有村大河の偵察日記
《2017年7月3日 04:30》
英雄・有村大河の朝は早い。まだ薄暗いこの時間帯、携帯から大音量で鳴る洋ロックで彼は目を覚ます。
「…………」
柚葉市北部、山沿いに並ぶ団地。そのD棟、5階の501号室。そこが有村家である。
北側、6畳ほどの部屋。壁にはロックフェスで手に入れたタオルやポスターがでかでかと貼られ、勉強机の横にはアコースティックギターが置かれている。床の小さな本棚にはヤンキー漫画が何冊か。
掛け布団替わりのバスタオルを放り投げ、ベッドの上で寝ぼけ眼をしばらくこすり。大河は、日課にとりかかる。
(蠭天大権……発動)
怪原家、その屋根裏に潜ませた、1匹のミツバチ。その視覚を自身のものとする。
瞬間、彼の目に広がるのは、真っ暗な物置。3階・屋根裏の納戸。この拠点から、大河の日課……魔神テュフォーンの眷属、怪原家の偵察が始まるのだ。
小さく差している、引き戸の外の光。廊下のダウンライトだ。それを追うように蜂をふらふらと飛ばせ、1cmに満たない隙間から外に出る。
納戸の暗闇から出ると、ぱ、と広がる世界。人の巣は、蜂の眼にはあまりに巨大に見える。まるで自分が小人か何かになってしまったようだ。
高い天井。ジンベエザメでも寝ころべそうなほど長い廊下。手前左側には階段、先には木製のドアが3つ。さて、今日はどこを探そうか?
(……つっても、決まってるんだがな)
一番手前、階段の少し奥にあるドア。その向こうが長女・珠飛亜と、三男・理里の寝室だ。ここを初めに調べるのが恒例。
ドアと天井のすきまを潜り抜け、姉弟の部屋の天井に張り付くと。部屋の奥に置かれたひとつのベッド。そこに、抱き合って眠るふたりが、居た。
……いや、正確には抱き合ってはいないのだが。
「ん……むにゃぁ♡」
「っ……」
真夏だというのに、長い手足を弟にみっちりと絡ませ、幸せそうなニヤケ顔の珠飛亜。それに対し、明らかに寝苦しそうなしかめっ面、汗だくの理里。
(…………)
もはやコメントは無い。生まれてこの方、ずっと怪原家の偵察役を担っている大河には見慣れた光景である。別に、うらやましいとはちっとも思っていないし、タンクトップにショーパンの彼女の生脚や二の腕が眩しく見えもしない。人間より遥かに視界が暗くなる蜂の眼が恨めしかったりもしない。絶対、絶対に。
異常が無いことを確認し、大河は無言で部屋を後にする。いや、蜂なので言葉は発せないのだが。自室にいる彼は無言だった。
次はさらに奥、対岸のドア。そこは長男・希瑠の部屋である。ふたたび天井とドアの隙間から侵入……と、男の部屋の匂いが触覚をつつく。
(……いつ見てもひでえな、ここは……)
その部屋の惨状は、毎日見ている大河でも声を漏らすほどだった。
壁にでかでかと貼られた、萌えキャラのポスター。タペストリー。抱き枕カバー等々。ドア近く、ガラス張りのラックには大量の美少女フィギュア。床は蛇のごとくさまざまなコードが散らかり、丸まったティッシュや紙くず、読みかけのラノベが散乱。壁四面にそれぞれ置かれ、窓も押し入れもふさいだ巨大な本棚は、大量の漫画とドラマCDで埋まっている。
そして、この汚部屋の主が居たのはベッド……ではなく。
「うへへ……」
部屋の中央に置かれたこたつ机。その上に置かれたノートパソコンに、真っ白な長髪の男が突っ伏していた。
さきほどの珠飛亜よろしく緩んだ顔。でかでかしたヘッドフォンからは何が流れているのだろう。こちらに背を向けたノートパソコンの画面には何が映っているのだろう。夏にもなって片付けていないこたつ布団に隠れた右手はどこに向かっているのだろう。想像したくもない。
(……異常なし)
苦い顔で、大河はオタク部屋を出る。いや、蜂の表情は動かないが。
☆
次に向かうのは2階。3階の一番奥の部屋は、今は使われていないためだ。
階段を降りると、そこには磨りガラスの張られた引き戸と、3階と同じ木のドアが4つある。さて、どこへ向かおう?
