日野葉子の過去1―(1)
「――葉子、サボテンの様子がおかしいぞ」
という高村幹生の耳慣れたハスキーボイスで、私は春が来たのだと実感する。
午後イチの授業を終え、窓際の自席に腰掛けたまま少しアンニュイな気分に浸っていた私は、幹生の報告を受けて、思わず机を叩いて立ち上がった。
「恒例の春の珍事ってわけね」
「ご明察。サボテンが蕾を付けた」
幹生は右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げて、愉快そうに笑った。
「ご明察も何も毎年のことじゃない。私たちが小学校に入学して以来ずっとだから、今年で何回目?」
私は指折り数えて「十一回目か!」と自ら声を上げる。
「まったく、アイツも懲りないわねえ。ま、どうせ今回も花を咲かせることはないんでしょうけど。問題は、どのくらいもつかよね」
賭ける? と幹生に持ちかけると、「いや、俺はぜひとも一花咲かせてほしいと思っているからね」などと、いかにも優等生らしい発言をした。
「アンタ、それ本気で言ってるわけ?」
私は再び椅子に腰かけ、ただでさえ背の高い幹生の顔を見上げながら言った。
「サボテン」というのは、私と幹生の幼馴染の朝原真樹のあだ名である。その由来は、彼の髪形を見れば一目瞭然だろう。
しかし、私も幹生も普段は普通に「真樹」と呼んでいる。私たちが「サボテン」と呼ぶのは、毎年、学年が上がりクラス替えが行われた直後のこの時期だけだ。
なぜなら、真樹はこの時期になると必ず恋をする。しかし、その恋は必ずと言って良いほど報われない。私たちはそれを、滅多に花を咲かせることがないと言われるサボテンになぞらえて春の風物詩のように捉えているからだ。
なお、「金鯱」と呼ばれるサボテンの代表的な品種は、開花するまでに三十年前後かかるということらしい。その計算でいけば、真樹の恋が実るためには、あとおよそ二十年の時間が必要となってくる。
「本気も何も幼馴染の恋路だぞ。上手くいってほしいと願うのが当然だろう。それとも、葉子には上手くいってほしくない理由でもあるのかい?」
意味ありげな表情で問いかける幹生の顔を、私はグーで殴りつけたい気持ちになるが、残念ながら椅子に座ったままでは届かない。
幹生は確かに優等生だが、最近そんな自分に酔ってか、当たり前のことを深く考え過ぎる傾向にあるようだ。
私は、「考えるな。感じなさい」という心の師であるムービースターの言葉を前置きして、幹生を諭すことにした。
「そりゃあ、アンタ。もしもアイツに恋人が出来たら、アイツ、絶対に私らよりもその恋人の方を優先するに決まっているでしょう?」
「まあ、念願叶ったりだからな。その可能性は高いだろうね」
「そしたら、私たち二人だけになるのよ。そんなのって寂しいわ。折角、小学校に入ってからいままで十年間も一緒にやってきたっていうのに、どこの馬の骨かわからない女に横取りされるなんて、私は我慢できない」
「葉子は自分に正直だね」
そういう幹生の方こそ、さっきまでとは打って変わって、昔から私が良く知っている素直で優しい表情をしていた。そうだ、それでいいのだ。
「でも油断できないのは、幹生、アンタよ。アンタ、いつの間にか私らより背が高くなって、こそこそ隠れて勉強も出来るようになってさ。随分モテるようだけど、勝手に私らの前からいなくなったりしたら承知しないわよ」
「背は勝手に伸びただけだし、課題やテスト前の勉強はいつも三人でやってきただろう。それに、俺はいつも葉子と一緒だよ。これからも、何があっても、絶対に」
「まあ、アンタとは生まれた病院のベッドが隣り合ったときからの付き合いだし、色恋沙汰にうつつを抜かすような奴じゃないって分かっているから、大丈夫だとは思うけど」
それにしても不安なのはアイツだ。毎年毎年、惚れてはふられ、惚れてはふられを繰り返すこと十年――学習能力がないのか、それとも何か悪い病気なのではないだろうか。
その旨を、幹生に伝えると、「それは恋の病ってやつだろう」としたり顔で言った。
「アンタ、それ上手いこと言ったつもり?」
呆れながら言うと、幹生はまたも右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げて、
「いや、単なる言葉のあやのつもりで言ったんだが、結構上手いことを言ったかもしれないな」
と一人で愉快そうに笑った。
「ワケわかんない」
私は唇を尖らせた。
「いや、俺やアイツはともかくとして、葉子自身はどうなのかと思ってね。葉子は恋をしたことはないのかい?」
突然そんなことを言い出した幹生の顔を、私はじっと観察する。
どうやら自分に酔っているわけではなく、真面目に質問しているみたいなので、手は出さないでおいてあげようと思った。
「そりゃあ、私がアンタたちのことを知っているように、アンタが一番よく知っていることじゃない。アンタ、さっき花が咲くとか表現していたけれど、咲いた花だっていつかは枯れるのよ。だから、私には恋なんて理解できないわ。叶わなくても傷付くし、叶ってもやっぱりいつか傷付くってことが分かっているもの」
「葉子は傷付くことが怖いのかい?」
「引っかかる言い方だけど、そうかもしれないわね。肉体的にも精神的にも、私、痛いのは嫌いなの。でも、だからこそ痛い目を見ないように、体も心も強く出来ている。そう思わない?」
「確かに葉子は強いものね」
「ええ、そうでしょう。だけど、真樹の恋を全く否定しようってわけでもないの。――そうね、その相手の子が私よりも強ければ、真樹を応援してあげなくもないわ」
「冗談に聞こえないから恐ろしいよ。葉子みたいな姑がいるから、サボテンの花は開かないのかもしれないな」
「だって、そんなにすぐに枯れちゃう花じゃあ、真樹が可哀想じゃない。それよりも、すでに相手の調べはついているんでしょう?」
それを聞かないことには、次の授業に集中できない。私は幹生の柔らかい脇腹をくすぐるように突っついた。
幹生は三度右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げ、
「相手の名前は、深林静花。真樹と同じA組の生徒で、学級委員をしているらしい。この辺り、いかにもアイツの好みっぽいよな。葉子より強いかどうかは、実際に見に行って確かめてみようか」
と言ってニヤリと笑った。
「アンタも立派に舅じゃない」
放課後になったら、早速二年A組の教室に突撃しようと約束したところで、次の授業の開始を告げるベルが鳴った。