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優の音色

作者: 小城

木戸優

「変な声。」

 高校生の木戸きどゆうは、自分の声が好きではなかった。

「何で、こんな声に生まれたのかな。」

 優は、自分の声が変であるなどとは思ってもいなかった。発している本人は、まともな声を出していると思っても、それを、録音して聞いてみると、

「あれ?自分って、こんな声をしてたっけ?」

と思うことが多い。優も、そんな感じで、小学校低学年のときに、人に指摘されるまでは、気にしてはいなかった。

「変な声。」

「え?」

 そのとき、授業の一環で、クラスの社会科の発表を、ビデオで録画するということがあった。

「なに…。これ…。」

 映像の中で、喋っている優は、ふだん、自分が聞いている声とは、まるで、かけ離れた声をしていた。それは、小学校低学年ながら、優の中の自分という存在を、揺るがすほどの衝撃であった。だから、優は、そのことに目を向けないようにした。自分が話しているのを映像で見るのは、避けた。自分が話しているのを録画されることも避けた。そして、人と話すことも避けた。

「木戸優です…。」

 口数は、最低限にして、喋るときも、ぼそぼそとして、小さい声で話すようになった。それは、総じて、優の自信を、同じように、小さくした。中学、高校に上がってからも、優は、小学校低学年の頃と変わらず、過ごしていた。


菜々子と葵

 校舎の隅で、優が、一人、弁当を食べていると、どこからか、声が聞こえる。何かの発声練習のようなその声には構わず、優は、昼食を進める。

「いた。」

「えっ?」

「ちょっとこっち来て。」

 突然、現れた黒髪ショートの女子生徒が優の手を引っ張って行った。優は、為す術なく、弁当箱を持ちながら、箸を咥えてついていった。

「菜々子。この人。」

 女子生徒が連れて行った先には、また、一人女子生徒がいた。菜々子と呼ばれたその子は、カールの掛かったブラウンの髪を肩先まで、伸ばしていた。

「葵。誰?その人。」

「昨日、言ったでしょう。おもしろい声の人がいるって。」

 声と聞いた途端、優の体が震えた。

「ちょっと。ごめんなさい。」

 優はその場から、立ち去ろうとした。が、葵と呼ばれた女子生徒が、優の腕をつかんだ。

「ごめんなさい。突然、びっくりさせちゃいましたよね。」

 我に帰ったような調子の葵は、優を何とか引き止めようとしていた。

「ごめんね。この子、時々、見境なくなるから。」

 菜々子の声は、透き通ったガラスのような声をしている。

「えっと…。名前、何て言いましたっけ?」

「葵。それ、かなり、失礼だと思うけど…。」

 菜々子は、葵の保護者のようである。

「木戸優…ですけど…。」

「えっ?」

「葵。木戸君だって。」

「ああ、そうだ。優くん。木戸優くんだったよね。私、本城ほんじょうあおいです。同じクラスの。」

「ああ…。そうでしたっけ?」

 優は、自分が、何故、この場に連れて来られたのかが、分からない。しかし、悪い人たちではなさそうだと思った。

「私は、新堂しんどう菜々子(ななこ)。二人とは、隣のクラスになるわね。」

「すみません…。それで、なんの用ですか…?」

「そうだ!ねえ。優くん。声優になろうよ。」

「は…?」

 葵の提案は、あまりにも、突拍子もなさ過ぎて、意味が、分からなかった。

「葵。木戸君。困ってるけど…。」

「えっ?なんで。優くん。とっても、良い声してるから、声優に向いてるよ。菜々子もそう思うでしょう?」

「それは、私たちが、押し付けることではないわ。」

「でも、もったいないよ。ねえ?」

 葵は、優を見つめた。子どものような、その眼を、優は、直視できなかった。

「声優って、あのアニメのアフレコとかしてる…。」

「そうね。声優の仕事は、アフレコだけではないけどね。木戸君は、アニメとか好きかな?」

「いや…。昔は、見てましたけど…。」

「私は、好きよ。アニメだけじゃなくて、映画も、小説も。」

 菜々子は、そう言うと、空に向かって、声を出した。しっかりとした腹式呼吸で、早くも、遅くもないテンポの、その声は、優の心を澄み渡らせた。

「菜々子は、御両親が声優さんなんだ。」

 葵もそう言うと、菜々子に合わせて、声を出した。葵の声は、菜々子の声より、少し低く、澄んだ優しい声だった。


個声と輝き

「菜々子は、養成所に通ってるの。」

「養成所…?」

「事務所が声優の卵を育てるところって言えばいいのかな。高校生で、デビューしちゃう人もいるけど、でも、それだけ厳しくて、普通は、高校生で養成所に入るだけでも、難しいんだよ。」

