので、ザコルと私はエスコートの姿勢のまま後に続く。
「ちなみに今この屋敷では、氷姫が召喚時に着ていたという上着を、洗濯メイドがそっくり再現して作ったのが話題になってな。女性陣が次々に自作しては休日こっそり着て街に出るのが流行っているぞ」
「超初耳なんですけど!?」
二つ名に次ぐ爆弾発言だ。今言う? ああ、そうか、この人も私の緊張を解そうとしてくれているのか。
私が着てきた上着ってあれでしょ、ヨレヨレのテーラードジャケット。無難で汚れも目立ちにくいネイビーの…。
「襟の造りなど一見紳士物に見えて、品のある色とシルエットが素敵だとか何とか」
「ハコネ、その件ですが、無断で作って着て出掛けているのは何かと問題があるのでは、一応、ホッター嬢に許可を…」
「嬢!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「いけませんか。今日は主の前ですので。僕に様付されるのは嫌だと言っていたでしょう」
「うーん、いけませんということは…」
嬢の方が様よりも小っ恥ずかしい気もするが…。
堀田のくせにホッターとか自称してる関係上、敬称など何をつけられても居た堪れない気持ちになるのは致し方…
「ホッタのくせにホッターと自称?」
「ああ、はい。堀田のくせにすみません」
「…は?」
「…え?」
ザコルと目が合う。明らかに睨まれている。思わずビクッと肩が上がる。
「僕は、ミカ・ホッター様と、はっきり記載して上に報告してしまったのですが…?」
「しまった、心の中で呟いてたはずなのにいつから声に出ていた…? いえ、別にいいですよこのままで。大して違わないし、もうマグルじゃなくなったことですし」
凍結呪文しか使えないけど。グレ○シアス! だったっけ。
「また訳のわからないことを言って! ふざけないでください、僕は嘘の報告は嫌いなんです!」
「真面目ですねえ、私が言った事ですよ。大丈夫じゃないですか」
どうせ私の申告が全てで、正しいかなんて証明もできない。どうあっても彼の責任にはなるまい。
「おい、何を喧嘩している。そろそろ使用人寮を出るぞ。裾をその辺りの藪に引っ掛けさせないようにきちんとエスコートしろよ、ザコル殿」
ハコネがこちらを気にして声をかけてくれる。もしや、ザコルは女性をエスコートし慣れていないのだろうか。貴族子息のくせに平民階級の武人に心配されているのが気になる。
「何が大丈夫なんです。ご自分の名前でしょう」
当の本人はハコネの言葉など耳に届かなかったらしくまだプンスカしている。
「怒らせたならすみません。ちょっとポッターっていう苗字の有名な魔法使いに憧れてまして…軽率でした。でもこちらではホッターのまま墓場まで持っていきますからね。師匠の責任問題にはしません」
「僕の責任なんてどうでもいいんです」
「あとあの上着…テーラードジャケットも別に私が発案した物でもないのでお気になさらず」
「あの服、テーラードジャケットというんですね。…では僕が後で勝手に釘を刺しておきます」
ツン、とザコルがそっぽを向く。しまったな、名前の発音くらいでそんなに怒らせるとは。
彼は、自分が変なあだ名で呼ばれていることにこそもっと怒った方がいいと思うのだが。異世界人の苗字なんてどうでもいいだろうに。
「どうでもよくありません。名前は、あなたがこの世界に持参できた数少ない財産の一つなんですから」
「あの、ししょ…いえ、ザコル…様はエスパーなんですか? どうしてさっきから考えてる事を」
「僕に様付けしないでください! えすぱーとは何なんですか!」
「もー怒らないでくださいよ。私だって伯爵様の前で貴族のご令息を変なあだ名で呼ぶわけにいかないんですから」
ぷい、まだそっぽを向かれる。と思ったら、不意にハコネが振り向いたので足を止めた。
「ここより本邸のエリアに入る。お前達、ここまででいい。持ち場に戻れ」
「は!」
「氷姫様、いい夜を」
私がお邪魔している使用人寮の一つから本邸まで歩くのに、背後を護衛隊の皆さんが固めていてくれていたようだ。ドレスの裾さばきとおしゃべりに意識を取られていて、ずっと後ろにいたのに気づいていなかった。皆会釈して引き返して行った。
ハコネが少し小声になる。
「ここからは本邸の護衛や使用人の目がある。少しは会話に気をつけろよ」
「は、そうですね、訳の分からない言葉ばかり発する変人と噂されたら氷姫のイメージがだだ崩れですもんね。そんなのを匿っているなんて伯爵様にもご迷惑が…」
「そういうことではないが、まあいい。静かにすましていれば問題ない」
ザコルの方を見たら、ゴゴゴ、とでも効果音のつきそうな顔でこちらを見ていて、再びビクッとする。
「ホッターさ…いえ、ホッタ嬢」
「な、何でしょう」
「僕の事はともかくあなたは賓客なのですから。丁重に扱われて然るべきです」
「そう、ですか。私はむしろもっと軽く扱ってほしいくらいなんですけど」
「ですから…! いえ。ご自分の事はきちんと大事にしてください。名前、僕は正しく呼びたいです」
「じゃあ、ホッターはそのままでいいので、ミカと呼んでください」
ザコルが絶句し、今度は額に手をやって眉間を揉み始めた。なんでだ。
「おい、俺の話を聞いてたか? 二人とも黙っていろ。本邸に近づけんだろうが。ザコル殿、気持ちは解るが、今日のところはホッター殿で通せ。俺の聞き間違いが原因だろう、すまなかったなホッター殿」
ハコネが軽く頭を下げるが、彼は別にホッター呼びを変えるつもりはないらしい。まあ、申告しちゃったもんね。
