わたしを忘れないで
両腕に抱えたペットキャリーを全身で守るようにして、小鉄は車を降りた。中では眠たそうにプリンが目を開けたり閉じたりしている。時間は、午前二時。空を仰げば、珍しく星が犇めいている。都会とは思えない夜空だ。
「きれいね」
顎を上げて妙子は呟いた。
来い、というメールがラスティから来るまで、彼女はひたすら刺繍をしていた。刺して引いて、また刺して、青い刺繍糸を引く手元で、ハコフグは次々に修復されていった。
「横に子フグ、作っちゃった。付け足し」
「……それも、望んでいた、から?」
「……」
小鉄は思った。俺は多分、この女のことがほとんど分かっていないんだろう。いろんな意味で、ラスティの言葉は正しかったのかもしれない。そう思いながら、部屋への階段を、ペットキャリーを抱えて降りていく。妙子はパンプスのかかとを鳴らしながら、ゆっくりと後をついて来る。階段の下から漂ってくる妖気のような何かが、小鉄の体を震わせた。
室内に入ると、部屋は床暖房でほんのりと温まっていた。小鉄には見慣れた空間だった。コンクリートの壁に囲まれた空間にはサンドバッグが下がり、部屋の中心にアラビア模様の円形のラグ。中心には、Tシャツ姿の少年が目を閉じて横になっている。まるでエジプトのミイラのように、胸の上で手を交差していて、その両手はピンクのスカーフできつく縛られている。そしてその足元にラスティがかがみこんで、爪に何かを塗っていた。
妙子は短い叫び声を上げると、息子の頭の横に駆け寄ってしゃがみこんだ。声をかけて揺すっても、少年には何の反応もない。
「お前、何したんだ」ペットキャリーを床に下ろすと、小鉄は低い声で聞いた。
「ペディキュア塗ってるんだよ。真っ赤。お前が嫌味でくれた香港土産の唇紙も、真っ赤。スカーフはストロベリーピンク。いつも悪趣味だな」
「そいつに何飲ませたか聞いてるんだ」荒い声で小鉄は続けた。
「多生、たお。生きてるの」妙子は叫び続けた。
「あんたが霊能力者ならまだそこら辺にいるのが見えるんじゃないですか?」
すっかり紅を落としたラスティは、普段の声に戻って言った。妙子はぎょっとして振り向いた。剣のある、と言うよりいっそ殺気を含んだ冷え切ったアーモンド形の瞳がそこにはあった。
「なに?」
「息子さんが言ってた。母親はインチキ霊能力者で、お年寄りを騙して金を稼いでたって」
「そんなことしてないわ。それより、この子に何したの!」
小鉄は少年の首すじに指を当てて言った。
「大丈夫、生きてますよ。かなり脈が弱いけど。おいラスティ、この状況を説明しろ」
足の指を全部塗りおわると、ラスティはペディキュアのふたを閉め、引き出しに戻した。そして振り向くと、言った。
「生きてるとは残念だ。俺はそいつを許さない。許すつもりもない」
紅潮していた妙子の顔から見る見る色が抜けていった。
「許す許さないって、お前に何の関係があるんだ。そのガキの相手は俺で、俺の犬がうるさいと苦情を寄越したのがそのガキで」
「お前が教えてくれたことを、俺もネットで確認した。小杉多生。こいつは自分の鬱憤晴らしのためには何でも犠牲にする。それでも小鉄程度の刺青野郎に立ち向かう勇気がなくてインチキ霊能者の母親を差し出した。こういうクソガキがぶち撒く毒のせいで、くるみの魂は死んだんだ」
「インチキでも霊能力者でもありません!」
「その話は後にしましょう」小鉄は妙子の叫びを遮った。
「ラスティ、お前の言いたいことはだいたいわかる。俺もお前も、この世界からくるみを守れなかった。その命も、魂も。だが今、その子をどうしたいんだ」
「息の根が止まるまで見届ける。元凶の妙子さん、あんたも付き合うんだ。付きあわないなら、ここからはもう出られない」
元凶、と呼ばれて、妙子は体を震わせた。
「こいつはそう言ってた、あんな母親いらないって。あんたもこんな息子いらないだろ」