 あれから、優は、菜々子や葵と三人で、弁当を食べるようになった。

「葵さんは、行かないんですか…?養成所。」

「私なんて、全然、無理だよ。菜々子は、御両親と一緒に、小さい頃から、レッスンしてるけど、私なんか、声優、目指したのごく最近。菜々子の影響もあるけど…。私は、専門学校かな。」

 それにしては、葵の発声は、優から見ても、上手に見える。

「優くんは、興味ないの?」

「僕は…。」

 優は、相変わらず、ぼそぼそと喋る。何が、変なのかは分からない。しかし、優は、自分の声が変な声であると思っている。

「声優さんは、その人が、もともと持ってる個声。私が勝手に言ってるだけだけどね。個人個人の声っていう意味の、個声。」

「個声…?」

「うん。個声は、みんなそれぞれ違ったものを持っていて、良し悪しはないんだけど、それだけじゃ声優にはなれないの。あと、技術が必要かな。声優さんは、その個声と技術を持ってるの。」

「技術…ですか…?」

「うん。発声練習とか滑舌練習とか。そういうのは、やっぱり、磨いていかないといけない。そうすることで、その人の個声が、輝いてくるんだよ。」

「本当に…、輝いてくるんですか…?」

「うん。ピッカピカに。」

 輝き。それは、優には、程遠いものだった。

「優くんの声は、なんていうのかな…。うまく言えないけど、味があるっていうのかな?なんか、磨けば光るって思ったんだよね。」

 葵と優が弁当を食べているその横から、少し離れたところでは、菜々子が発声練習をしていた。その声は、とても美しく、綺麗で、人々が、受け入れやすい声だと思った。よく聞くと、それは、発声や滑舌、テンポなどの技術に支えられているということが、葵の話を聞いて、なんとなく分かった。

