第三話
時間が経っててプロローグから第二話までの話とどこか齟齬があるかもしれない……。
ちなみにこれ第三話はまだ全部書ききってないです。
まあ恐らく一週間もしないくらいに第三話をちゃんと書き終わらせます。
太陽の光を遮って辺りを夜闇のように閉ざした曇天、遠雷が響きやがて、雨が降る、と空を仰ぎ見た魔法使いがぼんやりとだが、呟いた。
吹く風は秩序を冒涜せんとする古城から荒れ、冒険者一行の鼻腔を強烈な甘ったるい臭いで充満させる。
それは遥か昔から死霊魔術師が行使する禁忌の魔術の、魔力残滓だ。
慣れていなければその不快感に、体が拒否反応を示し、戦いどころではなくなる。
だがこの一行は場慣れした、熟練とも言える冒険者達が揃っている。
歩く死者などこれまでに幾度となく戦いしかも、その内の一人は国から英雄と呼ばれた、遥か昔現れた勇者の一行の――その子孫だ。
眼前に佇む、その昔栄えていた隣国の古城。
既に秩序の外の化物共に蹂躙され、人間の姿など無いが微かに聞こえる気がする怨恨の声は、王の、民の、訴えだろう。
「神よ、その秩序なる力を与え給え」
本来ならば城下町であった古城の周囲は、建造物の一つすらも見えず、大きな更地となっている。
聖女がその場所で聖なる杖を掲げ、神へと届く祈りを捧げると、曇天の空を掻き分け一筋の温かな光が馬車を覆った……一時的な安全地帯を作る聖なる御業だ。
「死霊魔術師、死を冒涜する者……今までの冒険と同じだ」
英雄の子孫が腰帯に吊るされていた代々伝わる名剣を鞘から抜くと、言い放つ。
敵は――――かつてこの隣国を外なる生物から守っていた屈強な兵士達の――残滓だ。
敵である死霊魔術師が、聖女が行った御業に気付いたのだろう。
周囲の地面から、古城の壊された正門から、無数の敵が……既に腐りきった肉を無くし、体を支えていた骨格だけの者達。
所々が割れ、欠け、けれど眠る事を許されず尚も戦わされる者達。
……英雄の子孫は力強く言葉を続けた。
「目の前の敵を屠れ、我らの平和と彼らの安らかな眠りを祈りながら」
構え、からの強かな大地への蹴りと研ぎ澄まされたそのひと振りは、怒気の籠った一撃だ。
三体もの歩く死者を永遠の眠りへと誘う。
だが数は奴らの方が上、振り切られた剣を再び構える暇もなく、五体の死者が彼を取り囲んだ。
「炎とは原始の力、神は炎を与え、後悔した」
しわがれた声が一層力強く、周囲に響いた。魔の力を必要とする力を持つ言霊。
魔法使いの周囲に、不可思議な黒い玉が顕現し、英雄を囲んだ死者へと翳された右手へ収束、一つの玉になると火花が散った。
それは巨大な炎の渦になり、英雄を避けるように死者のみを灰へと帰す。
「秩序の光は絶対、死者は還り、生者には加護を」
豊満な体を持つ聖女が、唯一神を象った杖を媒体に、深い慈愛を持ち、透き通った美声で祈った。
一行を、死者をも巻き込み降り注いだ光の柱は、死者を土に還し、彼女達の肉体に眠る力を沸き立たせた。
「……」
もう一人の戦士は無言で両刃の剣を奮う。
時折、その王国の紋章が入った、自身の体躯の半ば程まである大盾を払うように薙ぎ、死者を屠った。
「援護する」
安全地帯となった馬車の上部、唇をぺろり、舌でなぞると既に構えられていた大弓に矢を番え――驚く事に狙いも程々に二度三度と速射を行う。
けれど空を切ったその矢は、戦士達が取り逃した者をなんと的確に矢によって射貫き、確実に数を減らしていった――――
英雄が、現れた死霊魔術師の討伐へ向かってから数日。
風を切り、高速で振るわれたその両刃の剣は、的確にスライムの核である眼球を真っ二つに切り裂いた。
刹那の隙、悪意を持ち、放たれた体液に触れてしまえば骨すらも残らない。
獣人少女は大きく飛び退くと、体液が土を焼くのをちらと見やった。
当然スライムに出来た隙を見逃さず、大きく前へ踏み込み、剣を上段から振るう。
同時に、振り切る事はせず、大振りだった腕を半ば強引に切り替え、横へ一文字薙いだ。
獣人少女が横を見れば、悪意を持って体液を飛ばそうとしていた最後のスライムが、核を失い、その体を蒸発させようとしていたところだった。
「ふう」
この場の安全を確保し、周囲を見回す。
鞘へ両刃の剣を差し込み、多少危なかった現状に、安堵の溜息。
雑嚢から取り出した麻袋へスライムの眼球をしまい込み、水で満杯の羊の胃袋で作られた水革を取り出す。
太陽は既に頭上高く、夏らしい暑さが真っ直ぐに続く街道の先に、近づけば消える不思議な水溜まりを作り出す。
汗を右手で拭い、一口二口、喉を鳴らす。
――今回の任務は然して難しくはなかった。
都へと続く街道に現れた外なる生物、スライムを駆除してくれ、ここを通ろうとした行商人からの依頼だ。
多少、覚悟はしていたが、来てみれば十を超えないほどの少数。
大きな馬車に護衛を引き連れているような行商人ならば、それほど気にすることではないように思えたが、依頼は依頼だ……と獣人少女は街道の傍らに無数にある木陰に座り込む。