(……これも決まってるが)
階段に最も近い磨りガラスの戸の向こうは、リビング。その向かいのドアはトイレ。一番奥、廊下突き当りのドアは物置のものだ。
となると、目的地はトイレと物置きの間にある2つのドアしかない。まず手前のドアに入ると。
そこは、「明」と「暗」がはっきりと分かれた部屋だった。机が2つ、右と左の壁際に置いてある。右側の机はきちんと整理されていて、可愛らしいクマの小物などが数個置かれている。本棚には、恋愛小説や教科書が整然と並んでいる。
他方、左側の机は……なぜか、ど真ん中に黒い十字架が、ペンキで書かれている。教科書は机の上や床に散乱しており、壁にはドイツ語で何か落書きがある。そのくせ本棚は異様に綺麗で、クトゥルフ神話や魔法書・占いの本などが並んでいる。開けっ放しの引き出しには、空港で売っていそうな金や銀の手裏剣や魔法剣のキーホルダーがごまんと入っていた。
2つの机の間、奥の壁際の2段ベッドには、あまり顔の似ていない双子の姉妹が眠っている。上の段に眠る次女・吹羅は、大きないびきをかき、布団も蹴飛ばして、何やら寝言をつぶやいている。「ふはは、我こそは大宇宙を灰燼に帰し、万物を破壊する魔神の娘……」聞く価値もなかった。
下の段に眠る三女・綺羅は、次女に比べると大人しい。薄い掛け布団を肩までかけて、すやすやと寝息を立てている。その腕には、小さなクマのぬいぐるみが抱かれていた。
(……異常なし、だな)
蜂は部屋を出る。視覚を共有した大河の表情は、心なしかほころんでいた。
☆
さて、最後だ。双子の部屋を出て右のドア。「おかあさん」と幼稚な字で書かれ、絵の具でたくさんの花が書かれた木の札が下がっている。
(……今日こそは……!)
いつになく大河の気が引き締まる。
この部屋に入ったことがないわけではない。だが、大河はこの部屋の主の『寝顔』を、まだ一度も見たことがなかった。
何しろ、彼が (正確には彼が操る蜂が)部屋に入った時には、部屋の主はすでに目を覚ましているのである。入ると同時、殺虫スプレーを噴霧されるか、蠅たたきでシバかれるか、素手で殴り潰されるか……あの、『宝石の暗器』を投げられたことも数えきれない。
もはやこの部屋に何があるか、部屋の主が何かおかしなことをしていないか、それはどうでもいい。大河は、主の『寝顔』を見たかった。あの冷徹な美貌の持ち主がどれほどだらしない寝顔をしているのか、心のカメラに収めて、いつか戦う日が来たら馬鹿にしてやりたい。それくらいはしないと気が収まらなかった。
(だから……今日こそは!)
朝4時40分。普通の主婦なら寝ている時間だ。これより早い時間に侵入したこともあるが、いつ挑んでも偵察機ミツバチ号は撃墜された。
だが、今日は可能性があるかもしれない。昨晩、彼女は深酒をしていた。皆が寝静まった後、一人リビングで物思いにふけりつつ、ワインを飲んでいたのだ。
別の蜂の視点から観察していたが、寝所に入ったのは午前2時。それと同時に大河も就寝し、この時間なら恵奈も熟睡しているだろうとアラームをセットしておいた。……2時間半睡眠はなかなか身体にこたえるが。
ともかくも、今日はチャンスがある。今日ならあの女怪の寝顔を拝めるかもしれない。十数年来の大河の悲願が、ついに叶うかもしれない。
意を決し、ドアと床の隙間へ急降下。上からだとベッドで寝ている彼女の視界に入りやすいので、下から攻める。
(さあ……今日こそ見てやるぞ! 怪原恵奈、お前の寝顔を……! 心のスクリーンショットに保存して、死ぬまであざ笑ってやるよォ!!!!!!!! クッハハハハハハハハハハハハハ!!!!!)