「アナウンサーや歌手みたいですね。」

「優くん。今のすごくよかったよ。」

「えっ?」

「今の話し方。すごく、心地良かった。」

 そういえば、今は、菜々子の声を聞いていて、それが、自分にも、伝わってくるような感じがして、いつものように緊張することなく、自然に話せた気がした。

「僕も…。やってみようかな…。発声練習…。」

「うん。やろやろ。」

 優の手を引いて、葵は、菜々子の傍らへ連れて行った。

「じゃあ、腹式呼吸の練習から始めましょうか。」

 菜々子と一緒に、葵と優は、お腹を大きく膨らましながら、鼻から一杯の空気を吸った。それは、優にとって、何年ぶりかに吸うような、新鮮な空気であった。


レッスン

「今週の土曜に、家に来てみない?」

 菜々子の両親は、月に二度、自宅で声優のレッスンを開いているという。

「葵も来るでしょ?」

「うん。」

 土曜日は、快晴だった。

「この辺かな…。」

 菜々子に教えてもらった住所とスマホを頼りに、隣町までやって来た優は、駅の近くの、住宅地で、新堂と書かれた表札を見つけて、インターホンを鳴らした。

「今、行くね。」

 菜々子の声が聞こえた。彼女の声は、インターホンを通しても、綺麗だった。

「どうぞ。」

「失礼します。」

「あっ、優くん。おはよう。」

 葵が来ていた。

「二人とも、準備できたらスタジオの方に来てね。」

「行こっか、優くん。」

 菜々子の家の地下には、レッスン用の地下スタジオがあった。

「すごいでしょ?」

「地下室なんて…。初めて、見た…。」

 スタジオには、先に二人来ていた。

「初めましてだよね。私、九戸くのへれい。あなたは?」

「あ、木戸優…です。」

「優さんね。あちらは、兄のじん。」

「お兄さん…?」

「双子の兄妹なの。仁。ちょっと。」

 仁と礼は、背丈も同じである。

「何。」

「木戸優さんっていうの。ええと…。」

「私と菜々子と同じ学校の人。私がスカウトしたの。」

「そう。葵さんたちの、知り合いなんだって。」

「今、聞いたよ。」

「仁も、挨拶しなさい。」

「木戸さん…。でしたっけ?九戸仁です。いちおう、礼の兄やってるけど、どちらかというと、俺の方が、弟みたいに、扱われてるんだよね。」

「あ~。なんとなく、分かります…。」

「でしょ?」

「仁は、だらしないのよ。」

「ま。よろしく。」

「お待ちどうさま。」

 菜々子が、やって来た。

「自己紹介は、いらないみたいね。」

「みんな。おはよう。」

「おはようございます。」

 菜々子の後から来た男の人に、皆、一斉に挨拶した。

「父さん。こちら、木戸優くん。」

「ああ。君が優君か。ちょっといいかな。」

 ぺたぺたと、体に触れて、姿勢を整えられた。

「ちょっとお腹から声出してごらん。」

「あ、はい。あ~。」

「ごめんね。」

 発声と伴に腹筋のある下腹部を押された。

「あー。」

「いい感じじゃない?」

 今までで、一番、すっきりと、体の内と外に声が響いている感じがした。

「今のが、腹式発声。これが、発声の基本になるかな。」

「ありがとうございます。」

「菜々子。優君に教えてもらえる?」

「はい。」

「うん。それじゃあ、ウォーミングアップからね。」

 レッスンは、腹式呼吸、滑舌練習、発声練習、ハミング、リップロールと言ったものが行われた。

「じゃあ朗読に入ろうか。テキストは、優くんは、持ってなかったか?菜々子、見せてあげて。」

「はい。」

 宮沢賢治の銀河鉄道の夜を、交代で朗読して行く。

「意識的にゆっくりと、今までのことを思い出してね。」

 二時間程のレッスンだった。

「お疲れさま。」

「先生。」

 仁や礼が、菜々子のお父さんに、いろいろと質問していた。

「どう。優くん。おもしろいでしょう。」

 葵と隣に座って、話をした。

「菜々子のお父さん。優しいし、教えるの上手だから。」

「お待たせ。みんな。ジュース持って来たからどうぞ。」

「行こ。優くん。」

「はい。葵と木戸くんの分。」

「ありがとう。菜々子。」

「ありがとうございます。」

 菜々子は、父親たちの方に行ってしまった。

「優くん。格好良くなったね。」

「え?」

 さっきの席で、葵と一緒に、ジュースを飲んだ。

「自信がついたっていうのかな。なんか、堂々としてきたよ。初めて会ったときの、優くん。正直、ちょっと心配だったし。」

「そうだったんですね…。」

「仁くんと礼さんは、舞台俳優を目指してるの。」

「舞台俳優?」

「そう。劇団っていうのかな。もともと子役をやってたみたいなんだけどね。」

「二人で、内緒話?」

 菜々子が隣にやって来た。仁と礼は、まだ、質問をしていた。

「九戸さんって、もともと子役だったんだよね?」

「うん。そうみたい。うちの母親と、九戸さんのお母さんが知り合いみたい。」

「あ、そうなんだ。」

「うん。」

「そういえば…。葵さんと菜々子さんは、どんな関係だったんですか…?」

「私と菜々子?別に、友達だよね。小、中同じで。」

「木戸くんが、聞きたいのは、そういうことじゃないと思うわ。葵は、ね。木戸くん。もともと、歌手になりたかったの。」

「ちょっと、それ、今言うかな。」

「なんで?葵も、九戸さんのこと、木戸くんと話していたじゃない。」

「まあ、そうだけどさ。じゃあ、私、耳塞いでるから。」

「ふふ。葵は、この近所なんだけど、幼稚園の頃から、歌が好きでね。小学校のときは、歌手になりたがってて、中学校に入ってから、一緒に、発声練習するようになったんだけど、この子、人見知りでね。」

「そんなふうには見えないですけど…。」

「私には、懐いていたんだけど、ここに来て、他の子どもたちがいると、いつも隅っこで、丸くなってたの。」

「まだ~?」

「もう少し。それでも、私やお父さんに連れられて、一緒に、発声練習したり、朗読したりしてるうちに、自然と、緊張しなくなったんじゃないかな?そうしたら、今度は、声優になりたいっていいだしてね。」

