妻のお腹から母が産まれるまでの備忘録
二〇一二年。年の瀬。今夜は、妻と晩御飯に湯豆腐を食べる約束をしていた。僕は、勤務中から湯豆腐がとても楽しみで、残業もほどほどに早めの帰宅をする。
駅から徒歩で家に辿り着くと、げげ、今年も、お隣さんが、クリスマスイルミネーションを始めている。例年通り、玄関、庭、建物、敷地内に存在するもの全てを覆い尽くす、常軌を逸した電飾だ。毎年毎年、いったいぜんたい何事かと驚愕する。ケバケバしい光の群れの、下品極まりない演出が、みぞおちに、ウっとくる。僕は、胸を優しく押さえ、深呼吸をして気持ちを整え、自宅の扉に鍵を差す。
「あなた、お帰りなさい」
臨月のはち切れんばかりのお腹をした妻が、のっしのっしと玄関まで出迎えに来た。僕の帰りを待ち兼ねていたかのようだ。
「お出迎えなんていいから、奥で休んでいなさいよ。身重なのだから、無理をしないでおくれ。どうしたの? 様子が変だよ。何かあったのかい?」
「今日、お義母さんから、電話があったのよ」
どうやら、妻が産婦人科に診察に行っている間に、母が自宅の固定電話に連絡をしてきたようだ。留守番電話に、メッセージが残っているらしい。
「で、要件は?」
「すみません。メッセージを聞きましたが、正直何が何だか……。ご自身でお聞きになって下さい」
固定電話のメッセージ再生ボタンを押す。
『もしもし、トシオちゃん。お母さんで~す。あのね、なぜ電話をしたのかと言うとね。私ね、昨日の夜、とても不吉な夢を見たの。それが、いったいどんな夢だったのかと言うと――ピー。再生が終了しました。録音を消去する方は――』
うわああ、すごく気になる。こんな途切れ方、たまったものじゃない。僕は、疾風のように母に折電をした。
『もしもし、あら、トシオちゃん? ハロー、ハロー、ご無沙汰ね』
「やあ、母さん、久しぶりだね。あ、そうそう、報告が遅れてすまなかったけれど、実は、妻が、妊娠九か月なんだ」
『へ~』
「いや、へ~じゃなくて。相変わらず、素っ気ないなあ」
振り返ってみると、母と話すのは、僕が妻と結婚する時に、二人で挨拶に行ったのが最後だから、あれま、かれこれ十年ぶりだ。母は、僕が実家を出てから間もなく、老人や外国人や低所得者が優先的に入れる県営住宅に、一人で移り住んでいた。
『あのね、なぜ電話をしたのかと言うとね。私ね、昨日の夜、とても不吉な夢を見たの。それが、いったいどんな夢だったのかと言うとね――』
「ふむふむ。どんな夢だったのかと言うと?」
『私は、だだっ広い草原の、細い一本道を歩いているの。後ろを振り返ると、遥か遠くに、よちよち歩きの幼いあなたが、泣きながら私を追いかけて来る。その道の果てには、天から、途方もなく長い縄梯子が、大地に向かって垂れ下がっていてね。その縄梯子は、そよ風が吹くと、微かに揺れるの。私は、あなたをほったらかしにして、その縄梯子に向かってどんどん歩いて行く』
「は?」
『縄梯子に辿り着いた私は、振り返って、しばらくあなたを待った。すると、よちよち歩きのあなたが、やっと追いついて、私にしがみ付いて離れやしない。私は、ちっとも泣き止まないあなたを抱き上げて、お天道様の光に透かした。そうしたら、あなたは、とても笑った』
「は?」
『それから、あなたは、目の前の縄梯子に手を掛け、勢いよくそれを登り始めたの。そして、目にも止まらぬスピードで、天に消えちゃった。……私、そこで目が覚めた。私、怖くなっちゃって。あんたに何か不吉なことが起きるのではないかと心配になっちゃって。それで、電話をしたの』
「う~ん、さっぱり訳が分からん」
『そう言えば、婦人雑誌の占いのページを読んでも、あなたの蟹座は、今月の運気が最悪だった。あ、そうだそうだ、今月の蟹座のラッキーアイテムを教えてあげるわ。えーっと、雑誌、雑誌、雑誌はどこ……』
