5.グランド・キャニオン
大会終了後、日本選手団は、グランド・キャニオンに行った。
計画では、大雨による競技の順延など不測の事態に備え、帰りの飛行機の日程に余裕を持たせていた。だが、今回は晴天続きで、予定通りに競技が進行したため、帰りの飛行機の時間までに余裕が一日できた。そこで急遽、グランド・キャニオンに行くことになった。
粋な計らいだった。
ロスアンゼルスからグランド・キャニオンに行くには、ラスベガスを経由する必要がある。
ロスアンゼルスからラスベガスまでは、飛行機で一時間かかる。スーツケース等の大きな荷物を今晩の宿泊地であるラスベガスのホテルに一旦預けた後、そこからバスで約二時間行くと、グランド・キャニオンに着く。
グランド・キャニオンは、アリゾナ州北部にある世界一の有名な峡谷である。
このあたりの地形は、コロラド高原がコロラド川の浸食作用によって削り出したものだ。そしてここでは、古代時代から続く壮大な地層の重なりを目の当たりにできる。
その起源は今からおよそ七千万年前、この一帯の広い地域が地殻変動により隆起した。その後、約四千万年前に、コロラド川による浸食が始まった。
現在見られるような峡谷になったのは、約二百万年前である。そして、今もなお、浸食は続いている。
篠原真美は、グランド・キャニオンの壮大な風景に感動していた。
過去、多くの人たちが、この光景を見て感動したことだろう。そして、その感動は、今後も受け継がれるに違いない。
真美の周りには大勢の観光客がいる。多くの観光客も、グランド・キャニオンの風景に心を奪われているようだ。
そういうときは、世界中の常識として、スリに狙われやすい。
「泥棒、誰か助けて!」
近くで老婆の叫び声が聞こえた。
振り向くと、真美の近くにいた老婆が、つい今しがた、若い男からバッグを奪われたようだ。
老婆は、大声で叫んでいる。
「ひったくりだ!」
井口コーチが言った。
アメリカでの犯罪率は、日本のおよそ二倍である。特に力の弱い老婆は狙われやすい。手にしっかり握っているバッグですら、強引に奪われてしまう。
バッグを盗んだ男は、五十メートル先を走っている。
「私に任せて!」
返事と同時に、真美は駆け出した。
バッグを奪った男は、走る速さにかけて自信を持っていた。しかも、追跡者が小さなあどけない少女だったため、安心しきった。
だが、その安心は瞬く間に恐怖に変わった。
真美は、猛スピードで男を追いかけた。二人の距離は、あっという間に十メートルに縮まった。
「そんな馬鹿な…」
男は、自分の脚力に絶対の自身があった。今まで追跡者から追い付かれたことなど無い。その自信があるからこそ、彼はひったくりを続けていた。
しかし、彼は今、小さな追跡者の走る速さに驚いている。
男が真剣に走り出した。
男の速度が変わったとたん、真美もギアを上げて加速する。二人の距離は離れるどころか、みるみるうちに五メートルに縮まった。
「こいつは化け物か?」
恐怖に駆られ、男は懸命に走った。額から大粒の汗が流れてきた。こんなに真剣に走ったのは久しぶりだった。それでも、この小さな少女を引き離すことができない。
男は、後方を走る少女に得体のしれない恐怖を感じた。
真美は、さらに加速した。男まであと一メートルになった。
「えい!」
真美が男の足にタックルした。
タックルが見事に決まり、男は倒れた。
だか、すかさず男は立ち上がり、ナイフをかざした。
男は、真美を切りつけようとする。
(まずい。時間を止めないと勝てないかな。でも、ここでは人が多い。私の能力がばれるかもしれない)
真美がそう思ったとき、真美の後方からクラブジャグリングで用いるクラブが飛んできた。長さ四十センチほどのボーリングのピンに似た形のものだ。そのクラブが男のナイフに当たり、ナイフを後方へ弾き飛ばした。
すかさず真美は、男の胸元に入ると腕をつかみ、背負い投げで豪快に男を投げ飛ばした。
実は真美は、柔道も父親から昔教わっており、得意だった。
その後、すかさず関節技で腕をねじ曲げる。俗にいう腕ひしぎ逆十字だ。
「痛い、痛い」
あまりの痛さのため、男が大声で叫んだ。
