日野葉子の過去1―(2)
日直の男子生徒の「――起立、気をつけ、礼」の号令に続き、私は「ダッシュ」と心の中で叫びながら、教室後方のドアから廊下に飛び出した。
私と幹生が属するH組と、真樹が属するのA組は、コの字型になった廊下の両端に位置する関係にある。急がなければ、お目当ての深林さんを取り逃してしまうことになるかもしれない。
進行方向の視界は良好。人影一つない。
この廊下の直線上にあるE組からH組までの教室の中では、私たちのH組が最も早く放課を迎えたようだ。しかし、角を二回折れた後、最後の直線上にあるA組からD組までの状況は視認することが出来ない。
私は教室を飛び出した勢いのまま、少し軽めのダッシュで板張りの廊下を駆け抜けることにした。
すると、一つ目の角を曲がったところで、ようやく幹生が追いついてきた。
「遅かったじゃない」
声を掛けると、走りながらにもかかわらず、幹生は右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げて、「葉子が早すぎるんだよ」と言って笑った。
その笑顔を見て、私は何となく懐かしい気分に浸った。
そういえば、昔はよく三人でかけっこをしたな――と。
私は自分の走る速度が徐々に上がってきているのを感じていた。それは、一刻も早く深林さんの顔を拝みたいからと、はやる気持ちのせいだけではなかった。
とりあえず、この二本目の直線は、特別教室を三つ挟むだけなので、人にぶつかる心配はない。問題は、次の角を曲った最後の直線だ。
「ねえ、幹生」
「ん、どうした?」
「次の角を曲がって誰も人がいなかったら、どっちが先にA組に辿り着けるか勝負しましょうよ」
そう提案すると、幹生は一瞬目を大きく見開いたが、すぐに「良いだろう」と言って真剣な顔つきに変わった。
「優等生のくせに物分かりが良いのね」
「優等生だから物分かりが良いのさ。それに、葉子の言うことには逆らえないよ」
「手抜かないでよね」
「この場合は手というより足だが、どちらにせよ葉子が嫌がることはしないよ」
いちいち一言多いが、さすがに幹生は私の性格をよく分かっている。
最後の曲がり角まであと少しだ。
私は意識を集中させる。
そして、右腕を思いっきり体の後ろに振りながら時計回りに腰をひねり、左足で踏ん張って、首を伸ばしながら正面を見据える。
そこには、誰もいない板張りの廊下が一直線に伸びている。距離にして五十メートルもない。
全速力だ。
私は右足で思いっきり床板を踏みつけ、その反動で前方へと跳躍した。
視界に幹生の姿はない。スタートダッシュは成功したようだ。
私はそのまま無我夢中で廊下を駆けた。現国の教科書に載っている『山月記』ではないけれど、そのうち自分が虎にでもなりそうな勢いで両手両足を動かした。
ゴールまであと半分。
そう思ったとき、私は狭まる視界の端で幹生の気配を感じ取った――と同時に、急に世界がスローモーションになったみたいに見え始めた。
幹生の腕が、肩が、背中が、少しずつ視界の端で露わになっていく。
(勝てるわけがないでしょう)
不意に聞き慣れた女の声が、私の耳元でそう囁いた。
――うるさい。私は、いままで一度だって幹生や真樹に負けたことはないんだ。だから、今回だって負けるはずがない。
(それって子供の頃の話でしょう)
――だから何よ。いまだって何も変わらないわ。私は負けない。負けたくない。負けられない。
私は最後の力を振り絞り、ギュッと目を閉じて廊下の端まで駆け抜けた。
「ハァ……ハァ……」
どちらのものとも言えない荒い息遣いが聞こえた。
女の声は、もうしない。
ゆっくりと目を開けると、私と同じように、膝に手をつき、肩で息をしている幹生の姿が見えた。
「……ねえ……どっちが……勝ったの?」
幹生は息を整えながら、「……さあ」と言って首を横に振った。
「……スタートダッシュで……葉子に……負けて……、途中で……並んだかなと……思ったんだけど……、最後にまた……葉子の背中が……少し……見えたから……、目を閉じちゃって」
「……仕方が……ないわね」
私は腰に手を当て、背筋を伸ばしながら言った。
すると、膝に手をついた姿勢の幹生と、ちょうど目線の高さが同じになった。
「……次は……ちゃんと……レフェリーのいる……ときに……勝負……しましょう」
「……とんでもない」
幹生は右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げた。
「……葉子は……本当に……強いよね。……こんなきついの……俺はもう……こりごりだよ」
幹生は、昔から私が良く知っている穏やかな表情で笑っていた。
「……それも……そうね」
その優しさに、私も素直に甘えることにした。