9.ラスベガス・マラソン1
午前六時半に真美は起きた。と言うよりも、目覚まし時計に起こされた。
「ひゃー。まだ眠いよぉー」
真美は、ぼやきながら大慌てで着替えをし、食堂で朝食を平らげた。
その後すぐにタクシーに乗り込み、ダウンタウンの児童養護施設に向かった。
朝早くなので道路は渋滞していない。タクシーは十分ほどで施設に着いた。到着時間は七時二十分だ。約束の時間までにはまだ十分余裕がある。
だが、施設には既に、ケンが来ていた。
「おはよう。ケン」
「真美、おはよう」
ケンも眠そうな顔をしている。
ケンは、昨夜事故に遭ったと言うのに、カジノへ二回行き、今日は施設に来ている。おそらく、まだ歩くたびに折れた肋骨がうずくはずである。
「昨日事故に遭ったばかりなので、無理しないでよ」
真美が心配すると、
「大変な力仕事は真美にやってもらうので大丈夫だよ」と、ケンが返事した。
「えーっ。まだ何かやることがあるの?」
真美は今日、施設でケンが何をするのかがわからない。だから真美は驚いた。
「冗談だよ。今日は朝食を見るだけ」
「よかった」
真美は、思わず胸を撫で下ろす。
「でも、その前に…、施設長に渡すものがある。ケン、一緒に来て」
そう言うと真美は、ケンと一緒に施設長室に向かった。
突然の真美たちの訪問に、施設長は驚いた。
「まだ、何か要求がありますの?」
施設長は、突然の真美たちの訪問に、嫌な顔をした。
「いえ、要求では無く、昨日話した寄付金を持ってきました。今度は本物です」
真美は、三千ドルを渡した。これは昨夜ポーカーで獲得した残り分だった。
真美は、もともと、かおりの借金を返済する分だけをポーカーで稼ぎたかった。だが、ディーラーが真美の予想を超えて賭け金を上げた。そのため、かおりの借金を返した後も、真美の手元には三千ドルが残ったのである。
真美は、ポーカーで稼いだお金を、自分のために使うことはしない。使ったら真美の信念が崩れてしまう。真美の信念は『お金は汗水流して稼ぐもの』だった。
だから、真美は昨晩寝ながら、このお金の使い道を考えた。その結果、施設に寄付することに決めたのだった。
これにはアベリィが驚いた。
「これでヘレンを病院へ連れて行ってください。そして余ったお金で、子供たちに学用品を買ってあげてください」
「どうして?」
「昨日、ダニーの机を見たとき、短い鉛筆しかなかったので…」
「あ…、ありがとうございます」
そう言ってアベリィは、書類を渡した。
「この書類は?」
「お手数ですが、寄付金の提供者欄に名前を書いてください」
アベリィが渡したのは、寄付金申込み用紙である。
真美は迷った。
あのお金は元々、真美が胸を張って渡せるお金ではない。ギャンブルで獲得した金だった。
悩んだあげく、真美は、寄付金の提供者欄に『アルバート』と記載した。アルバトロス・ホテルの代表者の名前である。
「えっ、アルバートさん? 真美さんではないの?」
アベリィは驚いた。ケンも驚いている。
「はい。このお金は、元々アルバトロス・ホテルの売上金の一部なの。ホテルの代表者アルバートさんから私が預かって来たのです」
「あの有名なホテルの代表者アルバートさんですか?」
「はい。そうです」
真美はきっぱりと答えた。
(アルバートさんが、お金を真美さんに預ける訳がない。これは嘘だわ。理由はわからないけど真美は嘘をついている)
アベリィは気づいていたが、知らぬふりをした。
寄付金をアベリィに渡した後、
「それでは、昨日お話したように、食堂を見学させていただきます」
そう言って真美は、ケンと一緒に施設長室を後にした。その後、直ちに二人で食堂に行き、朝食の様子を見学した。
食堂には既に、大勢の子供たちが揃っていた。その中にダニーがいた。
