11.帰国
ようやく真美がゴールした。
「真美、よく頑張った」
「篠原、よくやった」
ケンと井口コーチが真美に駆け寄った。
沿道からは大きな、大きな拍手が沸き起こった。
井口コーチはケンに向かって、
「今から篠原を空港に連れて行く。手伝ってくれ」
そう言うと真美を抱き起したルーシーに対して、
「ありがとう、あなたのおかげで篠原は完走できた。彼女は今から日本に戻らねばならない」
そう告げて真美を背負い、タクシーに乗せた。ケンも、真美のバッグを持ってタクシーに乗り込んだ。
直ちにタクシーは、ラスベガス空港へ向かった。
しばらくして、真美は、タクシーの中で意識を取り戻した。
「あれ? ここは?」
「タクシーの中だ、ラスベガス空港に向かっている」
井口コーチが教えてくれた。
「あれ? 井口コーチだ。いつの間に?」
真美は先ほど井口コーチの叫び声に応じて前転したのだが、そのことを忘れている。おそらく真美は、井口コーチの叫び声を頭で判断したのでなく、体で感じたのだろう。
「お前の姿をテレビで見て、迎えに来た」
井口コーチが答えた。
「みんなが真美の走りに感動していたよ」
ケンがいった。
「あれ? ケンもタクシーに乗っている。見送ってくれるのね。ありがとう」
まだ真美は、うわの空だった。
「どういたしまして」
ケンは、穏やかな表情で笑顔を見せた。
井口コーチが真美にスポーツドリンクを渡した。
「ありがとう。ほしかったんだ」
真美はドリンクを受け取ると『ゴクゴクゴク』と、あっという間に飲み干して、
「あー。サムとの約束を守れなかったぁー…」
そう言いながら、ケンにあずけたバッグからスマートフォンを取り出し、電源を入れた。
その途端に着信音が鳴り響く。児童養護施設からだった。
「はい。真美です…」
施設長のアベリィからである。
「真美、よく頑張ったわね。あなたのおかげで、サムが年下の子供たちの面倒を見ると約束してくれたわ。ダニーもサムもヘレンも、施設の子供たちみんなが真美に感謝している。それに、あなたのおかげで寄付の電話が沢山かかってきたのよ」
「えっ、ほんと?」
すると、ダニーが電話にでて、
「真美、真美の走りに感動したよ。僕、これからどんな困難があっても頑張る。決して諦めない」
「ダニー。偉い! 頑張ってね」
そう告げると、すかさずサムが電話を代わり、
「真美、僕は約束する。ダニーたち年下の子を大切にする。真美との約束だから。真美は僕に勇気をくれた。小さい体でも一生懸命頑張れば、人に感動を与えることができると教えてくれた。体の大きな僕は、もっと頑張れるはずだ」
「そうよ。サム、みんなに優しくしてね」
アベリィやダニー、サムの言葉を聞き、真美は、自分の走りが無駄ではなかったと感じた。とても幸せな気持ちになれた。
真美が完走できたのは、ケンやルーシーの協力、それに施設の子供たちや沿道の人たちの声援のおかげだった。そして、玲子たち音楽隊の演奏のおかげだった。
真美は、みんなに感謝した。
しばらくすると、また電話が鳴った。今度は相手が誰だかわからない。しかも英語だ。
真美は、話す気力も無いので、
「井口コーチ、代わりに電話にでて」
スマートフォンを無造作に井口コーチに渡した。
井口コーチはスマートフォンを受け取り、話し始めた。
「はい。…えっ…そうですか…十七歳です。…そうですか…わかりました…失礼します」
そう言うと、井口コーチは電話を切った。
「井口コーチ、誰からだったの?」
「ラスベガス・マラソン事務局からだ。篠原の走りに感動したので、来年もまた参加してほしいそうだ」
「へー。それじゃあ大相撲みたいに『敢闘賞』のようなものがもらえるのかな? 賞品は食べ物が良いな。プリンかケーキ、ステーキでも良いかも」
「残念ながら、そんな賞は無いそうだ」
「えーっ。あれだけ褒めておきながら、賞品が無いの?」
真美は、頬をふくらました。褒めておきながら賞品がもらえないことに不満のようだ。
「電話のメインの用件は、篠原の順位のことだった。感動した話はついでの話だった」
