第二話
緑に戻りつつあった廃道を抜けると、気づけば纏わりつく嫌な湿気はすっかりと消え去っていた。
亡者の声に似た風が恨めしそうに吹き抜ける事もなく、肌を撫でた風は心地の良いものになっている。
太陽からは日光が降り注ぎ、じんわりとだが歩けば汗を掻く。
「随分と急いでいるが」
佩いた剣をかちかちと鳴らし、獣人少女は――ウォールは足早に歩いていた。
彼女の様子に、疲れなど無いのか息を切らせる事もなく、ぴったりと歩行に合わせて喋りかけるスライムは、前方へ飛び跳ねて進む。
その度に、聞き慣れた這いずり音に少女の体は臨戦態勢に入るが、頭がその都度否定する。
「……慣れないの」
眉を顰め、僅かに痛む頭を振り払い、酷く疲れたように答えた。
確かにその言葉は本意だが、微かに痛む頭の原因は別にあった。
「ふむ、それだけではなさそうに見えるがね」
「……」
――喋るスライム、外なる生物、輪廻を破壊する者。
呼び名などは彼女にとってどうでもいい事だ。
彼女の頭痛の種、第一はこのスライム自体の存在……二つ目が最も大きく、唯一神の加護がある領域にて表裏理由はあれど、少女は外なる生物を連れて来てしまっている事。
稀に種族が人間である者でも、外なる神々の加護を受けてしまい、彼方側へ寝返る事があるが……これはまるで、獣人少女が堕ちた様に見える。
すれ違う冒険者や行商人、兵士であれ行き交う人物達にあらぬ疑いを掛けられかねない。
今は人の気配も無いが、町近くとなれば人通りが多くなる。
ふと、少女はしかめっ面のまま立ち止まると背後で飛び跳ね、這いずるスライムへ釘を刺した。
「誰か来たら隠れてよ」
「なぜ?」
「……貴方は外なる生物でしょう。外なる神々の下僕」
スライムは数秒黙り込むと、何かに気づき納得したのか、頷いた気がした。
「あれか、だから私を倒そうとしていたのか」
そして他の同胞達も――とどこか寂しげに言う。
心を刺激するもやもやとした何か。
罪悪感、ではない、そう思いたい。
同情か……いや信じてるものを裏切っている背徳感に近いのかもしれない。
けれど輪廻を壊そうとしてくるこいつらが悪いんだ――と獣人少女は拳を淡く握り、その柔らかな思いを握ると、まっすぐに歩き続ける。
「私は知りたい」
変わらず抑揚の無い声が、不意に放たれた。
少女は小さく問う「なにを」と。
「あの壊れ、人の居なくなった廃村でも言ったが、我々が何故一方を憎しみ、一方的な殺しを行うのか」
彼、もしくは彼女は続ける。
「不思議だとは思わないかね?人間や動物は自分を守る為に逃げるか相手を殺す。だが我々外なる生物は、何故憎悪の炎だけを燻らせ君達の生を脅かすのか」
「それは……貴方がよく分かってるんじゃないの?」
少女はその言葉を聞き、疑問に思っていた事を問いかける。
彼は、彼女は外なる生物であり、そんなことは分かっている筈だ。
それは突き放す問いかけで、まるで真冬の水のように冷たい。
「……気づけば憎悪に蝕まれていた。同胞に聞こうが答えは返って来ない」
少女は答えない。
それでも尚、このスライムの言葉に、良心という名の、同情なのか背徳感なのか、似た何かが浮かぶ。
少女はそれら全ての感情を再び押し殺し、片隅へ追いやると、冷たく一言だけ答えた。
「町に行けば、なにかあるかもね」
はたして少女一人と最弱の化物一匹、無事に町へ辿り着けたかどうか。
答えは簡単、辿り着けた。
少女は裏切り者として処刑されることも無ければ、最弱の化物が退治されることも無かった。
――ただ「待ってて」と言われ先に行ってしまった獣人少女のことを、朱と金が織り交ざった空の下、町の四つある内一つの入口で待っていたところ、巡回に来ていた兵士にスライムは見つかってしまった。
町はさあ大騒ぎ、華やかな喧噪が怒号へと変わり、ギルドにいた冒険者達と町防衛の為に駐在している兵士達が武器を持ち、大集合。
「なんだスライム一匹か」
誰もがこのスライム一匹に関し、目の当たりにした時点で表情に嘲笑が浮かんでいた。
真っ先に彼、もしくは彼女を見つけた兵士は先輩兵士に嫌味を言われ、渋々とその兵士が前へ出て剣を握り、構えた。
そこら辺の冒険者の数倍は良い装備に身を包み、毎日の訓練によって鍛え上げられた腕が持つ一振りの両刃の剣。
使い古されてはいるが、錆や欠け一つ無い。
「……一匹だろうと容赦は出来ん」
彼もしくは彼女を見つけた兵士は、中程に構えられた剣の切先を向け、一歩二歩と近づき、振るう。
言葉通りの容赦無き一撃、神の代替たる一撃は……目前のヘドロ状の化物の核、その横を通り過ぎていく――その場にいた誰にも分からぬ避け方だ。