「おはよう、ダニー」
真美とケンが声をかけると、ダニーも笑顔で挨拶した。
「お兄さん、どうしたの? 立っているのも辛そうだけど…」
ダニーは、ケンの表情が苦しそうなので心配している。
「昨夜、自動車事故に遭ってね。でも大丈夫。それよりも、朝食の量は問題無いかい?」
「うん。真美さんとケンさんのおかげで、ちゃんとした量がもらえた」
そう言いながらダニーは、ヘレンが寝ている奥の部屋へ食事を運んだ。もちろん真美も食事を運ぶのを手伝った。
奥の部屋にはヘレンがいた。昨日よりも顔色が良さそうだ。
「おはようヘレン」
真美とケンが挨拶すると、ヘレンも笑顔で挨拶した。
「そちらのお兄さんは、ケンさん?」
「そうだよ。ダニーから聞いたのだね。これからは時々(ときどき)やって来るので、よろしく!」
ケンが握手をすると、ヘレンは喜んだ。
ヘレンは、昨日よりも明らかに元気だ。食事も一人で食べられるようになった。この分だと、二、三日で起き上がれるかもしれない。
ヘレンの回復に真美は安心した。
(私のやったことは無駄ではなかった。ダニーやヘレンが笑顔になった)
子供たちの笑顔は、みんなを幸せにする。真美は、ダニーやヘレンの笑顔を見ていると、嬉しくなった。
そんな真美の思いとは別に、ケンには気がかりな点があった。
ダニーとヘレンが食事している最中、ケンは、部屋の外に真美を連れて行き、気がかりな点を話し始めた。
「真美、一つだけ気がかりがある」
「なあに?」
「施設長には弱みを握っているので、食事の量を減らされる心配はない。だが、問題はサムだ。こればかりは、四六時中、監視することができない。サムがダニーから食事を奪うのは、いじめの問題だ。本人が改心しない限り、どうしようもない。たとえ施設長が監視するにしても、無理がある」
確かに、この問題は深刻である。サムの考え方が変わらない限り、陰でダニーをいじめる可能性は十分ある。
日本の学校でも、休み時間や放課後のいじめを、先生が把握するのは難しい。しかも、施設だと二十四時間の監視が必要になる。それは、実際には無理がある。
「わかった。私がサムと話してみる」
真美は、考えるよりも先に行動するタイプである。すぐさま食堂に行き、食事が終わったばかりのサムに話しかけた。
昨日サムは、施設長室で真美に会っている。そのため、真美から話があると言われると、断ることができない。
食事が済み、子供たちが食堂から出て行った後、空いたテーブルにサムと二人で座り、真美は話し出した。
「サム、お願いがあるの。食事の量は、昨日の夜から増えたので、もうダニーから奪わないでほしい。そして、サムは年長者だから、これからは、ダニーや年下の子供たちを助けるようにしてほしいの」
真美は切々とうったえた。そして続けて、
「私は、サムが立派な年長者になってほしいと願っている。そうなれば、サムはみんなから慕われるはずだよ」
「……」
真美が語り終えた後、サムはしばらく無言だった。だが、やがて、ポツリと話しだした。
「お姉さんたちが施設長に働きかけて、食事の量を増やすようにしてくれたの?」
「ええ、そうよ。今後減ることがあれば、ダニーがケンを呼ぶ。そしてケンが施設長に抗議することになっている。だから、もう食事の量が減らされることは無いわ」
「ありがとう。そして、今までごめん…。僕ってこのとおり体が大きいだろう? みんなと同じ量だと、全然足りないんだ」
確かに、サムの言うとおりである。小学一年生のダニーと、小学六年で真美よりも身長が高いサムとが同じ量なのは、ある意味、不公平である。
サムは話し続けた。
「お姉さん、マラソン選手だよね。しかも、この前のテレビ中継された大会で三位だったと、ダニーから聞いた」
