4.決勝戦 そしてリサイタル
二日後、女子三千メートルの決勝の日がやってきた。
「よーし、今日こそルーシーに勝つぞ!」
真美は、予選でのリベンジを晴らすために、今日は何が何でも勝つつもりだ。
だが、予選での真美の走りは、ベストの状態だった。それでも真美はルーシーに勝てなかった。
(どうすればルーシーに勝つことができるか)
真美は考えた。
予選のとき、勝敗を分けたのは胸の差だった。ゴールの瞬間を撮った写真を見ると、ルーシーの胸と真美の胸の大きさの違いが、明らかにわかる。
「あの写真は、私の胸が小さいのを世界中に言いふらしているようだなぁ。私は傷ついたぞ」
真美は勝敗とは関係ないことで怒っているようだ。真美は良く言えば純粋、悪く言えば単純だった。
(私も胸が大きくならないかなぁ。でも、胸が大きくなると、走りづらくなるだろうなぁ。…だけど、胸が大きいと、男の子に間違われずに済む。やっぱり胸が大きい方が良いなぁ)
真美は、自分の胸が大きくなった姿を想像して、喜んだり悩んだりしていた。
でも、急激に真美の胸が大きくなることはない。だから真美は、
「最初から予選のときよりも飛ばして行けば、何とかなるだろう」
と、割り切って考えることにした。
真美は、根性で何とかするつもりだった。やはり能天気な性格だ。何の根拠もないが、勝つつもりだけは十分あった。
真美は、いつも明るい未来を想像して生きている。前向きといえば前向きだが、漏れが無い緻密な計画を立てるのは苦手だった。
それに対してルーシーは、二日前の予選が終わった後も、一人黙々と練習していた。
(今度こそ完璧に、真美に勝ってみせる)
ルーシーは、努力においてもナンバーワンとなるように頑張っていた。
決勝の開始時間となった。
場内アナウンスがあり、真美はスタート位置についた。決勝では、走者全員の名前が一人ずつ紹介される。
ルーシーの紹介があった。会場は大きな拍手の渦だ。声援もすごい。やはり、地元アメリカの選手は人気がある。会場のほとんどの人が、ルーシーのファンのようだ。
続いて篠原真美の紹介があった。すると、信じられないことに、ルーシーと同じほどの拍手と声援が、会場から沸き起こった。
「ミラクル・キューティ・ジャパニーズ・ガール」
多くの人たちが真美を応援した。
会場の人たちは、予選での真美とルーシーとの手に汗握る戦いを見て、真美の決してあきらめない姿に感動したようだ。
この声援は、真美を元気づけた。
「こんなにも多くの人が、私を応援してくれる。頑張らなきゃ。みっともない姿は見せられないな」
真美は、両手を振って観客に笑顔でこたえた。
ルーシーも真美を見て、
「レッツ・ドゥ・アワ・ベスト」と、親指を立て微笑んだ。
「望むところよ」
意味もわからず笑顔で言った後、真美は、深呼吸をして心を落ち着かせた。
そよ風が真美の頬を撫でる。気持ちの良い風だ。
(いける。今日も絶好調だ)
真美は自信をみなぎらせた。
やがて、スタートを告げる号砲が鳴った。
今回も真美は、スタートダッシュをし、瞬く間にトップに躍り出た。ルーシーも、真美の真後ろにピッタリ付いている。
会場のみんなは、今回もルーシーと真美との熱い戦いを期待している。
ところが、一周半をすぎたとき、真美の横を黒い稲妻が駆け抜けた。少なくとも、真美には稲妻に見えた。それほどケニア代表マアンギの疾走は、見事だった。
ケニア代表のマアンギは、予選二組の一位だった。身長は真美よりも二センチ低い。だが、彼女の走りには無駄が無かった。
「んにゃろー」
真美は、思わず頭が熱くなり、マアンギを追い抜こうとギアを上げた。
だが、真美が懸命に走っても、マアンギを追い抜くことができない。真美は、更にギアを上げた。ほぼ全力疾走である。
真美の懸命な走りで、三周半を過ぎたとき、ようやくマアンギに並ぶことができた。
マアンギに追いつくまでに、真美は二周を費やしたことになる。それほどマアンギの走りは速かった。だが、その代償として、真美の息継ぎは、デタラメなように荒い。しかも、まだゴールでは無い。
女子三千メートル走は、四百メートルのトラックを七周半走る。つまり真美は、あと四周を、マアンギに置いて行かれないように懸命に走らなければならない。それはまさに、地獄の苦しみだった。
それでも真美は懸命に走った。今、マアンギに引き離されたら、瞬く間に気力が途切れてしまうだろう。そうなると、二度と追いつくことができない。そのことを真美は知っていた。