一見斬られ、退治された様に見えるが、核を纏うヘドロ状の液体は草むらへ飛び込み、まるで会心の一撃かの様にも魅せ、その場に残った核を失った身体は蒸発し、消えていく。
本当に退治されたかの様に。
「……良かった」
一連の騒動を、様々な種族の入り混じる人込みの後ろで見ていた獣人少女は、誰にも気付かれぬ小さな溜息を吐いた。
同時に、どこかこれで良かったのか、と問うてくる声があるが、こればかりはしょうがない。
勝手に兵士に見つかり、勝手に退治された。
たったそれだけの事だ。
情報提供なども出来ず、報酬も得られなかったが。
あの場面で自分が出て行ったところで裏切り者として処刑されるか、男の慰み者として一生を終えるかのどちらかの可能性が高い――彼女は抜いていた剣を再び腰の鞘へ差し、騒ぎの中心から離れ始める。
「……」
重い足取りに、イライラと募る小さな怒り、口を出るのは溜息ばかり。
夕焼けに染まっていた空は徐々に漆黒の帳が落ち始め、彼女の暗く煮える気持ちを反映させているかのようだ。
通りを歩き、過ぎ行く町民達は小さなランタンを手に足元を照らす。
――――今日は随分不思議な事が起きた。
喋るスライムと出会い、剰え秩序の下へ手引きしてしまった。それが奴を倒す為とは言えだ。
この事は……墓場まで持って行こう、彼女がそう決め、とある煉瓦造りの住宅の傍に生えた木に差し掛かると……
「おい、ウォール」
「なによ」
誰かに、呼び止められた。
聞き覚えのある抑揚の無い声。
後ろを振り返り、今は不機嫌であることを言葉と感情に最大限押し出した返答。
「あれ……?」
背後ではない、周囲にも誰もいない。居ても談笑をする若い男女や先程の騒ぎから帰って来ている冒険者や兵士達の、細やかな楽しみを語る姿と声。
ふっ、と傍らにある木の枝葉を揺れ動かし吹く風。
昼間の暑さが嘘のような、夜闇の冷気が既に町を包む。
肌は冷え、ぶるっと体が震え――――
「ここだ。木の上にいる」
小さく抑揚の無い声が自身の周囲ではなく頭上から聞こえている事に気付いた。
冷気と相まって背筋が凍る感触と、嫌な汗が服を張りつかせる。
「うぇっ」
――――そこにいた、先程一刀両断された筈の、喋るスライムだ。
器用な事に、細枝の、しかも風で揺れ動く中を一緒に揺れながら。
暗闇に包まれつつある最中でもその姿ははっきりと見える。
葉に身を隠し、下から見上げない限りは決して見つからない。
「そこまで驚く事か?私はお前の隼の如く剣技を全て避けたんだぞ」
どこか得意気なスライムだが、変な声を出し、注目を集めた獣人少女は咳払いをし、その場で下手な口笛を鳴らすと木の幹へ凭れた。
姿は夜闇ではっきりは見えないが、わざわざ奴の輪郭を認める必要もない。
「……下手、だな」
「うっさい……!!」
「まあそんな事はどうでもいい。多少の危険はあったがこれで静かに町へ侵入する事が出来た訳だ」
どうやって声を小さくしているのかはわからないが、彼もしくは彼女は獣人少女にだけ聞こえる様にそう言った。
そこで獣人少女は考える……というよりも頭を抱えた。
退治されていればそこで終わりだったが、生きて再び出会った。
少しでも同情をした事を後悔し……その上に秩序の内側へ招き入れてしまい、それどころか化物の要求を呑もうとすらしている。
「あ……」
しかし、少女は思い出す、冒険者になった理由を、憧れた御伽噺を。
同時に奴が生きてさえいれば、私にも十分に機会がある事を。
国からの名誉と富、想像するだけで獣人少女の頬は緩みそうになるが、それを否定する者が自分の中にいる事も認めている――――
「どうした」
遥か東方に存在する、角を持ち、怪力で暴れ回る『鬼』の様な形相をして考えていると、それを訝る外なる生物。
「……気にしないで、明日朝になったらこの町の中心にある教会に行ってみなさい」
スライムはきょとんとした様子で此方へ眼球を向ける。
「あんたの求める物やらがある筈だから……ただ見つからないようにね」
その言葉に、スライムは少し嬉しそうに頷き、夜目が効くのか教会のある方向へ不気味な眼球を動かし、気持ちの悪いことに体を嬉し気に震わせた。
「それやめて……」
夜闇による冷え以上に背筋がぞっとする動きに思わず本音が出てしまうが、特別誤魔化そうともせずに続ける。
「じゃ、私はギルドでやる事あるから」
凭れ掛かっていた木から離れ、何もなかったと装い歩き出す。
「何かわからない事があれば聞きに行く」
「……ん」
来るな、と言いたいところだが、誰かにバレでもしたら面倒な事になりかねない。
獣人少女は返事とも言えない声を出すと、後ろ手に手を挙げ、その場を後にした。
兵士や冒険者達が歩いて行く雑踏の中へ姿を、消して。