照る陽光は彼女の柔肌を焼くのには十分だからだ。
「……」
少女が活動する町から距離のあるこの場所、少しの小休止の面もあったが……第一はここであの外なる化物をどうしようか、その思考をする為であった。
借りているギルドの部屋にあの化物も住み着いてしまい、まともな思考は出来ない。
奴が動けば音で目が覚め、深い思考に踏み入れば話しかけられ気が散る。
「はあ」
どうにか信用を得ようとあのスライムには町の事、あの英雄の事、国の事、様々な事を教えている。
だがまるで彼女自身が奴に全て思い通りにされているような、そんな気がしてならない。それに万が一にでも他に気付かれれば、彼女は裏切り者として……
「早くしないと……」
そんな焦燥と、多少の後悔が日に日に心の中で肥大化していた。
早く、早く奴を倒し、それを戦果にしなければならない――けれど正々堂々では倒せない。
「……」
ここ数日はこう思い悩むだけ……
少女は伸ばしていた両足をその苦慮から身を守るように抱え持つと、額を膝へ押し付け丸まってしまう。
思い通りにならない。
けれど想いは叶えたい。
最初こそ、誰かに倒させればいい、そう思っていたが、結局方法が思いつかない以上はこればかりは彼女自身が倒さなければならない。
町の、国の、英雄程になればいとも簡単に倒せるだろう。
兵士を軍として戦わせればそれはそれで倒せる、だがそんな戯言を信じてくれる国の人間などいない……いや一人いる、しかし巻き込みたくは無い。危なすぎる。
一歩間違えれば疑われかねない。
当初はあの化物の情報を渡せば、彼女自身の戦果にもなり得る、と思っていたが――裏切り者という疑念が晴れるとも限らない。そして頼みの綱であった英雄も既にいなくなった。
言う必要も無く、少女の正面からの攻撃は全て避けられる――為せない矛盾に、心を渦巻く想いは破裂しそうなほどに膨れていく。
空は――空はあんなにも綺麗なのに、故郷で託された想い一つ叶えられない。
……暫しの沈黙、眠った訳では無かった。
彼女の頭上、木の遥か天空、そこにある太陽からは常時、熱が放射されているが、時折吹き抜けていく風が自分で自分の足を抱え、丸まった彼女には心地が良かったからだ。
その時に少女は気付く、自分は悩んでいる訳では無い、真っ白で無限に続く紙の上を思考の中で繰り返し、ただ物思いに耽っていただけだと。
「ん……」
顔を上げ、目に入ったものは何でもない自然だった。
無意識なのは彼女が自然と共に生きる者だからか、自然の香りを体に纏っているからか。
風に揺れる木々、木の葉に隠れる小動物、空を翔る鳥。
――今一度奴を倒す為に働き始めた思考、落とした目線の先に生きる、夏の日差しに淡い桃色があまりにも映えた、グラジオラスの花。
「必ず、奴らも見返してやる」
消えかけていた闘志に、再び火が点く。
思い悩む事を繰り返すならば、行動を起こし、何かを得なければならない。
これまでの彼女自身の生き方など、挑戦と失敗の繰り返しだった。
……思い出されるのはつい先日自身と重なった給仕の少女、挑戦と失敗をただひたすらに行い、それを糧とする。
抱えた両足を開放し、力強く地面を蹴り立ち上がった。
彼女は、魔術師ほど頭が良い訳でも、貴族と言われる連中ほどお淑やかでも無い。
けれど努力は弛まぬ、掲げた目標へ辿り着く為の努力は弛まぬ。
部族を敵に回そうとも、その先に目的があるならば、それが悪足掻きと言われようが、彼女は他が認める程に愚直で素直だ。
日が昇る。
彼が眠る事は無い。
飽く事なく化物は窓際から外を眺めている。
秩序の光に包まれ、戦火が今日もこの町に降り注ぐ事がなかった事に安堵感を覚え、人々は通りを往来しながら自身のやるべき事を為す。
全く変わらぬ昨日と同じ光景だ、とスライムは思うが、一つだけ違う事がある。
それはウォールから説明された英雄がこの町から出ていって数日が経った事だ、そんな景色に化物が気付かぬ訳が無い。
その上にその影響は大きい。
人間が眠るという夜更け頃、人間は人間を守る為に見回りを行っているが、英雄がいなくなってからは特に、町を見回っている人間の数が増えたこと。
「あの男はそれだけこの町にとって必要だったのか」
一つ一つ、複雑に絡む事柄に、意識を沈み込ませていたが、彼もしくは彼女はそろそろだ、と心の中でとある憶測を展開させ、葉についた朝露の様に呟いた。
「五回」
辺りが明るくなれば、人の往来が多くなり、気付けば教会の鐘が鳴り響き始める事。
必ず日が昇り始めた辺り、教会の鐘がある種の印となるようで、彼もしくは彼女が言った通り、五回、町に鳴り響くと心地の良い体を撫でる様な余韻だけが続いた。
スライムは余韻に浸るものの、鐘の音は刻の報せなのではないのか、と潰えぬ疑問が一つ花咲いた。
「けれど、ウォールは既にいない」
窓際からぐるりと眼球を一巡り、それは部屋を見回す行為でいつもいる筈の少女の姿を確かめる為だが、防具以外の道具は全て持っていったところを見るに、ギルドに行ったらしい。