だが真美は用心のため、間接技を固めたままである。
やがて、井口コーチと保安官がやって来た。
「よくやった。偉いぞ。後はこちらが引き取る」
保安官が真美を褒めた。もちろん井口コーチが通訳した。
真美は、犯人の身柄を保安官に渡した。
「もしかして、君は篠原真美かな?」
「はい。そうですが…」
真美は、見知らぬ保安官が自分の名前を知っているのに驚いた。
「ルーシーとの予選での戦いを見たよ。凄く感動した」
「そうですか。だから名前を知っていたのね。感動してもらえて嬉しい」
真美は笑顔を見せた。見ず知らずの保安官が自分の走りを褒ほめてくれた。それが、すごく嬉しかった。
「私の立場ならば、アメリカ人のルーシーを応援しなければならないのだが、思わず体が小さな真美を応援したよ」
そう言って保安官は、真美にサインを求めた。
思わず真美は、顔が赤くなり、
「サインだなんて…、スターじゃあるまいし…」
と、両手で頬を被って満面の笑みを浮かべ、舞い上がっていた。このとき真美は、自分がアメリカでスターになったと確信した。
「篠原、水を差すようで悪いが、保安官は、『犯人逮捕の書類の協力者欄にサインしてくれ』と、言っている。色紙へのサインではない」
井口コーチが淡々と告げた。
「へっ?……」
真美は、開いた口がふさがらなかった。勝手に勘違いした自分が恥ずかしかった。穴があれば、そこに隠れたかった。
真美が気を取り直して書類にサインをしていると、別の保安官に連れられてバッグを奪われた老婆がやって来た。
老婆は目の前にあるバッグを見て、屈みこみ、涙を流して喜んだ。
「よほどのお金か宝石が入っていたようですね」
そう言いながら保安官は、バッグを老婆に渡し、
「日本から来た彼女がバッグを取り返してくれたよ。そのうえ彼女は、犯人を捕まえてくれた」
保安官は真美を老婆に紹介した。
真美は、英語があまりわからない。だが、さっき保安官が言っていた『お金』や『宝石』の単語だけは理解できたので、内心「ニタッ」として、
(もしかして、お礼にお金がもらえるかもしれない)
と、心の中で期待していた。
「真美さん、ありがとうございます。おかげで助かりました」
老婆は真美に感謝した。
「いやあ、そんな大したことはしていませんよ」
ついさっき恥ずかしい思いをしたばかりなのに、真美はそれを忘れている。しかも、大したことをしたかのように、腰に手を当て、胸を張っている。
真美は、嫌なことをすぐに忘れる性格だ。これは特技と言って良いのかどうかわからないが、とにかく明るかった。
「それよりもバッグの中身は大丈夫でしょうか? 全部あるか確認した方が良いですよ」
井口コーチが冷静に老婆にいった。
「そうね。確認してみるわ」
そういって老婆は、バッグの中を調べた。
「あった……」
老婆がバッグから真っ先に取り出したのは、写真ケースに入っていた古い写真だった。二人の若い男女が写っていた。
「この写真は私の一番大切なもの。四十年前に夫と一緒に撮った写真よ。夫はもう亡くなったので、この写真が奪われたら思い出も一緒に奪われるような気がして、私は悲しみに暮れていたと思う」
「この綺麗な人は、お婆さん?」
真美は、目を輝かせて老婆に尋ねた。それほど写真の中の女性は美しかった。
「そうよ。これは私、そして隣にいるのが夫」
老婆は、昔を語りだした。
「私の名前はマーガレット、夫の名前はベンジャミン。四十年前に私たちは、テキサス州に住んでいたの。小さな土地で牛の牧場を営んでいたのよ」
「その頃の写真なのね。二人とも幸せそうな顔をしている」
真美は、無邪気に写真の感想をいった。
「そうよ。私たちは貧しかったけど、幸せに満ち足りていた。温かな家庭だったわ。ベンジャミンは、いつも優しく、体の弱い私に気を配ってくれた」
「そんな優しい旦那さんと一緒に、グランド・キャニオンに行きたかったのね。バッグに写真を入れているからピンときたの。名探偵、篠原真美の推理よ」
真美は、右手の人差し指を真上に伸ばし、左手を腰に当て、またもや有頂天にはしゃいでいる。
「篠原、お前は名探偵じゃなく迷探偵だ。何も考えずに進むので、来た道を忘れて、いつも帰り道に迷う」