「あ、ウォール様お待ちしてました」
数年前、冒険者になる為ギルドへと訪れた事を思い出しながら、その大きな扉を押し開けると、すぐ横にある受付カウンターから、既に外も暗闇に包まれているというのに元気の良い声がかけられた。
薄暗闇、蝋燭か蝋燭の入ったランタンしか明かりが無い中での声の主……気品溢れるお嬢様と言った女性が、恭しく頭を下げている。
声の元へ視線を向ける。
蝋燭に照らされる黒髪は艶やかで、怪しさを醸し出しているが、上げた顔の造形もそこら辺の町娘では到底敵わず、切れ長の目と黒真珠の様に美しい瞳が魅力を引き立て、笑顔が少女らしさを垣間見せる。
後ろに結われ、瑞々しく健康的な白さの首元が露になっているのも、同じ女である獣人少女の心を、会う度に僅かに折っていくのには充分な攻撃力を有していた。
「……受付、さん」
だが今日に限ってはその見慣れ、羨ましい姿が、あまりにも焦がれるほど恋しかった。
受付嬢を呼び、獣人少女は木で作られたカウンターの先、女性としての豊満な胸部へ飛び込むように抱き着いた。
「ユウですよ……今日は随分とお疲れみたいですね」
ここに来た時からほぼ専属で事務仕事を行ってくれる、ユウ。
その彼女達の様子に隣の金髪の受付嬢はやれやれと首を振っている。
腰を曲げ、無理な態勢で抱き着いているが、ユウは驚く事もなく、それを受け入れてくれた。
ふわりと漂う、一日そこで働いていたと思えないココナッツの様な甘い香り。
そして顔一杯に伝わる柔らかな感触が、彼女の頭を悩ませた今日の出来事全てを忘れさせてくれる――――受付嬢のユウは、目を細めてまるで子供をあやす母親のように抱き着く彼女の頭へ、手を乗せた。
「ふふ、貴女の境遇はここでは私が一番知ってますから」
……顔に伝わる幸せと、耳に届く受付嬢の艶めかしい囁き声、その上に獣人少女を労う優しい言葉。
いっそ自分自身の事なぞ全てを忘れ、投げ捨て、彼女の下に娘か嫁か婿にでも……とそんな外なる神の下僕が、心の中に現れ始めるものの……
けれど、それを良しとしない理性が、その一歩手前で阻む。
「ありがと……これでまた明日も頑張れそう」
「いえいえ、冒険者の方々の心のケアというのも、我々の仕事ですので」
一時の掴み掛けた幸せから、現実へと戻る為に獣人少女のウォールは、作り笑いながらも完璧な笑顔を見せる受付嬢へと視線を合わせた。
「報告なんだけど、これでいいよね?」
雑嚢から取り出された小さな皮袋をカウンターへ置く。
「ええ、では計算しますのでお待ちください」
布の手袋を両手にはめ、インクの入った容器にペンを差し込むと左手でスライムの核――真っ二つにされた眼球の数を数え、手元に置かれた紙へ右手に持たれたペンで文字をサラサラと書き連ねていく。
「……」
文字を書けるユウに、最初は一喜一憂の反応を示していたウォールも、流石に今では慣れてしまった。
視線を動かし、ユウからカウンターの奥、隣にいる別の受付嬢、そこから左へ視線を更に動かし冒険者達の喧噪が聞こえる階段を上ったその先。
この辺境の町最大の酒場だ。
蝋燭の灯しかないというのに、冒険から帰って来たごろつき達の言い合いや時に聞こえてくる怒号と鈍い物音が、まさに冒険者を表している。
「まーた誰か騒いでるの?」
多少無理な体勢ではあるが、二階の酒場へ視線を向けたままの彼女は、右肘をカウンターへ立てると、少し荒れた頬へ杖をつき、飽きれた様子でユウへ問いかけた。
「いつもの事です、それに命のやり取りをしているのですから好きにさせてあげないといけません」
……どうやら受付嬢のユウには、ごろつき共が多少なりとも魅力的に見えてるらしく、作り物では無い、くすりと本当の笑みを浮かべ答えた。
「ふーん、好きなんだ?」と獣人少女は不思議そうに続ける。
「そうですね。私達のように縛られず、自由奔放な生き方で、憧れ――なんですかね」
それまで動き続けていた手を止め、受付嬢はどこか寂し気に言った。
まるで自分自身の境遇を憎んでいるように。
「……でも、そんないいものじゃないわ」
ウォールは、彼女の羨ましがる理由が、半ばここに来た時の自分と重なり、歯切れの悪い返答しかできなかった。
暗闇に訪れる暫しの沈黙。
蝋燭の火が揺らめき、手を止めていた受付嬢はやがて作業へ戻った。
再びペンをインクの容器へと差し込み、文字をサラサラと書き留めていく。
だが獣人少女は――これだけは伝えようと沈黙を破り、言葉にした。
「……いいものじゃないけど、今日は冒険者になってやっとのチャンスに出会えたの」
「それはまさか、故郷の皆さんを……?」
「そのまさかよ。見返せる、やっとあいつらに私が一人前だと認めさせる事ができるのよっ」
