おまえが世界を壊したいなら
彼女は約束の日時にアパートの部屋に現れた。
午後八時、ちょうどお互い夕食を済ませた時間だ。
「ひと通り安物で揃えてきました、どんなに汚れてもいい古ものばかりです」
彼女は首のまわりに灰色のスヌードを巻き、コクーンシルエットのざっくりしたライトグレーのワンピースを着て、その上に、やけに丈の長いだらりとしたネイビーのジャケットを着ていた。下は黒のレギンスだ。どうでもいいというより、前回来た時より明らかにセンスアップして見えた。
化粧品販売をしていたというだけあって、きちんとメイクした顔も見違えるようだった。心そのままに荒れていた皮膚はシミも皺もなくつやつやと光り、形のいい三日月形の細い瞳は美しいカーブを描き、すっきりと細い眼のラインは、エジプトの壁画のようにノーブルだ。
「……すごい、最初あった時と同じ人とは…… いや、こんな言い方失礼かな」
「いいえ、元プロとして褒められて光栄」彼女は柔らかく微笑んだ。
妙子がぺたりとフローリングの床に座ると、ケージから解放されたプリンがキャンキャン吠えながら走り寄ってきた。妙子は手を伸ばした。プリンは長い顔を何度も妙子の鼻に激突させながら、遠慮会釈なく妙子の顔を舐めまくった。
「こらこらこら、そこらへんにしとけ」小鉄がプリンに声をかけると
「大丈夫、化粧品は全部自然素材です」妙子はプリンの背中に手を回して、両手でさするように撫で続けた。
「口中心に舐めるのは、とくに親愛の情の表れなんですよ」小鉄は笑いながら言った。
「そうなの? 光栄だわ」
「じゃあ必要なことひと通り、お伝えします。まずそいつ、オス。女好きのスケベ」
「あら、気を付けなきゃ」妙子は笑った。そして足元でぐるぐる回るプリンを踏んづけないようにしながら、トイレの場所と餌の場所、糞の捨て場、お気に入りのおもちゃや遊び、あやし方と制し方、お散歩ルートを聞き、ひとつひとつ丁寧にメモを取っていた。
「きょうは夜通しの仕事になるんで、プリンをどうかよろしくお願いします」
「はい、頑張ります。仲良くしようね、プリン」膝の上で飛び上がっては口を舐めようとするプリンの頭を撫でて、妙子は笑った。
小鉄は振り向いてその様子を見ると、まだどこか信じられない思いを抱えながら、十一月の風の中、貼り紙のない玄関ドアを閉じた。
「そのおばちゃんにはともかく感謝しなきゃな」
コーヒーにミルクを落としながら、ラスティは淡々と言った。
「おばちゃんはよせよ、化粧したらなかなかの美人だったぞ」
「で、妙子さん、は、今も来てくれてるのか」
「ああ、今日で二回目だ。プリンともうまくやってくれてる」小鉄はそのチェーンカフェで一番お気に入りのミルクレープにフォークを刺しながら答えた。周囲の客のほとんどは冷えたコーヒーを脇に押しやってスマホ画面をいじっている。
「こんな展開になるとは思わなかった。刺客と戦う気でいたら、いきなりペットシッターに変身するんだからな。妙なことがあるもんだなあ」ため息交じりに小鉄が満足そうに言うと、
「契約書は交わした?」コーヒーをすすりながら、ラスティは尋ねた。
「携帯番号は聞いたけど、そこまでなんだ。色々事情があるとかで、住所も言わなかった。とにかく、約束の日時にきちんとこちらに来るとだけ……」
「違和感はないのか。俺は、妙だと思う」視線を落としたまま、ラスティは言った。
「書き手が二人いるという、あれか?」
「違う。あそこまで凶暴な文章書いてた人間が、五分刈りの刺青男の部屋にひょいと上がって、そうそう簡単にわんちゃんよしよし、に変身するかってことだ」
ラスティに言われて、小鉄は改めて文面を思い出してみた。
この苦しみが分かりますか。何度お願いしても聞いていただけないので、こちらから処分しにまいります。日にちも申し上げます、十一月二十八日午後九時です。巻き込まれるのが嫌なら犬だけ残して家を離れていてください。できれば犠牲は犬だけで済ませたいのです。忠告を無視すればあなたも同じ運命とお覚悟ください……
実を言えば、確かに言葉にしがたい違和感はあったのだ。
あの脅迫文と、実際に会った彼女の間に。
「そうなんだ」小鉄はつぶやくように言った。