やがて、五周半が過ぎた。あと二周である。真美はマアンギに遅れまいと懸命に走っている。真美の息継ぎは荒い。そして激しい。いつ倒れてもおかしくない状態だった。
先頭はマアンギと真美だ。二人の後ろには、ルーシーが黙々とついてきている。
(今はまだ全力を出すときではない。我慢しなさい、私)
ルーシーは、自分自身に言い聞かせながら、辛抱強く走っている。
すると、マアンギがさらに加速した。信じられないスピードである。まるで、二百メートル走をしているかのような速さだ。
真美やルーシーが懸命にマアンギに追いつこうとしても、全く追いつけない。徐々に引き離された。
(かなわない)
走りながら真美は思った。どんなに頑張っても、マアンギには勝てないと感じた。
その瞬間、真美の速度が、やや遅くなった。気力がとぎれたのだ。
それに対してマアンギは、この全力疾走の中でも、走ることに喜びを感じているように見えた。彼女は、笑顔で走っている。そして、彼女の駆け抜ける姿は、実に美しかった。
極端に体を前傾姿勢にし、足を上下では無く前後にスライドしている。まるで、短距離走者の様な走り方である。彼女の一歩一歩が躍動していた。
やがて、マアンギが一位でゴールした。二位はルーシー。真美は、前半マアンギと張り合いすぎてスタミナが切れ、三位となった。
真美もルーシーも、ゴールしたとたんに倒れ込んだが、マアンギはゴールしても倒れることは無い。ケニアの国旗を受け取ると、国旗を背負い、すぐに競技場の中を観客席寄りに走っていた。信じられない体力だ。
ルーシーは予選のときよりも記録を伸ばしていたが、真美は予選のときに比べ、わずかだが記録が落ちていた。
真美は悔しかった。マアンギやルーシーに負けたことよりも、予選のときのタイムに届かなかったことが許せなかった。
「私は、走っている途中で諦めてしまった。最後まで一生懸命頑張ることを怠った。自分を向上させる心を放棄してしまった」
真美は、父の言葉を思い出した。
『真美、お前には誰よりも努力する才能がある』
(私は、お父さんの期待を裏切った。ごめんなさい、お父さん)
真美は大声で泣いた。悔しかった。自分が許せなかった。
ケニア代表のマアンギは、真美よりも身長が低い。にもかかわらず、華麗な走りをしていた。
「私は、まだまだ速く走れるはずだ。今度ルーシーやマアンギと会うときには、今の自分よりも成長してみせる」
真美は、気持ちを切り替えた。
篠原真美の特技は、暗い気持ちを引きずらないことだ。気持ちを切り替え、すぐに明るくなれる。単純と言えば単純だが、それが彼女の魅力である。
涙を流しながらも笑顔でマアンギに抱きつき、
「おめでとう。そしてありがとう」と、いった。
「サンキュー。キューティ・ジャパニーズ・ガール」
マアンギには、真美の言葉がわからないが、なんとなく意味を感じ取ったようである。マアンギも、すがすがしい笑顔だった。
「篠原、銅メダルだ。おめでとう」
井口コーチがやって来た。井口コーチは、えらくご機嫌のようだ。
「今日は俺が夕食をおごってやるから、何でも好きなものを注文してくれ」
真美は、指で素早く涙を拭きとった後、
「えっー。本当ですか? 嬉しい。それじゃあ、回転寿司に行きたい!」と、いつもの明るい能天気な真美へと戻っていた。
井口コーチは、篠原真美の迫力ある言葉で、思わず背筋に冷たいものを感じた。
回転寿司だと食べる量に比例して料金が変わる。井口コーチは、真美の日頃の食事量を知っていた。それは、一般女性の一回の食事量をはるかに凌ぐものである。
「でも篠原、回転寿司屋さんは、ロスアンゼルスにあまりないし、行っても混んでいて座れないと思う。別の店にしないか?」
「大丈夫です。私が今から予約します」
「でも、英語のできない篠原が予約できないと思うが…」
井口コーチは、何とか別の安い店を真美に選んでほしかった。
「問題ありません。ガイドブックに予約の仕方が書いてあるから」
そう言って真美は、バッグを開け、ガイドブックを取り出し、早速電話をかけた。
「おまえ、スポーツバッグにガイドブックを入れているのか」
「えへっ。ばれちゃった…」
篠原真美は、頭をかきながら、
「いつでも利用できるように入れているの」
そう言うと真美は、店の人と話し、予約した。
井口コーチが驚いたことに、真美が電話した店は、日本語が通じる。まるで東京の飲み屋さんを予約するみたいに、簡単に予約ができた。
「井口コーチ、今から行きましょう」
真美にせかされるまま、井口コーチは寿司屋に向かった。
真美の予約した店は、リトルトーキョーにあった。
