遠山草汰の現在5―(4)
最高のドライブ日和だった。
深林さんの運転する軽自動車は、僕と真樹さんを乗せ、渋滞に巻き込まれることなく順調に街中を抜けると、車体に春の日差しを反射させながら、海岸沿いの道路を快適なスピードで走っていく。
僕は車窓の景色を眺めながら、自分が未だに桜の花を見つけようとしていることに気付く。そのことを口に出すと、真樹さんも深林さんも今年は桜の花を見ていないという。
結局、あの街には桜が少ないという結論に至り、今度から植樹活動でもしようかなどと他愛もない会話に花を咲かせた。
「そういえば、ウチに誤配されたダイレクトメール。もう捨ててしまいましたよ。ついていたクーポンの有効期限も過ぎちゃいましたし」
僕はかつて一〇一号室の郵便受けに入っていた一一〇号室宛の家電量販店からのダイレクトメールのことを思い出して言った。あのときは、そこに印字された宛名を見て、葉子さんの同棲相手かもしれないなどと妄想を膨らませたものだが、いま思えばそこには確かに「朝原真樹」の名が印字されていた。
「まったく、あのときは焦ったよ」
「全然そうは見えませんでしたが」
「いや、焦ってその後、素でハンバーガーをドカ食いしてしまった」
そう言って、真樹さんは唇の端を吊り上げてニッと笑った。
目的地の岬は、車を途中で降りて、徒歩で藪の中をかき分けながら進んだ先の少し開けた場所にあった。まさに穴場と呼ぶに相応しい小さな岬だった。
真樹さんは、茨木との戦いで負傷したのだろう左足を引き摺りながら、ゆっくりとその岬の先端付近へと足を運び、手にした花束を、そっとその場所に置いた。来る途中で、深林さんのアルバイト先から買ってきたものだった。
その後、断崖絶壁の下を一度だけ覗き込むと、少し足場の広い場所まで移動して、ちょうど良い大きさの岩に腰を下ろした。真樹さんの勧めで、僕と深林さんもその岩に腰を下ろす。真樹さんを挟んで、三人横並びに海を眺める形になった。
そうしてしばらくの間、誰も何も言わずに、海から吹く潮風をただ黙って受け止めていた。
「良い眺めだろ?」
不意に真樹さんがそう訊ねてきた。僕は、「ええ、そうですね」と素直に頷く。
「海と空とがどこまでも果てしなく続いていて、まるで時間までも忘れてしまいそうな、そんな感じのする場所です」
「本当にね。このままずっと、この景色を眺めていたいって気持ちになるよね」
深林さんも賛同した。
それを受けて、真樹さんは神妙に頷いた。
「ああ、まったくそのとおりだよ。だが、そうすると、アイツらにはこの景色すら目に入らなかったのかもしれないな」
そう呟くと、真樹さんは姿勢を正し、改めて僕の目を真っ直ぐに見据えながら頭を下げた。
「草汰君、オレは君に正体を偽って、君を何度も危険な目に遭わせた。そのことに関しては、全く弁解の余地もない。このとおり頭を下げる。ただ、オレが君を騙したのは、ただその一点のみだということを、どうか理解してほしい。そのほかのことで、君に語ったことは全て本当のことなんだ。もしも、この説明で納得いかないことがあれば、何でも言ってほしい」
真樹さんの真摯な姿に、僕はかつての葉子さんの影を重ねて見た。いや、事実を整理すれば、それは元から朝原真樹という人格によるものだった。
そこで、僕は最も聞きたかった疑問を真樹さんにぶつけた。
「結局、日野葉子さんというのは誰なんでしょうか?」
僕の知っている葉子さんは、全て真樹さんの演じていた人物だ。
しかし、深林さんとの会話からも、その名を持つ女性が実在するということは事実らしい。四年前の事件で、自らの身を犠牲にしてまでも深林さんを救った女性――その人と真樹さんとの関係は、いったいどう繋がっているというのだろうか。
その疑問に対し、真樹さんは結論から先に述べた。
「日野葉子は、二人いたオレの幼馴染のうちの一人だよ」
二人の幼馴染――それはいつか月下の公園で教えてもらった話に出てきた言葉だった。その翌日の深林さんとの会話の中にも現れた、男の子二人に女の子一人の三人組。だが、そのうち二人はもうこの世にいない。四年前の事件をきっかけに、自ら死を選ぶという状況にまで追い込まれてしまったと聞いている。
その三人組のうちの一人が、いま僕の目の前にいる人物だとすると――。