「へ~。」

「だから、木戸くんと会ったとき、葵。昔の自分みたいに思って心配だったんじゃないかな。」

「まだ~。」

「いいよ。」

「はあ。疲れた。菜々子、変なこと言わなかった?」

「言ってないわよ。ねえ。」

「ええ…。」

「お疲れさま。菜々子。そろそろ解散するけど、皆、お昼どうするのかな?」

 菜々子の父がやって来た。

「そうね。葵と木戸くんはどうする?」

「一緒に食べてく。ね。優くん。」

「え、はい。」

「じゃあ、私、九戸さんたちに聞いてくるわね。」


ランチタイム

「先生って、『黄昏たそがれ11(イレブン)』のじょうマサトの役もやってたんですか?俺、見てましたよ。」

「もう、十年以上前だけどね。」

 菜々子の家で、葵、優、仁、礼、皆で、デリバリーで、ピザや寿司などを頼み、ランチを食べることになった。

「ちなみに、妻は、マネージャーの、アヤの役ね。」

「えっ。マジすか。」

「仁。失礼よ。先生方は、芸名とかって、あったんですか?」

「うん?言ってなかったか。私は、天堂てんどうあゆむで、妻が、星野ほしの友里ゆりだったか?母さん。」

友里ゆりじゃなくて、友里ゆーりね。あなた、一度も、間違えず呼んだことないんですもの。」

「そうだったか?」

「まあ、事務所の社長が、友里ゆりって、呼びだしたときは、もう、さすがに、私も諦めたけどね…。」

「星野友里って、Gratefulのですか…?」

「そう。よく知ってるわね。優君。」

 Gratefulは、小学校低学年のときにいたグループユニットだった。確か、『I'd say』というラブコメに出て来る女の子たちがモデルで、その声優さんたちが、主題歌を歌っていた。声優さんそれぞれが、キャラクターにそっくりなことで、話題になり、Gratefulというグループで、一時期、メディアに出ていた。