母は、今月の運気が最悪の蟹座が、今月いっぱい肌身離さずに持っていれば、必ず運気が向上するというアイテムを僕に伝えると、満足した様子で一方的に電話を切った。
「うふふ。さすがは、お義母さん。十年経っても、迫力が衰えないわね」
「うむ。相変わらず、奇妙奇天烈な人だ」
「で、なんでしたの? 蟹座のラッキーアイテム」
「ショッキングピンクの下着だって」
僕は、妻を、まじまじと見た。
「いや、持っていません! 持っていても貸しません!」
その三日後に、母は、死んだ。
――――
母は、昔から場の空気を読まない達人であったが、自らが天に召される日のチョイスにおいても、それは一貫していた。母が死んだのは、十二月二十四日。よりによってイブに死ぬかね、イブに。母には悪いけれど、いろんな意味で、煩わしい命日だ。
交通事故だった。
夫婦で、ささやかなクリスマスパーティーを始めていたら、警察から連絡があった。住んでいた県営住宅の近所で、車に轢かれたとのこと。
本人確認のため、僕が出向いたのは、母が住む街からも、僕が住む街からも、ちょっと首を傾げたくなるほど遠方の警察署だった。母は、駐車場の一角にある広めの倉庫の中に安置されていた。警官の話によると、救急病院に搬送され、死亡が確認された後、いくつかの署をたらい回しにされた末に、ここに落ち着いたようだ。その理由については、警察は何も教えてくれなかった。
セーフティーコーン、セーフティーバー、保安灯、標識、看板等の保安用品が置かれた薄暗い部屋の中央に、会議机が三つ並べられていて、その上にこんもりと膨らんだ遺体収納袋が横たわっている。仮設の遺体安置室だ。小さな線香立てに刺さった三本の線香から、水墨画のような煙が揺れている。
「これが、被害者の所持していた鞄です」
警官は、いきなり遺体の本人確認をせず、先ずはひとつひとつ丁寧に鞄の中の所持品を取り出し、僕にそれを見せた。
「見覚えのある物がありますか?」
「見覚え? ええ、まあ、そうですね。全部ですね」
財布、煙草、家の鍵、ハンカチ、あれも、これも、それも、見覚えがあり過ぎる。
「それでは、本人確認を、お願いします」
警官が、遺体収納袋の、チャックを下げた。
あれ? 僕の母さんって、こんなに小さかったっけ。十年ぶりに見た実物は、記憶よりも随分と縮んで見えた。「本人です」 警察に、一言そう告げた。
母は、横断歩道を渡っているところを、脇見をしながら右折する乗用車に轢かれたらしい。どんな轢かれ方をしたら、こうなるのだろう。遺体は、大きな損傷がない代わりに、顔から胸元の見える範囲にかけ、おろし金で擦ったような傷があった。袋に隠れてはいるが、きっと全身がそうなのであろう。
「それでは、速やかに遺体のお引き取りをお願いします」
「え、引き取るって、今からですか?」
「はい、速やかに」
「今夜は一旦家に帰り、明朝出直したいのですが……」
「申し訳ありません。決まりなのです。今すぐに、引き取りの手配を始めて下さい」
「手配って言われても……。あの、こういった場合、遺族のみなさんは、先ず何をどうされるのでしょうか。本当に、どうしてよいのか分からないのです」
「みなさん、故人が入会している互助会に連絡をされています」
「この人は、天地がひっくり返っても、互助会なんぞに入会していないと断言できます」
「であれば、最寄りの葬儀会社に電話をして下さい。すぐに遺体を引き取りに来てくれるでしょう」
「えーっと、御署としては、どの葬儀屋がお勧めですか?」
「それは、私どもの口からは言えません」
しかしまあ、こうも急かすかね。僕は、スマートフォンで、ここから一番近い葬儀屋を探して連絡をする。「今から三十分で駆けつけます」電話口の葬儀屋の声が、そこはかとなく弾んでいる。
