7.ケン
真美がダウンタウンのフリーモント・ストリートに戻ったとき、後ろから『トントン』と肩をたたかれた。
真美が振り返ると、そこにケンがいた。昼間、グランド・キャニオンで真美を助けた若者である。服装は昼間とは違い、ブレザーにスラックスだ。一見、品が良い青年のように見える。
だが、品がよさそうなケンが、意外なことを告げた。
「つくづく真美は、おめでたいお嬢さんだよ。自分がとった行動が、あの子を苦しめているのに全く気づいていないとは、あきれ返ってしまう」
ケンはそう言うと、首を縦に振り、自らの言葉に頷いた。まるで、自分自身で自分の説明に納得しているようだ。
「なんなの? 何を言っているの?」
真美には、ケンが言っていることが、わからない。
「あの男の子、ダニーのことさ。きっと彼は、明日か明後日、年長者の男の子から殴られる。それに明日からは、配膳される食事の量も、いつもどおりに減らされる」
「なぜ…、なぜ、あなたがダニーのことを知っているの? それに、年長者のサムや配膳される食事のことも…」
真美は、ケンが何故ここまで知っているのかが分からない。
(あのときケンは、施設にいなかったはずなのに…)
真美は戸惑ったが、ケンは、そんなことを気にも留めないで話を続けた。
「年長者の子は、サムって言うのだね。ところで、君は施設長の話を聞いて、何も感じなかったのかい? あの施設長と食事係のサリーとは、グルだよ。食事の量を減らしていたのは、施設長の指示なのさ」
「えっ? そんな馬鹿な…」
「だからダニーが最初に『無駄だと思うよ』と、言っただろう? ダニーも、二人がグルなことくらい見抜いているよ」
「それじゃあ…、私のやったことは…」
「真美のやったことは、ダニーたちの今晩の夕食を多くしただけだよ。しかも、その見返りとして、年長者のサムに明日か明後日、ダニーが殴られるようにした。それに、おそらく明後日だろうか、施設長からダニーがパンを盗んだ理由で食事を減らされるようにした。真美の親切は、ダニーを不幸にしただけだよ」
ケンは、淡々と語った。
「そんな…」
真美は、気が動転した。
(私がダニーにしたことは、いらぬおせっかいだったの? ダニーを余計不幸にしたの?)
真美は、しばらく考えた。
確かに、施設長と食事係とのやり取りや、施設長と年長者サムとのやり取りには、真美も何か引っかかるものを感じていた。だが、そのときは、それが何なのかが判らなかった。
今、改めてケンの話を聞くと、あのとき引っかかっていたものに確信が持てた。
(そうだ、施設長と食事係サリーとはグルだ。そうでなければ、被害額に応じた減給が通達されるべきである。叱り飛ばすだけでは済む訳がない)
真美は確信した。
「ところで、ケン。あなたはなぜ、ダニーやサムや施設長室でのやり取りを知っているの?」
するとケンは、真美の耳もとに口を近づけ、小さな声で、
「君は時間を止める能力を持っているが、僕は人の心を覗く能力を持っている。特に真美の心は、純粋なので覗きやすい」
「それって、全て私の心を覗いたってこと?」
「ごめんね。君の心を覗いたことは謝る」
「もう遅い」
そう言うと真美は、向きを変え、裏路地に向かった。
「どこへ行く!」
「施設長にもう一度会う。食事係のサリーとグルであることを言い、明日からも食事の量を増やしてもらうように言う」
「無駄だ。証拠が無い」
「証拠なんて無くったって、言うべきことは言わないと気が済まない」
真美は歩き続けた。
「そんなことをしたら、もっとダニーが苛められるぞ!」
ケンの言葉に、真美の足が『ピタッ』と止まった。
「……」
真美は何も言わない。何か考えているようだ。
しばらくして、振り向いた真美は、涙を流していた。
「どうすれば…、どうすればダニーは、幸せになれるの? 教えて! 私には、今晩と明日しか時間が無い」
真美は、両手で顔を覆い、涙を拭っていた。涙がボロボロと、頬を伝わって落ちている。
真美は、何としてもダニーを幸せにしてやりたかった。最初に会ったときから、他人のような気がしなかった。『私はあなたの友達だよ』と、真美は告げた。このまま何もしなかったら、一生悔いが残る。
ケンは、真美の肩を優しく押さえた。
「わかった。僕と真美が組めば、何とかなるかもしれない」
ケンは、真美の耳に口を近づけ、ひそひそと話し出した。
ケンの提案を聞き、真美は希望を持った。(何としてでも、ダニーを幸せにする)
