日野葉子の過去1―(3)
荒れた呼吸が整う頃になると、放課を迎えた他のクラスの生徒たちが、少しずつ廊下に溢れ出してきた。
私と幹生は、慌てて移動し、未だ閉ざされたA組の教室後方のドア窓から、そっと中の様子を覗ってみた。
まず目に入ったのは、少し赤みがかった髪色をしたサボテン頭だった。教室のちょうど真ん中あたりの席に腰掛けており、私の立つ位置からでは顔を覗くことはできなかったが、その特徴的な髪形は真樹以外の何者でもないだろう。
「まったく、どうしてあんな頭にしちゃったのかしらね」
理由はもちろん知ってはいたが、あまりに残念でならないので、私は事あるごとにそう呟いてしまう。
「葉子がオモチャにしたからだろう」
幹生の方も、約束事のように返事をした。
――オレはオンナじゃねえ!
それは、かつて真樹がよく口に出した台詞だった。
きっかけは、小学五年生の夏休みに三人で市民プールに遊びに行ったときのことだ。
その市民プールでは、まず入口すぐの場所に設置された券売機で入場券を購入し、男女それぞれの更衣室前にいる職員の人に券を渡してから入場する仕組みになっていたが、その日は夏休みで混雑していることもあってか、券売機付近にも誘導整理のための職員が何人かいたと思う。
私たちは三人分の入場券をまとめて購入すると、それぞれの更衣室に向かうために、券売機の前で一旦別れることにした。その直後だった。
「お嬢ちゃん、ちょっと待って――」
私は自分が呼び止められたのかと思った。
しかし、振り返ってみても、誰も私のもとには寄って来なかった。
ふと視界に、男子更衣室へと向かう幹生と真樹の姿が見えた。
その二人のもとへ、誘導の若い男性職員が小走りで駆け寄り、真樹の肩を軽く掴んだ。
幹生も真樹も口をぽかんと開けて、何が起こっているのか分かっていない様子だった。
おそらく私も同じような顔をしていたと思う。
一瞬の静寂があった気がした。少なくとも私の記憶ではそうなっている。
次の瞬間、若い男性職員はこう言った。よく通る声だった。
「お嬢ちゃん、女子更衣室はこっちじゃないよ」
――と。
「なっ……」
その言葉の意味を理解したときの真樹といったらなかった。耳の先まで顔を真っ赤に染め、言葉を失い、うなだれていた。幹生は頭を抱え、私は大いにはしゃぎまわった。
「マキちゃーん、ごめんねー」
真樹のことをわざとそう呼びながら駆け寄り、確かに男の子にしてはか細いその体を抱きしめ、サラサラの長い黒髪を撫でまわした。
屈辱で潤む二重の大きな瞳に、すっと通った細い鼻筋、すべすべの餅肌――それまでは近過ぎて気付かなかったけれど、確かにコイツ可愛いぞと、私はひどく興奮したことを覚えている。
すっぴんのままでは遠く私に及ばないまでも、ばっちりとメイクを決めて、スカートでも履かせてやれば、立派な美少女の誕生だ。どちらも私は持っていないけれど、今度お母さんにねだってみるか。私のためではなく、マキのために――そんなことまで考えていた。
「さあ、マキちゃん。私と一緒に女子更衣室に行きましょうねー」
私は人さらいのように、真樹の体をズルズルと引き摺りながら女子更衣室へと向かった。
「やめろ、馬鹿。放せ、このヤロー。オレはオンナじゃねえ!」
真樹の悲痛な叫び声を聞いて、若い男性職員はようやく自らの過ちに気が付いたようだ。
結局、私と真樹は引き離され、真樹は幹生と共に男子更衣室へと行ってしまった。
それからというもの、何かに目覚めてしまった私は、事あるごとに真樹を「マキちゃん」と呼び、家に呼んでは無理やり化粧を施そうとしたり、女物の衣服を着せようとしたりした。
だが、真樹はその度に「オレはオンナじゃねえ!」と叫び抵抗した。
そして、ついにグレてしまった。
中学校に上がると同時に髪を染め、短く刈り込んだ現在のサボテン頭になった。
しかし、悲しいかな。幹生のようには身長が伸びず、体の線も細いままだ。
顔立ちは最近になって少し凛々しくなったようであるが、全体的な印象としては、中性的というよりもアンバランスだと言った方が良い。
私はその中途半端さが残念でならない。
そうだ。もし、今度もふられたら、女の子の気持ちを知るために、いっそのこと女の子になってみたらどうだと提案してみるのも良いかもしれない。
「それで、深林静花ってのはどの子なの?」
私は自らの欲望の鍵となる人物の姿を確認しようと、急かすように幹生の脇腹を突っついた。
「ちょっと待ってくれ。いまちょうど他の男子生徒の陰に隠れて見えないみたいなんだ。――お、でも、そろそろホームルームが終わりそうだな。もう少しこのまま見ていよう。きっとサボテンの方から動くはずだから」
幹生の言葉どおり、放課となったA組の教室で、真樹が怪しい動きを見せ始めた。
――葉子、サボテンの様子がおかしいぞ。
という幹生のハスキーボイスが頭の中で聞こえた気がした。