「そうなの。それで、私は何位だったの? 電話で伝えるほどだから、十位以内で賞品が出るかも。プリンかアイスクリーム百杯分だったらいいなぁ」
「残念ながら失格だそうだ」
「へっ?」
真美は丸い瞳をさらに丸くし、耳を疑った。
「シッカクって、四角い切り餅のことじゃなくって?」
真美は、訳が分からず、意味不明なことをいった。
「篠原、ラスベガス・フルマラソンの参加者は、十八歳以上でないといけないそうだ。篠原は、飛び入りで参加したそうだな。事務局の人が、年齢を確認せずに参加させたことを謝っていた」
「年齢制限があったんだぁー」
「篠原、お前の体はまだ成長期だ。フルマラソンをやる年齢ではない。今日みたいな無茶をしたら、選手生命にかかわるぞ。フルマラソンは、もう少し年を取ってから始めたほうが良い」
井口コーチは、真美の体を心配したうえでの発言だ。そして井口コーチの気持ちは、真美にも十分に伝わった。
「そうだね。フルマラソンは、私にはまだ早いみたい。私もそう思う」
「篠原、日本に着くまで俺がおんぶする。それまでは、決して歩くな。無理して歩くと、選手生命にかかわる。二度と走れなくなるぞ」
「わかった。井口コーチ、ありがとう」
真美は、素直に井口コーチの言いつけに従った。おそらく、真美自身も、足の痛みが相当こたえているようだ。
「真美、プリンを四つ買っておいたよ」
ケンがいった。
「えっ。プリン? ありがとう。今すぐ食べる。全部食べる」
そう言って真美は、満面の笑顔でケンからプリンを受け取った。
高級店で売っているような、おしゃれな包装に包まれたプリンだった。おそらく、このプリンを食べる人たちは、上品にスプーンを用い、プリンを口に含ませるだろう。
だが、今の真美の場合は、味わって食べると言う動作は、全くふさわしくない。まるで飢えた犬のように、口をプリンのケースにあてがい、ガツガツと食べた。一応スプーンは用いているが、あまり役に立っていないようである。
よほどお腹が空いていたのだろう。真美はプリン四つ平らげても、まだまだ食欲があった。
やがて、タクシーはラスベガス空港に着いた。時計は十九時四十分である。飛行機の出発まで、あと二十分しかない。
ケンが搭乗手続きの場所を教えてくれた。
井口コーチは、真美をおんぶし、大急ぎで搭乗手続きを済ませた。
ここでケンとはお別れだ。
「さよなら、真美。またいつか会おう」
「ありがとう。さよなら、ケン」
別れの挨拶をすませ、保安検査場に行った。もちろん井口コーチがおんぶしたままである。
ケンから受け取った真美のバッグは、井口コーチの首にぶら下がっている。
保安検査場では手荷物検査を行う。真美のバッグは問題なかったが、真美はまだラスベガス・マラソンのゼッケンをつけたままである。そのため、安全ピンが金属探知機に反応した。
大急ぎで安全ピンを外そうとするが、焦っているため、なかなか外れない。
あと出発まで十分しかない。
次は出国審査である。大急ぎでパスポートを提出した。
相変わらず井口コーチは真美をおんぶしている。
中年の男性が高校生の女性をおんぶしたまま出国する姿は、どこから見ても異様な光景である。しかも、真美の服装は、ランニング用タンクトップとランニングショーツである。さらに、タンクトップの背中とランニングショーツのお尻に『児童養護施設に寄付金を』とマジックで書いてある。
審査官は、井口コーチを誘拐犯か変質者のたぐいと勘違いした。
こんなとき、井口コーチは緊張のため赤面してしまい、うまく説明できない。審査官は、井口コーチをますます怪しい男だと思った。
真美が説明すると、検査官の一人がラスベガス・マラソン大会を見ていたため、ようやく井口コーチの容疑が晴れた。
何とか出国審査も通ることができた。だが、出発まであと五分である。
井口コーチが真美を背負ったまま搭乗口に行くには、最低でもあと十分かかる。
真美は、心の中で「フリーズ」と告げ、時間を止めた。真美の周りの景色が灰色に変わる。
真美と直接肌が触れている井口コーチは、時間が止まらない。
井口コーチは、止まっている時間の中を大急ぎで走った。周りの人たちの動きが止まっていることに全く気づいていない。