「『I'd say』。私も見てましたよ。確か、続編も、出てましたよね。だけど、あれって、私が、小学校のときだから。菜々子も、小学生で…。」

「はーい。葵ちゃん。その話は、そのへんで終わり。みんな、これ、ミートパイ焼けたから、食べて。食べられない人は、持って返ってね。」

「そうだ。木戸くん。これ…。」

「これは?」

「発声練習とかボイストレーニングのテキスト。」

「ありがとうございます。」

 数枚の紙がホッチキス止めされた冊子を、優は、菜々子から受け取った。

「優君は、将来、何かを目指してるのかな?」

「いえ…。僕は特には…。」

「先生。優くんの声って、とても素敵だと思いませんか?それで、私がスカウトしたんですよ。」

「確かに、個性的だね。磨けば光ると思うよ。」

「ね。優くん。私が言ったとおりでしょう。」

 葵は自分のことのように喜んでいる。

「優さんって、どこに住んでるんですか?」

「桃ノ木町ですけど…。」

「桃ノ木町って、隣町でしたよね。」

「ええ…。」

「隣町の木戸さんか…?」

 礼の隣に、菜々子の母が、ミートパイを持って来ていた。

「優君のお母さんって、もしかして、木戸きど夏美なつみって言わない?」

「えっと、たぶん、そうだったかな?」

「お父さんは、まさるさんかな?」

「そうです。僕と同じ字で、まさるって、言います。」

「やっぱり、なんか、声の雰囲気が似てると思ったのよね。ねえ、あなた。」

「木戸夏美と、まさる…。ああ、木戸先生の?」

「そう。夏美さんたち、養成所時代に、一度だけ会ったときあるし。先生も、ご自宅がこの辺だって言ってたから。もしかしてと思ったの。優君は知らなかったのか…。」

「知り合いなんですか?」

「木戸先生は、私たちの、養成所時代の先生だよ。夏美さんは、娘さん。おじいさんには、会ったことないかな?」

「祖父は、僕が小さい頃に亡くなってしまいましたけど…。」

「木戸先生…。亡くなったのか。そう言えば、体悪いって言ってたかな。養成所の講師も途中で引退したんだったかな?」

「うん。田舎の方で暮らしてるって聞いたけど…。そうか、一度、ご挨拶に伺いたいけど。どうかな?」

「えっと。母に聞いてみます。」

「そうか。ありがとうね。優君。後で、うちの電話番号教えるね。」

「それなら、お母さん。木戸くん、私の携帯にかけてくれればいいよ。連絡先、交換しとこうか。」

「あ、優くん。それじゃあ、私も。交換しよ。」


木戸夏美

 菜々子の家で、優は、結局、皆と連絡先を交換した。

「ただいま。」

「おかえり。どうだったお友達のおうち。」

「どうって、何?」

「だから、女の子なんでしょう?」

「?」

「もう。相変わらず、鈍いんだから。」

「ねえ。母さん。夏美って、名前だったけ?」

「そうよ。」

「新堂さんって知ってる?」

「新堂さん?」

「おじいちゃんの知り合いなんだって。おじいちゃんって、声優さんだったの?」

「声優さんじゃないけど、若いときは、劇団の俳優をやってたっていうわ。私が生まれたら、辞めちゃったからね。」

 リビングで、座りながら、二人は、話していた。

「養成所の先生やってたときの、生徒さん。なんだったかな…。ええと、友里。星野友里。」

「ああ。友里ちゃんのことか。」

「知ってるの?」

「だって、友里ちゃん、有名でしょう。歌も歌ってたし。」

「そうだけど…。一回、挨拶に来たいんだって。」

「あら。そんなのいつでもいいのに。そうなんだ…。友里ちゃん、こっち戻ってきてたんだね…。」

「じゃあ。そう伝えておくね。」

「私の携帯の番号、優、知ってる?友里ちゃんに、それ伝えてくれれば、いつでも、電話してって。」

「分かった。」

 優が菜々子にメッセージを送った。すぐに、夏美の携帯が鳴った。

「あっ。友里ちゃんかな。もしもし。あ。友里ちゃん。本物だ。すご~い。あ、ごめんなさい。木戸夏美です。ええ。勇二郎の娘の。」

 母の姿を見届けて、優は、部屋に戻った。スマホには、菜々子からのメッセージが届いていた。

「木戸くんのお母さん。劇団の女優さんだって、お母さんが、言ってたよ。」

「女優?」

「ええ。木戸くんのお父さんは、脚本家だって言ってたけど。」

「人違いじゃなくて?」

「うん。お母さん。今、電話してるから。」

「初耳です。」

「そうなんだ。また、何かあれば、連絡下さい。」

 優の父も母も、今は、普通の会社員である。父は、郵便局員で、母は、農協の事務員をしている。

「母さんって、女優だったの?」

「え?何。友里ちゃんに聞いたの?」

「娘さんに。」

「女優っていえば、売れない女優か。若いときにね。お父さんって、優のおじいちゃんのことだけど。おじいちゃんのことも知ってたから、何となくね。でも、優が生まれてから、辞めちゃったもの。」

「父さんは、脚本家だったの?」

「う~ん。脚本家だったのかな。あの人、なんか、雑用から大道具から、なにからなにまでやってたからね。まさるさんは、その頃から、郵便局で働きながら、劇団もやってたけど、優が生まれてから、辞めたよ。」

「何で?」

「それは、だって大変だもの。それに、優のことが大切だったからね。」

「ふうん。」

「もともと、収入があったわけじゃないし。女優一本で、生活してたっていう訳じゃないのよ。あくまで、趣味の範囲だったかな…。」

「そうなんだ。」

「だから、別に、今まで、優に言う程のことでもないしね。隠してた訳じゃないからね。お父さんも、同じだと思うよ。」

「分かった。」

「友里ちゃんは、どうだったのかな…。当時、結構、売れっ子だったと思うけど…。優と同い年なのよね?えっと、菜々子ちゃん。」

「うん。」


星野友里

「うちのお母さんか…。今も、二人とも、それなりに、仕事してるみたいだけど。」

「小学校の頃とかどうだったか覚えてる?」

「小学校の頃は、おばあちゃんの家にいたかな。そう言われると、あんまり、会わなかったかもしれない。でも、その頃は、どこの家も、そうだと思ってたし、休みの日は、一緒に遊んでもらってたしなあ。」

「ふうん。」

「菜々子。声優さんって、一度、休業しちゃうと、復帰したときも、仕事があるかは、分からないから、不安みたいだよ。それで辞めちゃう人もいるらしいし、あと、単純に、子育てとの両立が難しいんだと思うよ。」

「葵は、詳しいのね。」

「これでも、将来は、専門学校出て、声優になりたいって思ってるからね。いろいろ調べてはいるの。っていうか、菜々子は、疎すぎるよ。そう言うの。いつも、私のことばっかり言うけどさあ。」

「ごめんなさい。葵。」

「いや、別に謝んなくてもいいけどさ。ごめんね。」

「うん。」

「今日、学校終わったあと、養成所だっけ?」

「そう。来月、オーディションがあるから。」

「そっか、大変だね…。」

 葵も菜々子も、もう将来のことに、足を踏み入れているのが、優は、すごいと思った。二人のおかげで、優は、自信を持つことができた。それは、優にとって、感謝しなければならないことである。しかし、今は、それが、当たり前のことになってしまっている。だから、葵と菜々子が、先に進んでいるのを聞くと、自分だけ、取り残されていくような不安を感じてしまう。それは、どうにかしようとしても、どうにもならず、二人が、前に進んで行くのを応援することを、妨げていた。もしかしたら、葵も、また、それと同じような不安を感じているのかもしれない。そして、菜々子も、また、優や葵とは、違う何かを思っているのかもしれない。しかし、菜々子も葵も、いずれは、一人立ちしていく。そして、優もまた、いずれは、一人で、自分の人生を歩んでいかなければならない。