力強く頷き嬉しそうに、今にも飛び跳ねそうなほど無邪気に喜ぶウォールに、ユウはまたペン先を止めるとまるで肉親のように微笑んだ。これも、本当の笑みだ。
「それはそれは……私が見守って来た甲斐もありますね!」
「そうねぇ……増えたスライムばっかり倒してたけど、報われるわ」
豊満な胸部を、揺蕩う水面のように揺らす受付嬢に、一瞬感情が無へと帰り始めるが、それはそれで獣人少女は彼女に拾われたようなものだ。
ここ数年、その容姿に嫉妬はしても感謝は絶対に忘れられない。
「受付嬢の私としても、報酬が少なくとも依頼を受けてくださる事に感謝で一杯です……」
ウォールはあの日の威勢のよさを思い出し気恥ずかしくなるが、自分が信じているものだから――そう思い至った時、今日の自分を見返してしまえば、まるでユウすら裏切っているような感覚さえ覚える。
視線を落とし、作り笑った。
きっと彼女には、バレてるが。
「……ではギルドとして正式な依頼ではないでしょうが、成果を上げたら報告してください。私自身がウォール様と共に故郷へお伝え致します」
気を遣ってくれたのだろう、再び業務的な言葉に恭しいお辞儀だが、頭を上げ此方に向けた笑顔は、間違いなく作り物ではなかった。
それから少しの談笑の後、スライムの核と依頼クリアに対する報酬を両手ほどの袋へ入れてもらい、それを雑嚢へ乱雑にしまい込むと、受付嬢へ彼女らしい挨拶をしてさっさと喧噪の漏れ出る階段先へ登ってしまう。
軋む階段を物ともせず、疲れを感じさせぬ軽やかな足取りだ。
目前にある両開きの木の扉を開け、獣人少女はその先へ踏み入った。
――――特別、目新しいものは無い。
円卓を囲み、酒精に頬を赤らめる者、食事で腹を満たす者、冒険での失敗したしないによる殴り合いを行う者、それを煽り立てる者、新人へ祝杯を挙げる者、そして……帰らぬ者へ無言の杯を挙げる者、そこには様々な冒険者達がいる。
その殆どが獣人少女が入ってきたことなど気にも留めていないだろう。
彼らは仲間である以前に野望を抱く者達……けれど幾人かはその存在に気付いた。
本来ならば冒険者同士、帰って来た者へは祝いの言葉をかけ、祝杯を挙げるものだが……
「……」
その幾人かは、周囲なぞ関係なしに無遠慮に眉を顰め、聞こえよがしに舌打ちする。
しかもそれは、獣耳を携え、尻尾を垂らす獣人族の男共。
今にでも飛び掛かりそうだが――獣人少女は気にした様子もなく、そのままカウンターへ歩いていく。
張り詰めた空気に、他の冒険者もウォールへ視線を動かすが、彼女の姿を認めれば獣人族以外はいつも通りで変わらない。
既にパーティ同士で宥めようとすらしない、それの方が正解だろう。
宥めたところで収まらない連中なのだから。
ウォール自身も気にした様子はなく、歩き続ける。
肉の焼ける香ばしい匂いとぱちぱち油が音を上げる厨房、そこで忙しなく動き続ける料理人の様子が筒抜けの、カウンターにいた活発そうな少女が微笑み彼女へと問いかける。
「何にします?いつもの?」
だが目前の少女の手元へ視線が移った。傷痕だらけの小さな甲に、可愛らしいそれを包む大きな包帯がある。
目を凝らせば血が滲み、また何か怪我をしたのだと一目でわかる。
活発そうな少女は獣人少女の視線に気づくと、恥ずかしそうに傷痕だらけの右手を左手で隠す。
「……えへへ、まだまだお料理できなくて怪我しちゃいました」
「深そうだけど、大丈夫なの?」
活発そうな少女が傷など気にさせない、躍然たる姿で大きく頷いた。
「大丈夫です!ちょっと切っちゃっただけですから」
照れくさそうに笑った少女にどこか、既視感を覚える……やがて彼女は自分自身を照らしている事に気付いた。
毎日何か意味を成そうとただ同じ事を繰り返す、それが料理か化物退治かの違い。
微笑ましい目前の少女へ、彼女はふっと笑うと「いつものをお願いね」と答え、小さく続けた。
「……がんばってね」
「ありがとうございます!」
獣人少女は銀貨を渡し、獣人の男が座るカウンター席から離れ、空いている円卓の席へ着き、視線など気にせず少し、嬉しそうに笑っていた。
獣人少女のウォールが、分厚い牛の鉄板焼きを食べ終わる頃には、すっかりと酒場も疎らになっていた。
既に夜も更けた頃合、秩序の生物であれば誰もが眠くなる。
彼女もその例にもれず、狼耳を垂らし端正だが少し勝気な目元を擦った。
「ふ、あ」
思わず大きな欠伸が出るが、それを見る者ももうあまりいない。
席から立ち上がり、周囲を見渡せばさっき殴り合いの喧嘩を行っていた席の周辺を、努力家の活発な少女が懸命に床掃除をしているのが見えた。