緊張でテンションがおかしい。心の中の笑いが止まらない。だがもう後は無い。圧迫するドアの底を抜け、いざ、恵奈の眠るベッドの上へと飛び立たん――
「ごきげんよう、ミツバチさん。今日も来たのね?」
「ッアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
大河は叫んだ。いや、蜂は声を出せないので、自室の本体が。
恵奈はベッドに座っていた。平然と。ワインを4瓶も空けたはずなのに、二日酔いもしていないらしい。
(そうだこいつ……うわばみだったあぁ――――ッ)
今になって大河は思い出す。そう、恵奈は酒をいくら飲んでも酔わない体質……世に言う大蛇だった。酒を飲んで眠ったところを狙っても、無駄だったわけだ。
「あなたがうちに初めて来てから、もう何年になるかしら……10年は経ったわよね。本当、執念深いこと……だけど無駄よ? わたし、殺気を向けられると目が覚めてしまうから……わたしの寝顔なんて、いつまでたっても拝めないわ」
(な、なぜバレている――ッ)
目的が。偵察から、ただ『寝顔を見ないと気が済まない』という執念だけにすり替わってしまった、大河の目的が。
「毎日来てくれるのは結構だけど……わたしも、根気のある方だから何度でも言うわね」
(あ……来る……)
空中で大河 (が操る蜂)は後ずさりをする。恵奈の笑みが、だんだんと凄みを増していく。
「……レディーの寝顔を覗き見るなんて、マナー違反よ」
「うわああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
恵奈の右腕が消える。次の瞬間、目の前に聖金属の刃が迫る――
☆
「あぁ……はぁ、はあ…………」
蜂が絶命する直前で、大河は視覚接続を切った。
感覚を共有している蜂が死ぬと、大河の視覚もしばらくなくなってしまう。完全に失明するわけではないし、ほんの10分ほどだが、それでもいい気持ちはしない……目を潰される感覚を味わうのだから。
「くっそ……明日こそは……」
目の覚め切った頭をぼりぼりと掻き、大河は床に投げたタオルケットを拾う。朝の挨拶運動があるので今日は早めの登校だが、あと2時間くらいは眠れるはず――
……と。
「……こんガキャあああああああ!!!!!! 朝から何わめきちらしとんじゃああああああああああああああ!!!!!!!!!」
騒音が、部屋に突っ込んできた。
上下黒のジャージ、肩にかけたのはヒョウ柄の毛布。腰まで伸ばした金髪、睨まれた者は固まりそうな三白眼。その、30代前半とおぼしき女性は。
「げえ、おふくろ!?」
この時代における、大河の母親……有村豹、その人であった。
「ワレェ、ウチが寝たん何時やと思っとんじゃボケェ! 朝まで新喜劇の録画見とったせいで3時やぞ3時ィ! どつきまわして大阪湾に沈めたろかゴルァ!!!」
「いや、それはおふくろが悪いやろ……」
思わず、親の影響で身に付いた関西弁が出てしまう大河。もとは古代ギリシャ人なのに。
「アホぬかせェ! 新喜劇は何時まで見ても悪ないんや! 朝っぱらから叫ぶ方が悪いに決まっとるやろが!! おうら、こっち来いや……悪い子にはしっぺ300回の刑や」
「ちょ、ちょっと待てよ……! わ、分かった、謝るから一旦落ち着け、落ち着けって」
「あやまって済んだら警察いらんわあああああああああああ!!!! おうらイチ! ニィ!!」
「あいて、ちょ、痛っ、やめろ、やめろって、やめて止めて待ってよしてえええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!」
蜂を操る古の英雄も、母親には勝てなかったとさ。ちゃんちゃん。
~有村大河の偵察日記・完~