だが、真美が時間を止めていられるのは真美が息を吐き出すまでの間である。
搭乗口に着くまでに、真美は十回時間を止め、それぞれの合間に深呼吸をした。
搭乗口に着いたとき、出発まであと四分だった。つまり、この間を井口コーチは一分で走ったことになる。
「篠原、何とか間に合ったな」
井口コーチは、止まった時間の中を走ってきたことに全く気づいていない。それだけ井口コーチは、夢中で走っていたようだ。
井口コーチは、真美を背負い、大急ぎで飛行機に乗り込んだ。
真美の姿を見て、佐々木かおりが喜んだ。
「真美、ラウンジのテレビで真美を見たわよ。周りの人も一緒に真美を応援していた」
選手団のメンバーから拍手が起こった。みんなもラウンジでテレビを見ていたようだ。
「えへへへ。最後はころんじゃった」
頭をかきながら真美は、照れた。
井口コーチは、真美を座席まで運ぶと、優しく座らせ、自分はその隣に座った。
「えぇー。私の隣、井口コーチなの? イケメンの若い男の方が良いのになぁ」
「うるさい。文句を言うな。飛行機に間に合っただけでも、ありがたいと思え」
「はーい。井口コーチ、ありがとうございまーす」
真美は両手の人差し指を合わせながら小さい声でいった。
すぐに飛行機は出発し、離陸した。まるで、真美が乗り込むのを待っていたかのようだ。
しばらくして、真美は座席に備え付けのテレビをつけた。座席モニターには、ラスベガス・マラソンの優勝者インタビューが放送されている。
真美は英語が分からないまでも、「この人、ゴール手前で私を抜いていった人だ」と、わかった。
やがて、ルーシーのインタビューが始まった。
ついさっきまで一緒に走った記憶が甦える。ラスベガスの街並み、音楽隊の演奏、ルーシーの励まし、そして沿道の声援。思わず目頭が熱くなった。
ルーシーの順位は十位だった。
だが、司会者は、ルーシーのことを『影の優勝者』として、もてはやした。
「ルーシー、あなたが真美を助けなければ、あなたは間違いなく一位だったでしょう。何故、優勝よりも真美を助ける方を優先させたのでしょうか?」
ルーシーは、謙遜しながら、
「それは優勝で得られるものよりも、もっと大切なものを、真美からもらったからです」
「優勝よりも大切なもの。それは、もしかして『ひたむきさ』や『感動』でしょうか?」
「そうです。真美の走りを見ていた多くの人たちが、同じ思いを感じていたはずです」
「そうですね。中立の立場で放送している私たちアナウンサーですら、ゴール付近では思わず真美を応援してしまいました」
司会者は、ルーシーの気持ちを理解した。
ルーシーは続けて、
「先日、私は、アンダー20世界陸上競技大会で、真美から感動をもらいました。そして今日も、沢山の感動をもらいました。彼女を見ていると、『自分ももっと頑張れるはずだ』という思いが…、勇気が湧いてくるのです」
「確かにそうです。私もそう思います」
アナウンサーは、ルーシーの話に頷いたが、続けて、
「でも…、彼女は、年齢制限違反で失格となりましたが…」と、残念そうにいった。
「確かに真美は、失格となりました。しかし、彼女は、今大会で誰よりも多くの人に感動を与えました。そしてそれは、誰もが認めているでしょう」
インタビューでルーシーは、自分のことよりも真美のことを熱く語っていた。
真美は、英語がわからなかった。でも、ルーシーが真美のことを褒め称えていることは、なんとなくわかる。
「ところで、その胸に書かれている文字は?」
司会者が質問した。
「真美の胸にも書かれていましたが、ダウンタウンにある児童養護施設が経営に困っているとのことで、寄付を呼びかけたものです」
「そうですか。口座番号はおわかりですか?」
「さあ、真美なら知っていると思いますが…」
ルーシーが困っていると、大会事務局長のジャクソンが手書きの口座番号を大急ぎで持ってきて、
「口座番号はこちらです。一ドルでも構わないので、募金をお願いします」
と早口でいい、手書きの口座番号が書かれたプレートをルーシーに渡して、去って行った。