「おい、どう息の根を止めるっていうんだ。何のために他人を脅してるんだ、お前」
「こいつに飲ませたのはドリンクに混ぜた致死量ギリギリの睡眠薬だ。あとは唇紙に追い毒を少々。縛って放置しとけば勝手に死ぬ。それを見物しようっていうんだよ」
「説明させてください!」小杉妙子は大声で割って入った。
「自分は元凶じゃないってことを?」皮肉っぽくラスティは答えた。
妙子は息子の傍らに座り、魂の抜けた寝顔を見下ろしながら語り始めた。
「私、確かにいろんなものが見えます。見えてしまうんです。最初からそれを生業にしようと思ったわけじゃありません。でも、家政婦としていろんな家に入ると大抵なにかの影が、光が、ときどき見えてしまうんです。あるいは感じてしまう。具合の悪い人の体の部分が黒く煤けて見えることもあります。
原因不明の病気が治らず困った困ったと言い続けるお爺さん、一人ぼっちで悲しんでいるお婆さん、そんな方々の家にいくたび、何とかして助けられないかと思ってました。それで、つい、言ってしまったんです」
「見えているものを?」小鉄は聞いた。
「ええ。そうしたら一人暮らしの男の方が、それは死んだ連れ合いだ、ここにいてくれているのか、ととても喜んでくださったんです。アドバイスがきっかけで、病気が治った人も現れて、評判が広がってしまって。呼ばれて行くとたいていそういうことを頼まれるようになってしまったんです。
私、人助けだし、お金は必要なので、ときどきお受けするのはかまわないと思っていました。でもあの子は嫌がったんです。周り中に、お前の母ちゃんはインチキ霊媒師だ、いつテレビで悪霊退治するんだよって言われるって。真面目に説明すればするほど、逆上するようになって……。
あの子、言ったんです。他人は救えるのに、自分の子どもは救えないのか。何のための能力なんだよ」
そしてため息をつくと、息子の寝顔を見やった。
「こうしていると、小っちゃな子どもみたいでしょ。
でも目覚めると、制御できない。
どうしても許せないというなら、どうぞ、私にも同じものを飲ませて、手でも足でも縛ってそのまま放置してください。この子のしていることは罪深すぎます。そしてそのすべては確かに、私のせいですから」
「可愛い顔してるのにな。初恋もファーストキスも知らずに、こんなところで人生の最後を迎えるのか」
わざとラスティに身を寄せて小鉄が言うと、ラスティはぼそりと言った。
「それはもう経験済みだ」
「あ?」
妙子は息子の横に仰向けに静かに横たわって目を閉じた。
「妙子さん。今あなたに死なれちゃ困るんだ」小鉄は腕組みしながら語りかけた。
「悪いけど、あなたにはもう関係ないわ。お世話になりました。さあ、飲ませてください」
「あなたは、あなたがあのアパートで見たものを、まだ俺に教えてくれていない」
妙子はぱちりと目を開けた。そして、断固とした調子で言った。
「言わないわ。あの子が嫌がる仕事は、もうしないと決めたんです」
「報酬がないんだから仕事じゃない。ハコフグの刺繍についてです」
「……」
「頼まれて、やっていたんですよね?」
「……」
怪訝な顔をして、ラスティは二人の顔を交互に見やった。
「ほつれを直して、子フグを、入れてほしいって。誰に頼まれたんですか」
「頼まれていません」
「俺の聞いたことと違うな。じゃ、見えたもの、感じたこと、何でもいいから教えてくれませんか」
妙子は黙った。三人とも、しばらくの間、口を開かなかった。やがてぽつりと、妙子は言った。
「カーテンの向こうで、月を、見ていました」
「くるみが、ですか」
「そうです」
ラスティが口をかすかに開けた。
「くるみさんも、お月様も、刺繍も、陶器の時計も、みんな、きれいだった」
「いつも見えていたんですか」小鉄は声を震わせながら聞いた。