「大丈夫よ。一人で、歩いていても、私たちが、横に付いているから。」

「え?」

「どうかした、木戸くん?」

「いや。何か、聞こえたような気がして…。」

「ふうん。」

 放課後は、どこか寂しかった。

「ただいま。」

「おかえり。」

「こんにちは。優君。」

「あ、こんにちは。」

 菜々子の母が来ていた。

「友里ちゃん。いいの、菜々子ちゃん?」

「うん。今日は、あの子、養成所でレッスンがあるから。」

「ふうん。まだ、高校生なのに、大変ね。」

「うん。そんなに無理してまで、声優、目指して欲しくないんだけどね。本人が、やる気だし、あの子、私が言うのもなんだけど、才能もあるみたいだから。周囲も、けっこう、期待してるみたい。親の七光りになりたくないから、それ以上に、努力してるんじゃないかな…。あ、ごめんね。変なこと言って。」

「全然。菜々子ちゃん。自分からなりたいって言ったんだ。声優さん。」

「うん。小学校のときは、おばあさんに預かってもらってたんだけど、どうしても、面倒見られないときは、無理言って、仕事場に連れて来させてもらってたから。おばあさんの家でも、私と旦那の出てるアニメを、よく見てたみたいだし。」

「だけど、親として、感慨深いものは、あるんじゃない?」

「まあ、うれしくはあるよね。」

「でしょう。私の父は、どうだったのかな。私が、女優になりたいって言ったとき。」

「先生は、知らなかったの?」

「うん。始めはね。内緒でオーディション受けて、勝手に仕事辞めちゃったから。」

「仕事、何、やってたの?」

「うん。公務員。町役場の。後で、怒られたよ。」

「先生。怒ると、恐かったもんね。」

「そうね…。だけど、優が生まれたとき、やっぱり、女優やっててよかったと思ったよ。何なのかな。父に、二つ。親孝行できたかなって。ひとつは、女優をやって、舞台に立ったこと。ふたつは、孫の顔を見せられたことかな。それで、もう、女優はいいかって思ったんだ。まあ、売れなかったしね。」

「そんなことないよ。だって、夏美さん。凄かったじゃない。楽屋の入口まで、ファンが、立って、出て来るの待ってて。まあ、私も、当時、その一人だったんだけどな。」

「そうだったかな…。美化し過ぎじゃないかな?」

「そんなことないよ。あ、ごめん。携帯。」

「うん。出て。出て。」

 夏美は、コーヒーを一口飲んだ。

「うん。それじゃ。はい。」

「仕事?」

「うん。スケジュール変わるかも。」

「そっか。大変だね。」

「あの頃に比べたら、落ち着いてるかな。今度、先生のお墓参り行ってきますね。」

「うん。また、電話して。今日は、ありがとうね。」

「こちらこそ。ありがとう。」


九戸礼と九戸仁

 駅前の本屋で、優は、宮沢賢治の銀河鉄道の夜を買った。

「木戸さん?」

「あ、九戸さん。」

「仁でいいよ。妹といると、分からないし。それ、朗読の?」

「うん。」

 仁の手には、演劇の本が挟まっていた。

「俺たち、普段は、劇団晴れ時々曇りっていうところで、練習してるんです。」

「あっ。聞いたことある気がする。」

「草原町。俺たち、そこから、来てるの。」

 草原町は、桃ノ木町から、二駅離れている。葵と菜々子がいる皐月町の隣にある。

「晴れ時々曇りって、長いから、俺たちは、劇団晴れ時って、呼んでるけど。」

「仁さんと礼さんは、俳優さんを目指してるのかな?」

「俳優。う~ん。どうだろう。礼は、そう思ってるかもしれないけど。俺は、別に何でもいいかな。もともと、俺たちが、劇団やってるのも、親の意向?だし。うちの両親。もともと芸能関係?の仕事してたみたいで。新堂先生とも、知り合いで、それで、通ってる。感じかな。」