それから、暖房もストーブもない、凍てつく寒さの倉庫で、僕は、母と一緒に葬儀屋の到着を待った。恐らく、遺族が突如として錯乱したりするのを阻止する目的であろう、葬儀屋が駆けつけるまでの間、二人の警官が、倉庫の片隅で、無言で僕のことを見守っていた。
――――
葬儀は、一般葬で執り行った。うちは僕の物心がついた頃には、既に母一人子一人で、親戚とも疎遠だったから、僕としては、妻と二人で家族葬を執り行い、ひそやかに母を送り出すつもりだった。ところが、師走の街を騒然とさせた事故として大々的にマスコミに報道をされてしまい、それを観た母の知人や、県営住宅のご近所さんから、葬儀に参列させてほしいという申し出が相次いだからだ。
喪主として、通夜式の最後に、参列者に挨拶をした。僕は、こういった場でお涙頂戴的な熱のこもった挨拶をする者を見るにつけ、かねがね何か違うなと思っていた。故人への想いは、それぞれの胸に静かに閉まっておけばよいのと違うの? 挨拶なんてものは、手短に、事務的に済ませればよいのと違うの? と言うわけで、自分が挨拶をする際も、極めて手短に、極めて事務的な挨拶をした。
通夜式を終え、控室の座布団の上で「へーへー、終わった、終わった、お疲れ、お疲れ」とか独り言を言いながら、冷蔵庫に備え付けられていた瓶ビールをがんがん空けていると、明らかにご機嫌斜めの妻が、テーブルの差し向かいに、大きなお腹を庇うように横座りで座った。
「ちょっと、あなた、よろしいかしら」
「なに?」
「先ほどの、通夜式の挨拶ですけど」
「うむ」
「何、あの手抜き」
「はが」
「何、あの棒読み」
「ふが」
「残念です。小学校一年生の、作文の朗読かと思いました。まともに喋れ。ああ、恥ずかしいったらありゃしない」
「おい、さっきから何だ、黙って聞いてりゃ偉そうに。まともに喋れだあ? どの口が言うかね。君のほうこそ、人前に出ると、顔、まっかっか。声、ワレワレハ宇宙人ダ、ではないか。ああ、そうかい、そこまで言うなら上等だ、明日の告別式の挨拶は、君がやれ」
「私は無理。でも、あなたは出来るでしょう。あなたは、昔から人前で堂々とお話が出来るタイプじゃない。ねえ、どうして? どうしていつも、わざとサボるの? するべき者が、するべき事をやらないのは、サボりだよ? ズルだよ? まったく、ズルってんじゃないわよ。ズルっているのは、その若ハゲだけにしとけ」
「あ、も~怒った。明日の挨拶は、君に決定だ」
「私は無理。でも、あなたは出来るでしょう?」
「うるせえ。てめえがやりやがれ」
「私は無理。でも、あなたは出来るでしょう?」
「うるせえ。てめえが――」
「私は無理。でも、あなたは出来るでしょう?」
「てめえが――」
「私は無理。でも、あなたは出来るでしょう?」
「もおおおお、分かったから、喰い気味のそれ、やめて!」
その後、妻は、身重の自分を気遣い、単身で自宅に帰って行った。ふん。何をイライラしていやがる、生理かっちゅーの。いや、妊娠中だっちゅーのバカヤロー。
僕は、誰もいなくなった控室で、棺桶の中の母と二人で一夜を明かすことになった。しばらく腐り果てるように酒を呑み続ける。しかし、妻にガミガミ言われた事が妙に心に引っ掛かり、さっぱり酔えやしないので、やがてペンを持った。
せめて母が生前お世話になった方々に、母の最期の様子ぐらいは報告してやるか。警察の事故報告と、搬送された病院の死亡診断書から紐解き、事実のみを伝えよう。そんなことを考えつつ、ペンを進めてみる。結局、後半は感情的な言葉が溢れてしまったが、その言葉たちも消しゴムで擦ることなく残した。
翌日の告別式の最後に、僕は、参列者に向かい、心尽くしの挨拶をした。