「ときどき、うっすら、です。写真立てを落とした時は、わりとはっきり見えたわ。茶色い長い髪で、瞳の透き通った、綺麗な人だった。気配だけが移動していたことも」
「ああ、畜生。どうしたら見えるんだ。俺も見たいのに、一度も見たことがないなあ」
「そうおっしゃる方、たくさんいるわ」そう答えて、妙子は笑った。
「どうする、ラスティ。この人と息子を、それでも世界から消したいか?」
「よくそんな話が丸呑みできるもんだな。お前も息子が憐れむ年寄りの一人か」吐き捨てるように言うと、ペットキャリーに近寄り、ラスティはそっと入口を開けた。周囲の匂いをクンクン嗅ぎながら、そろりそろりとプリンが出て来た。
そして横たわる少年を見ると、周囲をぐるぐると回り、低く唸ってキャリーにかけ戻ってしまった。
「この通りだ。俺もこのダックスフンドと同じだ。許せないものは許せない」
「うーん……」
しばらく考えた後、小鉄は言った。
「こうしないか。一番嫌なやり方だけど、入れ墨の刑」
「え?」妙子が声を上げた。
「こいつの体に、こいつが一番嫌がってるものを俺が掘り込む。ファッションじゃなくて、罰。違法だろうが多少のリスクはかまわない、どのみち禁断の職業なんだから」
「あなたじゃなくて、私が別の人に頼んだことにしておきます。この子は意識がないからわからないことだし」妙子ははっきりと宣言した。
「道具あるのか」
「置き場所はこの近くだ。寄ってとってくる。だけど息子君も、目が覚めれば自分のいた場所ぐらいは思い出すだろうな」小鉄が言うと
「逆行健忘の成分もある毒だから、記憶は一日分は軽く消える。でも謎の刺青は残る。いいんじゃないか、それで」ラスティは答えた。
「おい、命拾いしたな」笑みを浮かべながら少年の寝顔に言った後、小鉄は続けた。
「で、このままちゃんと生き返れるんだろうな。どれぐらいの時間、意識を奪えるんだ、その薬は」
「まあ、解毒剤をアンプルで流し込んで、意識が無事戻るとするなら十五時間後あたりか」
「道具とってくる時間も含めて、ん―……。かんたんに彫りこめて一番嫌なものってなんだろう。小動物なら何でもいいか?」
「いいアイディアがある。ここに今から書くから、その通りに入れてくれ」
ラスティはメモ帳を一枚破ると、ボールペンでさらさらと何かを書き始めた。覗き込んでいた小鉄と妙子は、顔を見合わせた。先に声を上げたのは、小鉄だった。
「……おい。なんだ、これ」
「呪文だよ。魔封じの術」
「?」
「意味が分からなくてもいい。最高の罰だ。とにかくこのまま、そうだな、背中あたりに入れてやろう。嫌ならそのうち金ためて本人が消せばいい」
「いつ、だれが最初に気付くんだろう」小鉄が言うと
「彼女だといいな」ラスティが答え、「見た瞬間振られるわ」妙子が続けた。小鉄は笑った。
「ま、当然だ。それも罰のうち」
刺青は十四時間後、完成した。小鉄が額の汗をぬぐうその横で、白い背中に彫り込まれた文字に、ラスティはふうっと息を吹きかけた。
「おい、何の真似だ、それ」訝しんで聞く小鉄に
「世間は寄ってたかってこの刺青を消そうとするだろう。いつかそういうときが来ても、皮膚の中に血の中に、魂の奥この言葉は残る。一生消えない。そういうまじないさ」ラスティはにっと笑って呟いた。
外に出ればもう午後四時近く、傾いた日差しがビルや並木の影を長く路上に落としていた。
小鉄の車の後部座席に、多生と、疲れ切った妙子を乗せると、数秒で妙子は寝息を立て始めた。
ビルの影の駐車場に二人とペットケージを乗せた車を止めたまま、ラスティと小鉄は自販機の横でそれぞれ、エナジードリンクを飲んでいた。
「疲れたな、さすがに」小鉄は肩をぐるぐる回した。
「頼んでもいない余計な飾り模様彫りこむからだよ。しかも俺と同じ蜂まで入れやがって」
「まあ、罰としてのサービス」
ひとしきりやりあった後、小鉄は真顔になった。
「お前さ。もしかしてまたやったのか」
「なにを?」
「あれだ、女芸」