「いえ、特に訂正しなかった私が悪いので。もう一度言いますが、私はどちらでも構わないんです」
「…………」
ザコルが無言で顔を上げて背筋を伸ばした。
伯爵家本邸は白くて立派な城のような建物だった。…でかい。王族が住んでいると言われれても納得できそうな規模だ。
恐らく初日、お嬢様の部屋に出現した時にもこの屋敷を出入りしているはずだが、当時は混乱していて建物の全容など目に入らなかった。じっくりと見るのはこれが初めてだ。
今は夕暮れ時。斜めからの陽光が白亜の豪邸に当たり、施された彫刻などの陰影がくっきりと際立っている。壮麗な眺めだ。
建物まで続く白くて長い石畳の道をゆっくり歩く。傍には整えられた庭木や花。どれも計算し尽くされて植えられているのが判る。昼間にくればまた違う光景が見られるだろう。
ザコルはムスッとしているが、慣れないドレスの私に歩調に合わせて歩いてくれた。前を行くハコネも、後ろをさりげなく確認しながら歩く速度を調整してくれている。
あの日、十五連勤の後ここに突然転移して、連れ出され、牢に入り、出て、魔法を使えるようになった。季節はいつの間にか春から夏になっていた。
渡り人の立場が悪いものではないとどんなに聞かされても、どんなに目の前の事に向き合っても、どんなにザコルやハコネやホノルが良くしてくれても、たまにフラッと地に足がつかなくなるような感覚は消えてくれない。
母親に置いていかれ、世話になった祖母とも離れた。新卒で入ったあの会社ももうクビだろう。
高校に入った頃から祖母の具合が悪くなり、私が学校に行きながら家事と介護もしたが、最後は叔母の手配で祖母は施設へ入居することになった。もう、私が祖母に直接返せる事はほとんどなくなってしまった。
叔母に保証人になってもらい借りた奨学金、それと少しの貯金とバイト代で何とか大学を通いきった。卒業後に入った会社では、奨学金の返済もあってとにかくがむしゃらに働いた。そんな働き詰めと例の感染症騒ぎのせいもあって、もともと少ない友達とは疎遠になり、気づけは、会社の外で知人と会うような機会などほとんどなくなっていた。
正直、いつ居なくなっても誰にも心配されないような人間。
そんな人間が、たまたま異世界に来ただけでどうして偉くなれる?
期待していた魔法能力だって、せいぜいが少し氷を作れる程度のもの。世界は救えそうにない。
こんな豪華なドレスを着せられ、大事にエスコートされながら立派な屋敷に向かっている状況は、まるで都合のいい…いや、悪い夢を見ているようだった。自分が別人の皮でもかぶっているように感じて、生きた心地が全くしない。
どうしてこの世界は、何もできない私に優しいんだろう。
どうしてこの人達は、私に何も求めてくれないんだろう。
どうして私は、親切にされているのにこんな風にしか考えられないんだろう。
彼は私の名前を、この世界に持参できた財産とまで言ってくれたが、家族との関係が希薄な私にとっては、名前など記号の一つでしかなかった。
ふとした価値観の違い。自分が『まともでない』事をまざまざと突きつけられたような気がして、私はキュッと唇を引き結ぶ。
ふと、腕に回した手の甲に、温かい指先がちょん、と添えられた。
「大丈夫ですか」
「え、あっ、大丈夫です。気遣わせましたね、ありがとう。それからごめんなさい…」
「謝らないでください。僕が差し出がましい事を言いました。落ち込まないで」
あまり喋ると泣きそうだったので、私は無理矢理顔を上げ、にこ、と笑ってみせた。
さあ、これから伯爵様に会うのだ。心をリセットして、ただ失礼のないように。しっかりしなければ。
屋敷の入り口に近づき、ザコルが私の手をそっと取って腕から離した。
私が入口の前に立つと、自然に扉が開かれた。中では大勢の人が並んでいて一斉にお辞儀をする。中心に長身でスラっとした体躯に煌びやかな服装を纏った、金髪碧眼の男性が笑顔で立っていた。
「ようこそ。ミカ・ホッター殿。私はセオドア・テイラー。直接お会いするのは初めてだな」
彼はそう言って胸に手を当て、軽く礼の姿勢を取った。この人が伯爵様。壮年だが美しい男性だ。
貴族男性の装いにはあまり詳しくないので良し悪しは分からないが、クラヴァットとカフスにあしらわれた赤みの強いルビーらしい石に目が行ってしまう。博物館級にしか見えない。上着は臙脂色で、金糸により緻密な刺繍がなされている。
「本日はこちらまでお越しいただき感謝する。あなたを当家に迎えられた事を大変喜ばしく思っているのだ。それだけに、顔見せの機会が遅くなった非礼を詫びたい。どうか、望みがあれば何なりと申し付けてくれ」
ご挨拶いただいたので、こちらもスカートを両手で持ち上げ、セオドア様より深く頭を下げて膝を折った。付け焼き刃だが、ホノルから教わった礼の仕方だ。
いわゆるカーテシーというやつで、知ってはいても実践はこれが初めてだった。脚がプルプルとして今にも倒れ込みそうだ。
「初めまして。ミカ・ホッターと申します。お会いできて光栄です。御息女のお部屋に突然現れた不審な者に温情をいただき、今日まで手厚く遇していただいたこと、心より感謝申し上げます。伯爵様がお詫びをされるようなことはございません。ただ、今しばらくこちらのお屋敷の片隅でご厄介になることをお許しくださればそれで」