今日はそう簡単には帰って来ないだろう……その上、話を聞けばこの部屋も借りてるだけとの事。
「ふむ」
化物は考える。
獣人少女がいなければ聞く事も出来ない。
それに粗方本にあった聞きたい事などは聞いてしまい、今は手持無沙汰となった。
日中は派手に動き回る事ができず、それはウォールからも釘を刺されている。
外を眺め、人間を観察するのは確かに飽きないが、これもまた彼もしくは彼女からすれば不思議な話で、人間は毎日同じ事を繰り返す。
けれど小さな窓枠から見れる世界など、所詮は広くない。
その理由を知りたければ行動を起こす、化物はそうやってウォールと出会ったのだから。
「言われてはいるが、見つからなければそう問題はないだろう」
一人呟く化物の声は、空気の入れ替え、だとかで開け放たれている窓から、吹いた風と喧噪に掻き消され、僅かに体の表面が揺れた。
化物らしい考えだ。
通りを不気味な眼球で注視し――――一瞬、人の往来が少なくなったと同時に、彼もしくは彼女は木へと飛び移った。
天が味方したかのように、一層強い盛夏を流れる涼風が木々を揺らし、青々とした木の葉を一枚落とす。
労働に勤しむ者、風に目を細める者、歩いていく住民はそれを気にしながらも相手はせず、足早に過ぎるのみ。
「折角だ。色々なところを見て回るか」
……小さな呟きは辺りの誰にも聞こえる事は無かったが――木へと飛び移った「何か」を目撃した少年は、居た。
悪ガキ、というのはどの村にも、町にもいるものだ。
もちろんこの辺境最大と言える田舎町にも、いる。
歳は十三から十四くらいだろうか、後一年、二年経てば立派な成人となる訳だが。
親から授かったその体躯は意外にも母親似。
町の中心から離れた、その昔町の守り木が祀られていた空き地に、集まった悪ガキ連中を束ねる少年は、今日も自身の事を棚に上げ、大人の文句を垂れ続けていた。
「ね、ねぇねぇ!!」
そんな彼らの日常の始まりに、空き地に転ぶ事も厭わず、足元が先日降った雨で柔くなっていようが構わないと言った少年が、文字通り転がり込んできた。
「……どうした?お前以外のおもちゃでもあったのか?」
折角心地良く語っていた最中、横やりが入れられ眉を顰める大柄な体躯の少年。
傍から見れば、転がり込んだ弱々しい体躯の少年は、蛇に睨まれた蛙のようなもの。
けれどこの時ばかりは余裕がなく、大柄な少年の言葉など意にも介さず、泥に塗れた体すら気にせず、回らぬ舌で叫ぶ。
「す、スラ……スライムが町っ町にいる!!」
「はあ?」
――それを聞いたその場の全員が口を開き、ただ呆れの言葉が漏れた。
確かに、ここの悪ガキ共も数日前に町の入り口にて、スライムが現れたという話は知っていた。他に入って来ている可能性もあるだろう。
だが秩序の外に存在する知能を持たぬ化物が、数日の間を空け、しかも町で騒ぎを起こさずにいるなどあり得ない話だ。
……最初こそ呆れ顔を浮かべ腕を組む少年だったが、目前の転がり込んだ少年の顔は青ざめ、体をその恐怖で振るわせている。
彼の尋常ではない狼狽え方がどうしようもなく事実である事を理解させるのに、そう時間はかからなかった。
彼は悪ガキであっても、他人が蔑んで良い程の無能ではない。
弱々しい少年の肩を掴むと無理矢理に立たせ、空き地に鎮座するかつての守り木の残骸へ座らさせた。
自身も躊躇わず残骸へ座り、その体躯で彼の目を覗き込むと高圧的な態度で問いかける。
「ちゃんと順通りに話せ」
恐怖に肩を震わす少年は、覗き込まれた目を即座に逸らすが、未だ呼吸は整えられておらず、激しく肩を上下させるが懐から三枚程光る硬貨を取り出した。
「き、君達に言われたと、通りに金貨を持ってこ、こようとしてて……大通りを歩いて、たんだ」
「それで?」
瞬間、持っていた金貨をカチカチと鳴らし、少年が酷く取り乱し泣き叫ぶ。
「ぎ、ギルドの横を、通ろうとしたら……き、木に何か――おかしな色をしたっ、何かが飛び乗ったんだよぉ……!!」
弱腰の少年はそのまま細腕で頭を抱え、すすり泣き始めた。
「……分かった、だが色々気になる事がある」
大柄な少年が腕を組み、深い思慮へ踏み入る。
暫し、空き地に少年のすすり泣きが聞こえるのみとなり、他の少年達もその沈黙の邪魔をしようとはしなかった。
……が、沈黙を破ったのは以外にも、その取り巻きの一人だった。
「一つ、聞きたいんだが……何故大人じゃなく、俺達に真っ先に伝えたんだ?」
その言葉は至極真っ当な質問だ。
大人、特にギルドの前を通ったのであれば、そのまま冒険者連中に伝え、調べてもらうのが一番だろう。
それが出来なかったとしても、大通りとなれば兵士の宿舎も近く、見回りも多くいた筈だ。
「それ、は……」
弱腰の少年が言葉に詰まり、はっ、とするが大柄な少年が首を振り、どうでも良さそうに答えた。
「子供一人の訴えなんてすぐに蹴られるだけだ。それよりも、だ」
思慮から脱し、新たに思いついた悪ガキならではの良案を、言葉として続ける。