蝋燭程度しかない灯りを頼りに、濡れた柄付雑巾と濡れていない柄付雑巾を使い分け、怪我をした左手を多少庇いながら、額に汗を浮かべ掃除に勤しむ。
掃除を行う少女へ声をかけようとするが、忙しなく働く彼女に申し訳なくなり、獣人少女はそっと酒場を後にし、両開きの扉を軋ませ開け、左へ続く廊下へと歩いていく。
――彼女はこの町の出身ではない。それでいて有名な冒険者でもない。
だからこそギルドの格安宿を借り、そこを活動拠点としていた。
左右の壁に立てられた蝋燭の灯りに照らされる扉。
だが彼女はそのどれの前に止まることも無く、真っ直ぐ突き当りまで進み、蝋燭がまるでダンジョンのような雰囲気を漂わす最奥の扉の前に立ち止まる。
他の扉となんら変わらない。
雑嚢から出した鍵を差し込み、回す。
開いた扉がぎぃと軋んだ。
自室に入って奥に、通りを一望できる窓とゆったりと過ごせる机に椅子がある。横にベッドがあり、格安にしては良い部屋だ。
机へ雑嚢をまさに雑に放り置き、佩いた剣を部屋の片隅へ置くと獣人少女は自身もベッドへ飛び込んだ。
ぼふんと飛び揺れ、枕へ顔を埋めるとお日様と秩序に包まれているような感覚に言い得ぬ幸福感が心を満たす。
部屋に常備されている蝋燭の灯りさえ点けるのを忘れ、彼女は意識を気づかぬ間に、手放した。
――――木の上、夜明けを待ち、ただひたすら人の往来を見ていたスライムは、水平線から太陽が出てきている事に気付く。
細やかな雲は陽に照らされ、爽やかな青色を漂う。
感覚はなくとも自身の体を水面のように揺らす風は、きっと涼やかなのだろう、と考える。
鳥達と涼風に揺れる木の葉、徐々に増えてきた人の往来による喧噪は、まるで四重奏のような音色を奏でる。
「ふむ、なんとも言えぬ爽快感があるな。同胞達と過ごす日々も悪くはなかったが」
あの湿り切った森を思い出し、言い知れぬ気持ちを暫しの間、スライムはただ堪能した。
瞑ることのできない眼球を、眼下にいる瞼を閉じ、深呼吸をする少年を真似て。
彼もしくは彼女は、体を跳ねさせると人の目には入らないように教会へと向かった。
昨夜は見えなかったが田園風景が周囲を囲む、長閑な田舎町だ。
東西南北、それぞれから伸びる大通りには街道を行き交う行商人と冒険者達、それと僅かな町民達が確認できる。
常に人々の目があるが、スライムは恐れることも無く街路樹の木々の枝から枝へ、走る馬車の影から影へ移動する。
町の、大通りの交差する場所、獣人少女の言う通り中心と言えるそこに教会はある。
「ほほう」
秩序の外側で過ごしていたこの者も、その荘厳さに思わず溜息のようなものが出てしまう。
純白を祈った白塗りの壁に、施された幾何学模様。
そして敬虔なる信徒達が、唯一神を象った女性の彫像が掲げられた木扉を潜り抜け、その近くで純潔を誓った純白の修道女が声をかけている。
彼、もしくは彼女は思う。
人間はどうにも不思議な生物だ、と。
居るかもわからぬ者の為に集まるのだから。
「さてそれはいいとして、どうやって入るか」
正面入口らしき場所は信徒が絶えず出入りを行い、修道女もいる。
騒ぎを起こす訳にも行かない。
――多少の思考の後、教会の上部にあった鐘がこの田舎町全体に響くように、綺麗な音色を五回ほど響かせ始めた。
馬車の影、教会の上部を見やると、一人の修道女が顔を出し、大きな鐘を振る姿が見えた。
「あれは……良さそうだな」
間違いなく、彼もしくは彼女が人間ならばその口角を上げていただろう。
そうと決まれば行動は早いもの、馬車の影から素早く飛び出すと教会の周りを覆っていた花壇の影へ隠れ、側面の壁へ近づく。
地を蠢く者、だからこそ出来る登攀術――――白塗りの壁へ体を引っ付かせ、重力などを無視しそのまま鐘のある上部へと這うように登る。
できるだけ素早く移動しつつ様子見――どうやら鐘を鳴らし終えたらしい修道女の姿は既に無かった。
あるのは綺麗な音色の余韻だけ。
「ふむ」
到達した上部、スライムの眼球に映ったのは吊るされた鐘の下にあった、人一人が通れそうな木のハッチだった。
古い木の匂いが充満していた。
修道女が軽いとは言え、スライムの体ですら下りる梯子は軋む。
下から漏れ出る光と上から振る淡い陽光以外は無いここを通る人間に、だがしかし恐怖はないだろう、何故だか……彼もしくは彼女の心にも安堵が存在しているからだ。
下から微かに聞こえるくぐもりしわがれた声は、誰かに語りかけるような優しさ、何かを守るという確固たる意志が緩急から窺える。
――やがて梯子から木の板へ降り立つと、そこはくり抜かれたカボチャの様な場所だった。
備え付けられた椅子には多くの老若男女が座り、大規模な祈りを捧げ、時には両膝を地面に天へ祈り、唯一神の木彫り像を掲げている者もいる。