それが真美の願いだった。
十分後、真美は、施設長に電話した。
「先ほどお会いした篠原真美です。私の友達で『児童養護施設に寄付をしたい』と、言っている方がいるのです。今からその人とお会いすることは、可能でしょうか? その人は今晩の飛行機でイギリスに向かうため、今日しか会う時間が取れないのです」
一気に話した。そうしないと英語が苦手な真美は、アベリィの話があまり理解できない。それに、時間がかかると嘘が見破られる可能性が高い。
施設長アベリィは、真美からの電話に最初うんざりしたが、寄付の話を聞き、会うことにした。
さらに十分後、真美とケンは、施設に行き、施設長室のドアをノックした。
「どうぞ。お待ちしていました」
アベリィは、寄付がもらえるとのことで上機嫌である。寄付の金額を勝手に想像し、心をときめかせている。
「アベリィさん、こちらは、先ほどお話ししたケンです」
真美がケンを紹介した。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。私がアベリィです」
「こんばんわ。ケンです。アベリィさんが沢山の孤児たちの面倒を見ているとお聞きしたものですから、ぜひとも寄付をしたいと思い、参上しました」
ケンの服装は立派で、話し方は上品だった。そのためアベリィは、ケンを上流階級の子息だと推測し、安心した。
「ところで、養っている孤児の数は何人なのでしょうか?」
ケンが尋ねると、
「二十八人ですわ」
アベリィは、すぐに答えた。
「二十八人ですか、それでは一回の食事代にはどれほどかかるのでしょうか?」
「ちょっと待ってください」
アベリィは立ち上がり、棚にある帳簿を取り出し、ページをめくった。
「食費が一人当たり、およそ三ドルかかりますので二十八人分で八十四ドルですわ」
「それは高額ですね。では、どうやって食事代を切り詰めてられるのでしょうか?」
ケンが質問したとき、アベリィは二重帳簿で食材費を削減していることを一瞬考えた。
その瞬間、ケンは、アベリィの心を覗いた。これこそが、ケンの質問の目的だった。質問することで、食事の量を減らしている証拠をつかもうとしているのである。
「そうですわね、大量にまとめて買うことで、切り詰めていますわ」
(二重帳簿か、本当の食材費が書かれている帳簿はどこだろうか?)
ケンは、心の中で想像した。そして、表面上は、何食わぬ顔で会話を続けた。
「そうですか。まとめ買いですか。賢い買い方ですね」
そう言いながら、
「ところで、大切な書類やお金は、どうやって管理されているのでしょうか?」
「お金は銀行に預け、書類は棚の奥にある金庫にしまっています」
アベリィがいったとき、ケンはメモ書きで
『二重帳簿は金庫の中』と記載し、真美に見せた。
「フリーズ」
すかさず真美が心の中でつぶやき、時間を止めた。
部屋の景色が灰色に変わる。アベリィやケンの動きが止まった。周りは、音一つない静寂な世界に変わった。
真美は、急いで棚にある金庫を開けようとした。
だが、金庫には鍵がかかっている。扉が開かない。
真美は、メモ書きで『金庫の鍵が必要』と記述し、ケンの膝元に置き、息を吐き出した。
時間が動き出す。周りの景色がカラーに戻った。近くを走る車の音が聞こえてきた。
ケンは、素早く真美のメモを読むと、
「でも、金庫だと中身を盗まれる心配があるので危ないでしょう?」と、さりげなく尋ねた。
「大丈夫です。鍵は私の胸ポケットに、肌身離さず持っていますから」
アベリィが答えると同時に、再び真美は、
「フリーズ」と心の中でつぶやいた。
再び部屋の景色が灰色になり、周りが静寂になった。時間が止まったのである。
真美は、アベリィの胸ポケットに手を入れ、鍵を取り出すと、すぐに金庫を開けた。
ケンの予想どおり、金庫の中には帳簿が入っていた。
すかさず帳簿を取り出し、金庫を閉め、鍵をアベリィの胸ポケットに戻した。さらに、帳簿をケンの膝元に置いた。
その後、真美は、息を吐き出した。
部屋の景色がカラーに変わり、周りから静寂さが無くなった。時間が再び動き出したのである。
ケンは、膝の上に置かれた帳簿を見ると、素早くページをめくった。
(あった。このページだ。食材費を不正に誤魔化している記録が記載されている)
ケンは、アベリィに『ニコッ』と笑顔を見せた。
「どうしました?」
ケンが急に笑顔を見せたため、アベリィは不思議に思った。
すると、ケンが椅子から立ち上がり、