「こいつが見かけたのが本当に蠢く者だとして、町で騒ぎが起きてるような様子も無い……って言う事は、化物なら俺達が力試しで戦ったところで大した事にはならねぇだろ」
取り巻く事しかできない数人が顔を上げ、歓喜の声を上げかけるが、先程まともな質問を投げかけた一人が制止するかの様に問うた。
「もし……化物じゃなければ?もし、蠢く者じゃなければ?」
「その時は――――」
乾かぬ湿った地面を照らす陽光は、命を抱き煌めく。
まるで童話の勇者になった様な大きな一歩を踏みしめ、もちろん、と言葉にし、その大柄な少年に獰猛そのままの笑みを浮かべさせた。
「それが、良い」
そんな事など一つも願っていない、勇者とは程遠いものだが。
彼らは弱腰の少年を強制的に立たせると無理矢理に大通りへと連れて行く。
住民達の反応は、そう大きなものではない。ただ呆れ顔で彼らを見ては、知らんぷりで通り過ぎていく。
何かをやらかせば、冒険者か兵士がどうにかしてくれる、そんな安心感からの判断だ。
所詮大人というのはその程度のものだ、と大柄な少年は薄情な大人を嘲笑う。
「ここだよ……」
彼が半泣きで指を差した場所は、窓が開け放たれたギルドの二階、主に家の無い冒険者達の宿となっている場所だった。
この部屋の住人は今は不在らしく、人の気配はない。
すると大柄な少年が問いかける。
「どの通りへ向かった?」
東西南北、通りの交差する場所だ。
騒がしい住民達の話し声、兵士の鎧と剣の収められた鞘がかちりとぶつかり合う音。
馬車を操る御者と何かやりとりをする荷台の冒険者風情の一行。
この町はあの交差する道から始まり、終わりを迎える。
国から派遣された兵士達の兵舎も近くに、冒険者達を束ねる、これもまた同じ、管理するギルドもあの交差近くにある。
そして人が多ければ様々な様相の店もあった。
元魔法使いによる魔法を使役した、果物を絞りそれを凍らせた氷菓子。
酪農を営んでいる牧場主が丹精込めて育てた豚の丸焼きや、少し癖は強いが羊肉を香草と焼いた出店。
一番大きなものとなれば、ギルド主催の野菜果物、農家が提供したそれぞれのものを毎日販売する大きな市場。
朝から晩までやっており、時折この町以外からも希少な食べ物が運び込まれることがある。
「あ、あっち……」
弱腰の少年は、震える手指を大通りの先へ、真っ直ぐ指差した。
記憶は定かではない。彼が立つその場所で見かけてからは恐怖で心が埋め尽くされた。
けれどその先は方角で言えば西、場所で言えば教会と一般的な民家が立ち並ぶ区域だ。
それを見据え、大柄な少年は口角をにやりと上げ、言った。
「全員、西の大通りの木を中心に探せ」
自身をまるで王様の様に据えた言葉は、しかし彼らの顰蹙を買う訳はなく、家臣の様に動き出させるのには、十分であった。
彼もしくは彼女は、自身が探されているなどとは露ほども思わず、悠々自適……とは言えないが悠々と木の上を空中散歩していた。
そして眼前に広がる景色に一匹納得をする。
「窓下に広がっていた人間の顔が、つまらなさそうだったのはそう言う事だったのか」
今、自身の無い胸中を染める気持ちは、清々しさ。
それもその筈、空の一部を覆う真白な雲は、太陽を求めている様にその腕を巨大化させ急激に伸ばし、地表を覆い、天に羽ばたいていた燕を急激に降下させる。
けれど全てに平等である太陽には決して近づけず、地表を夜にすることも出来ず、ただもがく夏雲とそれを嘲る差し込まれた陽光が言葉を失わせるほど美しかったからだ。
ただ毎日窓を眺めていた時はなんとも言えない気持ちであったが、今はそれに当てはまる言葉がある。
それならば納得なのだ、同じ事を繰り返し、人間があれだけつまらなさそうにしていたのは、先程まで自分と同じだったという事が。
ならば何故それをやるのかは、未だ謎ではあったが。
「ふむ」
ふと、彼は歩みを止めた。
木から木へ移動をしながらも、彼もしくは彼女の無い聴覚に興味を引く音が聞こえたからだ。
「いってきまーす!!」
スライムが乗る木のすぐ傍らにある、他となんら変わらぬ煉瓦造りの平屋からだ。
「わたしもー!!」
木造の扉を鈍い音を鳴らし勢いよく開け、出てきたのは兄妹と思われる二人の子供。
兄と思われる男の子が走り抜け、それを追う様に一回り小さい女の子が駆けていく。
「お昼には帰ってきなさいよ!」
少し後に、腰に手を当て少し肉付きの良い女性が出て来た、女性は苦笑交じりながらもどこか嬉しそうに二人を見送っている。
母親か……スライムは思う。
誰かに見送られるなど、あの森の中に留まっていれば見る事も無い。
彼らはもしかしたら幸せなのかもしれない――――と不意に無い胸中に温かいものが流れ込んだ。
不思議な事に、今までのスライムとは違い、ただその光景を口を噤み、見つめていた。
どこか寂し気で、どこか羨ましがる様に暫しの間。
やがて、スライムが眼球を一巡り、気付いた時には既にその平屋の扉は閉じられ、母親らしき女性もいなければ二人の子供も既に眼に届く範囲にはいない。