井口コーチが突っ込んだ。そしてそれは真美の性格を的確に表していた。
マーガレット婆さんは、真美の無邪気な笑顔にほだされて、話を続けた。
「そうよ。いつか一緒にグランド・キャニオンに行こうと、私たちは旅行のお金をコツコツ貯めたわ。でも、あるとき、牛の伝染病が発生し、牛は全て処分されたの。後に残ったのは、牧場を作るために借りた借金だけ」
「えー。大変。それからどうなったの?」
「ベンジャミンは、近くの工場に働きに出たわ。でも、慣れない作業のため、足に大怪我をしたの。もちろん工場はクビよ。生活費はおろか、医療費すら払えないようになった。コツコツ蓄えていたグランド・キャニオンへの旅行費用も無くなったわ」
「……」
真美は、マーガレット婆さんの過去があまりにも不幸だったため、なにも言えなくなった。
「それから半年後、ベンジャミンは、交通事故に遭い、無くなったわ。おそらく足が不自由なため、車をよけることができなかったのね」
「……」
真美は、いつの間にか涙をボロボロ流していた。父親が交通事故で亡くなったため、そのときの自分の心の痛みを、マーガレット婆さんの心の痛みに重ね合わせ、まるで我がことのように悲しんだ。
真美は人の心の痛みに敏感な少女である。
「あら、私のために涙を流してくれたの? ありがとう。でも、心配しなくていいのよ」
そう言ってマーガレット婆さんは、話しを続けた。
「夫が無くなってから、私は借金を返し続け、ようやく今年、グランド・キャニオンに行くための旅費を貯めることができたの」
「それじゃあ、グランド・キャニオンに来るのは、マーガレットさんにとって四十年越しの夢だったの?」
「ちょっとだけ違うわ。私の夢じゃなくて私たち二人の夢だったのよ」
マーガレットは写真を胸元に置き、グランド・キャニオンの広大な峡谷を、写真の中にいる夫、ベンジャミンに見せた。
「あなた、ようやくグランド・キャニオンに来たのよ。見てちょうだい。すばらしい景色だわね」
マーガレット婆さんは目を閉じていた。それからしばらく、彼女は無言だった。
きっと彼女は、夫であるベンジャミンと心の中で話しているのだろう。
マーガレット婆さんにとって、お金よりも何よりも、亡き夫と一緒に撮った写真が最も大切だった。
一般に、お金が一番大切だと思っている人が多い。しかし、実はそうではない。
幸せだったときの思い出、それが奪われたら、いくらお金をつぎ込んでも、その思い出は帰っては来ない。ましてや写真に一緒に写っている人が二度と会えない人であれば、その悲しみは計り知れない。
「真美さん、あなたは私の一番大切なものを守ってくれたのよ」
マーガレット婆さんは、切々と真美に感謝した。
「バッグを取り返してくれたお礼にお金を渡したいのだけど、私には余裕が無い…ごめんなさい」
「とんでもない。当然のことをしただけです。お礼なんていりません。謝る必要もありません」
真美はついさっき、『お礼がもらえるかもしれない』と、一瞬でも期待していた自分が恥ずかしかった。そんな自分を情けなく思った。自分の方こそ、マーガレット婆さんに謝るべきだと感じていた。
マーガレット婆さんは、テキサスからグランド・キャニオンまでの旅行を、四十年もかけて、ようやく実現できたのである。お金に余裕があるはず無かった。そんなマーガレット婆さんからお礼をもらうことなんて、真美にはできない。
それよりも真美は、あの写真がマーガレット婆さんにとってどれほど大切なものであるかを知り、人のために役立てた自分を誇らしく思った。
(お父さん、私もお父さんとの思い出を大切にするわ)
真美は、心の中でつぶやいた。
すると、ひったくりで逮捕された男が、突然、大声で泣き出した。
「お婆さん、ごめんよ。俺、お婆さんの一番大切なものを奪おうとしていた。許してくれ」
男の涙に、保安官もびっくりした。
「俺は母親が死んだので、お婆さんの悲しみがよくわかる。たった一枚しか残っていない母親の写真が奪われたら、俺は一週間泣き続けると思う」
「だったら、もう二度と人の物は盗らないと誓って」
真美が男にいった。