「彼女、妙子さんは最初ほとんど無表情だった。それでいて怒りとか怨み、憎しみみたいなものがほとんどなかった。俺の話を真剣に聞いて、プリンを保健所に行かせていないと聞いて怒るというよりなんだか安心してたように見えた。なんだかんだ話してるうち雰囲気がやわらかく変わってきて、実際にプリンに会ったとき、顔を舐められても犬嫌いのそぶりも見せなかった……」
「ありていに言えば惚れられたのかもな。あるいは」口を開きかけた小鉄を制してラスティは続けた。「自分の意志でお前さんちに行ったんじゃないか知れない。誰かに命令されてる、あるいは、本人が二重人格、サイコパスって線も考えられる」
「……」
「だけどお前さんは彼女を信じ、合鍵を渡し、いつでもあの部屋に入れるようにした。ってことは、お前さんの目の届かないところで、くるみの宝、プリンをいつでもどうにでもできるってことだ」
「おい!」反射的に大声を出した後、小鉄は黙った。
そうだ。考えてみれば、それはまったくその通りなのだ。彼女が誰かに鍵を渡してしまえば、いつでも誰でもあそこに入れる……
「お前は激情家な割にすぐ情に流される。犬ぐらいはちゃんと守れよ。油断するな、何でもすぐ信じるな。そして、自分の身は自分で守れ。お前のために協力はしたけど、俺はダックスフンドのためには命は張らないからな」
刺すようなラスティの漆黒の視線を受けながら、小鉄は思った。
俺とこいつは以前からのダチで、格闘技の好敵手で、恋のライバルで、俺はあいつの惚れたくるみを手に入れた挙句死なせた。
そして今、彼女の残した犬の世話の為に、化粧のうまい謎のおばちゃんを家に引っ張り込んで、大事なプリンの世話を任せている……
その日の仕事を終え、夕食もとらず、大急ぎで帰宅した小鉄の目に入ったのは、アパートの自室の真っ暗な窓だった。錆びた階段を駆け上がり、鍵を突っ込んでドアを押し開ける。部屋の中は真っ暗だ。
「プリン!」
小鉄は叫びながらリビングダイニングと寝室の灯りをつけてケージの中を覗いた。どこにも彼女とプリンの姿はない。エサ入れは空っぽで、小さなソファの上に、プリン2号のぬいぐるみが転がっている。室内の空気はしんと冷えて……いや、外気よりはほんのりと暖かい。
今日は確か、午後十時までの約束だったはずだ。今は九時四十五分。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせながら、小鉄はあちこちの物入れの扉を開け閉めし、トイレや風呂場までひと巡りした。 幽かに、彼女の体臭と一体化した石鹸の香りがする気がする。この微妙な気温……エアコンをつけていたなら、切ってから三十分ぐらいか?
ラスティの不吉な言葉ばかりが繰り返しよみがえる。油断するな、何でもすぐ信じるな。
俺はまたやらかしたのか。そういうことか。いたたまれなさに、小鉄は意味もなく部屋のテレビをつけた。画面では男性アナウンサーが、抑揚のない声でニュースを読み上げていた。
「次のニュースです。ここ一週間ほど都内の公園や道路を散歩させた犬が帰宅したのち嘔吐やけいれんを起こして倒れる、という事件が続いています。今日、S区で散歩から帰った子犬二匹が死亡しました。警察は何者かが故意に毒餌をまいた可能性もあるとみて捜査しています」
『近所の住人の証言』というテロップとともに、チワワを抱いた白髪の老女が映った。
「わたしもね、あら変だなって思ったことはあるんですよ。児童公園の近くの道散歩させてたらね、掲示板の脇のところに、なにか茶色い土みたいなものがこんもりしてるの。モグラ穴かしら、と思って匂いかいだら、なんかそれ、チョコレートを砕いたものみたいなのよ。食べそうになったから、ダメダメって抱き上げたの。この子なんでも食べるのよ、アイスクリームとか干しイモとか。でもね、チョコなんて人間の子だって食べちゃうでしょ? よちよち歩きの子とか。まあ子どもがチョコ食べてもどうってことはないけど、子犬が食べると命にかかわるって、あんまり知られてませんよねえ」
「じゃあ、犯人はそれを知っていて……」インタビュアーのマイクだけが見えた。
「ええ、人間の子どもに食べさせるつもりならあそこまで細かく砕いたりしないでしょうしね」
かんかんかん。
階段を上がってくる足音がした。
小鉄は咄嗟にテレビのチャンネルを変えた。けたたましい歌番組が始まった。
ドアの外で、足音が止まる。
キャン! キャンキャン!