真美は、三千メートル走の選手だが、マラソン選手ではない。しかし、小さな子供たちには、その違いがよく判らないらしい。
「マラソン選手ではないけど、長距離走の選手よ」
「それなら、今日開催されるラスベガス・マラソンに参加して優勝してほしい。そうすれば、僕は、少ない量の食事でも我慢できそうな気がする」
明らかに無茶な注文だった。サムは、まだ小学生なので、自分がいかに無茶を言っているのかが分からなかった。
第一に、真美はマラソン選手ではない。まだ最大でも二十キロメートルしか走ったことが無い。四十二・一九五キロは真美にとって未体験の領域だった。第二に、本日開催されるマラソン大会に、今から応募して参加できるわけがない。しかも真美は、今晩の飛行機で日本へ帰ることになっている。
だが、ここで断るわけにはいかない。断ったらサムは、真美の願いを聞いてくれないだろう。それだとダニーがいじめられる。真美は即答した。
「わかった。お姉さん必ずラスベガス・マラソン大会で優勝してみせる。だからサムも、年下の子供たちを守る立派な年長者になってほしい」
真美は、サムと指切りげんまんした。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ぉーます。指切った」
「お姉さん、これ何?」
サムは、お互いの小指を絡ませて約束する儀式を初めて体験したため、驚いた。
「日本の約束の儀式よ。これで私たちはお互いに約束したわ」
「わかった。僕は年下の子供を助ける。だから、お姉さんも優勝してね」
サムは明るい顔をしていた。
二人の様子を、遠くから見つめている者がいた。それは施設長のアベリィだった。
サムと別れると、真美は、ケンにサムとの約束を報告した。
「真美、無茶だ。第一、今からマラソン大会に参加できるわけがない」
ケンは、真美が約束した内容が実現不可能だと確信している。小さな村のマラソン大会ではない。四万五千人以上が参加する大会である。飛び入り参加など許されるわけがない。
「とりあえず、大会事務局に電話して、出場可能かどうかを尋ねてみましょう」
真美は、ケンに大会事務局の電話番号を調べてもらい、電話した。
しかし、ケンが予想したように、見事に断られた。
当然である。通常は、大会開始日の数か月前に受付が終了する。当日受付など、できる訳が無かった。
「どうしよう。このままでは、サムとの約束が守れない…」
真美が悩んでいると、施設長のアベリィがやってきた。
アベリィは真美の肩に手をかけた。
「真美さん、食堂でのサムとの話は全て聞いたわ。私が大会に参加できるようにしてあげる」
信じられない言葉だった。
真美は驚き、丸い大きな瞳をさらに大きくした。
「どうして参加できるようになるの? もしかして、アベリィさんは魔法使い?」
アベリィの黒っぽい服装が魔法使いのように見えたため、真美は単純にそう思った。
「大会事務局長が、この施設の出身者なのよ。だから、私が頼んでみる」
そう言うとアベリィは、真美の目の前で電話をかけた。
「ジャクソン? 久しぶり、施設長のアベリィよ。早速で悪いけど、お願いがあるの。今日開催するラスベガス・マラソン大会に、日本から来た少女を飛び入りで参加させてほしいの。…そう、名前は篠原真美。この前のU20世界陸上競技の三千メートル走でルーシーと張り合った、あの少女…。…そうよ。大会の宣伝効果にもなるでしょう?…悪いわね。…ありがとう」
電話を切るとアベリィは、髪を撫でながら、
「参加できるそうよ。十六時半にスタートだから、その二時間前までには事務局に行き、ゼッケンを受け取ってちょうだい。『事務局長ジャクソンから依頼があった飛び入り参加者の篠原真美』と言えば、スタッフに通じるわ」と、手慣れた口調で説明した。