「アベリィさん、あなたは、警察に逮捕されるようなことをしていますね。少なくとも、半年前から少しずつ、子供たちに与える食事の量を不正に誤魔化し、利益を得ています」と、アベリィを咎めるようにいった。
「失礼な。何を根拠におっしゃるのですか」
ケンの態度の急変に、アベリィは、機嫌を悪くした。
しかし、ケンは、アベリィの前で帳簿を開き、
「ここに不正をしている記載があります。私は、これを証拠として警察に提出します。おそらく、あなたは、刑務所に三年以上入ることになり、隠し財産も、全て没収になりますね」
ケンの開いた帳簿を見て、アベリィは驚き、胸に手を当てた。鍵は胸ポケットに確かにある。
直ちに金庫を開けたが、そこに帳簿は無い。帳簿はケンの手にある。
「どうやって…、いつの間に盗ったの?」
ケンは、アベリィの質問を無視し、
「さて、ここからが本当の交渉です。アベリィさん、あなた、逮捕されたくないでしょう」
「だ…だましたのね」
アベリィは、声を震わせて怒っている。両手で拳を握りしめ、手がブルブルと震えていた。
「最初にだましたのは、あなただ」。今から条件を言う」
「……」
アベリィは、ケンを睨んだまま、何も言わない。
「こちらの条件は二つだ。一つ目は、今後一切、食事の量を誤魔化さないこと。二つ目は、施設内でのいじめを無くすこと。食事の横取りを見て見ぬふりするのも禁止だ。これだけだ」
まともな条件だった。普通の施設では当然行われていることだった。
ケンの出した条件に、アベリィは拍子抜けしたような顔をした。
「ただし、私は不定期に視察に来る。そのときに一度でも条件が守られていなかったら、この書類は警察に渡す。覚悟してくれ」
「わ…、わかったわ…」
アベリィは、ためらいがちに条件に納得した。
「それじゃ失礼。明日の朝食を見に来るよ」
そう言ってケンは、施設長室を出た。真美も、後に続いた。
すると、偶然にも廊下にダニーがいた。
「真美、帰ったはずなのに、どうしたの?」
ダニーは、不安そうな表情を浮かべている。
「ダニー、心配しないで。明日からも食事の量を公平に盛るようにと、施設長にお願いしたから」
真美が説明すると、横にいたケンが続けて、
「ダニー、もう不安は無いよ。真美のシャツを握って安全を確保する必要は無いからね」
「えっ。なんのこと?」
「夕食の前にダニーが真美のシャツを握って、『もう少し、一緒にいてほしい』と言っただろう? あれは、真美が一緒でないと、ダニーが殴られて食事の量も減らされることを恐れたためだよ」
ケンの説明で真美は、昨日の状況を思い出した。そういえば、あのときのダニーは、おびえたような顔をしていた。
「ごめんね、ダニー。何も気づいてあげられなくて、ごめん」
真美は、ダニーを抱き締めた。
真美から抱きしめられたダニーは、戸惑っている。
「もう大丈夫。明日からは、このお兄さんが…、ケンがダニーを守ってくれる。安心して」
真美は、ダニーにケンを紹介した。
「よろしく、ダニー」
ケンがダニーの頭を撫でると、ダニーは、恥ずかしそうに笑った。
(この人も、僕を助けてくれる。僕とヘレンは、孤独じゃない。真美が守ってくれる。ケンも僕たちを守ってくれる)
ダニーは、未来に希望を感じた。長らく絶望しか感じていない子供の心に、光が降り注いだ。ダニーは、ほんのわずかだが、幸せの予感がした。
三度の食事が、まともにできるようになった。ただ、それだけのことである。だが、ただそれだけのことが、ダニーやヘレンには、幸せと感じるに値することだった。そのことだけでも、今までが、いかに不幸だったかが分かる。
余談だが、毎日三度の食事をとっている人たちは、自分たちがいかに幸せなのかを感じていただきたい。世の中には、毎日三度の食事をとることができない人が沢山いるのだから。
その後、ケンと真美は、ダニーと別れ、施設を出た。
ダウンタウンの中心街へ向かう途中、真美は、えらく機嫌が良かった。満面の笑顔だった。
「ケン、ありがとう。おかげで助かった」
「どういたしまして」
「でも、アベリィさんに言った条件が、ゆる過ぎない? 私だったら、週に一度はプリンを食事に付けるように命令したのに」
「はいはい。真美がプリン大好き少女なのはわかりました。今度おごってあげるね」
「わぁー。ありがとう、ケン。私は、明日の夜に日本に帰るので、それまでにおごってね」
