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子供の体感時間は大人のそれより長い、とはよく聞くけれど、私の秋はあっという間に過ぎ去った。
小学校入学が刻々と近づく五歳の冬。
都会では珍しいことに、雪がちらつく1月の今日は、星野宮家の防音室にモーツァルトの『ロンド』が響く。
春兄様の、淀みのないピアノに置いて行かれないよう、でも、綺麗な旋律で、と私はただ今必死です。
練習に付き合っていただいた手前、情けないところは見せたくないもの!
そんなこんなで、ようやく最後の一音を引き終えて、ホッと息をつく。
私の横で、完璧な伴奏をし終えた春兄様が、ピアノから立ち上がった。
「桜子、休憩しようか」
向けられる優美な微笑み。
今日も今日とて、我が兄は麗しい。
リビングに移動して、テーブルを挟んだソファーに、向かい合って座る。
私はオレンジジュース。春兄様は紅茶。
ダージリンかな?
「桜子、最近熱心に練習してるから、バイオリン、上手になったよね」
「う~ん……そう、かなぁ?」
「納得、いってないの?」
「だってぇ、春兄さまのご演奏と比べたら、まだ全然なんだもの!」
「まぁ、それはね。僕は桜子より二年長く弾いてるし、比べる方が間違ってるでしょ」
「でもぉ」
頭の中で再生される、今までに聞いた、春兄様のご演奏。
そのどれも、小学2年生のものとは思えないくらいに完成度が高い。
私の演奏を思い浮かべれば、その差は歴然。
春兄様がいくら『キミ☆らぶ』の中で天才設定とはいえ、ここまで差があると落ち込みもします。
「前から習ってたとは言え、バイオリンを頑張り出したの、数か月前でしょ?それにしては十分、上達してる方だと思うよ」
春兄様は私を宥める様に優しく言う。
まぁ、それは、確かに、そうかもしれないけど……。
私がお稽古ごとに本腰を入れ始めたのは、西野美優と旧桜子の記憶を取り戻した数か月前、『掴み取れ老衰!計画』を打ち立ててからだ。
旧桜子の時は、あんまり記憶にないけど、そこまで一生懸命じゃなかった憶えが。
なんたって残念令嬢だものね。
特技なんてありません。
でも、新桜子として、文字通り生まれ変わった私は違う!
計画の③、「桜子ハイスペック作戦」に沿って、必死で色々と身につけている最中なのだ。バイオリンも、その一つ。
だって、死にたくないもんね!
まぁ、春兄様のご演奏には、何年頑張っても追いつける気がしないけれど。
そんなことを考えながら前に座る春兄様を見れば、ソファーにゆったりと背中を預け、どこからか取り出したご本を読んでいらっしゃる。
背表紙には『ABC殺人事件』の文字。
春兄様はミステリーがお好きなのです。
あ、ちなみにここで、近頃の8歳児はアガサ・クリスティーを読むのね、なーんて思ってはいけない。
だって彼はあの、星野宮春雪なのだから。
春兄様は天才である。
音楽を奏でれば、将来は是非プロに、と嘱望され、勉学は何学年も上の問題をすらすらと解く。
走れば学年で1,2を争う速さだし、語学なんかは、既に4か国語で社交をこなしているとのこと。
お母様はよく、「春雪さん、また○○の先生に褒めていただいたんですよ」という嬉しそうな声を頻繁に出している。
様々な分野の賞や成績等で、目に見える成果をきっちり積み上げ続ける春兄様を見れば、それが先生方の贔屓で無いことは明らかだ。
さてさて、もうお分かりかとは思いますが、春兄様こと、星野宮春雪は『キミ☆らぶ』乙女ゲーム版の攻略キャラだ。
メインヒーロー、京極会長とは別に、それぞれ四季を司る攻略キャラ4人のうちの一人。
通称、『魔性の貴公子』
魔性の貴公子って、なにそれ、ウケる! と思うなかれ。
これはゲーム会社公式のキャッチコピーなのです。
ストーリーの裏側や、各キャラの詳細にスポットが当てられた乙女ゲーム版。
各キャラに合わせたキャッチコピーが付け足されていた。
西野美優が間違って覚えてなければ、こんな感じである。
『メインヒーロー』孤高の王子、京極紫苑
『春』魔性の貴公子、星野宮春雪
『夏』道化の君、冷泉院瞬栄
『秋』絶対王者、阿久津秋羅
『冬』中立の騎士、常磐柊生
…………。
現在、この5人が実際に存在しているとなると、こう、何か、色々とクルものがある文言ですね。
西野美優の時は、かっこいい! って思っていたのになぁ。
次元の隔たりとは、時に残酷なものである。
さて、この『春』を司る魔性の貴公子が悪役令嬢の兄、星野宮春雪である。
アニメで見た春雪は、雪の様に白い肌と、それに映える漆黒の髪、切れ長のアーモンドアイに血を垂らしたような赤い唇。白雪姫も慄くような美貌の青年だった。
性格も、分かり易く攻撃的な悪役令嬢の兄とは思えないくらいに、掴みどころがない。
蕩けるほど優しいのに、時折何かを企むような。
助けようと差し出したその手で、唐突に突き放すような。
そんな矛盾した行動を、微笑みながらやってのける姿は、まるで誘惑に長けた悪魔のようだった。
さすがは、魔性、と言うだけある。
しかも、勉強もスポーツもその他もろもろも、人並み以上に出来る天才設定。
性格が真っ直ぐだったら、メインヒーローに匹敵するのに、と春雪ファンの間では声高に叫ばれていた。
西野美優は京極会長派なのに、親友が春雪ファンで、そのことではよく議論になったりしたっけ。
懐かしい。
そんな星野宮春雪。
私の春兄様。
いつの間にか下がっていた視線を上げれば、ご本に集中されている姿が目に入る。
伏せられた漆黒の瞳、そこを覆い隠す様な長い睫。
赤い唇は軽く結ばれて、白い指が、考える様にそこにあてられている。
美麗、と言う言葉を人にしたのなら、きっとこんな姿をしているんだろう、と思わせるほどの完成された美貌をもつアニメの春雪。
弱冠8歳ながら、その片鱗が伺える。
このままご成長されれば、悪役令嬢、星野宮桜子と反目した、あの春雪になるんだろうか。
だけれど、だ。
そう、だけれど。
もし、新桜子が、京極会長への恋に狂わなかったら、
主要キャラ達と関わらず、悪役令嬢とは別の人生を歩めたのなら、
春兄様とは、ずっと、仲良くしていけるのかな。
だって私は知っているのだ。
どんなに恋に狂っていても、春兄様の態度に傷ついていても、旧桜子は兄の事が大好きだったって。
なにもかも、後に引けなくなるくらいに……。
「桜子」
呼ばれて顔を上げれば、パタン、と本を閉じた春兄様。
「え、もう読み終わったの?早い!」
「これ読むの二回目だったからね。それより、夕食まであと一時間くらいあるけど、どうする?」
あと一時間かぁ。
うーん、あ。
「チェスがしたいわ! 春兄さま、お相手してくださる?」
「うん、いいよ」
私のお願いに、春兄様が優美に微笑んで盤を取りに行ってくださる。
その後姿を見送って、私はテーブルの上のオレンジジュースの残りを飲みほした。
ソファーに深く座り直し、春兄様の帰りを待つ。
2人でチェスをこれから先も。
そのために、頑張ろう。
こっそり一人、拳を握って、エイ、エイ、オー!