「ああ、ああ、それはもちろんだ。顔を上げてくれ。一生でもここで過ごしてもらって構わないよ。娘のアメリアもやっとあなたと話せると喜んでいる。部下からの報告は逐一受けていたが、噂に違わぬ可憐さだね。その見事な黒髪と黒い瞳には何者もが魅入られるだろう。それになんと美しい肌色だろうか、上等な象牙も霞むようじゃないか。夏の夜空のようなドレスもまるで引き立て役だ。ひとたび社交界に出れば話題を掻っ攫うことになるだろうね。我が国では約百年ぶりとなる渡り人がこんなにも魅力的なレディだとは! ああ、我が家はなんて幸福なのだろう。明日にでも信頼できるデザイナーを呼んで新しいドレスやアクセサリーをたくさん作らせなければ。我が家の威信をかけてあなたをもてなそう!」
想像を超える量の美辞麗句が頭上から降ってきた。まるで豪雨のようだ。
ザコルの褒め言葉もあれで控えめな方だったということか。
こんな煌びやかな人から煌びやかなお言葉を頂戴して、一体どんな顔をして返事をすればいいのだろうか。どんな報告を受けていたか知らないが、私は美しいというにはあまりにくたびれた日本の社畜である。社交辞令をどこまで受け取っていいのかも分からない。
「お、お褒めに預かり、ありがとうございます。ホノルさんのお化粧の腕が良かったのです。今でさえこんなに良くしていただいているのに、これ以上ドレスなどご用意頂くわけにはいきません……」
あ、しまった。ホノルに厚意を決して断るなって言われたのに。
「なんと慎み深い! 中身までも素晴らしいレディのようだね。でも、すまないね。まだ会いもしなういうちから新しい娘を得たかのように喜んでいる妻をがっかりさせるわけにはいかないんだ。申し訳ないが付き合ってやってくれないだろうか。それからあなたの部屋もこの本邸に移したらどうだろう。あなた好みの部屋を用意する。侍女も増やそう。行商人に家具や小物を持って来させようか。あなたの癒しとなるものがあればいいのだが」
「そ、そんな、えっと」
どうしよう、断ったはずなのに厚意が集団ダッシュで追いかけてくる。物理的にも眼前に伯爵様が迫ってくる。圧がすごい。思わず足が竦みそうになる。
厚意はありがたいと思うのだが、今の部屋やホノルのお世話や距離感にもやっと慣れてきた所だ。それが、こんな煌びやかな屋敷で侍女に囲まれて毎日ドレスを着て貴人の皆様と顔を合わせ続けるなんて本気で身が持たないかもしれない。というか、高確率で粗相する自信がある。侍女なる人々にも気を遣いすぎる事は目に見えているし、大人として自分の精神状態を一定に保つ自信がない。
いや、しかし、ここまで言ってもらったらもう腹を括るしかないのかもしれない。曖昧に微笑みながら口籠もっていると、
「恐れながら、発言をお許しいただけますでしょうか。主様」
それまで斜め後ろで黙って控えていたザコルが口を開いた。
「もちろんだ、ザコル。ホッター殿の案内、ご苦労だった」
「いえ、光栄なお役目をありがとうございます。ホッター様はこの通り慎み深い方ですし、まずは故郷での生活に近い生活をお望みのようです。この国の貴族文化に慣れるまでは、今しばらく時間をかけて環境を整えられた方がご負担が少ないのではないでしょうか」
し、師匠…! 思わずザコルの方を振り返ってしまった。穏便に転居を回避しようとしてくれているようだ。神はここにいた…!
私があからさまにホッとしてしまったせいか、セオドア様は私の顔を見て「ふむ」と頷き、
「なるほど。ハコネはどう思う」
ザコルよりもさらに後ろにいたハコネにも顔を向けた。
「恐れながら。私もザコル殿と同意見です。以前に別邸をご案内した時も落ち着かないと仰せでしたし、やはり故郷を離れた事による心労もあるでしょう。渡り人たる尊い御身ではありますが、まずはご本人が心穏やかに過ごせるのが一番ではないかと」
ハコネからも援護射撃が飛んできた。ホノルにハコネが妻思いだって毎日百回くらい言おう。
「ホッター殿、どうだろうか」
「あ、わ…私は」
どう答えるのがいい。せっかくザコルとハコネが断りやすい雰囲気を作ってくれたのだ、無駄にはしたくない。
「そ、そうですね。ご厚意は大変ありがたいです。ですが、ご存じだとは思いますが、私は一般的な庶民の育ちです。あ、あまり多くの方のお世話になるのは恐れ多く…。高貴な方と同じ生活をするには、そうですね、心構えが足りないかと思います。今の生活にも慣れてきた所でして、ええと、できれば、その」
途中からしどろもどろになってしまった。失礼な言い回しをしていやしないだろうか。ザコルやハコネに迷惑もかけたくない。考えれば考えるほど頭が働かなくなって変な汗が背中を伝う。社交の才能が絶望的すぎるのかもしれない。一応社会人なのに。
「ああ、そんなに恐縮しなくてもいいんだよ。あなたの望みが私達の望みなのだからね」
セオドアは優しい声音で私をあやすように語りかけた。
「なるほど、心構えが足りない、か。実に責任感の強いお人のようだね。私の考えを押し付けてすまなかった。我が家としては、あなたを伯爵領にお迎えできるだけで大変な名誉と考えているのだ。どうか気を楽にしてほしい」
「はい。せっかくのお申し出を無碍にするような事を言って、大変申し訳ありません」
「いいんだ、謝らなくていい」
「セオ、もういらっしゃっているんでしょう。いつまでレディを玄関に立たせておくおつもりなの」
セオドア様の背後にある立派な階段の上から声がした。見上げると艶やかな栗色の髪に淡い碧眼の女性が立っている。
装飾は少ないがラインやドレープが美しい無地のワインレッドのドレスに身を包み、透かし彫りが施された黒檀の扇子を片手に、舞のような裾さばきを披露しながら階下へと降りてくる。