真美は、プリンをおごってもらえるので、さらに笑顔になった。いつもの明るい真美に戻ったようだ。
「どうせ食べる量は一つじゃなく、三つ以上だろう? こんな小さな体のどこに、食べた分が格納されるのか、わからないよ」
「甘いものは別腹なのよ。女性は全員そうよ」
真美は、両手の親指と中指をそれぞれ合わせて輪を作り、お腹の右と左に持って行った。まるで、別腹用の胃袋が二つあるような説明である。
「そんな言い方だと、食事の量は普通みたいに聞こえるけど…」
「えーっ、若者は、おかわり二杯が普通じゃないの?」
「真美のおかわりは、どんぶりのおかわりだろう?」
「えへっ、ばれたか…」
真美は、頭をかきながら笑っていた。
「ところで、ケン、これが映画ならば、施設長の手の者が、今頃、銃を持って私たちを襲撃しにやって来るのだけどね!」
真美は、ケンに向かって拳銃の射撃を真似した。
冗談のつもりだった。だが、真美が射撃の真似をした直後、後方から車が猛スピードでやって来た。
話に夢中になっていたため、二人とも気づくのが遅れた。真美は、時間を止める余裕がなかった。
真美は、かろうじて横に跳びはねた。もちろん、判断のうえの動作ではない。体が勝手に動いていた。本能の動作だった。
その後、直ちに真美は時間を止めた。
「フリーズ」
周りの景色が灰色になり、静寂な世界になった。真美は、ケンを探した。
ケンは、前に避けようとして、車にぶつかっていた。
真美は、時間を止めることができるが、時間を戻すことができない。
この場合、ケンへの車の衝撃を弱めることしかできない。しかも、弱める力には限度がある。
真美は、ケンを背負い、遠くまで走った。ケンの体は重い。それでなくとも、真美は呼吸ができない。呼吸をすれば時間が動き出すためである。さらに、真美は慌てて時間を止めたので、真美の肺に蓄えられている空気は、極めて少なかった。
苦悶の表情でケンを背負い、真美は、必死に走った。だが、前方に十メートル走ったところで力尽き、息を吐いた。
時間が動き出した。周りの景色がカラーに戻り、静寂さがなくなった。ケンを轢いた車が過ぎて行った。
ケンは、苦しそうにしている。呼吸をするたびに苦悶の表情を浮かべていた。
真美のすぐそばに公衆電話があった。
真美は、迷わず公衆電話に25セント硬貨を2枚投入し、救急車を呼んだ。
「ケン、もう少しの辛抱よ」
真美は、ケンを励まし続けた。
十分ほど経って、静寂な夜を打ち破るように、サイレンを鳴らした救急車がやって来た。
救命士は、適切な処置をし、近くの病院に運んでくれた。どうやらケンは、肋骨を骨折したようだ。真美が時間を止めて衝撃を軽くしなかったら、ケンは死んでいたかもしれない。
肋骨が折れると、呼吸をするたびに苦しい。ましてや、折れた骨が肺に突き刺さった場合は、のたうち回るような苦しさになる。
医師の診断によれば、五日ほどの入院となるらしい。折れた肋骨は、幸運にも肺には刺さっていないようだ。
先ずは一安心だった。
しかし、アメリカは医療費が高い国であることを、真美は、すっかり忘れていた。
病院の事務員が真美に請求書を手渡した。
「二週間以内に払ってください」
そう言って事務員は、去って行ったが、
真美の手にした請求書には、二万ドル(一ドル百円とし、日本円にして約二百万円)と書かれていた。しかも、それとは別に、救急車の費用が二千ドルだった。
アメリカでは、救急車に乗るのもお金がかかる。だからアメリカ人は、救急車に乗らずにタクシーで病院に行くのが一般的である。
「とても払える金額じゃない」
真美は、アメリカの医療費の現実を、ようやく知った。そして、施設長のアベリィがヘレンを病院へ連れて行かない理由も理解できた。
病室に行くと、ケンが起き上がっていた。
「まだ無理しちゃダメよ」
真美はケンを説得するが、ケンは手を左右に振り、
「五日間もここで寝ていたら、請求額は今日の二倍以上になる」
そう言うとケンは、ふらつく足取りで服を着替えようとした。だが、痛みのために、服の着替えが難しそうだ。思わず真美は、ケンに寄り添った。
「私がついていながら怪我をさせてしまった。ごめんなさい」
真美は、ケンの着ている病院の寝巻を脱がせながら謝った。
「そんなことは無い。真美がいたから僕は助かった。君は、時間を止めて僕への衝撃を和らげてくれた。感謝するのは僕のほうだよ」
ケンは、痛みをこらえて笑顔を見せた。