アベリィは、大会事務局長とずいぶん親しいようである。そうでないと、当日で飛び入り参加などできる訳がない。
「ありがとうございます。大変助かりました」
「こちらこそ、サムに諭してくれてありがとう。頑張ってね」
そう言ってアベリィは、施設長室に入った。
「アベリィさんは、意外と優しい人のようね。今日だけをみると、食材費を誤魔化した人にはとても見えない」
そう言いながら真美は、ケンと共に施設を後にした。
「真美…」
このとき、ケンは何かを真美に言おうとした。
「ケン、どうしたの?」
「いや…、なんでもない」
ケンは真美に何も言わなかった。
ケンは、真美に話すべきことがあった。だが、今は真美に話すことよりも、先にやるべきことがある。だから、このときケンは、あえて何も言わなかった。
とりあえず、第一の関門はクリアした。だが、まだまだやるべきことが沢山たくさんあった。
真美は、早速ホテルに戻り、荷物をまとめ、佐々木かおりに荷物を空港まで持って行ってもらうように頼んだ。
「真美、あなたは空港行きのバスに皆と乗らないの?」
「ごめんなさい。私は…、用事があって…、直接空港に行くことになる」
真美は、これからラスベガス・マラソン大会に参加することを隠した。正直に話すと、止められることがわかっていたためである。
なぜならば、マラソンのスタート時間は十六時半であり、飛行機の出発時間は二十時ちょうどである。仮に世界記録のスピードでゴールしたとしても、それから飛行機の出発までは一時間十五分もない。マラソンのゴール地点から空港までは二十分以上かかる。ましてや真美は、フルマラソンは初めてである。
ゴールまでどれだけの時間がかかるか予想できない。余裕が全くないことだけは、わかっていた。
「わかったわ。真美、荷物は私が責任もって預かる。空港で会いましょう」
「ありがとう。かおり先輩」
そう言って真美は、ホテルを後にした。
その後、真美は、ケンと一緒にラスベガス・マラソン大会事務局のビルに向かった。
大会事務局に着くと、ケンが大会事務員と話をした。
ケンの流ちょうな英語により、話しはスムーズだった。真美の飛び入り参加の件は、大会事務局長から話が伝わっていたようで、すぐにゼッケンと時間測定用のICチップを受け取ることができた。
すると、受付の奥から大柄の男の人が突然やって来て、
「あなたが篠原真美さんですか。私は事務局長のジャクソンです」と、大きな手で握手をした。
ジャクソンは、がっちりした体格の優しげな男性である。
「無理を聞き入れてくれて、ありがとうございます」
真美がジャクソンにお礼を述べた。
「施設長のアベリィさんから頼まれたら、断れないよ。だってあの人は、僕の母親みたいな人だから。あの人がいなかったら今の僕は存在していない」
ジャクソンは、アベリィのことを尊敬している。
(アベリィさん、昔は良い人だったみたい)
真美は、ジャクソンの話し方から、今のアベリィの変わり様が信じられなかった。アベリィが食事の量を誤魔化したことが嘘のように思えてきた。
ジャクソンは、児童養護施設の最近のことを、真美に聞きたがっていた。
「噂では経営が苦しいと聞いたけど、アベリィさんは元気でしたか?」
ジャクソンは、施設のことを今でも気に留めているようだ。
真美は、知っている限りの施設のことを話した。もちろん、食材費の誤魔化しの件は秘密にした。
「真美、頑張ってくれ」
そう言ってジャクソンは、受付の奥へ去って行った。
「スタートの一時間前までに、マンダレイ・ベイ・ホテルの前に来てね。遅れると、うんと後ろから走ることになるわよ」
事務局の人が教えてくれた。大会参加者は四万五千人以上である。後ろからスタートすると、スタートラインをまたぐまで五分以上かかるらしい。