ルーシーは、口座番号をテレビに示しながらインタビューを続けた。
「ルーシー、ありがとう。おかげで助かった。今度また会おうね」
そうつぶやき、真美はラスベガスの夜景を窓から眺めた。
美しい夜景だった。まるで地上にも星々が輝いているような美しさである。
「ケン、ダニー、ヘレン、サム、そしてアベリィさん、さようなら。そして玲子、ありがとう」
真美は空から別れを告げ、走り疲れた体を休めるため、眠りについた。
飛行機は、ロスアンゼルスを経由して、日本に向かった。
五時間後、真美は目覚めた。
飛行機の中は静かだ。ほとんどの乗客が眠っている。ジェットエンジンの音だけが静かに聞こえていた。
横を見ると、井口コーチが起きている。
「井口コーチ、お願いがある」
「何だ。言ってみろ」
すると真美は井口コーチの耳元で、
「トイレに行きたい」と、ささやいた。
井口コーチは、厳しい話し方の割には優しい。
おそらく、井口コーチは、そろそろ真美が起きてトイレに行く頃だと分かっていた。だから、先に起きて真美が声をかけるのを待っていたようだ。
再び真美を背負い、井口コーチは、トイレへ連れて行った。
真美は、個室で一人になると、
「ふー。日本に着くまであと一回はトイレに連れて行ってもらう必要があるな」
そう言いながらバッグを開き、服を取り出した。
「ランニング用タンクトップとランニングショーツで国際線の飛行機に乗ったのは、私が初めてかもしれないなー」
真美はジーンズを穿き、白いシャツを着た。
眠ったおかげで、足は幾分か痛みが和らいできたようだ。だが、井口コーチからは「日本へ着くまでは歩いてはいけない」と言われている。
「まぁ仕方ないか…」
トイレの扉を開けると、井口コーチが中に入ってきて背を向け屈んだ。おんぶをしてもらい、座席まで運んでもらう。まるで乳幼児のような対応である。だが、真美はそんなことを気にも留めない。真美は井口コーチを信頼していた。
だが、全く動けないのは辛い。それでなくとも元気いっぱいの真美である。
「退屈だなぁー」
飛行機の現在位置は、アメリカと日本との間の三分の一の地点、太平洋の上空である。
井口コーチは、トイレに行ってくると告げ、座席を離れた。
すると、その後すぐに、白人の若い男がやって来た。彼はロスアンゼルスから乗り込んできたようだ。
若い男が真美に話しかけた。
「君、可愛いね。隣に座っても良いかな」
男は、笑顔が素敵なイケメンだった。まるで、ハリウッド映画に出てくるような登場の仕方である。
(これこそ出会いだ! 私にもようやく春が来た!)
真美は、心をときめかせた。思わず気持ちが舞い上がる。
「どうぞ座って!」
と、喜びながら身振り手振りで招き入れ、しかも、イケメンを逃がさないように窓側の席を提供した。
(井口コーチには空いている座席にでも座ってもらおう。決まりだ)
そう割りきった。
「君は足が不自由なのかい?」
イケメンが尋ねたが、真美は英語の意味がよく解わからず、鼻の下を伸ばし「イエース」と頷いた。
イケメンは、自分と真美との間にある座席の肘部分を持ち上げ、座席と座席との間に収納した。これでイケメンと真美とは、一つのソファーに並んで座ったような姿勢になった。
「わー。二人の距離がさらに縮まった。これは、もしかして、キスの準備かも…。キスの後は、あんなことやこんなこともしてくれるかも…」
真美は、これからの出来事をあれこれと想像し、恥ずかしそうな顔をして、顔が赤くなった。
次の瞬間、イケメンは、真美を抱きすくめた。
「ち、ちょっと性急すぎるわ。いくら私が可愛いと言ったって……」
言葉とは裏腹に、真美は、百パーセント喜んでいた。これからの出来事を期待していた。だから、そんなに抵抗せず、イケメンに身を任せようとした。
だが、イケメンは、次の瞬間、大声で、
「足が不自由な少年を人質に取った。飛行機をハワイに降ろせ!」
と叫び、真美の喉元にカッターナイフの刃を当てた。
「えっ?」
真美には意味が解らない。だが、カッターナイフが喉元に当てられているということは…、
(もしかして、私…、ハイジャックから人質にされた?)