飛びつくようにドアを開けると、コート姿の小杉妙子がプリンを腕に抱いて驚いたような顔で立っていた。
「あ、びっくりした。もう帰ってたんですか。よかったね、プリン。真っ暗なおうちに帰ってくるの、怖いものね」
「……」
「この子、階段あがるの、嫌いなんですね。降りるのもだけど。足が短いからかな。お仕事、早く済んだんですか?」
何も答えず、妙子の腕の中からプリンを受け取って抱きしめる小鉄を見て、妙子は不安そうに眉を寄せた。
「あの、私、何か……」
「いや、誰もいなかったもんで」小鉄はくぐもった声で答えた。
「あ、お散歩に行ってたんです。雨が降っていないときを見計らって適当にお散歩させるってお話になってませんでした? ちょっと、遠回りしてたんです。ごめんなさいね」
「いや、そうだ。それ、忘れてました」
一人と一匹を室内に入れ、玄関を閉めると、小鉄はふうっと長く息をついて部屋のエアコンを入れた。妙子はエサ入れの皿を見て、ああお夜食の時間ね、と言い、フードパックからドライフードをざらざらと入れた。プリンは駆け寄ってカリポリと音を立てながら嬉しそうに食べ始めた。
「ちょっとひと息入れませんか。ビールとか、飲めます?」かがんで冷蔵庫に手をかけたまま小鉄は声をかけた。
「え、え」
妙子ははいともいいえ、とも取れる短い声を出して、続けてトイレシーツの交換を始めた。
玄関ドアの横においてある彼女の茶色いリュックをふと見ると、革ひもを絞って閉じるようになっている口がわずかに開き、ビニール袋のようなものが見えている。小鉄はそっと近寄って中を覗いた。
ビニール袋の中には、土を砕いたような何かが詰まっていた。
鼻を寄せると、かすかにチョコレートの匂いがする。
背後でがちゃりと音がした。びくりとして振り向くと、妙子が冷蔵庫を開けて中を覗きながら言った。
「ビール、私が出しましょうか?」
「あ、今グラス出します。ええとつまみ、つまみ……」小鉄は声が多少震えているのを悟られないようにしながら、彼女の隣で戸棚をがさがさと漁った。どうにか見つけ出したポテチを菓子皿に盛ってテーブルに向かうと、妙子は冷蔵庫の横のコルクボードにピンでとめた写真を見つめていた。
「これ、誰ですか?」
指さす先に、赤いタンクトップを着てガッツポーズを取る小鉄と、黒いタンクの背をこちらに向けて向けて同じポーズをとっているラスティがいた。
「友人ですよ。例の、ラスティパッチド・バンブルビー」
「ああ……」
溜息をつくように言うと、ラスティの背中の金字の英文を、彼女は声に出して読んだ。
Watch your character,for it becomes your destiny……
「発音、うまいですね。そういや、どういう意味なんだろ」
「マーガレット・サッチャーの言葉よ」妙子は即座に答えた。
「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる。その有名な言葉の、最後の一行」
「へえ。……物知りなんですね」
「たまたま、知ってただけ」
人格は、運命となる。何かのシグナルのように、その言葉は小鉄の頭の中で明滅した。
二人はダイニングテーブルに向かい合って座り、グラスを合わせ、無言で喉にビールを流し込んだ。
「ブランデーやウィスキーだと、チョコレートとかでも合うんだよね。つまみとして」小鉄はポテチを噛みながらぼそりと言った。
「チョコ?」
「最近流行ってるでしょ。パッケージがおしゃれで、ちょっと値が張って、カカオ成分の高いやつ」
「あ、ええ」妙子はあいまいに言った。
「でも、カカオ成分の高いチョコは人間には美味しくても、犬には毒なんだよね。あまり知られていないけど」
小鉄はお気に入りのぬいぐるみと格闘するプリンを見ながら言った。
視線を目の前に戻すと、妙子の手は幽かに震えていた。肌も、顔色も、今まで見た中で一番、青白い。そして…… 今度は目の横に、痣が見える。丁寧なメイクでごまかしているが、かなり濃い。手の甲には大きな絆創膏が貼ってある。視線をごまかしながら、小鉄は続けた。
「妻が繰り返し言っていたんで、結構よく覚えてるんです。犬猫に決して食べさせてはいけないものの話。
チョコレートの原料であるカカオにはテオブロミンというアルカロイドの一種が多く含まれてる。カフェインと似た構造を持った成分で、犬が食べると中毒症状を起こすことがある。
一般的には、犬の体重1kgあたり120~500mgのテオブロミンを摂取すると致死量となるといわれています。小型犬の場合は板チョコ1枚程度で、死に至る」
妙子は無言でぐっとグラスの中のビールをあけた。小鉄は口を開いた。
「ニュースはご存知ですか」
「何のですか」
