12.エピローグ
真美が帰国してから二ヶ月が過ぎた。
真美が陸上の練習をしていると、突然、井口コーチから呼ばれた。
「篠原、お前にお客さんだ。はるばるアメリカからやって来られた」
「誰?」
「アルバートさんだ。篠原、知っているか?」
「はて?」
真美は、腕を組み、首を傾けて考えたが、分からない。次に顎に手をあて、丸い大きな瞳をクルクルさせながら考えたが、思い出せない。
すると、向こうから二人の男性がやって来た。
一人は初老の落ち着いた感じの人である。もう一人は体格ががっしりとして、ふてぶてしい顔をしている。
「あの男は…」
真美は思い出した。ケンと一緒にくすぐりの刑を施した男だった。実際には、ケンは何もしていない。真美が一人でやったのだが…
(とすると、隣の初老の人は、アルバトロス・ホテルの代表者ね。ヤバイ。殺される!)
真美が焦っていると、
「やあ真美、久しぶりだな」
がっしりとした体格の男が言った。
「はて、どこかでお会いしましたっけ?」
真美は、右斜め上を見ながら、しらばっくれて答えた。
すると男は、懐から刷毛を取り出して、
「これと同じ刷毛で俺を攻めたことも忘れたのか? 今度は俺が攻める番だぞ」と、闘志をみなぎらせている。
男の顔をさっき見たときから真美は、彼らが日本に来た目的を考えていた。
(やはり、カジノを荒らしたお礼参りかな? うん、それしか考えられない。…とすれば…、私も車で牽かれるの?)
真美は、男の顔をもう一度見た。
男は、今すぐにでも刷毛を使いたがっているようだ。
(いや、あの男のことだ。私が笑い死にするまで、あの刷毛で私の脇をくすぐるかもしれない)
真美は、ラスベガスでパン屋のオヤジから三分間、あれと同じ刷毛で苦しめられた記憶を思い起こした。
(それは、やばい。逃げなきゃ。今すぐ逃げなきゃ)
いきなり真美は、二人に背を向けて逃げ始めた。まるで短距離選手のように、凄い勢いで走りだした。
「あいつ。やっぱり向こうで何かしでかしたな?」
井口コーチは、周りのみんなに呼びかけた。
「みんな、篠原を捕まえてくれ!」
井口コーチの号令で、練習をしていた男子陸上部員たちが真美を追いかけた。
真美は、すばしっこい。陸上部員の一人目を左にかわし、二人目をフェイントで右にかわした。そして、陸上部員の三人目に対しては、何と股の間をヘッドスライディングですり抜けると、そのまま前転し、すかさず走りを再開した。まるでラグビーの試合を見ているようだ。
だが、真美の疾走も、そこまでだった。四人目からは足をとられ、後はみんなから覆いかぶされ、ついに捕まった。
「連れてきました」
まるで、犯罪者を連行するように、両脇を二人の男子陸上部員につかまれて、真美は井口コーチの前に戻ってきた。
「あぁー、私は殺されるー。脇の下をくすぐられて狂い死にするー」
そんな真美の叫び声を聞いたアルバートは、思わず笑いだした。
「篠原、お前バカか? アメリカからわざわざやって来て、しかも自分の名前を周りに告げて殺人を犯す奴などいない」
井口コーチがいうと、真美はまだ疑っている様子で、
「本当?」
「ああ、本当だとも」
井口コーチが答えるよりも早く、アルバートが答えた。
その言葉に真美は、ほっと胸を撫で下ろして安心した。
「初めまして、真美。私がアルバートだ。隣の男はジャック。彼は知っているだろう。君からは、たっぷりと可愛がってもらったと言っていた」
真美は、頭を書きながら、
「いやぁ、それほどでもないですよ。ほんの二分と三十秒ほど、くすぐってあげただけですから」
すると、がっしりとした体格のジャックが、
「それじゃあ、俺は三分ほどお前を可愛がってあげるぜ」
そう言うと、いきなり真美の首筋に刷毛をあてがった。
真美は、両脇を男子の陸上部員が固めているため、身動きがとれない。
「あはははははははは、やめてーーーああああ」
真ん丸の瞳をクルクルさせながら笑い続ける真美の姿に、思わず両脇を抱えていた男子陸上部員も驚いた。
「ジャック、やめるんだ!」
アルバートが大声で叱ると、ジャックはしぶしぶと、真美をくすぐるのをやめた。さすがのジャックも、アルバートの命令には逆らえないらしい。
真美とジャックの話を聞いて、井口コーチは、頭を抱えた。
「あのバカタレ」