「ああ、その通りだねサーラ。私とした事が失礼した、ホッター殿。紹介しよう。妻のサーラだ」
「初めましてテイラー伯セオドアの妻、サーラ・テイラーですわ。ようこそお越しくださいました」
アメリア様のお母様だ。と言っても実母には到底見えない。どこからどう見てもお姉様。
「ミカ・ホッターと申します。本日はお招きに預かり、誠にありがとうございます」
「素敵な響きのお名前ね。ミカ様、とお呼びしてよろしいかしら」
「いえ、お世話になっている身です。ミカとお呼びください。サーラ様」
「ありがとう、ではミカ。…でもね、あなたの方が身分は上になるかもしれないのよ。もし王宮などにお連れする時があれば弁えさせていただくかもしれないわ。でも、我が家ではミカとお呼びするわね」
…渡り人の地位って初っ端から伯爵夫人より上なの? おかしいでしょ…。
「ホッター殿、今の国王陛下の世になってから渡り人はお迎えしていないので、正式な身分などの扱いはのちに陛下がお決めになると思います。伯爵かそれ以上の位を与えられる可能性が高いですが」
ザコルがさりげなく近づいて教えてくれる。結局ハコネに言われた通り、ホッター殿と呼ぶことにしたらしい。
敬称って難しいね。名前って大事だね。とりあえず堀田をホッターなどと名乗っていた事は反省した。もう遅いけど。
「ふふ、ザコルがきちんとフォローしているようで何よりだわ。さあ、晩餐の席は整っていましてよ。子供達も首を長くして待っているわ」
伯爵夫妻の後をついて階段を登る。ザコルとハコネも引き続きエスコート役と護衛役でついてきてくれるようだ。
踊り場にはいかにも高そうな壺に色とりどりの花がふんだんに活けられ、その先の廊下には歴代の伯爵家の面々を描いた思しき絵画がずらりと飾られている。
伯爵家には、アメリア様とその弟君でオリヴァー様がいると事前に聞いている。オリヴァー様もきっと美少年なんだろうな。
先ほどは夫妻のキラキラだけでうっかり浄化され灰になるところだった。覚悟しておかねば本気で蒸発するかもしれない。
食堂に着くと、思った通りの美しすぎる姉弟が揃って迎えてくれた。目が潰れそうだ…くっ、この世に、この世に留まれ私…!
豊かな金髪、アクアマリンのような碧眼のご令嬢、アメリア。初めて見た時の印象と変わらずの美しさ愛らしさで、落ち着いたピンク色の可愛らしいドレスを着ている。
深みのある栗色ヘア、こちらも宝石のような碧眼のご令息、オリヴァー。まるでビスクドールかと見紛うような美少年で、母親のサーラとお揃い生地で仕立てられたワインレッドカラーの三つ揃えだ。
二人は優雅に礼をする。
「ホッター様、改めまして。テイラー伯爵セオドアが長女、アメリア・テイラーと申します。先日は、というにはあまりにも月日が経ってしまいましたが、初めてお目にかかりました際には大変な失礼をいたしました。許されるのならばぜひお話ししたく、今日の機会を心待ちにしておりました」
「初めまして。同じく長男、オリヴァー・テイラーと申します。僕もお会いできるのをずっと楽しみにしていました!」
「ご丁寧にありがとうございます。ミカ・ホッターと申します。アメリア様、その節は驚かせてしまい、こちらこそ申し訳ありませんでした。ぜひ色んなお話をしましょう。オリヴァー様、私もお会いできてとても嬉しいです。伯爵家は皆様本当にお美しくて素敵ですね」
本当は容姿だけでなく所作や言葉遣いなどにも感動していたのだが、緊張諸々から語彙が機能しなかった。美辞麗句を紡いでみたかったのに…。本の虫としたことが全く情けない。
大きくて豪奢な円卓に五人分の席が設けられ、グラスやカトラリーが並んでいる。
私の地位が不確定ゆえに上座下座を設けない配慮なのかもしれない。だが、私の席は部屋の入り口から一番遠い奥の席で、いわゆる上座に近い席だった。…こちらに上座下座の概念があるかどうかは知らないが。
ザコルに手を引かれて私が着席すると、続いて伯爵様が私の右隣に座り、そのまた右隣にサーラ、オリヴァー、アメリアという順で座った。ザコルは私の席の斜め後ろに立ってそのまま控えている。何か困ったら質問できそうな位置にいてくれるのはありがたい。ハコネは扉の前で待機するようだ。
お酒のボトルらしいものを給仕係のメイドさんが運んでくる。
「ホッター殿、お酒は嗜まれるだろうか」
「はい、そんなに強くはないですが」
「よかった。我が領の特産にと考えている蜂蜜酒だ。ぜひ感想を聞かせてほしい」
毎日食事をご馳走になっているが、お酒を出されたのは初めてだった。
ちなみに、伯爵家で供される食事は「あっさり味の洋食」という印象で、肉にしろ野菜にしろ素材の味を生かしたものが多い。焼く、煮る、蒸すなどされた食材に、塩や庭で育てられそうなハーブで味付けされている。何の肉なのか、何という野菜なのか全部は問いきれず、知らずに何となく食べているのも多い。
何か判らずに食べているとか、食に無頓着な方だと言う自覚はある。ただ、運ばれてくる料理は何を食べても美味しかったし、栄養バランスも見るからに良さそうだった。かつて私の主食であったコンビニのおにぎりとホットスナックの組み合わせよりは体にいいと断言できる。
ちなみにこちらには炊いた米らしいものはないようだが、様々な形のパスタとか、パンとか、芋類のマッシュなどが主食のようだ。
黄金色の蜂蜜酒がグラスに注がれると、セオドアが立って杯を掲げた。
「それでは、主役に捧げよう。ホッター殿の未来に幸多からん事を」
『幸多からん事を』