寝巻を脱がせ終わると、真美はケンの服を着せた。その後、真美が肩を貸してケンを支え、一緒に廊下を歩いた。たかが二十メートルの廊下だった。だが、真美やケンにとって、この廊下は果てしなく長い距離に感じた。一歩、一歩、さらに一歩と、真美は、ケンをいたわりながらゆっくり歩いた。
退院手続きを済ませ、タクシーに乗り込むと、ケンは、アルバトロス・ホテルに行くように運転手に告げた。
ストリップ地区にあるアルバトロス・ホテルは、ラスベガスで有名なホテルである。客室数だけで六百あり、一日の宿泊者数は約千五百人だった。
「どうして? 自宅じゃないの?」
真美が尋ねると、ケンは首を横に振り、
「車のナンバープレートで車の持ち主を調べたところ、僕たちをひいた車は、アルバトロス・ホテルの車だった。しかも僕は、運転手の顔を覚えている。この借りは必ず返してやる」と、ケンは復讐に燃えていた。おそらくケンは、アルバトロス・ホテルへ抗議しに行くのだろう。
ネオンライトの街並みの中、真美とケンを乗せたタクシーが、ストリップ地区に向かって行った。
タクシーの中で、真美は、思いだしたようにケンに尋ねた。
「ところで、ケン。グランド・キャニオンで私に言った『ミラクル・チルドレン』って何?」
真美は、あのときのケンの言葉が気になっていた。どうしても、確かめる必要があると感じていた。
するとケンは逆に真美に質問した。
「真美は七歳のとき、ある事故に巻き込まれて、重体になっただろう?」
「うん…。よく知っているね。あっ、そうか。私の心を覗いたのね」
「いや、違う。僕も、そのとき、真美と同じ場所にいて、その事故に巻き込まれた」
ケンの答えは、真美を驚かせた。ケンは続けて、
「同じ事故に巻き込まれた子供たちが、全部で四人いた。それらの子供たちは、同じ研究所に収容され、特別な治療を施された。そして、副作用として特殊能力を身につけたのさ」
ケンの説明は真美を驚かせた。真美は、しばらく、開いた口がふさがらない。
「…ということは…、私たち以外に、あと二人いるのね。ケンは、その人たちに会ったことがあるの?」
やっとのことで、真美が質問した。
「そのうちの一人と会ったことがある。僕と同じ年齢の男性だった。その人がミラクル・チルドレンの情報を、僕に教えてくれた。そして、その人は、二年前に事故で亡くなった。もう一人とは会ったことが無い。でも、いずれ、出会うはずだよ」
「一人の方は既に亡くなったのね。会いたかったなぁ…。でも、どうして、もう一人の人とはいずれ会うとわかるの?」
「ミラクル・チルドレン同士は、お互いに引きあう力があるようだ。だから、必ず出会うはずだよ。もしかして、真美は既に、もう一人のミラクル・チルドレンに出会っているかもしれない。でも、もし出会っていたら、すぐにわかるはずさ。懐かしい気を感じるから」
ケンに『懐かしい気』と言われて、真美は何処かで懐かしい気を感じたような気がした。でも、どこで感じたのか思い出せない。
「会いたいなぁ」
真美がポツリとつぶやいた。
「会っても友達になれるとは限らないよ。恐ろしい敵になるかもしれない」
ケンは、人間の恐ろしさ・醜さを、アメリカで嫌と言うほど体験してきた。だから、真美のように素直に会いたいとは思わない。
「大丈夫。必ず友達になれるよ。そして、困ったときには、必ず力を貸してくれる」
「どうして? どうして真美はそう言い切れるの?」
「だって、ケンが…、ケンがそれを証明してくれた…」
真美が笑顔で答えた。真美のその笑顔を見て、ケンは顔を赤らめた。
真美は、いつも前向きだ。もう一人のまだ見ぬ友達にいつか会える日を、真美は楽しみにしている。
ストリップ地区、ネオンの明かりで煌めく南北に細長いラスベガス大通りである。
この街には夜が無い。アメリカで最も夜がきらめいている街と言っても良いだろう。
ダウンタウンに比べて土地に余裕があるため、今でも大型ホテルの建設ラッシュが続いている。経済規模もダウンタウン地区に比べ、ストリップ地区は十倍以上も差がある。ちなみに、ラスベガスへ宿泊する日本人の一般観光客は、その九十九パーセントがストリップ地区を選択している。
そのような状況において、もはやストリップ地区は、ラスベガスの中心と言っても差し支えないだろう。
ストリップ地区のアルバトロス・ホテルに着くと、ケンは早速、受付に行き、支配人に面会を申し出た。
「お客様、予約は取っておられますか? 支配人は予定が埋まっており、本日はお会いできません」