「……行くか」
再び木から木へと飛び移る空中散歩を再開し、天空のに座する秩序の光を水のような体に浴び、その中心に漂う眼球で周囲を注視する。
太陽光で照らされるのは彼だけではなく、町の中心とまでは行かないが、この物静かな一見規則正しく建てられた居住区も秩序に包まれている。
通りの少し先へ眼を遣れば町の入り口のその先は、豊かで、長閑で、どこか過ぎる時間が止まった様に見える田園風景が広がっているが、空を動く夏雲に遮られ、風に過ぎ行く影が確かな流れを感じさせる。
そして町中に生えた木も、兵士の立つ入り口を境に、外にある田園風景から続く街道に木は一本も生えていなかった。
「ここは……私が見つかった場所だったか」
見覚えのある風景と見覚えのある兵士の顔。
町の入り口を守る筈の兵士は、眠気眼を擦り、欠伸をしていた……どうやらあの時、彼もしくは彼女を退治した兵士の様だった。
「さて、見れるものは見れた。帰るとしよう」
スライムが、勢いよく戻り道の木々へ飛んだ時、至極当然、風が吹いている訳でもなかったのに、大きく木の葉が揺れ動いた。
流石の兵士もそれを見逃せる訳がなく、佩いた剣の柄へ手を触れ「なんだ……?」と呟き一歩一歩慎重に近づき始めた。
もちろん眼球で様子を窺っていた化物も、それ以上動こうとはしなかったが、下から覗かれればその姿を見られてしまう。
思考が、とてつもない速さでこの場を凌ぐ案を出していくが、どれも天上の神へ祈るしか出来ない芸当だ。彼は頭を振る様に眼球を左右へ動かした。
――――その時だ。
「外にくらい出せよー!!」
あの大柄な少年と弱腰の少年を除いた町の悪ガキ達が、拾った木の枝を化物が隠れた木や、その反対側にあった木へ投げ込みながら、兵士への不満を高らかに叫んでいたところだった。
「外にくらい出させろって!!どうせ化物なんていない!!」
柄に触れていた手を離し、そう喚く少年達に、兵士は大きな溜息を吐いた。
外なる生物を直視した事も無く、ただ安全な場所で生きてきた者達は、随分と勝手な事を言う。
兵士一人一人の苦悩など彼らは知ったことでは無いんだろうが――死ぬのは我々だ。
「この悪ガキ共が」
彼は吐き捨てる様に言うと、その悪ガキ共を捕まえる為に、彼らへゆっくりとした歩みで近付き始めた。
「逃げろ!」
……途端、少年達は蜘蛛の子を散らすように四方へ走り出す。
一人一人、捕まらない様に。
それを見た兵士は本来の仕事を、すっかりと忘れ去り、走り出していた。
「助かったか……」
化物は、木の上で安堵の声を上げ、ほう、体を撫でおろす。
運が良かった、その一言に尽きた。
決して獣人少女との約束を反故にするつもりは無かったが、もう少し考えを改めた方が良さそうだ。
大した問題にもならず、あの少年達には感謝しか出来ない。
「今度こそ帰らねば」
その言葉は誰かに聞こえる程、大きなものではなかった。
なんだったらあまりにも小さい、鳥の羽ばたきにすら掻き消される程。
……一瞬、太陽が雲に遮られた。
地表へ大きな雲影が浮かび、僅かに視界が薄暗く、同時に上空では風の精が風を纏い、踊り狂う。
流れる雲間から差し込まれた秩序の光は、突き刺す様に辺りを白く染め上げた。
彼もしくは彼女がいる木々の、いや木の葉の合間からは更に糸の様に光がするりと入り込む。
そしてスライムは気付いた。
僅かに空いた葉の隙間の先に、少年が二人立っている事に。
不思議な事ではない。
ここは人間が作り上げた町、子供ならいよう、大人もいよう、だが化物の目に留まった二人の少年は、間違いなく此方を見据えている。
一人は怯え、もう片方に縋り付いている。
「……ふむ」
もし襲われたとて、脅威にはならない、と化物は判断する。
問題はその片方だった。
右手には使い古された果物ナイフ、左手には中程の棒切れ。
そして彼の表情――――それは間違いなく敵意を持った眼差しに、覚悟を決めた笑みを、額に一筋の汗を流し、浮かべている。
隠れている事自体、意味がない――化物はそう判断すると木の枝と青々とした葉を押し退け、彼らの目前に、その体を秩序の下へと晒した。
毒々しい色をした半透明な球体で、風に撫でられれば水面の様に震え、その中心を漂う人の右目とも左目とも判別のつかない眼球が浮かぶ――正気を擦り減らす醜悪な、その姿を。
「言う前に出て来るとは、中々頭が良い」
大柄な少年の口調は強がっているが、微かに震える両手に隠せない恐怖が現れている。
しかし気圧される事無く、握られた武器を、勇ましく構えた。
ただどちらも化物へ向けただけのお粗末なものではあったが。
「ううむ」
だが……化物は唸った。
武器を持った者に対しての恐怖、ではない。
それならばウォールの一撃一撃の方が速く、重い。
そうではなく、この場をどう凌ぐか、だ。
攻撃は――憎悪が無ければできず、そもそも人間と敵対する気の無い彼もしくは彼女からすれば、以ての外。