井口コーチは、ハイジャック犯を真美が刷毛でいたぶっていた様子を思い出した。
(おそらく、あんな調子で、真美はジャックさんもいたぶったのだろう)
井口コーチは確信した。
「真美さん、すまなかった。ジャックは、どうしても、くすぐられたときの喜びを真美さんにも知ってもらいたくて、行動に出たみたいだ。許してくれ」
アルバートは、意味不明な説明でジャックを弁護した。
「それよりも、他の人を交えずにどこかで話したいのだが…」
「私を殺さない?」
「もちろん殺さないとも」
アルバートが笑顔で答えた。
「私を刷毛でくすぐらない?」
「もうしないよ!」
ジャックがぶっきらぼうに答えた。
二人の返事に安心した真美は、空いているミーティングルームへと二人を案内した。
自動販売機で買ったお茶を二人に渡し、真美も腰掛けた後、
「ところでアルバートさん。私にどんな用件でしょうか?」
真美が尋ねた。
アルバートは、日本茶を美味しそうに飲みながら、
「真美、君は、私の名義でダウンタウンの児童養護施設に寄付しただろう?」
「はい。しました。でも、あのお金は…」
真美が説明しようとすると、
「ケンから聞いたよ。ポーカーで獲得したお金だから私の名義にしたとのことだったが、何故かな?」
「それは、……」
真美は、言葉に詰つまった。『イカサマをして獲得したから』などと言えない。言ったら、今度は本当に殺されると確信している。
「私は…、元々ギャンブルが嫌いなの…。あの日は友達のために、やむなくボーカーをしただけだから…、友達の借金さえ返せたら、それで良かったの…」
「だから借金を払った残りを、私の名義で寄付したんだね」
「はい」
「児童養護施設から連絡があって、私は驚いたよ」
「ごめんね。名前を勝手に使っちゃった」
「いや、感謝する。おかげで、子供たちとも知り合えた。子供たちの笑顔が見られて、子供たちから元気をもらうことができた」
アルバートは、真美を叱るどころか、真美に感謝しているようだ。
「そうなの。じゃあ、ダニーやヘレンやサムにも会ったの?」
「ああ。ヘレンは医者に診察してもらった。大事には至らなかったよ。そして私は、ラスベガスのホテル組合から集まった寄付金をもとに教育基金を設立し、これからも毎年、児童養護施設へ寄付することにした。真美のラスベガス・マラソンでの懸命な走りを見て、多くのホテルが教育基金に参加を申し出たよ」
「えっ。本当? ありがとう。みんな喜ぶよ」
「それに、児童のスポーツにも援助することにした。ダニーは今では近所のサッカークラブで、エースストライカーとして活躍している」
「えっ、ダニーが? そう言えばあの子、すばしっこい走りをしていた」
真美は、最初にダニーに会ったときの光景を思い出した。そして、ダニーの活躍を、まるで我がことのように喜んだ。
「それから、君が負かしたディーラーだが、首にしたよ。君も知ってのとおり、あいつは、初心者の客をカモにして、自分の懐にお金を蓄えていた。君が倒してくれたおかげで、こちらも助かった」
「そうですか。それは私としても嬉しい」
真美は、これで殺されることは無いと、安心しきった。思わず胸を撫で下ろした。
だが、その直後に、
「ところで真美。君は一体、どんな方法でディーラーに勝ったのかな?」
と、最も尋ねられたくない質問を受けた。
一瞬、真美は、何と言えば良いか考え、固まった。
しばらくして、
「偶然…、そう…。ただの偶然が重なっただけです…。それに私、このときのギャンブルで運を使い切ったので、もうカジノに行くことは無いと思う」
と、両手を動かしながら、惚けた顔で答えた。真美の目が泳いでいた。
アルバートは、真美の顔を静かに眺めていたが、
「そうか。偶然が重なっただけか…」
アルバートは、大きな声で笑いながら、
「そうしておこう」と、いった。
おそらく、アルバートは、真美の不思議な能力を認めていた。その能力がどんなものかは知らないが、敵になることは無いと分かったようだ。だから、『そうしておこう』と言って、許してくれたのである。
「最後にケンだが…」
「ケンがどうかしたの? まさか始末したとか?」
真美は、自分の首に手刀をあてて首を切るポーズをした。
「いや、彼はギャンブルから足を洗い、探偵になったよ。なんでも好きな女性から、私の夫になる人は、ちゃんとした仕事をして、汗水流して働いてほしいと言われたそうだ。今では彼の名推理が評判を呼び、遠方からの依頼も沢山きているようだ」