「僕は、お宅のホテルの車に轢かれた。予定など関係ない」
ケンのただごとでない様子を察し、受付の女性は、大急ぎでマネージャーを呼んだ。
直ちにマネージャーが駆けつけた。
「私が受付マネージャーのノアです。ご用件を先ずは、私にお聞かせいただけないでしょうか?」
ノアは、落ち着いた声の紳士だった。ケンと真美を別室に導いた。おそらく、広間で騒ぐとホテルの評判に影響するためだろう。
ケンは、真美に支えられながらゆっくり歩いた。
部屋に入ると、ケンがすかさず言った。
「僕は、四時間前にホテルの車に轢かれ、傷を負った。僕を轢いた車は、ナンバープレートがFA14XXだ。運転手の顔も覚えている。彼女も事故現場にいた。彼女が証人だ」
「そうですか。四時間前だと…午後七時頃ですね。ちょっと待って下さい」
ノアは、パソコンで調査した。
「確かに、ナンバープレートFA14XXは、うちのホテルの車です。でも、その車は、二日前から車検で整備工場にあずけていますよ」
予想に反したノアの説明に、「そんなバカな?」と、ケンは驚いた。
「それじゃあ、この車の運転手の写真を見せてくれ。顔は覚えている」
「わかりました」
ノアは、パソコンのモニターに写真を三十枚並べた。
「この中にあなたが見た顔の人はいますか?
彼らは、全てホテルの運転手です」
ケンが一枚一枚確認するが、ケンの見た顔の男はいなかった。
ケンは、ノアの心を覗いた。だが、ノアは嘘をついていない。おそらく、ノアは今回の事件とは関係ないのだ。
「でも、確かにお宅の車だった。整備工場から動かしたのではないか?」
「そこまでお疑いでしたら…」
そう言うとノアは、パソコンの電話機能をクリックした。しばらく待つとテレビ電話が繋がった。モニターに映ったのは作業服を身に着けた男だった。
「ハロー、モーリー。こちらはノアだ。尋ねたいことかある。二日前から車検で整備中のナンバープレートFA14XXの車だが、今日は外に出ていないよな?」
「ノア、おかしなことを言わないでくれ。整備中の車が外に出るわけがないだろう」
モニターに映ったモーリーがいった。
「私もそう思うが、私の横にいる男性が、四時間前に、その車から轢かれたと言っている」
「そんなことは、ありえない。だって、今日はタイヤを外している。動く訳がない」
そう言うと整備士モーリーは、映像を移動させた。やがてモニターにはケンが言ったナンバープレートの車が映った。しかも、その車は、タイヤが四本とも外されていた。さらに、車種がケンの覚えている車種と違う。モニターに写っている車は、キャデラック社のXTSである。ケンをひいた車は、フォード社のフォーカス・スポーツだった。
「このナンバープレートの車は、昔からキャデラック社のXTSでしたか?」
「もちろんだ。なんなら車検証を見せようか」
モーリーは車検証を取り出してモニターに映した。車検証には車種として確かにキャデラック社のXTSが記載されている。
「誰かがナンバープレートを偽造して運転したようだ」
ケンが溜息混じりにいった。
「仮にそうだとしても、当ホテルとは一切関係ありません。どうぞ、お引き取りを」
ノアの声は静かだが、威厳があった。
ケンと真美は、重い足を引きずり、ホテルから出た。
ストリップ通りには多くの人が歩いていた。
「犯人の手掛かりが無くなった」
ケンは、考えをあぐねているようだ。
実際、ケンは、途方に暮れていた。
すると、五十メートル前方から歩いてくる男にケンが気づいた。その男は、ケンを車でひいた男だった。ケンの目に力が甦った。
「いた。あいつだ。真美、捕まえてくれ。赤いシャツを着た前方から来る男だ」
「あいつね。わかった」
真美は、猛スピードで走った。
赤いシャツの男は、ケンと真美に気づき、来た道を駆け足で戻りだした。
だが、真美の脚力の方が圧倒的に速い。たちまち追いつき、男にタックルした。すぐに利き腕を関節技で締め上げる。真美の関節技は父親ゆずりの切れ味だった。
「ううっ」
男は痛みをこらえて我慢しているようだ。
(あれっ? 普通の人ならば大声でわめくほどの痛さなのに…)
真美は不思議だった。だが、真美はケンが来るまで関節技を解くことはなかった。
やがて、ケンがゆっくりと追いついてきた。ケンは足取りが重い。無理もない。さっきまで入院していた体である。胸にはギブスが固定してあるのが傍目からもわかる。
「警察を呼ぼうよ」