サーラ、アメリア、オリヴァーがグラスを持って復唱した。こちらでは乾杯の合図がお祈りなんだ。乾杯というより献杯というべきか。どう振る舞うか迷ったが、
「ありがとうございます。皆様にも幸福が訪れますように」
私もグラスを持って祈り返した。皆がこちらを見てにっこりと笑ってくれた。そんな反応にホッとする。
蜂蜜酒は香りは甘いが思ったより辛口だった。少しずつグラスを傾けて味わっていると、オシャレに盛り付けられた前菜が運ばれてきた。
「失礼いたします、ホッター様。よろしければ、ミカ様とお呼びしても?」
配膳が進む中、おずおずといった感じで、アメリアが話しかけてくれた。
「いえ、サーラ様にもお願いしましたが、ただミカと呼んでくだされば」
「それではわたくしの事はアメリアと。ぜひそう呼んでくださいませ」
にっこり美少女スマイル。うっ、圧が。お父様譲りか。
「わ、わかりました。最初は慣れないかもしれませんが、なるべくそう呼ばせていただきます」
「嬉しいですわ! ホノルと親しげに呼び合っていると聞いて、羨ましかったのです」
「ああ、それは私がお願いしたのです。あまり堅苦しい呼び方はしないでほしいと。何せ庶民なもので…」
「とても庶民には見えませんわ。所作も洗練されていらっしゃいますし」
…社交辞令か、はたまた若さゆえの目の曇りか。私の所作のどこが洗練されているというのか。
「ホノルはとても気がきくでしょう。わたくし、いつも助けられているの」
「ええ、ホノルがいてくれて毎日がとても楽しいです。ホノルを差し向けて下さったのはアメリア様…じゃなかった、アメリアですね。その他にも、本やお菓子の差し入れなど、いつも私のためにご配慮くださってありがとうございます」
そうお礼を言うと、アメリアは僅かに眉を下げた。
「お礼をいただくには及びません、わたくしにはそんな事しかできず…。あの日、あの場に居合わせたわたくしのばあや…侍女頭の指示にはあの場の誰もが口を挟めなかったのです。わたくしがもっとしっかりしていればと、あの時、もっとばあやと話ができたならと、本当に情けなく思っておりました。あなた様が誰も責めないで欲しいと言ってくださったと聞き、思わず涙してしまいましたのよ。どうしてそこまでお心広くあれるのかと」
「そんな、私、本当に心から感謝していたんですよ。あの部屋での暮らしは心身を整えるために必要な時間でしたから。好きな本もたくさん貸していただけましたし」
ここ、重要。本さえあればどこでも快適空間だ。最近は本を見ながら文字を書く練習もしてみている。大人になってからの勉強って超楽しい。
「元の世界ではずっと仕事漬けでしたから、毎日何の義務もなく食べて読んではゴロゴロして、まるで天国にいるようでした。後で罰が当たらないかと思っていたくらいです」
アメリアと目を合わせると、二人でふふふと笑った。
「お噂通り、慎み深くご寛大でいらっしゃいますのね。わたくしも見習いたく思います」
「アメリアは、十分思慮深く素敵に見えます。どうか私のような図々しく無遠慮な輩にはなりませんよう」
「まあ。うふふ、ご冗談を。本当に図々しい方はそんな言いようはなさらなくてよ」
美少女の笑顔に闇が垣間見える。まだ十代だが人間関係には苦労しているのかもしれないな。魔獣を送り込まれる心配までされるくらいだし。
「今度我が家の図書室をご案内したいですわ。わたくしも本が大好きなの。その後はぜひお茶もいたしましょう」
「ありがとうございます。楽しみです」
美少女とお茶の約束しちゃった。図書室かあ…。絶対すごい規模なんだろうな。楽しみすぎる。
「僕も! 僕も参加したいよ! 姉様ばかりズルい。ねえミカ、僕もオリヴァーって呼んで」
「まあ。オリヴァー、失礼でしょう。まずはきちんとホッター様とお呼びなさい」
オリヴァーはまだ十歳なのにお母様は手厳しい。貴族の子って大変なんだな。
「えー…はい、ごめんなさい母様。えっと、失礼しました、ホッターさま。僕もミカって呼んでもいいでしょうか? 異世界の事や、あなたのお話を聞かせて欲しいのです」
オリヴァーは浮ついた様子から一転、落ち着いた様子で話し始めた。
「もちろんですよ、オリヴァーさ…オリヴァー。どんな事でも遠慮なく聞いてください」
「ありがとうミカ!」
ぐい。オリヴァーは途端に椅子から乗り出した。サーラが眉を寄せつつも苦笑している。
「ねえミカはどうして黒くてツヤツヤな髪をしているの? まあるくて黒曜石みたいなお目目もすごく綺麗だね。僕ね、美しくて珍しい色を持った人が大好きなんだ。見ているだけでワクワクしちゃう。ずっと眺めていたいよ」
怒涛…。流石はセオドア様のお子だ。
「そ、そんな風におっしゃっていただけるなんて嬉しいです。オリヴァーの方がずっと…いえ、少し照れてしまいますね。黒髪黒目は、私のいた国では一般的な色彩なんですよ。珍しくない、というかほとんどの人がこの色です」
学生時代はお金がなくて、社会人になってからは忙しすぎて対して美容院にも行けていない。産まれてから一度も染めなかったおかげか、傷みも少なくただただ長くなっただけの黒髪を褒められる日が来るとは。
ただ、オリヴァーやアメリアに比べてしまうと決して美しくはないと思う。子供相手に卑屈な事を言うのは大人げないので避けたいが。
「まあ、国民が皆同じ色を持つ国ですのね。ですが、ミカほどお美しい方はやはり珍しいでしょう?」
「はへ!? そんなわけ」
お嬢様相手に「そんなわけなかろうが!!」と叫ぶところだった。危ない危ない…。
というか社交辞令にはどこまで反論していいんですか!? 誰か教えて!!