「本日は、お忙しいところ、ご足労いただき、誠にありがとうございます。故人も、大変喜んでいるものと思います。
故人は、十二月二十四日の午後七時四十分頃、買い物からの帰宅途中、近所の薄暗いT字路にて、脇見をしながら右折する乗用車に衝突し、徐行する車の下敷きとなり、車体とアスファルトの間で、ゆっくりと、ゆっくりと、揉みくちゃになったようです。
直後より、心肺は停止。搬送中の救急車のなかで、一時心拍が再開するも蘇生は出来ず、実に呆気なく、この世を去ってしまいました。
死因は、外傷性ショック死。故人の顔や体には、おびただしい数の傷や血がありました。昨日、加害者と面会した際、私は、彼らに、無理を承知でこう伝えました。『償いなどは結構ですので、どうか今すぐに母のこの傷だらけの体を元通りにして下さい』
幼い頃、町内のママたちの世間話の輪に入れず、一人ぼっちでボンヤリとしている人でした。本を読む姿が、なんだかチャーミングな人でした。幸子というのは名ばかりで、不幸、不幸、不幸、笑っちゃうぐらい不幸続きの人生で、挙句の果てに最期はこんなに無残な死に方で、でもその死に顔は、どこか微笑んでいるかのような……そんな人でした。
生前は、故人が、本当にお世話になりました。残された私どもに対しましても、生前と変わらぬご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。本日は、誠にありがとうございました」
挨拶を終え、自分の席に戻る時、僕は、座っている妻を、ドヤ顔で見下ろしてやった。でもその時、妻は、僕と目を合わさず、能面のような表情で、祭壇の母の写真を一心に見詰めていた。
――――
霊柩車で火葬場に移動をした。母の棺桶が、間もなく燃え盛る火葬炉に入ろうとしている。この期に及び、やにわに凄まじい悲しみが襲い掛かって来た。
ふと素朴な疑問が浮かんだので、棺桶をレールに乗せ、燃え盛る炎に放り込もうとする係の人の手を止め、単刀直入に訪ねる。
「あの~、これって、べつに焼かなくてもよくないですか? どうして焼く必要があるのですか?」
僕のひと言で一気に静まり返った場内に、空調機の作動音だけが響いている。
「僕は、母を持って帰ります。もちろん、これは、こちらの身勝手ですから、火葬費用は、全額お支払いしますよ。あなたへの、チップ的なものも、幾ばくかは考えましょう。さあ、その手を離して下さい。僕の母を返して下さい」
係の人に目を剥いて激しく詰め寄る。その時、見かねた妻が、僕を制し、係の人にわざとらしく陽気に告げる。
「ウェルダンでお願いしま~す!」
「おい、ふざけるな!」
「あら、ふざけているのは、どちら?」
妻が、僕を諫め、係の人に目で合図を送る。再度、棺桶がレールをきしませて動き始めた。
「お義母さん、呑気に荼毘に付されている場合ではないですよ。さっさとあちらの手続きを済ませて、なるべく早く戻って下さい。うちの人、お義母さんがいないと駄目なのです」
道で立ち話でもするように棺桶に語りかける妻の姿が、むしろ紛う方なき現実を僕に突き付ける。
どうしよう、母さんがこの地上から消えてしまう。どうやら、これは夢ではないらしい。たちまち怖気づき、カックンと膝から崩れ落ちる。妻が横から僕を支える。直立の仕方を完全に忘れてしまった。足腰への適正な力の入れ具合が思い出せない。
うつむくと、いつの間にか靴の紐がほどけているのに気付く。
「……靴の紐がほどけている」
うわの空でそう言って、燃え盛る火葬炉に視線を戻すと、母は、もう炎の中だった。
――――
火葬炉に呑み込まれた母を見送り、お鍋でクタクタに煮込まれた白菜のようになり果てた僕は、控室まで続く仄暗く底冷えする廊下を、臨月のはち切れんばかりのお腹をした妻に寄り掛かって歩いて行く。