「公園や道路に何らかの毒入りの餌がまかれて、きょう、このS区で子犬が二匹、死んだそうです」
「……」
「散歩から帰った犬がしばしばひどい中毒症状を起こして倒れる、という話は、耳にはしていたけどまあ、よくあることだと俺はそれほど気にしてなかった。でも、今日テレビで聞いた話では、その撒き餌がチョコだったかもしれないと、目撃者が言っていたんです」
そこまで言って小鉄が残りのビールを一気にあおると、妙子ははっきりとした声で尋ねてきた。
「本当に、死んだんですか」
「ニュースが嘘を言いますか? それとも、俺が?」
妙子は下を向くと、両手で顔を覆った。そのまま長い、長い沈黙の時間が過ぎた。
やがてすっと立ち上がると、妙子はに床に置いてあったリュックを拾い上げ、中からビニール袋を取り出した。
「プリン、ハウス。ケージに入ろうな」咄嗟に小鉄は立ち上がり、ソファでぬいぐるみと遊んでいたプリンを抱き上げてケージに入れ、鍵をかけた。
二人はダイニングテーブルをはさんで再び座った。テーブルの上には、正体不明の茶色い粒が詰まった袋がどさりと置かれている。ケージからはプリンの不満そうな声がキュンキュンキャンキャンと聞こえ続けていた。
「開けていいわ」静かな声で妙子は言った。
「その事件、私がやったと思っているでしょう」
「違うと言うなら、それも信じますよ」
「なぜですか。この状況で」
「プリンがあなたを信じているからです」
妙子は怪訝な顔をした。
「プリンは実は、動物嫌いな人間には決してなつかないんです。あと、人当たりは良くてもどこか心根の冷たい人間とかね。でもあいつは、あなたを見るたびに口元を舐める。そして尻尾を振りまくる。本能であいつは人間を見分ける。俺自身は人を見抜く能力がないらしいが、プリンが信じている人間を、俺は疑いません」
妙子は黙り込んだ。小鉄はしげしげと袋の中身を見つめ、一部をつまんでみた。チョコレートのようなもの、ドライフードの粒、砂粒、小枝、葉っぱ。チョコでないものも、含まれている。ということは……
「間に合わなかった」妙子はそう言って、口元を覆った。「子犬が、死んでしまったなんて……」
閉じた瞼の下から、押しつぶされたような細い涙の線が伝った。
小鉄は静かに言った。
「あなたは、これを撒いた犯人じゃない。誰かが撒いたものを回収していた。そうですね。
撒こうとしていたのなら、砂粒や葉っぱは混じらない」
妙子は頷いた。
「やめてくれないんです。なにを言っても、どうしても」
「誰が?」
妙子は頬の涙をそのままに、机の上に握りこぶしを置いて、俯いた。
「誰がやめてくれないんですか。ご家族ですか。ちゃんと言ってくれるなら、俺はできる限り力になりますよ」小鉄は畳みかけた。
「息子、です」
「息子さん…… 中学生の?」
「はい」
「つまり、その息子さんが犬がうるさいと脅迫文を貼ったり、チョコレートを撒いたり……」
「通りがかりの猫をバットで殴ったり、エアガンでカモや捨て犬捨て猫を狙ったり、池に漂白剤撒いたり、こんなことまで……」声を震わせながら妙子は言った。
どれもばらばらに聞いたことのある事件だった。小鉄は驚愕した。そのハンターが、いや犯人が、母子家庭の、いや、この人の息子。
「そんな風になってしまう何かが、失礼ですが、ご家庭にあったんですか」
「離婚した主人は、一応名の通った作家でした、私は編集部にバイトとして入って、何度か原稿取りに行きました。そしていろいろなことを教えてもらい、きみは勉強熱心で素直だと求婚されて、……尊敬と憧れで、そのまま結婚したんです」消え入りそうな声で、妙子は続けた。
「じゃあ、さっきのサッチャーの言葉も……」
「はい。聞けばなんでも答えてくれる人でした。
でも感情の起伏が激しくて、一人の時間が多くないと駄目な人だったんです。子ども……多生が生まれてからいっそう気難しくなりました。癇性な子で、すぐキーキー叫ぶし夜泣きもひどかったんですが、うるさいと物を投げたり、おふろに放り込んだり。私あの子を守るのに懸命でした。でもあの子が四歳の時、こいつのせいで作家として駄目になると怒鳴られて、もう駄目だと思って離婚したんです。息子を、多生をくれるならほかには何もいらないと言って」
「それで、生活費は……」
「仕事を探すためにあの子を一時的に施設に入れなければなりませんでした。それで収入がある程度安定して、施設に迎えに行ったのが三年後。
今までのぶんも愛してあげればいいと単純に思っていました。でも、そんなに簡単にいきませんでした。
あの子はひどく不安定でした。甘えたり怒ったり大声で泣いたりわめいたり。次は私について回るというか監視して命令するようになったんです。あれをやれ、これを持ってこい。子どもとは思えない、怖い目でした。私も自分の子に舐められちゃいけないと必死で、大声を上げたり、狭いところに閉じ込めたり、抱きしめたり、叩いたり。あの子の悲鳴で近所に虐待だと通報されたことも……」