眉間に皺を寄せて、ラスティは言った。
「別に芸じゃない。男芸だったら問題ないっておかしくないか」
「中学生相手にどこまで」
「もうじき三十だから、そろそろどっちかに決めようかなあ」話題をそらして自嘲気味に言うラスティに、小鉄は言った。「俺も最初やられて混乱した。でも、いいんじゃないか、わざわざ決めなくても。お前さんはただ、お前さんだよ」
「たまに真正面から聞かれると困るんだよ、男性それとも女性、どっちですかって」
「ISですって言っとけばいい」
「ドン引きだろ。インターセクシャル、って意味じゃ間違ってないんだがな」ラスティは苦笑した。
小鉄はふと車のほうを見た。そして、声の調子を落とした。
「本当に、インチキだと思うのか」
「ん?」
「小杉妙子の目に見えたものだよ」
ラスティは真顔で答えた。
「自分の目で見れば、信じる。他人が見たものは関係ない。誰だって信じられるものと信じられないものを抱えてる。そいつの貸し借りはできない」
「お前らしいな。じゃあいつかあいつに会えても、お前には教えてやらねえよ」小鉄は肩をすくめた。
「教えられても信じないから構わない。自分だけの夢にしときな」ラスティは笑って空瓶を瓶入れに放り込んだ。
「ここで降ろして」
小鉄の自宅まであと二百メートルあたりのコンビニの前で、妙子は運転席の小鉄に言った。多生は妙子の隣で薄目を開けたり閉じたりしている。バックミラーで二人をながら、小鉄は言った。
「ここでいいんですか? 住所知らないけど、息子さんは……」
「この子半分起きてるから。コンビニの隣の緑地のベンチで少し二人で休んで帰るわ。平和に寄り添ってる時間なんて、今まで全然なかったのよ」
「じゃあ、ベンチまで送りますよ」
車を止めると運転席を降りてスライドドアを開け、小鉄はふらふらしている多生と妙子を支えながら、イチョウの大木の横のベンチに二人を座らせた。
頭上からはらはらと、風に乗って黄色い葉っぱが落ちてくる。
「四時過ぎるともう、すっかり夕方の空ね。それでも葉っぱの黄色であたりは明るいけれど」頭上を見上げて、妙子は言った。
「本当にいろいろとありがとうございました。近く、二人で引っ越します。多分もう、会うこともないわね」
小鉄は差し出された妙子の手を固く握った。そして、妙子の肩に寄りかかっている多生のジャケットが肩からずれているのを直し、ふらふら揺れる頬を軽く叩くと、遠慮がちに言った。
「妙子さん。たぶん無理だと思うけど、教えてほしいんだ」
妙子の細い目がこちらを向く。多生とよく似た、寂しげな眼差しだ。
「どうしても、くるみの姿を見る方法はないんですか。
俺、一度、ほんとに一度きりでいいから、会いたいんです。彼女を見たいんです。その望みがかなうなら、全財産差し出してもいい」
小鉄の真剣なまなざしに頷くと、妙子は答えた。
「残念だけど、教えてあげることはできないの。見よう見ようとしても、きっと何の意味もないわ。だって私は見たくないのに見えてしまうんだもの。
だけど、ひとすじの風が吹いてどこかの家の風見鶏がくるりと回るように、何かの波長が合う時があるかもしれない。そんな具合に、きっとこの世はできているのよ。理由もなく、そんな風に」
小鉄の車が視界から消えてしばらくすると、多生は妙子の隣で「暑い」と言っていきなりパーカーを脱ぎ捨てた。
「暑くないわよ。目、さめた? ここがどこかわかる?」
「……俺、なに、してた」
目をしばしばしながら言う多生にほっとして、妙子はパーカーを息子の肩に寄せながら言った。
「あのね、ひどく酔っぱらって駅前で倒れてたって知らせをもらって、ここまではタクシーできたのよ。もうやめてね、こんなこと」
「……なんも覚えてねえ」
「本当に、なんにも?」
遠くを見るような目つきになって、多生は続けた。
「なんか。……なんか、すごく長い夢を見てた。気がする」