「誓う。さっき、久しぶりに真剣に走った。こんなに真剣に走ったのは五年ぶりだ。保安官から聞いたが、あんた、篠原真美だろう?」
「そうよ。何故、私を知っているの?」
「俺も、あんたとルーシーとの疾走をテレビで見た。こんな小さな体で、あんな大きな体のルーシーと互角に走りあえたんだ。俺だって、もっと真剣に練習していたら、きっと大会に出られただろう。もっと真剣に生きたら、きっと何かができるに違いない」
「そうよ。真剣に生きなさい。そうすれば、おのずと道は開かれるわ」
マーガレットも男に諭した。
男は、真美とマーガレット婆さんに出会い、何かが目覚めたようだった。男の目が変わっていた。さっきまでは瞳がよどんでいた。だが、今は明らかに瞳に意思が感じられる。
真美は、自分の走りが他人の生き方を変えるほど影響があることに、初めて気づいた。
(みんなの期待を裏切らないように、私も決して諦めず、前を向いて進もう)
真美は、固く誓った。
保安官やマーガレット婆さんは、真美にお礼を言って去っていった。
その後、真美は何かを忘れているような気がしてならない。
「なにか大切なことを忘れている。なんだろう?」
真美は腕を組んで首をかしげた。
「何を忘れたのだ?」
井口コーチが尋ねた。
「それが思い出せないのよ。とっても大切なことだったのに」
「篠原の『とっても大切なこと』とは、食べ物か?」
「いや、そうじゃないわ。食べ物は確かに大切だけど…、特にプリンと納豆と…」
真美は流されやすい性格だ。井口コーチの一言で、食べ物のことを考えだした。しきりに食べ物の名前を口にしている。
「それじゃあ、命か?」
「えっ、何のこと?」
「さっき大切なことを忘れていると言っただろう? それ自体も忘れたのか?」
井口コーチは真美の性格にあきれ果てていた。
「あっ、そうだった。思い出した。井口コーチ、ありがとう」
「どうした?」
「犯人がナイフを振りかざしたとき、誰かがクラブを投げて、ナイフを弾はじき飛ばしてくれたのよ。私を助けてくれたの」
「それは誰だ?」
「私の後ろにいた人」
真美がクラブの飛んできた方向を見ると、奇妙な服を着た若い男がいた。
どうやらクラブジャグリングの大道芸人のようだ。ピエロが着るような黄色と青の服、それに赤のズボンを穿いている。
大道芸人は、じいっと真美を見て、ニコニコしている。まるで、お呼びがかかるのを、ずっと待っていたかのようなしぐさだった。
「あなたですか? 私を助けてくれたのは」
真美は、思わず駆け寄って尋ねた。
「ようやく気づいてくれたね」
男は、エクボを見せて笑った。その笑顔が素敵だった。しかも、真美と同じくらいの年齢のようだ。
「ありがとう。気づくのが遅れてごめん」
「でも、僕がナイフを弾き飛ばさなくても、君の能力ならば、ナイフを瞬時に奪うことができたと思うけど」
男の言ったことは、まさにそのとおりである。真美が時間を止める能力を使えば、ナイフを瞬時に奪うことができた。だが、なぜ、男は真美の能力を知っているのか。
「何を言っているのか、よくわからないけど…」
真美は、わざと理解できないふりをした。
「僕の名はケン、日系アメリカ人だ。きみは、僕と同じミラクル・チルドレンの一人だよ。君とはまた、いずれ会うだろう」
そう言ってケンは、去って行った。
「ミラクル・チルドレン?」
真美は、ケンの言った意味が理解できなかった。
井口コーチも意味がわからないようだ。両手の掌を上に向けて首をかしげている。
だが、真美は、不思議と、
「私は、近いうちに、あの人…、ケンとまた会うかもしれない」
真美には、そう思えて仕方がなかった。
そして、
(なぜ、ケンは、私の能力を知っているの? それに、ミラクル・チルドレンって何なの? それは、私の時間停止能力に関係があるの?)
と、それらの疑問が、真美の頭から離れなかった。
さっきまで暖かい風が吹いていたグランド・キャニオンだったが、急に冷たい風が吹き出したように真美には感じた。
この回は真美の能天気さと真美の優しさ、そして真美のすごさを余すことなく描きました。
そして次回は、真美がラスベガスに行きます。そこでは、どんな人と出会うのでしょうか…