「そりゃあ大変だ。今すぐ並ばなきゃ」
真美が急ごうとすると、
「今すぐ並んだらクォーターマラソンの参加者と重なっちゃうから駄目よ。クォーターマラソンの参加者がスタートしてから並んでね」と、事務局の人が丁寧に教えてくれた。
真美たちは、大会事務局の人たちにお礼を言うと、事務局を後にした。
マンダレイ・ベイ・ホテルに向かう途中、ケンは改まって、
「真美、今朝、アベリィさんの帳簿を調べたところ、施設の経営が苦しいことがわかった…。そして、大会事務局長のジャクソンさんの心を覗き、それが確信に変わった…。ジャクソンさんは毎年、施設に寄付をしている。それでも、施設の経営が厳しいようだ…」
「ケン、一体何を言っているの?」
真美には、ケンの言いたいことがわからなかった。
「食材の量を誤魔化して得たお金も、子供たちの医療費に使われていて、アベリィさんが贅沢するためではないことがわかった…」
「えっ?…」
真美は驚いた。
「アベリィさんは苦しんでいた。今年はヘレンやほかの子の病気で、九回も病院で医療費を支払っている。食材費を減らさないと、ヘレンたちの医療費が捻出できなかったようだ」
「……」
真美は、愕然とした。何も言えなかった。
真美は、自分が正義の味方であり、さっきまでは、良いことしたと思っていた。食材の問題は全て解決し、後はサムとの約束だけだった。
だが、実際は、そうではなかった。根本の問題があった。施設の経営が苦しいことまでは、真美は知らなかった。
「そう言えば、アベリィさんの服は質素だった。施設長室にも、贅沢なものは何一つ置いてなかった。それに、大会事務局長のジャクソンさんは、アベリィさんのことを尊敬していたし、何かと施設のことを気にかけていた…」
全ての状況が、ケンの意見の正しさを裏付けていた。
(私は昨日から、いったい何をやっていたのだろう。一度目は正義の味方を気取って、ダニーを苦しめていた。そして二度目はさらに、正義の押し売りをして、アベリィさんを苦しめただけなの? 正義と言う名の剣を振りかざし、弱者であるアベリィさんを傷つけていたの?)
真美は悩んだ。悩み、悩み、考えた。
(いや、そうじゃない。まだ問題が解決していないだけよ。みんなが幸せになる解決策が、どこかに必ずあるはず…)
真美は、解決策を必死に考えた。
真美は、考えるのが得意な方ではない。だが、それでも必死に考えた。
(私に残された時間は、あと半日しかない。それが過ぎれば、日本へ帰らねばならない。それまでに何とかしなければ…。あと半日で、私に何ができるの? 走ることだけしかできない。走ること…)
真美は閃いた。
「ケン、頼みがある」
真美は、ケンに頼みごとをした。
ケンは、真美の頼みを引きうけたが、
「本当にそれで走るのか?」
「うん。これで走る」
真美は、覚悟を決めた。
真美は、早めに昼食を済ませ、ランニングウェアに着替えた。
真美のランニングウェアには、前後、上下とも、「児童養護施設に寄付金を」と英語で書かれていた。この文字は、先ほどマジックペンを用いて、ケンが記述したものである。
周りの人は、皆が真美のランニングウェアに書かれている文字を見て驚いた。なかには、真美のユニフォームを指さして囁いている人たちもいる。
だが、真美は気にしなかった。恥ずかしさなどどうでも良い。その覚悟があった。
好奇心で囁き合っている人たちをかき分けて、真美たちは、マンダレイ・ベイ・ホテルの前に着いた。
十一時近くになっていた。ホテルの周りには、参加者が少しずつ集まっていた。
真美は、近くの芝生の上に寝転がった。
「ケン、お願いがあるの。しばらく眠るので荷物を預かっていてほしい」
そう言うや否や、真美は直ちに熟睡モードに入った。
