遠山草汰の現在1―(5)
だからといって、こんな偶然があるものだろうか。
あのあと、僕は豪勢に外食だなどと意気込んで出てきたくせに、結局のところ、お手頃価格とお一人様でも入りやすそうな雰囲気から、地元の町でも何度もお世話になった全国チェーンの牛丼屋で牛丼の並盛を食した。腹も膨れたところで、さて夜の街に繰り出そうかとスマートフォンの地図アプリを起動したところで、まさかのバッテリー切れに遭った。
そして、慣れない街の夜道を、何度も怖い思いをしながら彷徨い続け、ヘトヘトになる頃になって、ようやくアパートまで帰って来られたのだが、そのとき、僕の前に共用玄関を入っていく白い後ろ姿を見た。
――間違いない。夕暮れの街を走り去っていったあの後ろ姿だ。まさか同じアパートの住人だったなんて。
僕は大慌てでオートロックの共用玄関の鍵を開け、彼女の後姿を追った。彼女の部屋は僕の部屋と同じ一階にあるらしく、階段を上らずに、廊下を奥へと進んでいく姿が見えた。
「あ、あの……すみません……」
「はい?」
振り返ったその姿は、やはり夕方に見た、非常識なまでに美しく、そして強かったあの人だ。僕の心拍数は、いままでにないくらい激しく跳ね上がった。
しかし、息を切らせて思わず声を掛けてしまったが、僕は、そのあと何と言葉を続ければ良いのかを全く考えていなかった。いや、それよりも、ハァハァ息を切らせて後ろから追い掛けてきた男のことを、彼女はどう見ているのだろうか。
不意に夕方に見た光景が頭を過る。
彼女は、しつこいナンパ三人組に、殺意に近い憎しみの感情を向けていた。そして、話し合いも何もなく、いきなり跳び蹴りを喰らわせた。さらには「潰れろっ」と叫んで、男を再起不能にしようとした。
「ハァ……ハァ……」
「……はい?」
非常にまずい。早く息を整えて何か言わないと、彼女は今度こそ僕という男の股間を蹴り上げてしまうかもしれない。
いや、待て。そういえばあのとき、彼女は恐怖で身が竦んでいた僕と一度だけ目を合わせたじゃないか。とすると、誤解を解いたところで、あのときの僕の態度に対する制裁として、やはり股間を蹴り上げられる可能性は大だ。ということは、声を掛けてしまった時点で、僕の運命は決してしまっていたということか。
「い、いや、違うんです。いや、ごめんなさい」
僕はもはや混乱気味の頭を土下座する勢いで下げた。
これで許して貰おうなどとは考えていない。あのときの自分のことは、僕自身が一生許さないと心に誓っている。ただ、この人にはもう、あんな憎しみに満ちた顔はしてほしくないと思いが僕にはあった。
「ちょっと、君。いきなりどうしたの?」
しかし、彼女の反応は、僕が思っていたのとはだいぶ違い、何ともあっさりしたものだった。
「まず、私は君が誰なのか分からないんだけど」
どうやら僕のことなんて覚えていないらしい。
その言葉を聞いて、僕は安堵と落胆とが入り混じった何とも複雑な気分になった。
まあ、僕なんて、彼女のように印象に残るほど格好良くないし。
それはそれとして、確かに僕の言動には問題があった。同じアパートの住人なのだから、失礼のないようきちんと自己紹介をしておくべきだろう。
「あの、僕は今日からここの一〇一号室に住むことになった遠山草汰といいます。よろしくお願いします」
「大学生?」
「はい、来月から」
何のひねりも面白みもない自己紹介だったな。これでは、また明日には忘れられているかもしれないなと、僕は相変わらず平凡な自分の性格を呪った。
しかし、彼女はそんな僕をしげしげと見つめ、僕が気恥ずかしくなって顔を赤くすると、クスリと一つ微笑んだ。そして、廊下の最奥の部屋を指差し、
「私はそこの一一〇号室に住む日野葉子。ここに住んで結構長いから、分からないことがあったらいつでも相談しなよ。これからよろしくね、草汰君」
と予想外の気さくさで言った。
――葉子さんか。
名前を知って、彼女の存在が、僕の中で一層大きくなるのを感じた。
しかも、からかわれているのだとしても、家族以外の女性から下の名前で呼ばれたのは初めてで、それがとびきりの美人によるものだったから、僕はもうすっかり舞い上がってしまっていた。
「ところで、草汰君」
またも名前を呼ばれてしまった。
「はい、何でしょう」
と速やかに応じる。
「今度おごってあげるからさ、一緒に食事でもどう?」
「は、はい、喜んで」
僕は調教されたパブロフの犬よろしく、何も考えずに即答した。
きっとここから始まるのだ。
僕の人生にとって、きっと大きな意味を持つことになる物語が――と、そう信じて。