「ホッター殿、素直に受け取ればいいんですよ」
ザコルが耳打ちしてくる。
「いやいやいや、こちとら二十五年間社会のモブに徹してきた凡人中の凡人ですよ。こんな顔、珍しいわけないでしょう」
「僕が頑張って読み上げた挨拶も全部嘘だと思っているわけですか」
「それはまあ…」
振り返れば怪訝な顔。棒読みだった上、自分で『頑張って読んだ』とか言っちゃってるくせして何を怒っているのか…。
はた。ついザコルと話し込んでしまって周りを見れば、完全に注目されてしまっていた。
セオドアとサーラは目だけニヤニヤしている…気がする。お貴族様の表情読むの難しいな…。
「ふーん。いいなあ、仲良くしちゃって。毎日のように会っていたんでしょ? 今度からは僕も連れて行ってよ」
オリヴァーはわかりやすく不満顔だった。
「オリヴァー様、午後は基本的にお勉強のご予定では」
「これからはミカもあまり時間に縛られなくなるでしょ。独り占めなんてズルいと思うなあ」
「独り占めなどと。僕のような者が恐れ多い事です」
ザコルはオリヴァーが苦手なのだろうか。無礼というほどではないがそっけない。
「ここに来るまでにも楽しくおしゃべりしてたそうじゃない。本当にミカとは仲良しなんだね」
ここに来るまではほぼ喧嘩していたような気がするのだが…。
「毎日顔を合わせていれば雑談くらいはします。オリヴァー様、僕を監視なさるのは結構ですが、ホッター殿は女性です。ご配慮いただくべきでは?」
監視…? なぜこの美少年はザコルを監視なんてしているんだ…?
「ふーん、どうせ聴かれちゃ困るような事話してるんでしょ」
「そんな事は話しておりません」
…何だろう、何でバチバチしてるんだろう。二人、実は一周回って仲良しとか?
それにしても、オリヴァーに監視? されていたというのは気になる。私が軽率にミカポタを名乗っていた事もバレているんだろうか。墓穴掘りそうだから自分からは訊けないけど。
「ホッター殿、ザコル、ハコネ、ホノルの三人とは随分打ち解けたようだね」
セオドアはザコルとオリヴァーのバチバチをスルーし、私に優しく語りかけてくれた。
「はい。御三方にはとても良くして頂いています。時に、私がこちらの常識に外れた言動をする事もあったと思いますが、無知な私を慮り、いつでも温かく接してくれました」
扉の前のハコネや、後ろのザコルにも目でお礼を言う。二人も無言で頷き返してくれた。
「ザコルもハコネも、私にとっては最も信用のおける部下だ。あなたの事をしっかりと護ってくれるだろう」
「ミカ、ホノルはよくやっているかしら。ホノルの母親はアメリアの乳母の一人なのよ。ホノル自身もこの子達のお世話をよくしてくれたわ。皆にも『小さな乳母さん』なんて呼ばれて。ふふ、当時はまだ七歳だったホノルがね、アメリアとアテネ…ホノルの弟よ、小さな二人を相手に子守唄を歌ったり、絵本を読んだりしてくれたのよ。本当に可愛らしくてね。わたくしホノルやアテネの事も、自分の娘息子のように思っているの」
サーラの話からすると、ホノルにはアテネさんという弟がいるのか。
そしてハコネという夫も。…マラソンか?
「ホノルさんにはとても感謝しています。身の回りのお世話をしてくれるのはもちろんですが、時に友のように接してくれる彼女には本当に助けられていて…」
テイラー伯爵家は、建物の豪華さに似合わずと言ったら失礼かもしれないが、とてもアットホームな雰囲気の家のようだ。貴族と平民という身分制度があるにも関わらず、使用人を家族のように呼んで憚らない。それだけ信頼関係があるということだ。
その懐に入れた大事な人材を、私のために貸し出してくれている。私と過ごす時間の多い相手は最低人数に抑えられているが、優秀で信頼のおける人を選んでくれたのだろう。
「ザコル、ミカがせっかく『ミカと呼んで』なんて言ってくれたのに、何でまだホッター殿なんて呼んでるの?」
「えっ」
オリヴァーが十歳らしからぬ意地悪い顔をしてザコルに笑いかける。わあ、やっぱり氏名詐称がバレてる!