ならば自身の自我を、授かったこの知能を駆使する他無い。
「俺から行くぞッ!!」
――――動かぬ化物に、先に動いたのは言うまでもない。
大柄な体躯からはあまり想像の出来ない速さで少年は駆けた。
湿った土を巻き上げ、それ程距離の無い間合いを詰めると上段へ構えた棒切れを振るう。
大人からすればまだまだだろうが、思考の中に身を置いていたスライムからすれば、それは致命傷たる隙だったろう。
「おおぉッ」
……自身を鼓舞する咆哮に、半ば捉えかけた化物の眼球。
内心で歓喜の声を上げるが……この化物が、ただのスライムであれば、核となる眼球は棒切れに叩き潰され、少年を冒険者としての道へ歩ませていたかもしれないが……そうはならなかった。
化物の体を分断させ、その水面の様な体を弾くと水音を鳴らし、辺りへ飛び散らすだけとなる。
眼球の僅か手前を通り過ぎ、だが少年は驚愕も、歓喜もしない。
そして無我夢中で横に薙いだ刃は短く、届かない。
今一度、振り上げた棒切れが、スライムを叩くが、誤った目測はそこにあった小さな花を叩き潰し、地面を軽く抉るだけ。
「さっさと死ねッ!」
大きく悪態をつきながら、笛に似た音をその先端から鳴らし空を切った。
半円の軌跡を宙に描き、ぶっきらぼうに振るわれる棒切れ。
それは彼の体を叩くのみ、水面を揺らすだけの、無意味な一撃だ。
「逃げる――」
飛び散った体液は一定の距離を離れると、出来損ないの泡ぶく音を残し蒸発していく。
彼もしくは彼女の無い口から出たその言葉は、少年に悟られないほど微かだが、その先が紡がれる事は無かった。
逃げる、と言えども選択肢は限られているからだ。
もう一人の少年を守る様に立つ少年は、地面を蹴り上げ、攻撃を行う。
だがそれもことごとく、致命傷には至らない……それどころか、少年は息が上がり、徐々に苦しくなっているのがわかっていた。
強い――けれど攻撃されない事に、僅かに疑問に思う。
――――思考の中、不意に、凛とした声が辺りに響いた。
「退いて」
その声の主は、地に響く鈍い音と共にその姿を現した。
化物を……文字通りにぺしゃんこにさせる、人間と同じほどの大きさの大鎚を持った、少年達も知っていて、スライムからすれば良く知っている人物。
……ウォールだ。
相変わらず両刃の剣を携えながら、彼女が、その大鎚を再び構え、化物の目前に立ち塞がった。
軽々とした様子のそれは、まるで鉄製には見えないが、地面を大きく揺らし、抉りかけたその威力は、疑いようもない。
「す、スライム退治の姉ちゃん!?」
声を上げたのは棒切れを持った大柄な少年。
それほど広くはないが、狭くもないこの町で、スライムを倒し続けている冒険者がいるとなれば、誰もが好奇な目で見るだろう。
それが、獣人族となれば尚更だ。
「随分と不名誉な呼ばれ方をしてるのね……何を考えてそんな物を持ち出してきたのか、まあそんな事はいい、早く逃げなさい」
横目に見やった少年の棒切れとナイフに、多少なりとも複雑な気持ちになるが、呆れた顔で促す。
堂々としたその姿は、非力な少年からすれば御伽噺の勇者だろう。
大柄な少年が、何かを言いかけたが……やがて自身の非力さを認め、何かを呟いた。
「姉ちゃん……よ、よし助け……呼ぶぞ……」
怯えた少年に肩を貸し、町の中心へと向かう二人……それをウォールは見送っている様で、沈黙が流れた。気まずい沈黙だ。
「仕事は、終わったのか?」
しわがれた、奇妙な声。
安堵も含まれている様にも聞こえる。
だがその返答は、大きな土埃と轟音だった。
西へ傾き、地平線を徐々に朱に染め始めた空、かつて見た寂し気な情景の中……スライムは驚いた様子もなく、今し方自身が居た場所から亀裂が走り、巨大な鉄の塊が居座るその場所へ、眼球を向けていた。
同時に舞った砂埃の先、明らかな敵意を此方へ見せる少女の瞳を見据えながら。
言葉など必要ないだろうが……少女は一つ、決別する為、言葉を放つ。
「私は貴方の敵、貴方は私の敵……わかるでしょ?」
軽々と振り上げられた大鎚が、秩序を讃える様に天を仰ぐ。
「それ、なら私を倒せると?」
「どうでしょうね、でもやらないよりかはマシじゃない?」
確かな覚悟を秘めた少女の瞳が、化物を見る。
「なら試してみるといい……殺せるのであればその時は大人しく死のう」
一瞬風が、二人を、その間を、吹き抜けていく。
それ以降、二人は動かない。
無駄な会話もせず、ただお互いの眼球を見つめ合う。
その様子は何かを、待っている様だった。
片方は知能を持った化物、片方は並外れた身体能力を持つ獣人だ。
その上で一度は戦った者同士――――お互いの手は知り尽くされている筈で、だからこそどちらも下手に動く事が出来ない。
――すると、どこから飛ばされて来たのか、一枚の青々とした葉っぱが風に巻かれ、二人の頭上を漂う。
やがて……葉っぱは、何かの引力に寄せられ、二人の、二人が向き合うその中心を舞った。
二人の視線が重なり合うそこに、お互いの姿を隠す様に――――