無理もない。昨夜は四時間も寝ていない。しかも、昨日はロスアンゼルスからラスベガスを経由してグランドキャニオンに行き、またラスベガスに戻ってきている。そして、ダウンタウンとストリップの間を何回も往復した。また、ポーカーでの緊迫した時間もあった。
真美は、相当に疲れていた。
そよ風が心地よく真美の頬を通り過ぎて行った。日差しは温かく、昼寝をするのにうってつけの天気である。
午後三時半近くになったとき、真美はケンから起こされた。
「そろそろクォーターマラソンの参加者がスタートする。彼らがスタートしたら直ちにスタート位置に並んだほうが良い」
「ケン、ありがとう」
真美は起き上がった。スタートの号砲が響き、目の前をクォーターマラソンの参加者が通り過ぎて行った。
真美は直ちにスタート位置に向かった。
「あっ、ケン、走り終わるまで荷物を預かっていてね」
「最初からそのつもりだったのだろう?」
ケンは苦笑いしながら、「頑張れよ」と言って真美を送り出した。
「あっ、トイレ。トイレに行くのを忘れていた!」
真美は慌ててケンに告げた。
ケンは「仕方がないなぁ」と言い、真美をトイレのある場所まで案内する。
トイレを済ませて戻ってくると、先頭の並ぶ場所は、既に人でいっぱいである。
「あー失敗したなぁ」
そう言いながら真美は、参加者の人混みの中に並んだ。
だが、以外と真美はずるいところもある。小さな体を生かして、一歩、一歩と参加者をかき分けて前の方に移動した。真美からかき分けられた男たちは、真美のニコッとした笑顔を向けられると、何も言えない。
いつの間にか真美は、スタートラインの近くまで来ていた。
すると、右側にいた参加者が真美の肩をトントンと軽くたたく。
右の方を見ると、体の大きな女性が笑顔で手を振っている。アンダー20世界陸上競技大会で真美とデッドヒートを繰り広げたルーシーだった。
「真美、あなたも参加するの?」
「わあー。ルーシー、久しぶり。成り行きで参加することになっちゃった」
「成り行きで参加?」
ルーシーは、意味が分からなかった。
「とにかく、今日は私の初めてのフルマラソンなの。よろしく」
「初めてなの? それじゃ無理しちゃだめよ。三千メートル走とは距離が全然違うわよ」
「わかった。ありがとう」
そう言いながら真美は、英語に慣れていないため、あまり理解していない。
このときルーシーは、真美のランニングウェアに書かれている文字を見て驚いた。前後、上下に『児童養護施設に寄付金を』と書かれている。
「真美、この意味は?」
「ああ、ダウンタウンの児童養護施設の経営が苦しいの。だから寄付を呼びかけるために書いたのよ」
真美は、笑顔で答えた。恥ずかしさなど無かった。
「でも真美、文字が小さいわ。それじゃ沿道の人たちは読めない」
「大丈夫、私が先頭を走り、一位でゴールすれば良いのよね。テレビに映るので、みんなが読めるよ」
真美は、何の不安も無い表情だ。まるで、一位になることを確信しているようだ。
ルーシーは、真美の『根拠が無い自信』を、信じることができなかった。
フルマラソン初参加の小さな少女は、常に先頭を走り、しかも、一位で完走するつもりだ。真美の考えは無茶だ。無謀と言ったほうが良いだろう。
だが、ルーシーは、そんな真美を応援したくなった。
多くの人は、できる可能性が、わずかしかなければ諦める。たとえ、それが素晴らしい考えであっても。
しかし、真美は、決して諦めない。わずかな可能性があれば、その可能性を信じて行動する。それは、人類が今まで成し遂げてきた科学の発展に不可欠な考え方でもあった。
発明王エジソンは、数多くの発明品を世に生み出した。だが、その裏には、成功の百倍以上もの失敗があったことを、みんなは知っているだろうか?