周りの人たちが驚いている。客室乗務員がやって来て、男を説得しているようだ。
(やっぱり私、人質になったのかなぁ…。それとも、ハリウッドのドッキリカメラなのかなぁ…)
真美は、まだ信じられないような表情をしている。
騒ぎを聞きつけて、井口コーチもやって来た。
客室乗務員は井口コーチに向かい、
「あの子の保護者の方ですよね。あなたからも、犯人を説得するようにお願いします」と、ハイジャックとの交渉を頼んだ。
井口コーチは、真美の丸い大きな瞳がきょろきょろと動いていたため、篠原真美がまだ状況を理解していないことに気づいた。
(あのバカ、まだドッキリカメラだと思い、テレビカメラがあるか周りを捜している)
井口コーチは、溜息をつきながら、
「篠原、お前はハイジャックから人質にとられたんだぞ。わかったか!」
「やっぱり……」
真美は、ようやく状況を理解した。
(さっき抱きすくめられたのは、私の魅力のせいでは無く、人質にとるためだったんだ…)
勘違いしたことが悔しかった。
真美の落ち込んだ様子を見た客室乗務員が、井口コーチに向かい、
「少女を悲しませるのでなく、犯人を説得してください」と、苛立っている。
「わかった」
そう答えて井口コーチは深呼吸した後、今度は犯人に向かい、
「お前バカか。よりによって篠原を人質にするなんて、腕の骨を折ってくださいと頼むようなものだぞ!」
「えっ?」
イケメンは、信じられない顔をしている。それだけ井口コーチの英語は、流ちょうに伝わった。
「悪いことは言わん。早く篠原から離れろ。怪我をしないうちに早く。俺は、お前の体が心配だ」
井口コーチの説得(?)を聞き、犯人は激怒した。
「何を訳の解らないことを言っているのだ。この足が不自由な少年を殺すぞ!」
イケメンは、凄んで見せた。
どうやら犯人は、ショートヘアーの真美を、男の子と勘違いしているようである。
「篠原、犯人はお前を男の子だと勘違いしているぞ」
「なにっ!」
真美の顔が急に怒った顔になった。真ん丸だった目が三角眼に変わった。
「こんな可愛い女の子を、よりによって男の子と間違えるとは、許さん。こりゃ死刑だな」
真美は「フリーズ」とつぶやき、時間を止めてカッターナイフを奪った。すぐに息を吐き出し時間を動かすとともに、男の手首を掴み、合気道の技で腕をねじ曲げた。
真美の関節技は実に的確である。あっという間に体を入れ替え、男をねじ伏せた。
「篠原、よくやった」
井口コーチや客室乗務員が犯人を取り押さえようとしたとき、
「動かないで! 爆弾がある。動くと爆発する!」
真美が大声で叫んだ。もちろん、口から出まかせの嘘である。
だが、その一言で、みんなの動きが止まった。
「どこに爆弾を隠しているのかがわからない。私が白状させる。それまで、皆は動かないで!」
「わ…わかった」
爆弾に緊張した井口コーチが、唾を飲み込んだ。
犯人は、日本語がわからない。真美が言っていることが理解できない。もちろん犯人は、爆弾など持っていない。
真美は関節技をきつく締しめた。
「わー。やめてくれー、腕が折れる。痛い、痛い」
見事に関節技を固められたため、男は苦悶の表情に変わった。
「えっ、あなた、痛いのが苦手なの?」
「やめてくれ。頼む」
男は拝むようにいった。
「わかった」
男の腕を固定したまま、真美は片手でバッグを開け、刷毛を取り出した。ラスベガスでパン屋のオヤジからもらった刷毛だ。
それから真美はニタッと笑い、刷毛で男の脇わきの下をくすぐり始めた。
「ああああああ、はははは、ははははは、やめてくれ、ううううううう、ひひひひひ」
あまりのくすぐったさに、堪らず男が体を動かすと、腕がねじれた・
「ぎゃー」