どうやらスライムが降り立った場所はその祈りの儀を見下ろせる、舞台裏のような場所だ。
ざっと考えれば人二人から三人分の高さもある。
「……」
彼もしくは彼女は、祭壇に立つ神父らしき人間の男が、自分の方へ祈りを捧げる敬虔なる信徒に向かって大きく、大袈裟に何かを言っていた。
罪や罰、許す許さない、それを聞く信徒達の中には泣く者もいたが……彼もしくは彼女は何を思うことも無い。僅かな安堵感が生まれるだけだ。
眼球をぐるりと辺りへ見回し、下へ繋がる石造りの螺旋階段を見つけ、スライムは躊躇なく下りていく。
――暫く蝋燭の火に照らさせた無機質な石が続くが、そう時間も経たずに周囲を本に囲まれた部屋へ辿り着いた。
人の気配も探るまでもなく、ただ蝋燭の火が揺らめいている。
「これは……」
自身の体の十数倍もある本棚が四方を囲む、立派な書庫だ。
埃が舞い踊り、インクの香りがこの部屋を包む。
彼もしくは彼女は、その数の多さに言葉を失い、驚嘆した。
恐らくこの国が作られ、幾歳月、幾星霜の時間を使いこれ程の知識が詰め込められた本達。
人間の不思議の一つであるかもしれない。
誰かが作った本を読み、また本が作られ、それの無限の繰り返し。
人間という種が存在する限り、時にすら編み込まれていく理知の、知識の、叡智の、シルク。
決して外なる生物達には理解のできない行動だ。
けれど、その例外であるのがこの知性を持ち合わせたスライム。
本棚へ奇妙で器用に段から段へ飛び跳ねる。
サラッと本を見て、次に移る、その繰り返しだ。
薄暗闇の中、何故か読める文字で自身の知的好奇心を満たせそうな本を探し――――やがて見つけた。
「外なる生物……?」
彼もしくは彼女は、獣人少女にも呼ばれたその忌み名が、一つの本の背表紙に書かれている事に気付く。
これは、言うまでもなく秩序に属する者が書いた本。
それを体に乗せ、一度地面へ無音で飛び降りる。
素早く壁際の隅へ移動し、彼もしくは彼女はその表紙を捲った。
埃に塗れた古めかしく、強く紙とインクの匂いが漂っているような気がするこれに、作者の名前は書かれていなかった。
けれど、表紙を捲った先にあったのは『辺境の町に置ける生物』という少し掠れた文字。
最初の数ページは主に狼や熊などの通常の危険生物。
その対処の方法や古い地図に記された出没地域。
他には派生種類の動物や食用の鹿や猪、兎などの記述もあったが、数十ページ後に突如として外なる生物の文字が出てきた。
どこかこれを執筆した者の焦燥と怒りが滲む文字。
パラパラと動植物の記載がある部分から外なる化物の記載部分へと視線を走らせ続ける。
――――やがて分厚い本の終盤まで読み終えたところ、内容に規則性があることに気づく。
通常の野生生物、食用の植物、毒性の植物、などの部分、次に外なる化物の生息区域と種類になり、それを数度繰り返している。
文字は手書きだが、どれも同じ人物が書いてるものではなく、それぞれ文字が全く異なっており、更に文字自体が読み進めれば進める程細かく省略されている。
まるで、その時点時点で時代が違っているかのように。
「人間はどの頁でも記録しているのか」
外なる化物の記載部分で、必ずと言っていいほどに書かれている化物。
彼もしくは彼女でもあるスライムの記述だ。
『戦場や墓地において奴らは多く発生し、その核としてヘドロ状の体の中心に眼球を有する。物理的な攻撃は体を通過し、魔法による攻撃は体に阻まれる』
最後に、重要な事なのか丸く円で囲まれた部分があり……
『戦場や墓地、奴らが発生した場所の遺体は必ず右目が失われている』
そう、書かれていた。
……他に彼もしくは彼女の興味を引きそうな頁は、歩く死者と歩く鎧に死霊魔術師、そして……かつての獣人族について。
鐘の音が六つ鳴り響き、彼もしくは彼女は自身が夢中にその本を読みふけっていた事に気付く。
階段の先へ意識を集中させると、喧噪が聞こえる。
どうやら祈り事が終わったらしく、同時に足音が一つ、もう一つあった入り口の先から近づいて来ているようだ。
「長居し過ぎたな」
丁度、外なる生物と書かれた本の、とある部分が気になっていたが。
彼もしくは彼女は書物はそのままに、人間ならば急ぎ足で階段を駆け上がって行った。
――――入れ違いで書庫に入ってきた神父が、部屋の片隅に放置された書物を見て、不思議に思ったのは言うまでもないだろう。
彼女にとっての朝を象徴する六つ響く鐘の音。
窓際で囀る小鳥など気にもしなかった少女は、まだ地平線から浮かび上がったばかりの陽光に「もう朝……」とげんなりしたように呟いた。
またスライム退治をしなければ……そんな事が頭を過ぎるが、朝になり希望が一つ見出せた事をすっかりと忘れている。