「うん。そう聞きました。」

「大学は、俺も礼も、たぶん、芸能関係や演劇関係のとこ、行くつもり。将来も、そんな感じだと思うかな。木戸さんは?」

「僕は。まだ、何とも。」

「そっか…。」

 駅前の広場には、会社からの帰りらしいスーツ姿の人たちが、大勢歩いていた。

「じゃあ。俺行きますね。」

「じゃあ。」

 仁は、駆け足で、駅の中に入って行った。

「ただいま。」

「おかえり。遅かったわね。」

「本屋寄って来た。あと、明日も、また、新堂さんのとこ行って来るね。」

「そう。無理しないでね。」

「無理してるように見える?」

「ううん。優、何か、たくましくなったね。」

「…。母さんは、僕に、将来、何かになってほしいとかある?」

「優の将来?別に…。思い浮かばないなあ…。」

「そう。」

「あ、待って。何って言うのかな。う~ん。優の母親だからかも、しれないけど。優は、何やっても、優なんだなあ。って、お母さんは思うから。あ、悪い意味じゃないよ。」

「そっか。ありがとう。」

「お父さんも、同じだと思うよ。」

 翌日、優は、菜々子の家に行った。

「優さん。おはようございます。」

「おはようございます。九戸さん。」

「礼で言いですよ。仁が一緒だと、どっちか分からないし。」

「ふふ。昨日、仁さんにも、同じことを言われました。」

「仁に会ったんです?」

「うん。桃ノ木町駅近くの本屋さんで。」

「そうか。仁。桃ノ木町まで行ってたのか…。仁って、地元の本屋では、買わないんですよ。演劇の本。友達に知られるのが、嫌みたいで…。」

「でも、仁さんたちの劇団って、けっこう有名じゃないかな…?」

「仁。本当は、演劇、好きなんだけど、恥ずかしいからって、劇団、通ってるのも、親の意向だからって、友達には、言ってるらしくて…。」

「そう言えば、確かに…。言ってたかな。」

「お父さんもお母さんも、無理やり、やらせてるわけじゃないんですよ。仁も私も、自分の好きなようにしていいよって。」

「そっか。」

「私は、純粋に演劇が好きだから、やってますけど…。仁は、将来、どうするのかなって。」

「不安…。なの…。かな…?」

「あっ、ごめんなさい。私、変なこと言ってました!?」

「あ、いや、そうじゃなくて、ごめんなさい。つい。」

「私は、仁に、演劇、続けてほしいけど、そういうのは、本人が決めることですから…。不安…。なんでしょうね。私…。一人になるのが。」

「大丈夫ですよ。一人で、歩いていても、皆、横に付いているから。…。と思います…。」

「ふっ。せっかく良いこと言ったのに。ありがとうございます。優さん。」

「おい。礼。先に、行ったの知らなかったぞ。待ってたのにさ。あ、木戸さん。おはようございます。」

「おはようございます。仁さん。」

「仁。寝てるから。先行くねって、言ったでしょう?」

「そうだったか?」

「まあ、いいや。今度からは、待っててあげるから。」

「うん。まあ、別にどっちでも、いいんだけどな…。」

 そのうち、葵と菜々子もやって来て、レッスンが始まった。


木戸勇二郎

 勇二郎の父は、小学校の教師で、母は、紡績工場で働いていた。5人兄妹の3番目に生まれた勇二郎は、高校を卒業後、印刷所で働きながら、家計を助けていた。勇二郎は、町に来た旅芝居の一団に憧れて、いつの日にか、自分も、役者になることを、夢見ていた。末の妹が高校を卒業したとき、勇二郎は、都会に出た。実家には、兄夫婦が暮らしていた。勇二郎は、早朝と昼間は、アルバイトをしながら、夜は、劇団で、演劇の勉強をした。劇団で、女優をしていた人と結婚し、数年後に、女の子が生まれた。

「夏美。は、どうかな?」

「良い名前じゃない。」

 夏に生まれたので、そう名付けた。夏美が生まれてから、勇二郎は、役者を辞めて、養成所の講師として、若手の育成を担うことにした。役者として、舞台に立つよりも、その方が、収入があった。

「洋子。俺より君が、舞台に立つ方が、劇団が輝くから。」

「ありがとう。でも、もう、私より、若い人たちが、大勢いるし、私も、舌切り雀のお婆さんや白雪姫の魔女の役は、やりたくないわ。」

 そう言った妻の言葉は、本音ではないということは、勇二郎にも、分かったが、勇二郎は、妻の言うとおりの道を進ませることにした。

 娘の夏美が高校生になったとき、妻が亡くなった。夏美は、高校を卒業して、町役場で働き始めたが、数年後に、役場を辞めて、劇団に入った。そのことを、勇二郎は、後で知った。勇二郎は、そのことで、夏美を叱った。が、最後は、やはり、夏美の思うとおりの道を進ませた。

「蛙の子は蛙か。」

 養成所の近くの居酒屋で、ハイボールを飲みながら、勇二郎は、そう思った。そのうち、夏美は、同じ劇団の脚本家兼雑用係の男と結婚し、勇二郎は、長年の飲酒が祟り、肝臓を患って、講師を引退した。実家のある田舎の近くのアパートに暮らし始めて、数年した頃に、娘夫婦が訪ねて来た。