「ホッターさん、心配するところはそこじゃ」
あ、また心を読まれた? いや、もしかして無意識に口から漏れてるんだろうか。
「どうなさったの? ミカ、何か心配事があって?」
サーラが気遣わしげな顔でこちらを覗き込んでくる。
「えっ、い、いえっ、なっ、何も無いです。何も…………えっと、申し訳ありません。一つだけ。じ、実はちょっと…苗字の発音について、私がしっかり訂正しなかったばかりにザコルさんに叱られてしまいまして…。これは私が悪いのです。ホッター、ではなく、ホッタだったというだけなのですが。微妙な違いですし、別にホッターでもホッタでもどちらでもいいと考えてしまっていたので…その…」
伯爵一家が顔を見合わせる。
ほらやっぱり、凄くどうでもいい事な気がしてきた。ただ、失敗したと思ったらバレる前に自分から白状した方がいい。社会人の大事な心得だ。
「それは本当に、どちらでもいいのかね?」
「はい。それは本当に、気にならないので」
なるべくきっぱりと告げる。
「まあ。ミカが気になさらないというなら、今更訂正しなくてもよろしいのでは。わたくしはホッターの方が呼びやすいですわ」
「ですがお母様、できる限りホッタ様とお呼びした方が失礼にならないのではなくて?」
サーラとアメリアが議論を始める。今更だが激しく後悔している。高貴な人々をくだらない事で悩ませて本当に申し訳ない。
「王家にはホッター殿と名乗られていると報せてしまったからな。どちらでもいいのなら、今後もホッターで通しても構わないだろうか」
「ええ、全く構いません」
全力でコクコクと頷いた。
「それで、どうして『ミカと呼んで』というお話になったのかしら」
アメリアがニコォーッと笑ってこちらを見ている。ひえぇぇ…何か怖い。
「た、大したことではなく、え、ええと、ザコルさんはホッタをホッターと申請してしまった事をいたく気にされているようで。もっと名前は大事にしろと、名前は正しく呼びたいとおっしゃるんです。私がこの世界に持ち込めた財産の一つだからとまで言ってくださって…。だから、公式文書の方は直すのも大変でしょうし、でしたらザコルさんは苗字で呼ばずにミカとでも呼べば解決ではないのかと……何故か頭を抱えられてしまいましたけれど」
振り返ったら、ザコルが再び頭を抱えていた。
彼は貴族で大人のくせに感情表現が豊かだ。無表情でも手に取るように解る。貴族にも色々いるんだな…。
「くそ、一体誰のせいで頭を抱えていると思っているんですか! あなたが上の立場で僕を呼び捨てにするのはともかく、僕があなたを呼び捨てになんてできる訳ないでしょう! 身分差のある貴族同士が呼び捨てを許す関係とは、家族か、それに近い関係か、親しい同性の友人同士か、それ以外は恋人か婚約者位なんですよ! 歳の近い未婚男女なら尚更です!」
「あっ、へー、そっかー…なるほどぉー…」
私庶民気分だから分かんなかったなぁー。へええー。
「わたくしやオリヴァーはこれからミカをお姉様のようにお慕いしたいと思っていますから。家族同然の関係に当たるのですわ」
「ううん、僕は恋人志望だよ!」
「えええ」
無垢な瞳でさらりととんでもないことを言ってくる。十歳に口説かれる日が来るなんて。
「話をややこしくしないでくださいオリヴァー様。歳も離れすぎです」
ザコルが十歳相手に冷静に突っ込む。
「なんだ、やっぱり独占したいんじゃないか」
「ち・が・い・ま・す!」
十歳相手にムキになってる。大人げないな…。
「オリヴァー。大人を揶揄うのはよしなさい」
「えー、僕はただ……はい。えーと、ごめんなさい」
「ザコル? あなたまで子供のように言い合いをするのはどうかしらね」
「…はい、申し訳ありません、奥様」
十歳児と二十六歳児がシュンとなった。ちょっと可愛いかもしれない。
「ザコルはホッター殿と呼び続けるのが気になる、そしてホッター殿は呼び方を気にしない、というのならば、ホッター殿の言われる通り、ザコルはミカと呼んで差し上げたらいいのではないかい?」
伯爵様は完全にニヨニヨしている。
「そうね。ホノルだってミカと呼んでいるのでしょう? だったら、ザコルもミカと呼ばせて頂けばいいのよ。決まりね」
可愛く両手を合わせ、ふふと微笑むサーラ。
扉の方向を見たら、ハコネが言わんこっちゃない、と、口をパクパクしている。ハコネの言った通り、確かに妙な事になってしまった。これは、情に厚い人達を変な方向に焚きつけてしまったかもしれない。
「ねえねえミカ、ザコルに呼び捨てになんてされたら、本当は嫌でしょう? ね?」
オリヴァーはまた隣のサーラに小突かれている。
「まさか。嫌なんて事はあり得ないですよ。ザコルさんには感謝していますし、一緒にいても楽しいし、あの、か、勝手にお友達だと思っていましたから、尚更、気軽に呼んでほしいなと思っただけで…。でも、流石に申し訳ないですね。ザコルさんが貴族の独身男性だというのをすっかり忘れておりました。立場やお付き合いもあるでしょうし、ご迷惑をかけては…」