この店は、アメリカ人に人気のネタもありつつ、アメリカ人があまり食べないような日本人向けのネタもあり、品揃えが豊富である。しかも、真美が愛してやまない納豆がある。さらに、多くの日本人が板前で働いている。日本語しかできない真美でも、十分に注文できる店だった。
「井口コーチ、ありがとうございます。それでは、いっただきまーす」
そう言って真美は、幸せそうに寿司をつまみ始めた。
「おい、篠原、大トロやホタテは四つまでだぞ」
井口コーチは、財布の中身が無くならないか、ただそれだけが心配だった。
「井口コーチ、『モグモグ』この店は、カードでも払うことができますから、『モグモグ』財布の中身は心配しなくても『モグモグ』いいと思います『モグモグ』…」
真美は口いっぱいに握り寿司をほおばりながら説明した。
ついさっきまで戦っていたときの真美と今の真美とでは、顔つきが全く違っている。
今の真美は、どこにでもいる女子高校生のように、お茶目で明るく、笑顔を絶やさない子だった。但し、食事の量だけは大人顔負けの量である。
井口コーチは、篠原真美に「おごる」と言ったことを、心から後悔した。
このとき、真美は、終始笑顔だったが、心の中では悔しさが溢れていた。悔しさを紛まぎらわせるために、やけ食いをしていた。
真美は、早く次の試合がしたかった。ルーシーやマアンギに早くリベンジしたかった。
「篠原、やはり悔しいか」
食事が終わった後の帰り道で、井口コーチがポツリと言った。
「井口コーチ、気づいていたの?」
真美は、井口コーチの方を見て驚いている。
「あたりまえだ。俺は、お前のコーチだ。お前の性格を知っている。お前は三位になって喜ぶような奴じゃない。ましてや、予選よりもタイムが落ちている。お前が嬉しいわけが無い」
「井口コーチ、私は悔しい。早くルーシーやマアンギにリベンジしたい」
真美の両手は握りこぶしをつくり、強く震えていた。井口コーチをしっかりと見据えた瞳から、いつの間にか涙がこぼれ落ちた。
「わーーあーー!くやしいーー」
真美は唇を震わし、大声を出した。大粒の涙が溢れだす。
「篠原、この悔しさがある限り、お前は速くなれる。きっとルーシーやマアンギに勝てる」
井口コーチは、真美の肩に手をやり、励ました。
いつの間にか外は暗くなっていた。
まるで真美を励ますかのように、星々が煌めいている。
まるで真美の涙を拭きとるかのように、そよ風が真美の頬を撫でた。
「井口コーチ、今からウォルト・ディズニー・コンサートホールに行こう」
「こんな夜からディズニーランドか?」
「違うよ。ウォルト・ディズニー・コンサートホール。私の中学のときの友達がピアノ・リサイタルを開催しているのよ」
そして続けて、
「井口コーチも、行って良かったと必ず思うはずだよ。玲子の演奏は信じられないほど凄いから」
「そうか、篠原の友達のピアノ・リサイタルか。それじゃあ、どんな友達か見に行こう」
そういうと、さっそく井口コーチはタクシーをつかまえ、二人はコンサートホールへ向かった。
ウォルト・ディズニー・コンサートホールは、ロスアンゼルス・サウス・グランド通りのロスアンゼルス・ミュージックセンター内にある。1987年、ウォルト・ディズニーの妻であったリリアン・ディズニーが、ロスアンゼルスの文化向上のためにと、一億ドル以上を拠出して建てられた。外観はステンレススチールのパネルが波打つ形であり、巨大な戦艦にもみえるし、巨大な花びらが舞い散っているようにも見える。
タクシーを降りた井口コーチと真美は、ウォルト・ディズニー・コンサートホールの壮大さに驚いた。
「見事な音楽ホールだな。篠原の友達は、本当にこんなに凄いホールでリサイタルを開催するのか?」
「大ホールでは無く中ホールですると聞いたけど…」
真美も、初めて見るコンサートホールの圧倒的な迫力に驚いている。
ウォルト・ディズニー・コンサートホールは、始めて見る者なら誰もが驚くほどの、壮大な建物だった。二人はホールの外観に見とれながら中ホールへと向かった。
中ホールに着くと、入口に、『白井玲子ピアノ・リサイタル』のポスターが貼ってあった。間違いない。この場所だ。
中ホールは観客五百名を収容できるようだ。
不思議なことに、白井玲子はアメリカで初めてのリサイタルだが、観客は、ほぼ満員に近い状態だった。しかも、親子連れの観客が意外と多い。真美が観客席を見渡すと、一昨日に玲子と入った店にいた子供たちもリサイタルに来ていた。