小鉄は言葉を失った。あちこちで微かに聞いた覚えのある悲劇が、今、リアルに目の前にある。
「小学校高学年あたりでようやく大人しくなったと思ったら、知らないうちに小動物の虐待のほうに走ってたみたいなんです。お友達から知らせてもらって、愕然としました。
とにかく怖くて、児相の窓口やメンタルクリニックに相談に行きました。でもいざ本人を行かせようとすると、彼はそういうこと自体を嫌って、病人扱いするなら本物の気狂いになってやると」
「……」
「中学に上がってからは私に隠れて、どこで手に入れたのかエアガンやバタフライナイフをバッグに入れてたり…… そういうものを見つけるたびにぞっとして、捨てて隠して殴られて、毎日がもう戦いでした。そのうち何だか高そうなチョコレートをたくさん買ってきたかと思うと夜中に砕き始めたんです。何の意味があるのか、ネットで調べてみて犬とつながっているのを知って、ぞっとしました」
「それで、直接攻撃の一つが俺んとこか」
「高校行きたいのに犬がやかましくて受験勉強ができない。もう、犬ごと飼い主を殺す、直接行くって。でも、プリン君散歩させてるあなたを遠くから見て諦めたみたいです」
小鉄は苦笑した。ラスティの言っていたタイプは息子だったか。
「いやがらせ貼り付けるのも中身を清書するのも返事読みに行くのも、お袋がやれよって。で、私がやっていました。でも、どこかで止めなければとは思っていたんです。取り返しのつかないことになる前に……」
「で、代役で約束の日時に刺青男のところへ。いくら何でも言いなりになりすぎじゃないですかね」
「いろいろ事情はあったにしても、私は昔あの子に虐待に近いことをしていた。あの子は毎日泣いていた。そして、今こうなってる。私が悪いんです」
「私が悪いから、悪事の手伝いをしてる。そりゃヘンじゃないですか? 彼のためにも世間の為にも言い訳にもなってない」
「……」
「いや、あの、説教なんてするつもりじゃなかった。じゃあね、妙子さん、もうここに一時隠れてなさいよ」
「ええ?」
「俺はかまいませんよ。プリンもご機嫌だし、俺はその気になれば二人分ぐらいは稼げる。こんな生業の三十三歳の男の住処でよければ、ここに当分隠れてプリンの世話しててくれるとありがたい。でないとあなたはずっと彼の奴隷ですよ。結局彼は、何があっても自分を受け入れてくれるあなたに甘えてるんだ。
あと、俺、こう見えてプリンよりはスケベじゃないから。そこは信用次第だけどね」
「でも、あの子、ここの場所を……」
「まあ乳離れしてないならいずれここに来るでしょうね、俺の大事な母ちゃんを返せーって。
もし来たら丁寧にお相手して差し上げますよ。むしろいい機会だ。
もしかしたら、もう寂しくなってその辺でうろうろしてるかもしれないけどね」
小鉄はポプラの枝がひゅうひゅうと鳴っている窓の外を見て言った。
「おい」
背後から不機嫌な声をかけられて、少年は振り向いた。
駅のコインロッカーから取り出した荷物を、もう五分ほど開いたり閉じたりしていた。背後には、レインボーカラーのニットタム(レゲエ帽子)をもっさりかぶりサングラスをかけた、アスリートのような体つきの男が、銀色のジャケットのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「いつ終わんのそれ」
「あ、すいません。すぐ」
男は身長百七十五センチぐらいで、服の上からでも鋼のように鍛えられた体つきであることが分かった。ウエストは細く、四肢は長く、日本人離れした体系だ。
「もう終わりました、から」
少年は大型ロッカーから迷彩色のリュックを引っ張り出した。そこ以外、あいているロッカーはほかになかった。
場を譲ってちらりと見ると、タムの男は半透明の大型のスポーツバッグを重そうに肩から降ろした。馬の蹄鉄のようなものと車のハンドルのようなものが見えた。それと、航空機のなかで首に巻くエア枕をばかでかくしたような三日月型の物体……
男は振り向いた。
「何か用か?」
「いや、……」少年は言い淀んだ。
「これか?」男は、ハンドルのようなもの、を取り出して見せた。
「これはダンベルのプレート。輪っかの部分な。この曲がった枕みたいなのは、ブルガリアンサンドバッグ」
「ブルガリアン? 武器ですか?」
「武器にもなるが、トレーニングに使う」
「トレーニング……」
「持ってみるか?」
三日月形の黒いサンドバッグをどんと渡されると、少年は持った両手をだらりとおろしてよろめいた。
「うわ」
「ひとつ二十キロ。その細腕じゃ覚悟して持たないと肩をやられる」