「……ねえ、あなた」
「ゔあ?」
「先程の告別式の挨拶ですけど――」
右足に左足がけつまずき、倒れそうになる。咄嗟に、妻が僕の腕を掴む。妻は、その腕を肩にまわし、僕を引きずるように、廊下を前進する。
「惚れ直しました。あなた、とても立派だった。お義母さん、あなたが喪主で、きっと喜んでいるわ。やったね、やっと親孝行が出来たね」
そうか、初めての親孝行が、よりによって葬式の喪主か。そう思うと、自分が情けなく、不甲斐なく、笑えてくる。笑えば笑うほど、涙が廊下にボタボタと落ちて、なんとも始末が悪い。
親孝行。妻は、僕を励ますつもりでそう言ってくれたのだろうけれど。考えてみると、僕と母は、まるで親子らしくない親子だった。母が自分の価値観で僕を支配するようなことは一度もなく、そのため僕が母に反抗をする必要は皆無だった。僕と母の間には、ずっと妙な距離感があった。僕たちは、いつも他人行儀だった。恐らく母は、僕のことを「たまたま、お腹から産み落とした別個体」程度にしか思っていなかったのではなかろうか。
では、ひるがえって、僕が母のことを「たまたま、股をくぐった別個体」としか思っていなかったのかと言うと、それは違う。僕の母に対する妙な距離感の正体は「照れ」だ。僕は、生まれてからずっと母に照れていた。僕は、母を目の前にすると、いつも恥ずかしく、胸がドキドキした。僕は、母のことが、純粋に好きだったのだ。
控室のソファーに腰を下ろすと、誰かが僕に熱いお茶を出す。視界がぼやけて、誰が誰だかよく分からない。失意のどん底とは、まさにこのこと。よし、こうなったら、いっそのこと、しばらくどん底に浸ってしまおう。そう開き直った。
「ねえねえ、うちの人、とても立派だったでしょう!」
――ところがどっこい、妻が、僕のすぐ目の前で、控室にいる知人たちに、先ほどの僕の告別式の挨拶の出来を、自慢しているではないか。
「うちの人、ちょー感動じゃない?」
おいおい、勘弁してくれ、そんなに大きな声で。
「きゃー、うちのダーリン、いかすでしょう!」
ああ、何だかもう、居たたまれない。こうして、失意のどん底にあった僕の心は、否が応でも、娑婆に戻された。
係の人が、控室にお知らせに来た。母が焼き上がったとのこと。さあ、骨を拾うぞ。誰よりも母を愛したこの僕が、立派に母の骨を拾うのだ。
火葬炉に向かうため、ソファーから立ち上がると、にわかに立ち眩み。後方へふらつく。それに気付いた妻が、慌てて僕の脇に寄り添う。その時、妊婦が穢れを跳ね返すという風習としてお腹に仕込んでいた鏡を、不意に床に落としてしまう。
僕は、両手で自分の顔をバシバシと叩いて気合いを入れる。それから、落ちた鏡を拾って手渡し、妻の頭を優しく撫でながら、かろうじて笑ってこう言った。
「大丈夫、自分で歩く」
――――
二〇一三年。母の遺品整理やら何やらに慌ただしく追われつつ、新年を迎える。そして、一月の十四日。ついに、妻のお産が始まった。
産婦人科から、連絡を受け、仕事を中抜けして、急いで車を走らせて来た。受付で両手に消毒液を噴霧し、分娩室へと続く淡いピンク色のクッションフロアーに、スリッパの音をパタパタ鳴らして、角を曲がる時に、遠心力でツーっと横滑りなんかしつつ、妻の元へと駆けつける。
「ご主人、たった今! たった今よ!」
その立ち振る舞いの端々に、ベテラン感を醸し出している年配の助産師さん、十中八九婦長と思わしき人物が、分娩室に入った僕を、おいでおいで、と手招きする。
分娩台に横たわった汗だくの妻が、若い助産師さんに補助されて、それを、抱かせてもらっている。
「かわいいいいいい!」