ベッドから起き上がり、熱が籠った部屋に眉を顰めた。
「あつ……」
着替えず寝てしまった事もあり、昨日と同じ装いのチュニックとタイツ。
机に手を付き、窓を『スライム一匹程度が通れる』ほどに開き、体を拭く為に部屋に常備されている桶の水へ布切れを浸す。
「うー……ん、と」
最初にチュニックを脱ぎ、次に濡れた布切れを両手で強く絞る。
――首元から拭こうと肌へ触れた瞬間、思わず獣人少女の体がぶるりと震えた。
暑く熱を持った体に常温であろうと濡れた布切れはまるで雪解け水が如く。
同時に体についた穢れを落としている感覚とその冷たさが心地良かった。
「無いなぁ」
上半身を拭き、自身の胸部が視界に映ると思い出されるのはやはり受付嬢の豊満な胸部だ。
どうやったらあれだけ大きくなるのか、何をすればいいのか……そんな思考の後、大きな溜息に「いつかきっと」や「背中から」と手を伸ばし前に持って行こうと少女がしていると……
「何をやってるんだ?」
不意に、窓際からそんな言葉が投げかけられた。随分と昨日からよく耳にする抑揚の無い声。
追いつかない頭で唯一分かったのはここがギルドの二階だという事と……布切れを右手に、背中から自身の胸部を揉み、頭に浮かんだ、意外に柔らかな自分の胸部の事だった。
――――二度目の起床は、僅かに耳に届いたスライムの這いずる音による防衛本能だ。
すぐさま頭に浮かんだ剣の在処、部屋の片隅へ転がり、鞘から一息に抜き取る。
這いずり音のした方向へ目を向け、鞘がカランと音を鳴らし床に落ちた。
獣人少女は、その光景にハッと我に返る。
「……私は敵では無いぞ」
両刃の剣、向けたその切先にいた一匹のスライム。
彼もしくは彼女は机の上で通りを眺めていたらしく、少女の様子を眼球だけを向けてそう言った。
「そうだった……というかなんでここが分かったのよ」
落ちた鞘へ剣を差し込み、改めて目前の化物へ問うた。
何故なら彼女は昨日、ギルドの場所までは伝えていなかったからだ。
「そう難しい話ではない。道端に生える木々を伝い移動してたところ、異常に人間の出入りが多い場所を見つけた」
「……それでそこの窓から見えたのね」
見れば木の枝が一つ、通りの景色を邪魔しない程度に差し込まれている。
「そう言う訳だ……が、なんというか、そのままは恥ずかしいから倒れたのではないのか?」
獣人少女の言葉に肯定した化物は、だがどこか困惑したように言うと眼球を窓の先へ向ける。
一体何のことなのか、少しの間の沈黙と思考の後、そして、ようやく獣人少女は自身の格好を思い出す。
傍らには、ひっくり返ったチュニックが置かれているのだから当然……
「っ!?み、見た!?」
上半身は裸だ。
瞬間、顔を、露出した少女らしい細い肩に、その獣人族らしい狼耳すらも赤熱化した鉄みたいに真っ赤にし、未だ濡れた布切れをスライムへ投げつけるが、ものの見事に外れ窓へ水音を鳴らすだけ。
声はあまりの羞恥に上擦り、心は沸々と怒りを沸かす、キッと吊り上がった目尻からは涙が溢れそうになる。
「服をかける時に少し見てしまったが……人間は成長するものなのだろう?」
冷静に、けれどどこか哀れみが含まれた言葉は、獣人少女の感情の昂ぶりを、薪を得た焚火のように燃え上がらせた。
――――暫くの間、少女の金切り声の罵声に響く鈍重な音は――ギルドの職員が聞きつけて来るまで、一切収まる事がなかった。
彼もしくは彼女からすれば、ただ慰めたつもりだったが、やはり人間の心というのはわからないらしい。
「うぅ……お嫁に行けない……しかも外なる生物なんて……」
ベッドの上で丸くなり、涙声を上げる獣人少女に、かける声など見つかる訳もなく、スライムは外の景色へ眼球を向ける。
別に変わる事の無い景色だった。
馬車で運ばれてきた荷物をギルドへ送り届ける少年少女。
町を巡回する兵士達にこれから冒険へ向かう冒険者達一行。
田舎町特有でもない、ありふれた日常だ。
だがその一つ一つが彼もしくは彼女にとって、新鮮な非日常であり、人間という生物の不思議さだった。
「ウォール、聞きたい事があれば聞けと昨夜言ってたな」
奇妙でしわがれた声。そこに敵意は無い。
獣人少女は不機嫌そうに、布越しでくぐもったまま答えた。
「……なに」
「ここに向かう前、言われた通り教会で本を読んできた」
「……そう」
「人間は不思議だ。自身の知識を書き連ね、それを後に残す」
「……だからなによ」
「……外なる生物についての本を読んだ」
獣人少女は「あぁ」とだけ答える。
だがもぞもぞと蠢いていた布団の塊は、その動きを止めた。
窓の外では心地の良い喧噪が無い耳に届く。
