いきなりなにをなさいますの?
カシャン!
と、音を立てて、わたくしのお気に入りのシュガーポットがお砂糖ごと床に散らばってしまいましたわ。
キッチンで両手を小さく挙げるようにして、セバスチャンが困ったように眉尻を下げました。
「ああ、こんなことになるだなんて。お嬢様大変です。シュガーポットは落とすと割れてしまうんですね」
わたくしはすぐに、箒とちりとりを持ってきて破片とお砂糖を掃き集めましたわ。
セバスチャンときたら、落とした音の大きさに驚いてしまったみたいで硬直しているのだから、本当に執事の仕事が向いていませんわ。
ようやく気づいて、そのラピスラズリ色の瞳を宝石みたいにまん丸くさせましたの。
「あっ! お嬢様いけません。陶器製とはいえ破片は尖って危ないですから、ここは私にお任せください」
「もうすぐ片付きますわ。むしろセバスチャンにやらせる方が心配ですもの」
大きな破片をつまみ上げたら……キャッ!
わたくしらしくもなく、破片の尖ったところで人差し指に切り傷を作ってしまいましたわ。
忠告を受けていただけに、これでは主人の威厳もなにもありませんわね。
「ああ、お嬢様いけません」
白い指先に小さな赤い斑点がぷくっと浮かんで、チリチリ痛みますの。そんなわたくしの指をこともあろう、セバスチャンはそっと自分の口に含んでしまいましたわ。
な、なななな、なんてことしますの! 唇の感触や温かさが、なんだかとってもゾワゾワしてしまって、こんな応急処置をされても困りましてよ。
「いきなりなにをなさいますの?」
「ひぇふっひぇほひへふおひょうはま」
まともに喋れていないですし……こういう時は消毒液と包帯ですのに。
救急箱を取りにいこうにも、セバスチャンに指をくわえられたままでは……。
「はい、これでもうよろしいですよお嬢様」
セバスチャンがそっとわたくしから離れて、恭しく一礼しましたの。
「な、なにがよろしいですって!」
指先の痛みは消えていましたわ。みれば出血も止まって不思議と傷も閉じていましたの。
セバスチャンったら悪びれもせず「唾液には殺菌作用がありますから、これで安心ですねお嬢様」ですって。
ハァ……本当に困った執事ですわね。
それにシュガーポットもこんなことになってしまって……高いモノではないですけれど、お気に入りでしたのに。
わたくしから破片の片付けを引き継いで、床を綺麗にしおえるとセバスチャンは改めて「さて、このままですとずっと甘くない紅茶を飲むことになってしまいますね」と、その原因も責任もまるで他人事みたいに言いましたわ。
だからわたくし、こう言ってさしあげましたの。
「新しいシュガーポットを買いに行きますわよ!」
「仰せのままにお嬢様。では、すぐに出かける支度をいたしましょう」
最近、なにかと出かけることが多いですけれど、思えばいつもセバスチャンがなにかやらかしているような気がしてきましたわ。
◆
乗り合い馬車でレーヌ川沿いの道を進んで、わたくしとセバスチャンは王都一区にもほど近い、サントレノ通りで馬車を降りましたの。
ここは通称貴族街とも呼ばれていて、王室御用達の名店や高級な宝飾品店が建ち並ぶ、王都でもお金持ちばかりが集う通りですわ。
ウインドウショッピングにはうってつけですけれど、あまり予算は掛けられませんわね。
セバスチャンを引き連れて、わたくしはガラス工芸店に向かいましたの。
店内は色とりどりのガラス細工が並んでいて、その中にとっても素敵なガラス製のシュガーポットを見つけましたわ。
手に取ってつい、うっとり見つめながら値札を見ると……あら、半額値引きだなんて、お買い得ですわね。
けど、ここですぐに飛びついてはいけませんわ。なにか問題があるのかもしれませんし。
わたくしは店主を呼びましたの。
「こちらのガラスポットはどうして半額ですの?」
店主の小太りの男は「おお! これはこれはお目が高い! いやねお嬢さん。このポットと言わず店内の品はどれも半額の処分中なんですよ。閉店セールというやつでしてね」と、ずいぶんと陽気に言っていますわね。
セバスチャンが首を傾げて店主に訊きましたわ。
「閉店ですか。こんな一等地に店を構えて、品物もどれも素晴らしいのに。職人の技術は王室御用達の名店にも劣りません。もったいないですねご主人?」
「いやね、一等地ともなると家賃もバカになりませんし。工房ごと王都を離れて余生はどこか田舎でのんびり過ごそうと思ってるんですよ」
わたくしのように花の王都に憧れる人間とは逆ですのね。
ともあれ、透明なガラスのシュガーポットはわたくしも気に入りましたし、妙に美術品や陶芸に詳しいセバスチャンがお墨付きをするくらいですから、悪い品では無さそうですわね。
「こちらのポットをいただきますわ」
「へいへい! すぐにお包みいたしますんで!」
こなれた手つきで店主はガラスポットを包んでくれましたわ。
セバスチャンが支払いを済ませて、ポットの包みを手にしたところで……。
「わたくしが持ちますわ。あなたに任せていると、また手元を滑らせてしまうかもしれませし」
「お嬢様、私はそこまでうっかりはしていません。一日に二回も同じ失敗をするだなんてことはありませんから」
「その言い方ですと、明日になれば同じ失敗を繰り返すように聞こえましてよ」
「ええ。ですからむしろ、そのガラスポットの包みを預けるのでしたら今日が最適かと」
わたくしは包みを手にぷいっとそっぽを向いてやりましたわ。
「明日からこのポットに触れてはいけませんわよ」