痛みに耐えかねて、男は元の姿勢へ戻った。だが、そこには真美の刷毛が待ち構えていた。
再び真美は、男の脇の下をくすぐり始めた。
「あはははは、お願いだ。ふふふふ、やめてくれー へへへへ」
「私は女の子よ。許さないから」
真美は、くすぐりをやめようとしない。
ここにきて井口コーチは、気づいた。
(篠原のやつ、爆弾だなんて嘘をつき、犯人をいたぶっているな)
「あはははは、客室乗務員さん、おおおおお、願いだ。はははは早く助けてくれ。ああああ」
イケメンが目にうっすらと涙をためて、笑いながら叫んだ。
客室乗務員も呆れていた。これでは、どちらがハイジャックかわからない。
客室乗務員が英語で尋ねた。
「爆弾はどこに隠したの?」
「爆弾? あははははは、そ、そんなの知らないよ。それよりも、あははは、早く助けてくれ、ひひひひ」
どうも犯人は、笑いながら涙を流しているようだ。
井口コーチが見かねて、
「篠原、その辺で勘弁してやれ」と、告げると、
「しかたないなぁ。どうやら爆弾は無かったみたい」
そう言いながら真美は、犯人を客室乗務員に渡した。
イケメンは怯えていた。惨めなほど真美を怖がっていた。
「だから俺が教えてあげたのに…」
井口コーチがイケメンにいった。
客室乗務員は、ロープでイケメンを縛り上げたが、イケメンは全く抵抗する様子がない。それどころか、
「早く俺を、安全な場所まで連れて行ってくれ」と、うったえていた。
イケメンは、真美のことを大変恐れているようだ。先ほどくすぐられたときに流れた涙の跡が、うっすらと頬に滲んでいた。
それから九時間後、飛行機は無事に、日本に着いた。
「日本だ、日本だ! ようやく歩ける」
真美は喜び、はしゃいで歩いた。もう足の痛みは、かなり和らいだ。
佐々木かおりたちと別れ、真美は、大宮駅行きのエアポートバスに乗り込んだ。真美の家は、さいたま市の大宮駅から少し離れた場所にある。
大宮駅前からはタクシーに乗った。
久しぶりの我が家である。家に着くと、元気に挨拶した。
「ただいま」
「お帰り。真美」
母親が笑顔で迎えてくれた。
「お帰り。姉さん」
弟の伸次も迎えてくれた。
「姉さん、お土産は何?」
伸次が真美に尋ねた。
「お土産? そういえば私の荷物だけみんなに比べて少なかったような…」
真美は、腕を組みながら丸い瞳をクルクルさせて考え、なぜみんなよりも荷物が少ないのかを、今になってようやく理解した。
「あー。お土産買うのを忘れたー。伸次、ごめん」
真美は、ロスアンゼルスでもグランドキャニオンでもラスベガスでも、お土産を買い忘れていた。そのことに今、気づいたのである。
「お母さん、やっぱり姉さんは、お土産買うのを忘れただろう?」
伸次は、得意げに母にいった。
「お母さん。何も買って来なくて、ごめんね」
「私は、あなたが無事に帰ってきたことが、一番嬉しいわ。さあ、お父さんにも挨拶してらっしゃい」
真美の母親は笑顔で、真美を仏壇に導いた。
仏壇には父の遺影が飾られている。
真美は、写真の父に向かい、
「お父さん、ただいま。真美は無事に帰ってきました。三位だったよ」と、遺影の脇に銅メダルを置き、
「それに、今回の旅では沢山友達ができた。素晴らしい思い出ができたよ」
真美は遺影の前で両手を合わせた。
競技で一位になる願いはかなえられなかった。だが、それよりも、もっと大切な願いがかなったことに、真美は満足した。
遺影に写った父の顔が笑ったような気がした。
今回の真美の旅が、ようやく終わった。
真美の活躍はどうでしたか?
相変わらず能天気でしたよね。
次はエピローグです。
今回、アメリカ西海岸での、真美のちっぽけな出会いが、大きなうねりへと変わったさまを目撃できます。