「最初は野草や動物などの自然について、次に突然切り替わり私の事、死の鎧、死霊魔術師、歩く死者、蜘蛛族……そして獣人族」
別段――不思議な話でも、おかしな話でも無い。
この町にいる者達に獣人少女のような……獣人族のような耳、異形の姿を持つ者があまり見えないからだ。
例え居たとしてもその殆どは冒険者ばかり、兵士の中にも住人の中にも見えない。
彼もしくは彼女が何を言いたいのか、獣人少女は布団を退けると言った。
「――――元々は私の部族も外なる生物だった。別におかしな話じゃないわ、秩序の者が裏切る事もあれば秩序の外の者だって裏切る事がある」
既にチュニックを着ている獣人少女はベッドの際へ移動し、自身に向けられた一つの眼球へ真っ直ぐに真剣に目線を合わせ、続けた。
「これは神々の戦、神々の代理の戦……私達はその、駒なのよ」
「戦……」
「ただ、秩序の神の優勢みたいだけどね。私達の先祖様だってそれがわかって裏切ったのよきっと」
両手をやれやれと広げ、だがその結果に彼女自身は満足しているようだ。
獣人少女へ向けていた眼球を再び外へ向け、スライムは納得したのかしていないのか黙りこくったが、無い口を開いた。
「他にさっきも言ったが、死の鎧や死霊魔術師に歩く死者、蜘蛛族というのは?」
獣人少女はスライムの言葉に、顎へ人差し指を当て、考えるように唸った。
「んーちょっと待って……あ、思い出した」
部屋の壁に掛けられた、若干埃を被った防具へ指を差す。
「例えば私が使っているあの胸当て、何があると思う?」
「何がある……?ただの金属だろう」
その答えに、外なる化物相手に、どこか得意気に咳払いをする少女。
「想い、よ。私自身もまだ出会った事無いんだけど、稀に大切に大切に使い続けられた防具に外なる神の邪悪さと想いによってひとりでに動く事があるのよ。それが、死の鎧」
「ほう、対処法は?」
「あんた……読んだんじゃないの?」
怪訝な目、呆れた声色は少し面倒そうにも思えた。
「読んだが、あそこにあった本は黴に似た何かが文字に巣食っていて所々消えていてな。読めなかった」
「ふーん……対処法は簡単よ、神父か修道女が三日三晩祈りを込めた聖水をかけるだけで邪悪さが混ざった想いは跡形もなく消えるわ」
「ふむ、では次に歩く死者というのは――ん?」
ふと開け放たれた窓から風が何かを報せるように吹き、同時に眼下の喧騒が一層強くなる。
スライムは眼球を通りへ向け、気になった少女は窓から顔を覗かせた。
見れば一つの馬車を連れた冒険者の一行らしき姿が見て取れる。
馬車を操るのは黒い外套を纏い傍らに赤い宝玉が付いた杖を置く、男か女か分からぬ魔法使いらしき人物。
その周囲には前衛らしき戦士が二人、片方はにこやかに沿道で歓声を上げる町人達へ手を振り返し、もう片方は鉄兜を被り、表情すら分からない。
けれど、彼らの後方にいる弓を背中に背負う長身の女性は男勝りな笑みを浮かべ、教会で見た唯一神を象った彫像、恐らく一つの木を掘って作られた杖を持つ女性は、白百合の如く朗らかな笑みと共に手を優雅に振り返していた。
「へぇ」
あれはなんだ、スライムがそう彼女へ問いかけようと眼球を向けた時、獣人少女は心底意外そうに目を見開き、喉元から声が抜けていった。
「どうした?」
「あれ、この町の英雄よ」
獣人少女は馬と共に歩く戦士の内、鉄兜を被らず沿道へ手を振る男に指を差す。
鉄兜は脇に抱えられているがその他の体や手足も鉄に覆われ、左手には幾何学模様の描かれた大きな盾が装着されていた――兵士よりも重装備の、大男だ。
しかしそれらの防具の威圧感を消し去る程に、人相は良かった。お人好しとまでも呼ばれそうな程に。
「かつて勇者と共に攻めてきた別の神々を屠った仲間の、子孫だってさ」
「どこに行くんだ?」
「さぁ……聞きに行かなきゃわかんない」
獣人少女はそう言いながら机の上……スライムの横に置かれた雑嚢を持ち、剣を腰帯へ吊るす。
その様子に、眼球を傾けたスライム。
「どこへ行くんだ?」
「ギルドよ、何があったのかちゃんと把握しとかないと」
ウォールは焦った様に雑嚢へ手を突っ込み、必要な物を乱雑に確かめ、服に乱れが無いか確認し「よし」と額に汗を浮かばせ呟く少女。
「まだ聞きたい事があるんだが……」
「まぁ気長に待ってなさいな。窓際で観察でもしながらね!」
特に彼もしくは彼女の言葉を気にすることなく扉を開け、焦燥を滲ませ鍵をかける音だけを残し、出て行ってしまった。
「ふむ、まあ観察も悪くは無い」
それを見送ると、抑揚の無いしわがれた声で呟いたスライムは、外へ奇妙な体の中心で揺蕩う眼球を向ける。
一人一人の挙動を、一つの眼球で注視する為に。