男は軽々と取り戻すと、いきなり両側の取っ手を持ち、体の周囲で振り回して見せた。思わず後ずさった少年を見てにっと笑うと、男は少年の足元のリュックに目を落とした。
「兄ちゃんはトレーニングするより、戦いたいほうか」
「……どうして」
「ガンのおもちゃが見えてるぞ」
少年はあわててリュックの口を閉じると、言った。「エアガンです、大した威力もないし」
「にしちゃいろいろとため込んでるな」
「友達に頼まれてここに入れてただけで」
「サバゲー仲間あたりか。俺に会ったから移動するしかない。悪かったな」
「いや別に、なんとも……」
「鍛える方には興味はないのか」
「え?」
「強くなれば、武器なんて大して必要ない。戦争か、弱い者いじめ以外ではな。自分より小さい弱いものをもてあそぶのは、さらにカスのすることだ」
「……」
「坊主、名前は?」
いきなり問われて、少年は戸惑ったように黙り込んだ。
「俺は香取真雪。誰もその名では呼ばないけどな」
「ま、まゆき?」
「真実の雪。似合わないか?」
「いえ、なんか、……男の名前としては」
「残念だが男じゃない」
「え?」
「通称、ラスティ」
「……」
「もしお前が、自分の家と学校とダチ以外で居所が欲しかったら、ついて来い。俺は格闘系のジムでトレーナーやってるんだ。初回体験、無料。特別サービス付き。アッチのほうじゃないぞ」
かがみこんでラスティが囁くと、少年はぷっと吹き出した。
「俺、通称、タオです」
少年の切れ長の目に、かすかな憧れが揺蕩っていた。
『ゲット成功』
小鉄は短文のメールを見てにっと笑うと、「仕事の速い奴だ」と呟いた。ソファの隣ではプリンが丸まって寝ている。
「どうしたの? 多生から何か?」キッチンで夕食の用意をしていた妙子が振り向いた。
「ラスティが接触に成功した」
「あの子と、もう?」妙子は上ずった声を上げた。「どこで?」
「昨日家を出るとき、なにか書き置いてきた?」
「東北の温泉巡りしてきます、ってだけ」
「またずいぶんと年寄りくさい」小鉄は笑った。「母親を奴隷扱いしてる坊主にはいい薬だ。とにかく、ラスティに任せとけば大丈夫だ。何かあればまた連絡して来るよ」
「ええ。とにかく、よかったわ」そう言ったあと、「そうだ」妙子は独り言のように呟いた。
「トイレの窓のカーテンの刺繍、ハコフグがほつれかかってるの。修繕しなくちゃ」
「別にいいよ、そんなの」
「でも、そうしたがってるみたい」
「え、誰が?」
妙子はもう鍋を覗いてふんふんと鼻歌を歌っていた。
隣でプリンが細く目を開け、ぷう、と鼻を鳴らしてまた閉じた。
雑居ビルにしか見えない建物の灰色のドアを開け、薄暗い階段を降りた先の地下室には、ドライエリアに向けた小さな窓が一つあるきりだ。壁も床も打ちっぱなしのコンクリートで、アラビア模様の円形のラグマットが中央に敷いてある。
空間の左端にはサンドバッグがぶら下がり、その隣にはランニングマシンや筋トレ用チューブ、ダンベルが置かれ、縦長の鏡が壁に立てかけてある。あとは背もたれのないベンチのようなものと冷蔵庫があるきりだ。壁の窪みに、最小限サイズのシンクとコンロが収まっている。
「ここ、ジム?」タオはあたりを見回しながら尋ねた。
「いや、自宅」
「どこで寝てるんですか」
「その梯子の上が中二階で、マットレスがある。玄関脇のドアのむこうがユニットバス」
人が住んでいるとは思えない冷えた空気だった。
「大して物がなくてもそれなりに暮らせるもんだよ」
「へえ」
物珍しさに、狭いユニットバスや見たことのない外国製のボディソープを眺めていると、いきなり両腕で後ろから首を絞められた。がっちりヘッドロックをかけられ、両腕で首をホールドされ、息もできない。
「ぐ……」
空しくもがいて腕を叩くが、鋼鉄のような腕はびくともしなかった。目の前が白くなりかかったとき、ふっと体が自由になった。そのままよろめいて壁にぶつかり、首をおさえてタオはしゃがみこんだ。少年を見下ろしてラスティは飄々と言った。
「な。素人ってのはこんなもんだ。いきなり後ろから首を絞められると何の抵抗もできないだろ」
「……当たり前、だろ」切れ長の目でラスティを睨み、咳込みながら、タオは言った。
「そこを、いきなりどこからどういう攻撃をされても動ける身体にするのが俺のやってる護身・格闘術なんだよ」ラスティはサングラスを外しながら言った。その下から現れた黒曜石の様な深い瞳と長い睫毛に、一瞬タオは呆気にとられたように目を丸くし、それからわざと眉間に皺を作ってぎりっと唇をかんだ。
「うん、なかなかいい面構えだ。見た目ほど根性無しでもなさそうだ。その勢いで、俺に同じことをしてこい」
「同じこと?」
「後ろから、失神させるぐらいのつもりで首を絞めて来い。本気出していいから。さあ」