それはウォールのかつての記憶。
御伽噺として語られた、勇者と共に魔神を退け、無秩序を裏切った英雄の、お話。
誰が書いたのか、子供の落書きの様に綴られた絵と随分と難しい事が書かれた文章。
同じ年頃の獣人は、そんなものに興味を抱くこともなく、お見合いをさせられ、ひたすら花嫁修業をしていた。
けれど少女はその物語が好きだった。
町を支配し、住民を奴隷にして働かせる異形の者。
ただ破壊を繰り返す魔神の忠実な僕。
女性を手籠め、酒池肉林、絢爛豪華を謳歌する私欲に塗れた化物。
そして、その全ての元凶である、魔神。
英雄譚と言うに相応しいそれらを読むことを、少女の、村の長である父も、母もそれを許してくれていた。
思い出されるのは、冒険者になるんだ、と言った時の父母の顔。
二人はあくまで村の長とその配偶者、村の伝統を反故にできない立場であったからか……微かに涙を浮かべていた。
その十数年後、大人と認められた日がやってきた。
村の長の娘、ということもあり求婚者は多かった。
村一番の怪力、村一番の秀才、村一番の美男。
そこで結婚してれば、少女は豊かな籠の中でゆったりと死んでいっただろう。
全てを断ったウォールは、両親へ冒険者になることを告げた。
両親は反対はしなかったが、優しくウォールへと言葉をかける。
「お前がそうしたいならそうしなさい。けれど、ここに戻ってくるならそれ相応の貢献をして認められないといけない」
「私達は何もできないけど、応援だけはしてるからね」
優しい、両親の言葉。
そしていよいよ生まれ育った村を出る、その直前に一人の獣人少女が彼女に声をかけてきた。
長の娘である事が子供の頃から気に食わなかったらしい、意地悪な少女。
しかしその時ばかりは彼女もしおらしかった。
「その、昔はごめんね……昔から自由だった貴女が憎かったの……いつもいつも花嫁修業ばかりして遊べなかったから……」
彼女は意を決した様に言葉を続けた。
「私も……私も冒険者になりたかった……」
俯いていた顔を上げ、真っすぐにウォールへ瞳を向ける。
「どうか、私達でも自由な選択ができる様にしてください」
ふと頭の中を走馬灯の様に駆け巡った、いつかの記憶。
大仰な荷物を持ち、仲の悪かった少女だけの見送り。
その後に思い知った同族からの眼差し。
全てが懐かしく、どこかその記憶を遠くから眺めてる気がした。
「……ッ!!」
それらの感傷を奪い去り、意識が現実へと戻される。
腕に渾身の力を込め、グラジオラスの花を思い浮かべ、無音でありながら、自身を鼓舞する声を上げる。
獣人にのみ許されたその身体能力は、ただの一歩を十歩へと昇華させる。
――葉が退く頃には既に間合いはウォールのものとなる。
音が、重く、響く。
地を割り、周囲の大気すら震わせ、遠くの木々で羽を休めていた鳥達すら逃げ惑う、その一撃。
けれど、微かに伝う感触に勝利はなかった。
「あああああああああぁぁぁぁぁ」
再び持ち上げた大鎚、砂埃を巻き上げ纏い、土色の軌跡を描く。
ほぼ山勘の二撃目は、収まった土煙の中で、なんと惜しい事にスライムの真横を叩きつけていた。
しかしそこに化物がいる事に変わりはない。
「一つ言っておこう。私はウォール、お前を攻撃するつもりはない」
随分となめられたものだ、とウォールは思う。
何故ならば、彼女は未だ本気を出していない。
この化物と出会った、あの日ですら。
「喋ってないで避ける事に専念なさい」
大きな地鳴りと舞う砂埃。
やはりスライムには当たらない、が傾き始めた太陽光に砂煙の中できらりと何かが光を反射する。
音と共に、彼もしくは彼女の眼球を狙った何かが通過した。
スッ、と二つに分かれた揺れる水面の様な半透明な体。
だがそれが蒸発する事はなく、眼球が無事である事を示す。
数秒の後、晴れた砂煙の中でウォールは両刃の剣を右手に、左手に大鎚を持ち、此方を見据えていた。
「ふっ」
その姿すら、吐いた吐息すら置いていき、少女は肉薄する。
戦闘慣れした人間でなければその刹那とも言える攻撃は避ける事も不可能だろう。
左手の大鎚が巻き上げる砂煙。
その中から放たれる不可視の斬撃。
一度両刃の剣が振るわれれば、彼女の速さに砂煙が煽られる。
生来の吊り気味の目尻を強く吊り上げ、少女は化物の目前へその身を投じ続けた――――
幾度助けを求めただろう。
冒険者のなり方がわからず、街道を通り過ぎる冒険者らしき同族へ話を聞くも、答えは無反応。
明らかに疎まれていたのがウォール自身も感じ取れた。
目つきも穏やかだったものが、彼女を見た瞬間に険しいものへと変わる。
そこで初めて、少女の故意ではないが、故郷でどれだけ父の長という立場が自分を守っていたのかを痛感する。
それ以上に悪い状況と言えば、今にでも襲われそうになる事もあった。
……獣人少女が途方に暮れるのも、時間の問題であった。
助けをくれぬ同族、人間は獣人の女という事もあってか『しょうふ』という職業は良く紹介をしてくれたが、答えに冒険者になりたいと言うと離れていく、なんとも冷たかった。
