ソーダー
気がついたらまた、白けた朝になっていた。
不健康な色の空き缶が足元に転がっているのを蹴って立ち上がると、夜に焚いた蚊取り線香の煙に噎せる。
ああ、今日は休みの日か、と気づく。
枕元に置いておいたスマホの画面が度々LINEの返信が来たことを通知するが、放って置いたまま立ち上がり、汗でしめったTシャツを脱ぐと、外し忘れたペンダントが不意に肌に触れて冷たかった。
適当な部屋着に着替え、カーテンと網戸をあけてベランダに出ると、やや涼しい風が吹いていて、ぼんやりと痛む頭はともかくとして、少し目が覚める気がした。
ふと、隣のベランダで隣人が何かをつまんで覗き込んでいるのが見えた。視線に気づいたのか、隣人はこちらを見て
「おはよう」
と微笑んだ。
「おはようございます」
形式的にこちらも微笑んで言う。何となく邪魔したかなと思って部屋に戻ろうとすると
「これ、覗いて見ますか?」
と隣人は手に持っていた何かをこちらに差し出した。
透明のビー玉だった。
「…え?」
隣人がなぜそんなことを言うのか分からずに、聞き返すと、隣人はもう一度言った。
「覗いてご覧なさいよ」
なんのために、と聞きたかったが、隣人は手を伸ばしたままこちらがビー玉を受け取るのをじっと待っているので、仕方なく受け取った。
人差し指と親指でつまんで、隣人がしていたように覗くと、逆さになって少し歪んだ景色が見えた。少し気泡の入ったビー玉だった。
「面白いでしょう、今どき珍しいですけどね、ソーダーグラスのビー玉。」
と隣人が言う。
「はぁ」
ソーダーグラスの意味も、なんと答えればいいのかも分からずにうなずいて、ビー玉を返そうとすると
「あげますよそれ」
と隣人は言う。あわてて
「でも、珍しいものなんじゃ」
と言うと
「まだ持ってますから。」
隣人はそう言って微笑んだ。
忘れて2、3日経って、仕事から帰ると、冷蔵庫からペットボトルの紅茶を出して飲んだ。
ふと、小さいテーブルの上に置いたソーダーグラスのビー玉を見た。椅子の背もたれにもたれかかって、ビー玉を覗いた。
部屋の中を見た。逆さまになったビールの缶、散らかった書類、捨てられずに取ってあった、彼が置いていったマグカップすらいつもと違って見えた。まるで水の中から逆さに景色を見ているようだった。
そのまま窓の外を眺めると、夜の街が小さく、逆さに煌めいていた。
小さい頃にもこんなことをしたような、ふと懐かしい気持ちになった。母が淹れてくれた紅茶の味すら思い出した気がして、口角がいつの間に上がっているのに気づいた。
隣人に会えないかと、次の日の朝にベランダに出たが、隣人の気配は無かった。もしや、と、玄関から出て隣のポストを見ると、既にドアポストにはテープが貼られていた。いつ引っ越したのだろう。
何となく、寂しい気がした。隣人に会ったのは、夢だったのかもしれない、とも思ったが、握りしめていたソーダーグラスのビー玉は確かにそこにあった。
夏の朝の風が吹いていた。