とりあえず、良いモノが手には入ったのはよかったのですけれど、毎日シュガーポットを割られては困りますものね。
眉尻を下げたまま神妙な顔つきのセバスチャンを引き連れれて、わたくしはサントレノ通りに戻ってきましたわ。
買い物が済んでしまうと、すぐに帰るのももったいないですわね。
セバスチャンったら、わたくしの頭の中を読み取ったように言いましたの。
「お昼までしばらく散策などいかがですかお嬢様?」
「仕方ありませんわね。ランチはどこかのカフェがいいのかしら?」
「でしたら宝飾品店も営むメレーリオのカフェがよろしいかと。スクランブルエッグが絶品とのことです」
「まさか、それが食べたくてシュガーポットを割ったりしていませんわよね?」
ついじっとりと湿った視線で疑ってしまいましたわ。この食いしん坊な執事ときたら、本当にやりかねないですし。
セバスチャンは目を細めて微笑みながら、わたくしにこう返しましたの。
「めっそうもない。いつかお嬢様に素敵な殿方が現れて、サントレノ通りの宝飾品店で婚約指輪をお求めになられる時に、メレーリオのカフェでご休憩なさると良いのではと進言するつもりでいましたから。そのための下調べです」
こ、こここ婚約指輪ですって!? つい先日、実家のお姉様がしたばかりですのに、わたくしには早すぎますわ。
変な所にばかり気を回して、まったくもぅ。
「そういった準備の良さだけは一人前ですのね。けど、心配無用ですわよ」
「そう仰らず、下見くらいはしておいても良いでしょうお嬢様。そうだお昼には早いですが、カフェではなく宝飾品店の方をのぞいてみるのはいかがでしょう?」
まだ行くとも言っていませんのに、セバスチャンったら先に歩き出してしまって……もう、本当に自分勝手ですのね。わたくしが一緒にいないと迷子になってしまいますわよ?
◆
半ば押し切られる格好で、わたくしもセバスチャンにお付き合いしてメレーリオ宝飾品店までやってきてしまいましたわ。
通りの角にある瀟洒な建物で、華美な装飾もなく一見すると宝飾品を扱うお店に見えませんわね。
隣でセバスチャンが言いますの。
「お嬢様。こちらはカフェで宝飾品店は向かい側です」
ちょっとだけ顔が熱くなりましたわ。
「わ、わかっていますわよそれくらい」
振り返ると通りを挟んだ対面に、金細工のあしらわれた看板の店があった……のですけれど、なにやら人だかりでごった返していますわね。
「あら、なにかしら?」
「ご覧くださいお嬢様。あちらが野次馬にございます」
足を止めているのは噂好きそうなご婦人方でしたけれど、その人混みを散らすように店の正面玄関から大柄な男の方が姿を現しましたわ。
ベージュのトレンチコートに同じ色の中折れ帽をかぶっていて、肌はほんのりと焼けていますわね。黒髪は短くて彫りの深い顔に太い眉。口ひげを蓄えたオジサマという感じで、身長はセバスチャンよりもさらに高いですわ。
「非常線を張れ。すぐに現場検証だ」
オジサマの後から王立警備隊の制服隊員が次々と出てきましたの。
「どうやら事件みたいですわね」
セバスチャンが顎を指で挟むようにして、小さく頷きましたわ。
「宝飾品店に王立警備隊ですか。強盗でもあったのでしょうか? 少し見に行ってみませんかお嬢様」
「先ほど野次馬を揶揄した人の言葉とは思えませんわね」
と、言いつつも、わたくしもちょっぴり気になってしまいましたの。店の前に非常線のロープが張られて、警備隊員が解散を指示するところに、わたくしたちはつい、不用意にも近づいていってしまいましたわ。
集まった人たちが警備隊に追い立てられた隙に、非常線のロープぎりぎりのところから、お店の中をのぞき込んでみましたの。
開放された両開きの立派な扉の向こう――店内のショーケースに宝石が並んでいますけれど、違和感がありますわね。
わたくしの隣で、セバスチャンも気づいたみたいですわ。
「強盗にしてはガラスの一つも割られていませんね。それにショーケースの中身も無事なようですし」
「良く気づきましたわねセバスチャン。わたくしはもちろん気づいていましたけれど」
でしたらいったい、なにがあったのかしら?
まあ、事件ならそのうち記者が聞きつけて取材をして、新聞にでも載りますわよね。
「詳しいことは明日の朝刊に任せて、そろそろ行きますわよ?」
ずいぶん熱心に宝飾品店の中を見つめるセバスチャンに、わたくしはそう告げて袖を引きましたの。
普段なら「はい、お嬢様」と、すぐに歩き出すところですのに、セバスチャンったら立ち止まったままで、いったいなにがそんなに気になるのかしら。
一瞬の間の後で、突然、太い男の声が通りに響きましたわ。
「ん!? まさか貴様は……怪盗紳士だな!? 大人しくしてもらおうか!」
部下に指示を出し終えて一息吐いていた、先ほどのトレンチコートのオジサマが、ずいずいと肩を怒らせて非常線のロープ際までやってくるなり、突然セバスチャンの腕をぎゅっと掴みましたの。
セバスチャンはぽかーんとした顔ですわ。珍しく滑稽な表情ですけれど、怪盗紳士ですって!?
オジサマは腕を掴んだまま身体を入れ替えるようにして、あっという間にセバスチャンを拘束してしまいましたわ。
制服の警備隊員も角砂糖に群がる蟻みたいに集まってきて……い、いったいどうなってしまいますの!?
「犯人は現場に戻る……その背格好もすべて店員の証言通りだ。貴様を逮捕する!」
怠惰罪があれば執事としては逮捕されても仕方の無い働きぶりですけれど、わたくしのセバスチャンをいきなり逮捕だなんて、このオジサマいったい何者なのかしら?