そうやって街道を進み、狩りを行い、火を焚き、草の上で寝る。寝心地など良い訳が無い。
何度か数人の盗賊、いくつかのスライムに襲われる事はあったが、なんとか防ぎ、気持ちが一杯一杯になりながらも今いる町へと辿り着いた。
擦れ違う同族達からは変わらず睨まれる事が多かったが、既にその時には慣れ、冒険者になる事しか考えていなかった。
町の中心、故郷では考えられないほど大きな家、どうやら石を積み上げ作られている様で、とても頑丈であった。
扉も剣などに使われる鉄で補強がされた木製のものが多い。
だがそれらで彼女が特に驚いたのは、人の多さだ。
簡易的な家の様なものを作り、そこで売られている様々な物品、そこに並ぶ無数の人々と多くの馬車が行き交う十字路。
路肩を歩く人間も、この中心へ向かう程に多くなり、永遠と人が湧き続ける泉でもあるのではないかと疑うほど。
そしてその中心街のある一角に聳え立つ大きな建物の一つに、いかにも、な冒険者風情が入っていくのが見えた。
それも一組二組ではない。何十と入っていく。
その冒険者達が喋る話も耳を澄ませば、東の遺跡に行った、西の村を襲ったゴブリン退治、巨大な石造ゴーレムを倒した、というものばかり。
目を輝かせ、中に入ろうと人混みの先へ足を進めようとするが……人の壁に押し返されてしまう。
幾度強引に進もうとしても、掲示板に貼られた依頼書、その前に立つ数人の受付嬢の前に集まる屈強な冒険者に阻まれる。
荷物を地面に置き、どうしようか、思案していると同じく人の壁に挑んだ少年と少女が、やはり壁の厚さに断念していたところだった。
「やっぱりだめかぁ」
「人がいなくなってからにしましょうよ」
先走り気味の少年戦士を、落ち着かせようと呆れ顔の見習い魔女が言う。
「時間ずらせばよかったなぁ」
「手続きするには早すぎたの」
そんな事を言いながら二人は近場の地面に座り込み、真新しい装備の点検を始めた。
まあ、点検と言っても一度も使われていない装備だ、点検などあまり意味は為さないだろう。
少女も同じように大量の荷物を置き、地面へ座り込んだ。
暫く、人混みを見つめ、依頼を受注し冒険に出かける冒険者達、恐らくギルドと呼ばれる場所であろうその建物へ、向かい側の通路の邪魔にならない隅に座っていた少年少女とほぼ同時に、意図せず立ち上がった。
声をかけようにも勇気が出ず、ウォールは周囲を見回し、先に行くように暗に促すが、二人の見習いは獣人族自体初めてか、恐る恐る、と言った感じで此方に近づいてくる。。
「えっと、先に並んで、ましたよね?ど、どうぞ」
ちらちらとウォールの狼耳、ふさふさとした尻尾に視線が泳ぐ見習い戦士だが、それに気付いた隣の彼女の杖に小突かれ「いてっ」と額を押さえた。
「失礼でしょ!あ、先に行ってもらって大丈夫です、こいつには私に方から言っておきますからっ!」
「えっと私の事は気にしなくても」
と見習い魔女を止めようとするものの、声は届かず隣の少年戦士の頬を、耳を力一杯に引っ張り「失礼でしょうが」や「冒険者ならそういう目で見るんじゃない」と叱られ始めた。
しかも少年戦士がこっちを向いて謝り始まるものだから、徐々に申し訳なさが溢れてくる。
額に手をやり、止める方法はないかと模索するが……
思考する前に二人の動きが止まった。
「二人とも、あまり大きく騒いじゃダメです。今日は喧嘩をしに来たのではなく、冒険者になりに来たのでしょう」
恭しく、美しく……憎々しい事に豊満な胸部を持つ一人の女性が、いつの間にか立っていた。
二人の喧嘩、というよりかは見習い魔女からの一方的なお叱り。
ゆったりだが優しく確かな力強さを感じる、先程掲示板の前にいた受付嬢の言葉に、自身が胸部を押し潰す様に密着していた事に気づく見習い魔女は、顔を急激に赤くさせる。
「いてて、手加減くらいしてくれよぉ……ってどうかした?」
解放された少年戦士は頬と耳を擦りながら、両手に杖を持ちそれを盾にした状態で顔を隠す見習い魔女の姿に、唐突すぎてついていけていない。
耳まで真っ赤にさせた魔女に、困惑する戦士は魔女へ近づき、何かやってしまったのかと必死に謝っているが、いつもの相棒とは違う上擦った声、様子にお手上げ状態だ。
――そんな二人の新人冒険者を、傍から見て分かる二人の関係に、まるで甘味を食す幸福感に包まれた笑みを浮かべる、あらゆるところが豊満な受付嬢。
黒髪を揺らし、胸部を揺らし、まるで貴族のご息女の様だ。
ウォールは人間の階級などに興味は無いが、それでも興味なきものへ幻想を掻き抱かせる程に美しく、ぱちりと開かれた目は、理性が無ければ右手にしまい込みたいと狂気すら願わせる。
「……」
暫しの間の沈黙、見目麗しい手折る事など許されない彼女の容姿に視線が外せず、結局それに気づいた受付嬢に言葉をかけられるまでそのままだった。
「うん?あら、旅の方ですか?それとも冒険者志望の方でしょうか?」