子どものような、素直な口調だった。
「うん。どんな夢?」
「誰か、すごくきれいな誰か、女のひとに会って、それで、で……」
ある一つの名を彼が呟くのを、妙子は確かに聞いた。
言った途端、息子の目から、細い涙が転がり落ちるのも。
「それ、誰?」
「わからない。でも、なんだろう、あれ? ……なんだ、これ」
頬をぬぐう息子を見て、妙子は思った。
あのラスティという不思議なひとは、この子に確かに何かを吹き込んだのだ。
息子はいつか背中の文字を見て、どう思うのだろう。
呪詛か、魔封じか。あるいは大事にとっておこうとするのか、出会いを求めて旅に出るだろうか。自分の記憶の謎と真実にたどり着くために。
それが魔法の言葉なら、どうかこの子の魂を救ってくれますように。
Forget me not
Rusty
車の中で目を覚ます。いつの間にかあたりは真っ暗で、ただ欠け始めた青白い月の光がぼんやりとポプラ並木を照らしている。
誰もいない部屋に帰る気になれず、車の中で握り飯を食べ、近くで買った酒を飲み、プリンを散歩させ、一緒に座席で寝ていたのだ。
「いい加減帰らなきゃな」小鉄は膝の上のプリンに声をかけ、リードを持って外に出た。
アパートへの階段をかんかんと上がる。短い脚でついてくるプリンに小鉄は話し掛けた。
「これからはまたお前さんと二人だぞ。仲良くしような」
鍵を求めて、ポケットを探る。ない。あれ、穴開いてたっけ。硬貨入れの中か? そもそもそれどこだっけ。
小鉄はリュックを降ろし、がさごそと中を探り始めた。
クーンクーンというプリンの鼻声を聞いているうち、酔いとともに、ぼんやりと思いは過去に飛び始めた。
あのころ、時間は一本の美しいリボンのようだった。
ひと仕事終える、あるいはジムでいい汗を流し、帰途につく。大抵もう深夜だ。それでも鍵がないから入れないなんてことはない。階段を上がって部屋に近づく。プリンのはしゃいだ声が聞こえる。ドアが開いて、くるみの笑顔とプリンが同時に飛び出す。お帰りなさい! 俺はプリンを抱き上げる。ただいま、そんなに寂しかったか? そして左手でプリンを、右手で彼女を抱きしめる……
もう、戻らない。何もかも。
かちゃり。どこからともなく、足元に鍵が落ちた。どこからだ? ああ、今取り出した折り畳み傘の皺の中に入ってたんだな。小鉄は穴に鍵を入れ、待つ者のいない部屋に入った。
室内に、たくさんの魚が泳いでいた。
リュウグウノツカイ、ハコフグの親子、ネオンテトラ、クマノミ、そして珊瑚の森。
空間全体がブルーの世界に沈んでいる。果てしない、奥行きの見えない世界。その中心で、こちらに背を向けて、長い髪が揺れている。
薄い布をまとった一人の少女が人魚のように揺蕩っている。細い腕、しなやかな曲線、そして背中に残る無数の傷。わんっ。プリンが甲高く吠え、部屋に飛び込み、そのまま浮き上がった。ふわりと青い影は振り返り、懸命に四つ足で空間を掻くプリンに手を伸ばして頭を撫で……
小鉄の体も流されるように浮き上がった。体が重力から解き放たれる。懐かしい顔がこちらを見て微笑み、声のないままに唇を動かして、小鉄の首に腕を巻き付けてきた。頬は白い、唇はさくら色だ、そしてそうだ、その睫毛。小鳥の羽の一番繊細な部分のような。会いたかった。会いたかった。夢中で抱きしめる。言葉は青に溶け、キラキラと泡になって二人の周りを舞う。柔らかな頬を両手で挟み、肩のセイシェㇽアゲハにくちづけて柔らかい花びらのような半開きの唇をふさぎ、胸の中で全身で、くるみ、と呼び掛けたその瞬間、すべては暗転し、気が付くと真っ暗な自室の玄関に小鉄は突っ立っていた。
プリンは室内を駆け回りながら、キュンキュンキュンキュンと鼻を鳴らし続けている。
涙を流しながらただ立ち尽くす小鉄の耳に、ただ、ひとつの言葉が反響していた。
……お帰りなさい。
― forget me not―