「警察につきだしても、この男は何も話さない。現に今は僕ですら、この男の心を覗くことができない。心を閉ざしている」
「じゃあ、どうするの?」
「僕たちで白状させるしかなさそうだ」
そう言うとケンは、真美と男をタクシーに乗せ、ケンの自宅に向かった。
きらびやかなストリップ通りから一転、薄暗い小さな通りに車は移動した。
ケンの自宅は郊外の一軒家だった。
若いケンが家を持つには、それ相当の稼ぎが必要となるはずだ。真美はケンの職業に疑問を持った。大道芸人としてクラブジャグリングで稼ぐだけでは、こんな大きな家を購入できるはずは無い。
「ケンは、どんな仕事をしているの?」
「昼間にグランド・キャニオンで見たように、大道芸人だよ」
「でも、一軒家に住んでいる。大道芸人でクラブジャグリングだけの収入だと、こんな大きな家には住めないよ」
「そうでもないよ」
ケンは、何か秘密を持っているようだ。
「わかった。親から買ってもらったのね」
「両親は死んだ。財産もなかったよ」
それっきりケンは、仕事に関して答えなかった。
家の中のリビングで、ケンは、男の腕を紐で縛った。
真美は、ケンに尋ねた。
「ケン、どうやって彼に白状させるつもりなの? 警察でも白状しないのなら、私たちでも無理だと思うけど」
「……」
ケンも、どうやれば男に白状させることができるかを考えている。
「それに、私は、ケンが彼を拷問するところを見たくない。彼が私たちを車で轢こうとしたとは言え、私たちが彼を傷つけるのは良くない」
真美は、自分の意思を素直に述べた。
すると、男が口を開いた。
「お嬢さん、心配してくれてありがとう。だが、俺は、どんなに殴られても白状するつもりはないぜ」
男は、開き直っていた。
男は、ふてぶてしそうな面構えである。おそらく、たとえケンがひどい仕打ちをしても、この男は何も喋らないだろう。ケンも、そのことに気づいており、困った表情をした。
「ケン、『押してもだめなら引いてみろ』って、よく言うじゃん。何か良い方法ないかな?」
不思議と、自分で言った言葉で、真美は、突然閃いた。
「私って天才かも…」
真美は、バッグを開けると刷毛を取り出し、ニタッと笑った。この刷毛は、昼間にダウンタウンでパン屋のオヤジからもらったものだ。
真美は、刷毛で男の脇の下をくすぐった。
男は、紐で縛られているため、身動きできない。
「あははははははは、や、やめろ、は、はははは。やめてくれー」
男は、殴られたり切られる痛みには耐える力があった。だが、くすぐられる苦しみには、慣れていないようだ。声を張り上げてジタバタしている。
「白状するならやめるけど…」
真美は軽く返事をして、男をくすぐり続けた。
「ははははは、お願いだ。やめ、やめてくれ。いいいいー」
男は、うっすらと涙を浮かべながら喘いでいる。
ついさっき、ケンに対して『拷問はやめて』と言った真美だったが、今は自ら楽しみながら、男をいたぶっているようだ。まるで、昼間にパン屋のオヤジからくすぐられた恨みをはらすかのような行動だった。
「わー。ああああああ、やめ、やめてくれー」
さっきまでふてぶてしい態度をとっていた男だが、今は表情が全然違っていた。男は、どんな痛みにも耐える自信があった。だが、くすぐられる苦しみは、初めての体験だった。くすぐられ続けることが、こんなにも苦しい拷問だと、男は初めて知った。
真美がくすぐり始めてから二分が経過した。
男は、ついに観念したかのように、
「話す。白状するからやめてくれ」
と、降参した。
「そんなー。まだ二分しか経ってないよ。あと一分は我慢しなさい」
そう言いながら真美は、くすぐりを止めようとしない。やはり真美は、パン屋のオヤジからくすぐられた恨みをはらしたいだけのようだ。
「そ、そんな、あああああああああああ…」
男は涙目になっている。
「真美、やめるんだ」
ケンが思わず真美の手を押さえた。
そのとたん、真美は、我に返った。
「あっ…。ごめん、ごめん。ゆるしてね!」
真美は舌を出し愛想笑いをして、男に謝った。だが、男は眼にうっすらと涙を浮かべ、激しく咳せき込むばかりである。
「さて、話してもらおう」
改めてケンがいった。
男は、まだ呼吸が荒い。
「みっ、水を…くれ」
真美は、素早く冷蔵庫からミネラルウォーターをとってくると、コップに注ぎ、男に飲ませた。
「これで許してね!」
相変わらず真美は、愛想笑いをしている。
男は、ゆっくりと水を飲むと、