狂喜の声を上げる妻が抱いているそれは、お世辞にも、かわいいものではなかった。無遠慮な音量で泣き喚き、しわくちゃの顔は赤く腫れて、路傍の石コロが黒魔術で不気味に蠢き出したかのようで、グロテスク極まりない。
「それでは、ご主人、一緒に確認をしましょうね」
婦長さんは、タオルを敷いた台の上にそれを寝かせると――
「目、鼻、口、耳、異常なし。手の指五本、足の指五本、体に傷なし、おチンチンなし。はい、元気な女の子です」
――テキパキと、僕に指差し呼称をして見せた。その後、さも当然の流れのように、それではお待ちかね、とか言って、あろうことか、それを、僕に抱かせようとする。
「あ、僕、それは結構です」
「何を言っているの。遠慮なさらず、ほら」
「僕、こういう動きのものが、苦手なのです」
「しばらく抱っこできませんよ、ほら」
「いや、マジマジ。本当に、結構です」
「怖がらないの。さあ、ほらほら」
「だから、嫌だってば!」
思わず声を荒げると、婦長さんは真顔になり、濁った野太い声で――
「ちょっと、あなた、いい加減にしなさいよ」
――と耳元で囁き、あとは有無を言わさず、強引に僕の両腕にそれを託した。
それは、まるで持っていないみたいに軽く、それでいて、両腕にまとわりつくような独特の重さがあった。不思議な匂い。初めて嗅ぐ匂いなのに、どこか懐かしい。鼻孔が、くすぐったい。次の瞬間、激しく荒れ狂う記憶が、次々と容赦なく僕に打ち寄せた。
ゆっくりお飲みなさい。誰も横取りしないわ、あなたのお乳よ。
火、これは火、触ってごらん、ほら熱い、火は熱い。
お~い、トシオ。ハンカチ持ったか~、鼻紙持ったか~。
偉そうな口を叩くな、誰が、あんたのオムツを替えたと思っているのよ。
ほんの少し寂しい思いをさせるけど辛抱してね、すぐに迎えに来るからね。
メソメソ泣くな、男だろ、やり返してこい。
おい、私のカルピス、勝手に飲んだの、お前か。
あなたが人を殺めたら、あなたを必ず死刑にするように、裁判官にお願いします。
私の人生はこっち、あなたの人生はあっち。
こらこら、人の不幸を笑ってはいけません。
心配しなさんな、閻魔大王に会ったら、あんたの罰は、全部私が引き受けてあけるから。
自分がされて嫌なことは、人にしないこと。すべては、そこから。
死に物狂いで笑って生きなさい、人生なんて、笑ってさえいれば、何とかなる。
だからね、私は思うの、私たちは、たとえ死に別れてしまっても、きっとまた生まれ変わって、いつか必ず巡り合うのよ、今回は、たまたま親子で出逢ったけれど、次は、いったいどんな出逢いでしょうね、ふふふ、楽しみねえ。
「……母さん」
「あらら? パパったら、変でチュねえ」
婦長さんが、僕の腕に抱かれているそれの顔を覗き込み、微笑みかけている。はっと我に返って、慌てて問いただす。
「え、何? 何が変?」
「だって、ご主人、今、この子に見ながら目をウルウルさせて、『母さん』っておっしゃいましたよ。あらら、パパったら、変でチュね~。『母さん』じゃないでチュね~。赤ちゃんでチュね~」
「え、嘘、嘘。僕、そんなこと言った?」
「はい。はっきりと『母さん』って、おっしゃいましたよ。ねえ、奥様」
茶目っ気いっぱいに、婦長さんが、妻に同調を求める。
「はい、その声は、この耳と、このぱっくり開いた産道に、確かに木霊しました」
分娩台に横たわる妻が、真顔でふざけている。
「ううう、嘘だろ。え~、僕、本当に、そんなこと言ったかなあ」
しどろもどろの僕の腕から、婦長さんが、それを取り上げ、あらためて、妻の胸元に添える。
「ふ~ん、宿りましたか。あちらの手続き、意外に早く済んだのですね」
妻が、そう言って、柔らかにギュっとそれを抱きしめる。それは本日、妻のお腹の中から、この冬ざれた世界に颯爽とやって来た。それは、紛れもなく僕と妻の子供で、それは、強烈に母の匂いがした。