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第1話 命の終わり

 目に焼き付くように、美しい夕焼けだ。


 歩き慣れた通学路、少し近道のできる寂れた小道が橙色に染まっている。電車や街の騒音に混じって、遠くで鴉が鳴いていた。鴉も人も、可愛い待ち人の許へ帰る時間だ。


 ふと、どこからともなく黒猫が小道に差した橙色を遮るように横切った。不幸が訪れる前兆かしら、なんて迷信じみたことを考えて、思わず笑ってしまう。


 これ以上、私に何が訪れるというのだろう。不幸にさえももう、素通りされる身の上だ。せめて、悪い夢であってくれと願えたのならいくらか冷静だったのに。


 茫然としたまま、私は足元に転がる赤に染まった自分を見下ろした。


 私から染み出したその赤は、橙色に溶け込んで絶妙な色合いを呈している。大きな水溜まりのようだった。


 私はその血溜まりの中心で横たわる自分に触れてみようと試みた。力なく横たえられたその掌に、血飛沫が飛び散ったその瞼に、指をそっと添える。だが、空しくも私の手は、触れたはずの掌も瞼もすり抜けてしまう。思えば、歩くことはできたものの地面の感覚さえもなかった。


 これが、いわゆる幽霊。


 何分、未知の体験であるので、断言するのは早計すぎるかも知れない。そうだ、確かに足元に転がっている私の腹からは、血やら多少の臓物類が出ているかもしれないが、まだ死んだと決まったわけではないのだ。


 一筋の橙色が、まるで突き刺さるように私の体の傷を晒していた。夏用のセーラー服は搾れそうなくらいに、真っ赤な血で染まっている。血溜まりは、時間とともに少しずつ広がっているようにも見えた。その様子を見ていたのか、橙色を横切った黒猫が、影から飛び出して興じるように血溜まりの傍を周った。


 なす術もなく、私は膝を折る。街の喧騒が、やけに遠い。


 直に日が沈む。そろそろ幼馴染が大学から帰ってくる時間だ。お互い、帰る家が隣同士ということもあって、毎日のように二人でこの道を歩いた。一人で歩くには少し危ないかもね、と隣で笑った幼馴染の顔が今更脳裏を過る。


 今朝だって、二人で通った道だ。出がけにテレビに流れていた星座占いに言わせると、今日の私の運勢は最悪で、ほんの少し面白くないような気分で一人きりの家を出た。ちょうど隣の家から、「いってらっしゃい」という声とともに出てきた幼馴染は、私と顔を合わせるなり、今日の私の運勢をからかって笑った。


 他愛もない、私にとっては幸せな朝の時間。大学と高校の分かれ道に差し掛かるまでの、ほんの十分程度の会話が、朝一番の何よりの楽しみだった。だが、私のこの様子では今朝の登校時間が最後の思い出になりそうだ。


 その瞬間、すぐ傍で響き渡った男性の悲鳴に我に返る。


仕事帰りらしいスーツ姿の男性が、手に提げていたであろう鞄を足元に落として絶叫していた。会えば会釈する程度のご近所さんだった。


 この醜態ともいうべき自分の姿を顔見知りに見られることに妙な気恥ずかしさを感じてしまう。きっと彼は人を呼ぶ。そうなれば、もっと多くの人にこの醜態が晒される。気持ち悪い、と蔑まれてしまいそうだ。


 ひとしきり叫び終えた彼は、震えながらも携帯電話を取り出し、落ち着かない様子で電話をしていた。救急車を呼んでいるのか、あるいは警察に助けを求めているのかはわからないが、彼の叫び声につられてすでに何名かがこの路地裏に駆けつけている。新たに叫ぶ者も、震えている者もいた。混乱が広がっていく。


 そんな中で、黒猫は相変わらず私の傍にいた。一気に押し寄せた喧騒に、文字通り消え去りたい気持ちで一杯の私は、思わず黒猫相手に愚痴を零す。


「本当、嫌になっちゃうよね」


 にゃあと鳴く黒猫は、突然集まってきた人だかりに驚いているのだろう。そのわりに、この騒がしい場所から離れていこうとしないから不思議だ。


 私を囲む人たちは、対応に困っているようだった。応急処置の仕方を義務教育で叩き込まれたって、この状況では手も足も出ない。生きているとも思っていないのかもしれない。今となっては、私も彼らと同意見だ。もうかれこれ十分以上、私が息をしたような形跡はなく、路地に撒き散らされたこの血の量からして、体に十分な血が巡っているとも思えなかった。要は、素人目に見ても絶望的なのだ。既に何人かの若者は、薄い端末でパシャパシャと写真を撮り始めている。自分が殺されたという事実よりもその行為のほうが、今の私にはずっと重くのしかかった。


 そんな私に寄り添うかのように、黒猫がすり寄ってくる。実体のない私は、誰にも認識されていないはずなのに。さっきの返事のような鳴き声といい、ここに居座り続けていることといい、この猫には私が見えているのではないかという淡い期待が芽生えてしまう。


 黒猫は、よく見ると黒いリボンを首に巻いていた。丈夫そうなリボンなので、首輪代わりのようなものだろう。軽く喉元を撫でてやれば、黒猫は再びにゃあと鳴いた。間近で見ると、案外可愛らしい。


「おい。この猫……」


 数名の視線が、黒猫に集まる。何やらぼそぼそと囁きあった後、半ば強引に黒猫がつまみあげられた。恐らく、現場を荒らされてはまずいという常識的な判断のもとで猫を追い出すのだろう。猫をつまみ上げた人を避けるように、人の輪が割れていく。


 その間に垣間見えた、白いシャツ姿の青年。


 彼は足を止めて、じっとこちらを見ていた。


 あるはずもない脈が、早まる。言い知れぬ緊張が走った。


 どうか。どうか気付かないで。


 こんな姿、みじめでぐちゃぐちゃな赤く染まった私になんて。


 彼の記憶の中の私は、今朝別れた時のあの姿のままであってほしい。


 そうだ、今日はそれなりにうまく髪も結べたし、別れ際には満面の笑顔を彼に送ったのだ。最後の姿に相応しい。


 だから、気づかないで。


 どうか、知ろうとしないで。


「……しゅうお願いだよ」


 だが、彼の一声で、その願いはいとも簡単に打ち破られる。


「……花菜かな?」


 気づかれた。


 黒い絶望が一気に押し寄せる。


 震えるような足取りで、柊はこちらに近づいてきた。


「花菜……?」


 私との距離をあと二、三歩というところまで詰めて、彼は切り刻まれた私を見下ろした。


「花菜なのか……?」


 柊は躊躇いもせずに、血溜まりの中に膝を着くと、私の顔に飛び散った血飛沫を手で拭った。


「花菜、何だよこれ……。どういうことだよ」


 いつもの調子を取り繕うように、彼は笑って見せる。大きく見開かれた目は、潤んで揺らいでいた。


「花菜。なあ、花菜。どうしたんだよ、花菜……」


 彼の手が私の肩を抱き起した。血溜まりが広がる。私たちを囲む誰かが、柊を制するように声をかけたが、彼には届いていないようだった。


「花菜、花菜、花菜っ。花菜……っ!」


 ぐちゃぐちゃになった私を抱きしめて、彼は泣いた。殆ど絶叫に近かった。こんな風に、激しく感情を表す柊を見たのは初めてだ。まるで壊れたように、私の名前ばかり叫び続ける。


 サイレンの音が近づく。


 赤色灯が夕暮れの名残を掻き消すようだった。


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