きっと玲子は、アメリカにきて多くの子供たちと接したのだろう。そして子供たちは、玲子から直にピアノを教わることで、ピアノ演奏の楽しさや玲子の凄さを肌で感じたのだろう。地道な方法だが、最も効果的な方法だと真美は思った。
「篠原の友達は、どんな演奏をするのだ?」
井口コーチが尋ねた。
「他の演奏者とは全く違った不思議な演奏をするよ。井口コーチも、きっと驚くと思う」
「まさか、モーツアルトみたいに鼻を使って演奏をするのか?」
「そうじゃない。ちゃんと両手の指を使って演奏するよ。でもね、他の演奏者とは心の響き方が全然違うよ」
井口コーチは、真美の説明だけでは全然イメージが湧かなかった。首をかしげている。
「とにかく、聴いてみたらわかるよ。ほら、間もなく始まる」
やがて、開演のブザーが鳴り、白井玲子が現れた。玲子の服装は、白いブラウスを身に着け、黒いロングスカートを穿いている。すらりと伸びた手足で、切れ長の目が美しい。
「篠原の友達にしては賢そうな子だな」
「玲子は中学の頃は優等生だった。私の友達は、みんな賢いよ。井口コーチもね」
真美は人をのせるのが上手だ。井口コーチは、自分が持ち上げられたので機嫌が良かった。
玲子が挨拶を終え、最初の演奏曲のタイトルを言った。なんと、それは『きらきら星変奏曲』だった。それを知り、観客の半分ほどがどよめいた。
普通、きらきら星は小学一年で習う曲だ。誰でも演奏できる曲といっても良い。とてもリサイタルで演奏する曲では無いと思う人も多いだろう。半分ほどの観客は、その理由で、どよめいたのだった。
しかし、きらきら星変奏曲の作曲者は、モーツアルトだ。音楽の天才がつくった曲である。誰もが簡単に演奏できるものではない。
演奏が始まってしばらくすると、観客のどよめきは驚きに変わった。
真美の指の動きが人間離れしたように高速で動いていた。しかも、伴奏が凄かった。まるで交響曲のように壮大で美しい。そして迫力があった。さらに目まぐるしく音階が変わる。本当にこれは、きらきら星の伴奏なのかと、誰もが疑いたくなるほどの演奏だった。
だが、主旋律は、あくまでも、きらきら星の演奏をしている。間違いなくこれは、きらきら星の演奏だった。
最初、きらきら星の演奏だと聞き、きらきら星をバカにしていた観客は、考えを改めた。
あのきらきら星は、変奏曲となることで、こんなにも壮大で美しい曲に生まれ変わることができる。ここにいる観客は、曲の無限の可能性を知った。そして、玲子の演奏力の凄さを知った。
しかし、観客の驚きは、それだけではなかった。
観客の誰もが、宇宙を旅行しているような感覚にとらわれだした。まるで宇宙船に乗り、たくさんの星々を眺めているようだ。目の前に無限の星の海が広がっている。キラキラと眩しく輝いている。宇宙船は銀河の中心へと向かっている。目に見える星の数が、だんだん多くなる。星々の瞬きも、増えてくる。まるで、光の洪水のようだ。観客は、誰もが星の海での旅行を楽しんだ。
やがて、玲子のピアノ演奏が終了した。
だが、会場は静まりかえっている。誰も拍手をしない。それは、玲子の曲がつまらないためではない。観客の心が、まだ宇宙旅行から戻って来ないためだ。
やがて、一人、二人と、現実の世界へ戻って来た観客が拍手をした。その拍手の音で他の観客の心も現実の世界へと戻ってきた。その後、盛大な拍手となった。
盛大な拍手のなか、井口コーチが信じられないような顔をしていた。
「篠原…、俺は…、宇宙旅行をしてきたようだ…。星の海のきらめきが、光の洪水が、まだ目に焼き付いている。信じられない…」
「だから『玲子の演奏は他の演奏者とは心の響き方が全然違う』と、さっきいったじゃない」
真美がなにくわぬ顔で答え、続けて、
「井口コーチ、次の曲はモーツアルトのトルコ行進曲だよ。おそらく次は時空を旅するはずだから。十八世紀のコンスタンティノープルを楽しんできてね」
と、井口コーチを送り出した。
その日のリサイタルで、井口コーチをはじめとした多くの観客は、信じられない体験をした。そしてその体験談が、翌日の新聞に小さく記載された。
白井玲子が奏でるピアノの旋律は、観客の心をいろんな世界へと誘う。『魂を誘う』と言っても良いかもしれない。世界旅行はもちろんのこと、宇宙旅行や神々の世界、さらには、時空を越えた世界へと観客の心を導く。
観客は、リサイタル会場に居ながらにして、いろんな世界を旅する。
それはまさに、奇跡の演奏だった。
真美の決勝戦は残念でしたね。
でも、このときの悔しさがあるので、この物語はずっと続いていくのです。
次は、真美がグランドキャニオンに行きます。どんな出会いがあるのでしょうか…