激走
そういえば、送り狼って妖怪の話を聞いた事がある。後ろから何かがついてきていると思ったら、走ってもコケてもいけない。
それは昔の人が、狼への対処方法を妖怪に見たてて伝えているんだって。相手が飛びかかるタイミングを与えないよう、一定の速度で歩くのが正解なんだって。
そう、まだ逃げ切れる距離じゃない。
逸る気持ちを抑え、速度を保ちながら私は荷物をひとつ、またひとつ、と減らしていく。
塩水がたっぷり入ったバケツを歩きながらさりげなく置き、腰に結わえてあった洗濯ネットから手当たり次第に本日の漁の成果を捨てていく。
しばらくそうして距離を稼いでいたものの、後ろの方でカニっぽいのを噛み砕く音が聞こえた時、たまらず洗濯ネットの中身をぶちまけて、私はついに走り出した。
その後の事はよく覚えていない。
気がついたらユニットバスの扉を入ったところで、つっぱり棒を抱きしめながら泣いていた。
私、…私、辿りつけたんだ…!
実感して、また大泣きした。
やっと涙がおさまってきたと思ったら、なんだか急激にあちこちから痛みが襲ってきた。
特に足が猛烈に痛い。
見てみたら足の裏は傷だらけで、左足の中指の爪なんか剥がれていた。
…スリッパ、途中で脱げちゃったんだ…。当たり前だよね、あんな走るのに向かない履き物ないし。
恐怖にかられて無我夢中で走ったから、何処でどうスリッパが脱げて、どの辺りでこんな酷い怪我したんだかなんて全然記憶にない。
覚えているのは、あんなに見えにくいと思ったオレンジの入浴剤のラインが、道しるべとしてキラキラと光って見えた事だけ。人間って本気で生命の危機になった時はよく分からない力が開眼するのかも知れない。
どうでもいい事を考えながら傷口を洗う。薬なんかないから洗う事しか出来ないし、放っといて異世界の怪しいバイキンとかに蝕まれるのも御免だからね。
ただね、失神したいくらいに痛かった。もう痛いついでにお風呂に入っちゃおうかな。
やけっぱちで服を脱ごうとして、腰の左側に一個だけ今日の漁果が詰まった洗濯ネットがぶら下がっているのに気がついた。
ああ、神様……!!!
神様は頑張って生き延びた私に、ちゃんとご褒美を残しておいてくれたんだ…!
捨て忘れただけだとしても、とにかく嬉しい!だって、小ぶりではあるけど、魚もエビっぽいのもカニっぽいのも、ちゃんといる。
適当に詰め込んだ私、えらい!