「ミカ」
「あ、はい」
「そこまで言うならミカと呼びます。僕の立場なんてどうでもいいんです。あなたこそ周りに何を言われても知りませんからね」
きゃあ、と、アメリアが小さく可愛らしい悲鳴を上げた。どうしよう、これ、本格的に妙な事になったんじゃないのか。ザコルは開き直ったのか目が据わっている。
別に呼び捨てじゃなくとも、ミカさんとかミカ殿とかでも良かったんだけどなあ…。
ザコルが眉間にすっごい皺を寄せてこちらを見ていた。今更ですね、すいません。
晩餐会は思っていたよりもずっと楽しかった。
伯爵家の皆さんは皆気さくで、終始アットホームな雰囲気のままだった。緊張していたのが嘘みたいだ。もちろん庶民の私に合わせて堅苦しくならないようにしてくださったのもあるんだろうけれど。
オリヴァーは機嫌が悪くなるかと思いきやものすごく上機嫌になった。
日本の乗り物の話をしたらさらに目を輝かせて聞き入ってくれ、将来、伯爵領に列車を走らせたい! と意気込んでいた。蒸気機関などの詳しい仕組みの話まではできなくて申し訳ないけれど、きっと実現できるよ。これ、ラノベだったら絶対フラグだもん。
程よく酔って調子に乗った私は、配られたジュースの一部を細かく凍らせて、フローズンドリンクのようなものを作ってみせたりもした。皆すごく喜んでくれたし、魔法のコントロールも絶好調だった。
こんなに皆さんと打ち解けられるなら本邸への引っ越し話も完全拒否なんてしなければよかったな、とも思った。今更罪悪感が湧いてきている。しかし所詮は庶民なので、元の部屋に戻ったらホッとしてしまう自分がいるんだろう。
ただ、もしも警備の関係上引っ越した方が都合がいいとか、そういった理由があっての事なら頭に入れておいた方がいいかもしれない。またザコル達に色々話を聞いて、なるべくお邸の皆さんの負担が少ないように、今後の進退は考える事にしよう。
晩餐会を無事に終え、玄関で皆さんに盛大に送り出された。と言っても敷地内の建物に移動するだけだ。
伯爵家の方々とは実質今日から交流を深めていくのだ。何とか大きな失礼を働かずに済んだと思うが、どうだろう。細かい事を考えると脳内反省会が延々と繰り広げられそうなのでやめた。
ありがとう皆。おつかれ私。以上だ。
帰りもザコルにエスコートされ、ほろ酔いの感覚を楽しみながらゆっくり歩く。足元には一定間隔でランタンが灯され、まるで童話の世界みたいだった。
ハコネにはもう一度「言わんこっちゃない」と言われた。
「本人を目の前に言うのもなんだが、あまりザコル殿を振り回さないでやってくれ。気の毒になってきたぞ」
「はい、本当にすみません。あんなに困らせるつもりはなかったんですけど」
それは本心だ。私の常識が足りないばかりに申し訳ないことをした。
「もういいんですよ、ハコネ。今回はオリヴァー様に嵌められたようなものです。僕に恥をかかせるのがそんなに楽しいのか…いえ、僕はミカのお友達? なんでしょう。だったら、これからもミカと呼ばせてもらいますよ」
「はい。ふふふ、ありがとう」
何となく嬉しくなって頬がゆるむ。
「何を喜んでいるんですか。気持ち悪い」
「はあ!? ひどっ! そんなこと言います!? この、えーと、あー、ま、真面目くんめ! あと、えーとえーと、隠れマッチョ! …あれ?」
「それは悪口のつもりですか? 語彙が乏しすぎでは。オリヴァー様に教わってきたらどうですか」
「うー、悔しい反論できないい」
確かに真面目もマッチョも悪口になっていない。
「あなたが僕なんかを友人だなんていうからですよ。もう遠慮してやりませんから」
「…へえー。そんな事言ってるとまた私が喜びますよ」
「なっ、何で喜ぶ…!?」
「ふふ、頑張って悪態つこうとしなくてもいいのに」
「うぐ…っ、…いずれ、僕の正体を知れば、友人などと呼べなくなるに決まって」
「何ブツブツ言ってるんですか〜? 苦々しい顔しちゃって可愛い〜」
「うるさい、この酔っ払いが!」
「こんな所で怒鳴るなザコル殿。貴殿まで酔っ払っているのか? 明日からイジり倒されるぞ」
「フン、僕が酔う訳ないでしょう。それに僕をイジる者などそうそういません」
「なんで自信満々〜? 可愛い〜」
「頬をつつくな! さっきは何やら落ち込んでいたくせに!」
「おい、もうその辺でやめろ。やーめーろ。あっ、おい、お前オリヴァー様付きの従僕だな。主人に拗ねられたくなかったら馬鹿正直に報告するなよ」
ハコネが茂みに隠れていた少年を引っ張り出して忠告している。
ランタンの切れ間に空を見上げると、三日月が綺麗な夜だった。
つづく
二年半前、コロナで缶詰になった時に書き始めました。
お話らしきものを書くのは高校の部活以来ですが、めちゃくちゃ楽しく書ける自分に驚きました。
ほぼほぼ自分を楽しませるために書いている話ですが、どなたか一人でも共感してくださる方がいれば幸いです。