多くの人は、エジソンを『閃きの天才』だと誤解している。実際、彼は『閃きの天才』では無い。彼はまさに『努力の天才』だった。
挑戦し続けたものだけが成功できる。たとえそれが、わずかな可能性であろうとも。
ルーシーは、そのことを理解していた。
「ちょっと待って」
そう言うとルーシーは、近くにいる大会事務局の人に耳打ちした。ルーシーは招待選手なので、事務局の人とは顔馴染みであり、多少の無理がきく。
すぐに事務局の人がマジックペンを持ってやって来た。
「私の胸にも『児童養護施設に寄付金を』と書いてほしい。彼女の胸に書かれている文字と同じように」
大会事務局の人は驚き、首をひねりながらもルーシーのランニングシャツに『児童養護施設に寄付金を』と書いた。
(これで真美が途中で棄権しても、彼女の願いは、私が受け継ぐ)
ルーシーは、そう考えた。
ルーシーの胸にも『児童養護施設に寄付金を』と書かれたのを真美が見て、
「わー。ルーシーも協力してくれるの? ありがとう」
真美は、満面の笑顔でルーシーに抱きついた。
それまで真美は、一人で戦うつもりだった。厳しい戦いだと覚悟していた。表面こそ笑顔だが、心の中では不安がいっぱいだった。そんなときに…、そんなときにルーシーが協力してくれる。わずか二日間、時間にして二時間ほどしか接したことが無い異国の女性が、真美の味方になってくれた。真美は、ルーシーの行動が、たまらなく嬉しかった。彼女の優しさが、心に沁みた。
いきなり抱きつかれたルーシーは、戸惑いつつも悪い気がしない。ルーシーは、この無邪気な少女が好きだった。真美を応援したい気持ちが溢れていた。
スタートの時間は刻々と迫っていた。沿道には数万人のランナーが集まっている。観客のざわめきが、だんだんと静かになっていく。
ラスベガス・マラソン。別名をロックンロール・マラソンという。
一年に一度、この大会のために有名カジノやストリップ地区のホテルが立ち並ぶメイン通りが、ランナーのために開放される。また、一マイル(約一・六キロメートル)ごとにランナーを応援する音楽隊がいて、音楽を演奏してくれる賑やかな大会でもある。しかも、中盤以降はラスベガスのネオンライトに照らされた街並みを走り抜けることになり、幻想的なイメージを醸し出すナイトランになる。
真美は、静かに心を落ち着かせた。
元々は、サムとの約束でフルマラソンを走ることになった。真美が優勝することで、サムに年下の子供たちを守ってもらう約束をした。
だが、走る目的が、もう一つ加わった。常に先頭を走ることで、施設に寄付金を呼びかける。その目的が加わった。
(確かに、無謀な挑戦かもしれない。でも、私には走ることしかできない。走ることで、みんなを幸せにしたい)
それが真美の願いだった。純粋な気持ちだった。考えることが苦手な少女が、悩み、真剣に考えて、出した答えだった。
その答えを『無謀で馬鹿げたこと』と笑う人がいるかもしれない。だが、真美にとっては真面目に考えた結果であり、誰も真美を非難できないし、非難してはならない。
なぜならば、真美の願いには、人間としての優しさや思いやりがある。子供たちを幸せにしたいと願う気持ちがある。人間ならば、その気持ちを踏みにじってはいけない。
人間が生きていくうえで、優しさや思いやりは大切である。
人は、一人では生きられない。人は、人と人との間で助け合いながら生きていくものである。だから『人間』なのだ。
真美は今まで、多くの人の世話になり生きてきたことを知っている。
父親や母親はもちろんのこと、幼い頃に瀕死の重傷だった真美を救ってくれた人たち、井口コーチを始めとした指導者や、佐々木かおり、ケンなどの友達。それらの人々が一人でも欠けていたら、今の真美は存在していない。
だから真美は、日頃から人に優しくあろうと心がけている。それが真美の信念だった。
まもなく、真美にとって最も過酷な時間が始まろうとしていた。
真美の心の変化・葛藤・覚悟は、皆さんにうまく伝わりましたでしょうか?
次は、ラスベガス・マラソンで真美が苦しみに耐えながら走ります。
この物語で一番感動するところを描きました。
真美を応援してやってください。