ラスティはタオに背中を向けた。体に張り付いた薄いブルーのタンクの背中のラインにタオは思わず見とれた。白い肌と、滑らかで無駄のない筋肉。肩に、ふわふわしたハチのような刺青がある。そして湧き上がる狂気のようないつもの衝動ごと、タオはぶつかるようにしてラスティの首を腕で締め上げた。
それは一瞬だった。ラスティの両腕が、組み合わせたタオの両手をがっちりホールドし、上に押し上げたと同時に体をねじって腕の輪の下を潜り抜け、次の瞬間タオの下半身を蹴り上げ、倒れた頭に肘を落とし、寸前で止めた。
「そう痛そうな顔するな、当ててるようでたいして当ててないから。大事なとこにも」ラスティは笑って、涙目のタオの手を掴み、ぐいと引っ張り上げた。
「さてと。
お前が同じぐらいの速さで同じ動きをし、体格の違う相手を封じるには、まず基本的な筋力が必要だ。初心者にお勧めなのが、リストカール。このダンベルを使って、手首の筋力から鍛える。胸筋を鍛えるエクササイズはそのあと」
「……」
「強くなりたくないか? ひとりでも戦えるぐらいに。チンピラの一人ぐらいは殺せるぐらいに」
「なりたいです」少年は語気を強めて即答した。
「よし」
ダンベルをつかまされ、ベンチにまたがって、タオは細い身体中を汗まみれにしてトレーニングを始めた。
限界とか少し休ませてと口をはさむ隙さえ与えられず、次から次へと実技指導され、絞り出す汗もなくなったあたりでラスティはようやく壁のデジタル時計を見上げた。
「もう午後八時か。家に連絡とか必要かな」
「必要、ないです。親、家出中、だから」息を切らしながら、タオは言った。
「そりゃ気楽だな。両親揃って?」
「父親はいなくて、と言うか俺にとっては死んだようなもんで、母親だけ。温泉巡りするとか、置き手紙があったけど」
「それじゃ家出じゃないじゃないか」
「行先は温泉じゃない。どこだか知ってる」
「へえ。そこへはお迎えに行かないのか」
「行かない。行きたくもないし、帰りたくもない」吐き捨てるように言うタオに、ラスティはイオン飲料のボトルを渡した。しがみつくように液体を流し込む、端正なラインの横顔を見ながらラスティは言った。
「お袋さんに心配させたいのか。甘ちゃんだな」
「ただの家政婦のおばちゃん相手に、糞みたいなケンカするのが嫌なだけだ」
「家政婦だって尊い仕事だぞ、少なくともお前さんはその仕事で育てられたんだろ」
「……ほんとうは、家政婦じゃないんだ」
「ああ?」
「あいつは嘘吐きのインチキ女だ。母親も、女も、女が子どもがわりに連れてる甘ったれの犬も猫も、みんな嫌いだ。だから……」
タオは急に黙り込んだ。ラスティは煽るように言った。
「だから、どうした?」
タオは声を落として力なく言った。
「しばらく、普通のことばで、普通に人と、喋ってない。
本当は、普通の気持ちになりたい。
怒鳴ったり喚いたり脅したり傷つけたり殺したり、じゃなく、静かに、誰かと……」そこまで言って、タオははっとした顔になった。
「殺したり?」
「……」
「ま、いろいろやってるわけだ」
ラスティは呟くとうしろを向き、小さな引き出しの並ぶ縦長の小棚から銀色の小さな箱を取り出した。ふたを開け、赤い紙のようなものを一枚、ピンセットでつまむ。そしてそれを口に咥え、ふっと吹き飛ばし、こちらを振り向いた。
タオは思わず小さく声を上げた。紅を引いたように、ラスティの唇が赤く染まっていたのだ。同時に、くっきりした眉の下の意志の強そうな漆黒の瞳が、まるで情の深い女のように潤み、ほのかな笑みを湛えている。まるで魔法のように、佇まいが一瞬でどこかの王女のように艶やかになっていた。
「冷たい床だけど、ラグの上でよければ座りましょう。暖房はないけど床暖房だけはあるの。今、点けたから。静かに話がしたいんでしょ」
声のトーンも完全に変わっている。今までが作り声だったのか、こっちが本物か。言葉もなく、タオは円形のアラビア模様のラグにぺたりと座った。ラスティは引き出しから出したローズピンクの絹のストールを頭からふわりと被り、首の周囲でくるりと巻いた。
「じゃあ、会話の続き。タオ君はお母さんが嫌いなの、それとも女が嫌いなの、人間が嫌いなの」
眩暈のするような思いで、いきなり知らない女に変身したラスティを見ながらタオは言った。
「それ、そのあたり、……ごちゃごちゃしていて、わからないんだ」
「お母さんが嫌いなのは、家政婦じゃなくてインチキ女だから。それは、どういう意味?」
「あいつは……」
言いよどんだ後、タオは思い切ったように続けた。
「家政婦のふりして、掃除だ料理だと言って他人の家に入り込んで、信用をもらってから言いだすんです。この家には悪霊がついてるとか、変なものが見えるとか。そして、 爺さんや婆さんを騙してお祓いだのなんだので金を稼ぐ」