「ケン、お前は、カジノで儲けすぎだ。俺たちのボスが何度か止めるように頼んだが、お前はボスの頼みを無視してきた。このままでは、ボスの経営が成り立たない。今回は俺が失敗したが、いつかお前は、誰かから間違いなく殺される」
男の説明は、真美の想像を超えた内容だった。真美には意味がわからない。
「ケン、どういうこと?」
「この男の言ったとおりさ。僕は、自分の能力を使って、今までカジノで儲けてきた。この家も家具も、全てカジノで得たお金で買ったものだ。確かに、アルバトロス・ホテルの代表者アルバートが、何度か僕に『もうカジノには来ないでほしい』と、頼みに来たことがある」
そう言った後、
「どうやら施設長とは関係ないみたいだ。真美、きみを危険な目に巻き込んですまない」
ケンが謝った。
「これからどうするの?」
真美は、過去よりも未来の方が心配だった。
男はケンに『いつかお前は誰かから間違いなく殺される』と言ったのだ。真美は、ケンの命を心配した。
「僕は、これからアルバトロス・ホテルのカジノに復讐しに行く。真美、手伝ってくれないか?」
ケンは、真美の時間を止める能力を、復讐に利用するつもりだった。
真美は、しばらく考えた後、
「ごめん。それはできない」と、静かに返事をした。
そして、
「あなたには二度も助けてもらった。それは大変感謝している。でも、感謝しているからこそ、私は、ケンの将来のために断る」
そう告げると真美は、ミネラルウォーターをコップに注ぎ、ケンに渡すと、自分も一口飲んで、再び話し出した。
「私は、お金は汗水流して稼ぐものだと思っている。
私の父は、子供たちに合気道を教えていたわ。決して裕福ではなかったけど、私は子供たちに熱心に指導していた父を尊敬している。仮にケンがこのまま一生仕事もせずに賭けで稼いでいたら…、私は悲しい…。
私の好きな人には、たとえ少ない額でも良いので、汗水流して働いてほしい。そして、働くことの大切さを、いつか子供に伝えてほしい」
「……」
ケンは無言だった。真美の言っていることが、ケンには十分すぎるほど理解できた。だから何も言えなかった。
「ケン、あなたが警察を呼び、彼を引き渡せば、少なくとも治療費や慰謝料は請求できる。そのための協力ならば、私は喜んでする。だから、そうしてほしい…」
「……」
ケンは、またしても無言だった。どうやらケンは悩んでいるようだ。
真美は更に続けて、
「そして、あなたの能力を…、ギャンブルでは無く、困っている人のために使ってほしい…。私たちの能力は…、多くの人を助けるために、神様が授けてくれたものだと思う」
「……」
ケンは、さっきから黙ったままである。真美のうったえは、静かな口調だった。だが、ケンの心を激しく突き刺していた。
ケンは、親からは厳しく説教されたことがある。だが、両親を亡くしてからは、ここまで厳しく、ケンのことを思って叱ってくれた人はいない。
優しくするだけが友達では無い。相手のことを思い、真剣に叱るのも、友達であるための大切な条件である。
余談だが、『愛情』の反対を『憎しみ』だと言う人がいる。しかし、実はそうではない。『愛情』の反対は『無関心』だ。
無関心であれば、相手を叱ることは決してしない。なぜならば、無関心な人は、相手がどうなっても構わないと思っている。
私たちは、よくそれをはき違えて、自分に厳しいことを言わない人を好む。だが、その人は無関心だから厳しいことを言わないだけかもしれない。
親や友達からいろいろ言われて『ウザい』と感じることがたまにあるが、それは無関心で無く愛情があるので言われていると感じてほしい。そう感じることができたら、それだけで幸せになれるだろう。
いま、真美は、ケンに対して無関心ではいられない。ケンの将来を心配していた。たとえ命を狙われなくとも、ケンには胸を張って生きてほしかった。
真美は、しばらく待ったが、ケンはまだ悩んでいた。何も話さない。
「…みんなが心配するので、私はホテルに帰るね…」
そう言い残して、真美はケンの家を後にした。
タクシーに乗り、ホテルへ帰る途中、真美の心は、いつになく寂しかった。
夜空には銀河が煌めいているはずなのに、この辺りはストリップ地区のネオンの影響で、星が見えにくい。
星が見えない夜空は寂しい。
真美の頬に一筋の涙が流れた。
真美の思いはケンに伝わるのでしょうか…。
大切な友達だからこそ、友達が間違えたときには叱ることも大事です。
次は、真美がポーカーに挑戦です。