「ふーん…。ケンに好きな人がいたのかー。誰だろう?」
真美は、腕を組みながら丸い瞳をクルクル回し考えた。
真美は、自分がケンに告げた内容をすっかり忘れていた。どうも真美にとってのケンは、恋愛の対象ではなく、信頼できる友達のようだ。
「真美、私は、真美に感謝している。児童養護施設の子供たちもそうだ。今度ラスベガスに来るときは、ぜひ私のところに寄ってくれ。スィートルームを用意しておく」
アルバートは、真美のことを大変気に入った様子だ。
「アルバートさん、ありがとう。いつか必ず行くよ。そのときには、プリンとアイスクリームも用意してね!」
真美は、すかさず追加要求した。
「わかった。用意しておく」
笑いながらアルバートがそう言うと、
「刷毛も用意しといてやるよ」
ジャックが意味ありげな口調で付け足し、持ってきた刷毛を真美に渡した。
その後、二人は穏やかに去って行った。
「殺されなくて済んだ―」
真美は、今度こそ安心して胸を撫で下ろした。
すると、突然、
「篠原、おまえ、あの二人にどんな迷惑をかけたのか?」
井口コーチが詰め寄って来た。
「別に、二人から感謝されただけだよ」
真美は、何食わぬ顔で答えたが、
「嘘だ。お前のその行動が、感謝されるはずがない。しかも、その刷毛でジャックさんを二分以上もくすぐったのだろう? ハイジャックを苛めたときと同じように…」
「疑り深いなぁ…。それじゃあ、この刷毛で井口コーチにも、喜びを教えてあげましょうか?」
真美が刷毛を右手に持つと、すかさず井口コーチが、その刷毛を奪い取り、
「教えてもらう前に、篠原自身で、この刷毛を使った喜びを表現してほしいな」
と、今にも真美を抑え込もうとする姿勢をとった。
(ヤバい。井口コーチのことだ。躊躇することなく、私の脇をくすぐるはずだ)
そう判断した真美は、
「練習を再開するね。走ってくるから」
そう言うや否や、駆け足で逃げ出した。
夕陽が赤く染まる中を真美が走る。風が心地好く頬を撫でる。
「みんなそれぞれ前向きに頑張っている。私も頑張らなきゃ」
今回のきっかけは、ダウンタウンでダニーと出会ったことだった。いや、グランド・キャニオンでマーガレット婆さんを助けたことかもしれない。そうでなければ、ケンにも出会えなかった。
いや、それも違う。アンダー20世界陸上競技大会でルーシーと知り合わなければ、ラスベガス・マラソン大会で真美は、あれほどの活躍ができなかっただろう。
いずれも、真美が無関心を装えば、全く縁は持たれなかった。だが、マーガレット婆さんやダニーとの出会いが元で、ケンや児童養護施設と縁ができ、施設への寄付やいじめ問題の解決をラスベガス・マラソン大会に託した。アベリィさんのおかげで大会に出場することができたし、ルーシーの協力でマラソンを完走することができ、全てが解決した。
そして、その流れは、今ではアルバートさんにより、教育基金の設立という大きなうねりとなった。
ちっぽけな出会いが、信じられない結果をもたらした。
真美は、アメリカで出会った全ての人たちに感謝した。
そしてもう一人、忘れてはならない存在があった。白井玲子だ。玲子がいなければ、おそらく、ラスベガス・マラソン大会で真美は完走できなかっただろう。玲子はいつも、不思議な力で真美を、陰ながら支えてくれる。
真美にとって玲子は、大切な親友だった。それと共に懐かしい存在だった。
(玲子には今度いつ会えるだろうか?)
真美は走りながら考えた。
(お互いに大切に思っていれば、またいつか会えるはず…)
真美はそう思う。
真美の願いは、みんなの幸せだ。
幸せを掴むためには、前向きに懸命に頑張る必要がある。困難に立ち向かう勇気が必要になる。
真美の疾走は、みんなに勇気と感動を与える。一生懸命頑張ることの大切さを教えてくれる。
今日も真美は、みんなの幸せを願って走り続ける。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
真美の活躍はいかがでしたでしょうか?
これでアメリカ西海岸編が完了しました。
続きはケニア編となります。「ランナー真美の願い(2)」をご覧願います。