「……つまり、表向きは家政婦で、中身はインチキ霊能力者ってこと?」
「簡単に言えば、それ。だと思う。今は男の家に入り込んで帰ってこない。あんな母親、俺はいらない」
「まあ、でもわたしも、インチキ人間だけどね。誰にでもわかる正体をきちんと見せながら、本当の性別で生きなければならないのなら」
「あなたはインチキじゃない。生まれたまんまで、ちゃんと生きてる」
「つまり、凶暴なまんまでってこと?」
「そう」
ラスティは甲高い笑い声を上げた。タオは真顔のままだった。
「俺もそうなりたい。バカで癇癪持ちで人でなしに生まれたなら、バカで人でなしのまま。乱暴に冷酷に生まれたなら、乱暴に冷酷なまま、生きたい。そしてあなたのように、強くなりたい。何があっても、反省することも泣くこともしないような人間になりたい」
「わたしが反省もしなきゃ泣きもしないと思ってるのね」
「そのほうが似合ってるよ」細い目を上げて、タオは言った。
「泣かなくて、残酷な女?」
「そう。そんな人といっしょに、人殺しがしたい」
「素敵なこと言うじゃない、坊や」
ラスティはすっと真顔になると、指先でタオの顎を撫でた。タオはぞくりと体を震わせた。
「じゃあ、わたしに殺されるっていうのはどう?」
「それも、いいかも。こんな、糞みたいな…… 世界……」
ラスティのストールがほどけてタオはともにピンクの絹に包まれた。真っ赤な唇が眼前に迫ってきたと同時に、少年は目を閉じた。体臭を伴った生々しい他人の唇が押し付けられる感覚。それは性的と言うより、驚愕だった。体から力が抜けてゆく。抱きしめられたら骨が折れる、という情けない恐れが一瞬背を駆け抜けたが、押し付けられたラスティの胸の筋肉には、乳房の名残の優しい膨らみが確かにあった。そこから疼きのような何かが、血が逆流するように全身に広がってゆく。いつの間にかタオは見知らぬ女の体にしがみつき、からみつく舌に夢中で応えていた。
すっと『彼女』は身を離した。
「ねえ。チョコレートは好き?」
タオは口を開いた。答えようとしても、声が出ない。あれ、舌が、痺れてるような。何で……
真っ赤な唇の、漆黒の目の女の顔が、視界の中でぐらぐらと揺れ始めた。
「あなたが子犬なら、食べさせてあげたいわ」
もう、意味もよくわからない。言葉が全部音楽みたいだ。
タオは薄く目を閉じた。ラスティはタオの体をゆっくりラグに横たえた。髪の毛の代わりに、ピンク色の絹がラスティの顔の両側から自分に向けてなだれ落ちている。音楽のような言葉が意味をなさずに、タオの耳に次々と流れ込んでくる。
「わたしが最後に泣いたときのこと、教えてあげましょうか。
恋していた子が、死んだのよ。SMクラブで、客に打たれて首絞められてね。
それは可愛い、風のような鳥のような、鏡みたいな子だった。美しくて無力なもの、言葉を持たないいのち、そんなものから順に心に取り入れて、愛してた。
なのに、あの子は世界の悲しいこと、残酷なこと、嫌なこと救いのないこと、そんなものばかり捕まえるアンテナを持ってたの。わたしはそいつをへし折ってやりたかった。でも、無理。どんなに体を鍛えても、強くなっても、それを折ると、あの子も消えてしまう。そしてわたしは、あの子には、ただ幸せになってほしかった。だから、バカで一途ないい男に、あの子を真正面から抱きしめてくれる男に、譲ったのよ」
タオはぼんやり思った。ああ、なんでだろ。俺、死ぬのかな。その前に、言いたい。
ラスティ。まゆき。さん。多分、あなたがおれの、たぶん、好きになった、最初の……
ラスティは、震えながら伸ばしてきたタオの指先を、掌で包み、自分の真っ赤な唇にそっとあてた。
「でも、無理だった。どうしても、目に入っちゃうものがあるでしょ。見てはいけない、世界中に常に流れている毒電波。罪のない、小さな生き物たちが、犬が猫が、虐待され殺されていく、そんなニュース。普通の人間は流せることが、あの子には引っかかってしまう。そういう風に生まれ付いていたから。それで、あの子は罰を求めていたの。人間の代表としての罰を。それを受けることで、生きながらえていた。鞭打たれ罵られることが、あの子の選んだ仕事だった。
でもそれを見ないようにして、仕事をやめて、自分の幸せだけを見ようとしたとき、あの子の中できっと逆流が起きたのよ。お前を許さない、っていう。犠牲者たちを見ずに幸せになろうというのか。たぶん、そんな。
そして、お客に頼んだ。
好きなだけ痛めつけて。わたしの息が、止まるまで……」
そして、もはや何の反応も亡くなった少年の額を撫でると、囁いた。
「おやすみなさい。生きなおす気があるなら、この世界に戻ってきて。できないなら、また殺してあげる」