ゆうって言うの。」

「良い名前を付けたな。」

「うん。優、おじいちゃんよ。」

「じいー。」

「優も、大きくなって、迷ったときは、自分の思うとおりの道を歩むんだぞ。それでもな。優。一人で、歩いているつもりでも、誰かが、きっと、君の横に付いているからな。」

 翌年、勇二郎は、他界した。


ジョバンニとカムパネルラ

「ジョバンニは、もう、いろいろなことに胸がいっぱいでなんにも言えずに、博士の前を離れて、早くお母さんに、牛乳を持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もう一目散に、河原を、街の方へ走りました。」

 菜々子の澄んだ声音が、地下にあるスタジオの防音壁を反射して、優の耳、一杯に、届いた。

「お疲れさま。」

 菜々子はオーディションに受かったらしい。

「来月からは、レコーディングが始まる予定かな。学校にも、来られなくなることがあるかもしれないけど。」

 仁と礼も、劇団の秋期公演の稽古があるという。

「私たち、二人は、動物の役かな。仁が狸で、私が野ねずみ。」

「狸。あんまり、気が進まないんだけどな。」

 演目は、宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュだという。

「それじゃあ、来月は、どうしようか?レッスンやめとこうかな。」

「あ、先生。僕、やりたいです。レッスン。」

「私も。」

「そうか、じゃあ、無理しないで。優君と葵君。来られなかったら、連絡して。」

「はい。」

「分かりました。」

「私も、レコーディングがなかったら、一緒に、参加するね。練習。」

「仁と私も。」

「ああ。俺たち、そんな忙しいわけでもないし。」

「そうだ。ところで、皆、銀河鉄道の夜どうだった?読んだことある人、多いと思うけど、最後の場面。セリフは、少ないけど、現実の世界で、ジョバンニがカムパネルラの死を知ったとき。彼は、どんな気持ちだったと思う?」

 星祭りの夜、ジョバンニとカムパネルラは、銀河鉄道に乗りながら、銀河を旅する。旅の終わりで、カムパネルラは、ジョバンニの前から、姿を消してしまう。そして、気がつくと、もとの丘の上に座っていたジョバンニは、街で、カムパネルラが、川で溺れて、行方不明になったことを知る。

「ジョバンニは、知っていたんですよね。」

「そうだね。天の川を行く、銀河鉄道自体が、生と死の旅路を表しているものだから、それを通して、ジョバンニは、親友の死というものに向き合う準備をした。その過程が、二人の旅になる感じなのかな。」

「最後に、ジョバンニは、プルカニロ博士から、自分の決心した通りに進んで行くように励まされますよね。それで、ジョバンニも、現実の世界に戻って来る。」

「あの博士って、カムパネルラのお父さんのことか?」

「さあ。どうだろう。宮沢賢治が、どこまで意図して書いていたか、詳しいことは、分からないけれど。多分、答えは、いろいろあるんじゃないかな。」

「それでも、悲しく、寂しくなかったと言えば、嘘ではないでしょうか。悲しくて、寂しくて、それで、カムパネルラと一緒に、旅をした。それでも、やっぱり、二人の行く先は違って、胸が一杯になりながらも、ジョバンニは、お父さんとお母さんのもとへ、向かった。」

「うん。声優にしても、俳優にしても、それを、どう表現するかかな。だから、その気持ちは大事に持っておかないとね。さあ。お疲れさま。皆、上に行こうか。」

 礼が行き、仁が行き、菜々子と葵が行き、最後に優が、階段を上って行った。菜々子の父が、スタジオの照明を消すと、地下室には、換気のエアコンの音だけが、ゴオゴオと響いていた。

 それから、数年後、この場所で、ひじりゆうという名前の人物が、時折、宮沢賢治の銀河鉄道の夜の朗読会を開いているという話が、近所で、話題になっていた。その朗読会には、劇団志望や声優志望の子どもたちが、大勢、参加していたという。

「では、皆さん。そういうふうに川だと言われたり、乳の流れた跡だと言われたりしていた、このぼんやりと白いものが、本当は、何か、ご承知ですか。」

 子どもたちの耳に届く、聖優の声は、どこか味がある、澄んだ清い音色を奏で、優しく、その声を聞く人たちの横に、寄り添って、一緒に道を歩いて行く。そんな声音をしていたと、朗読会に参加した子どもの一人が、その母親に言ったということであった。

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