「葉子はもうこの世にはいない。四年前、高村幹生というもう一人の幼馴染と一緒に、この岬から飛び降りたんだ」
真樹さんの視線を追って、僕も崖の方に目を向ける。それで、あの花束が必要だったのだろう。
真樹さんの告白は衝撃的だったが、この場所で人が亡くなったと聞いても、僕は不思議と恐怖を感じなかった。ただ、ひたすらに悲しくて切なかった。 そういえば、今朝見た夢もこれと同じような気持ちにさせるものだったが、僕はもうその内容を思い出すことが出来なかった。
「それでは、どうして真樹さんは葉子さんを演じる必要があったんですか?」
僕は一気に核心に踏み込んだ。知りたかったのは葉子さんのことだったが、解決すべき一番の問題はそのことだろうと思ったからだ。
真樹さんは、一言一言、言葉を慎重に選ぶような口調で語った。
「――それは、葉子の意志を継いで茨木を倒そうと思ったからだ。それに、復讐の意味もある。茨木にとっては、朝原真樹という全く未知の人間にやられるよりも、奴にとってのトラウマである葉子にやられる方がダメージが大きいだろう。まあ、結局、茨木にはオレの変装を気付かれてしまって、その思惑は外れたわけなんだが」
まるで、あらかじめ用意されていた脚本どおりのような説明だなと僕は思う。
確かに状況を整理して考えれば、納得出来ない説明ではない。だが、いまいち説得力に欠けるのもまた事実だ。
今回の茨木事件については、その話を聞かされた時点で、ここ一カ月の出来事だったと説明された覚えがある。一方で真樹さんの変装は、どこからどう見ても完璧で、髪の長さなど、とてもそんな短期間で用意することは不可能だと思われた。
つまり、茨木のこととは関係のないところで、真樹さんは以前から葉子さんに、あるいは女性に扮する必要性を感じていたのではないだろうか。
そのことを指摘すると、案の定、真樹さんは口ごもった。それは違うと即座に否定できないあたり、僕の指摘はかなり的を射ていたのだろう。ただ、その沈黙は何かを隠しているというよりは、真樹さん自身、説明する言葉を見つけられないという戸惑いを感じさせるものだった。
だが、その答えこそ、僕が求めている真樹さんの真実の姿であり、真樹さんが向かい合わなければならない心の在り方に違いなかった。
唇を噛み、考える真樹さんの顔には、未熟と老成、苦悩と達観とが同居しているようだった。
そんな表情を見かねてか、それまで黙って話を聞いていた深林さんが意外なことを言い出した。
「遠山君、それは多分わたしのせいよ」
その言葉を聞いて、真樹さんは驚いたように深林さんの顔を見た。それには構わず、深林さんは説明を続けた。
「これはあくまでもわたしの想像なんだけど、おそらく真樹君は、わたしが自分と同じ街に住んでいるということを、何かのきっかけで随分前に知ったんじゃないかな。それで、もしも街中で偶然出会ったりしてはまずいと思った。だから、そのためだけに彼は自分から朝原真樹であることを、また男であることを隠すべきだと思ったのよ。そこに今回の事件が偶然重なった。そうでしょう?」
深林さんに詰問され、真樹さんは、「まあ、そんなところだ」と観念したように溜息交じりに言った。
だが、その説明では僕には何も理解できない。どうして、真樹さんが深林さんを避ける理由があるというのだろうか。
「それは、真樹君が、わたしのことを男性恐怖症だと思っているからよ」
深林さんはそう説明した。確かに、僕は、葉子さんに扮した真樹さんの口からそのことを聞かされていた。その原因が、四年前の事件にあることは想像に難くない。
「オレは、自分の存在が静花を傷つける対象となり得るのならば、『男』という性を捨てても良いと思ったんだ。でも、どんなにそれを望んでも、どんなに『男』というものを憎んでも、結局自分は『男』でしかないんだと感じる瞬間がある。それは、呪いのようなものだと思ったんだ」
真樹さんはそう付け加えた。
僕は、真樹さんのその告白で全てを納得した。それは、僕もまた男でしかないからだろうか。僕には、真樹さんの言うことが痛いほどに理解出来てしまった。そしてこれ以上、真樹さんに本音を語らせてはいけないと直感した。
だが、深林さんは違った。
顔を紅潮させ、目には薄らと涙さえ浮かべて、真樹さんに食ってかかる。
「本当に馬鹿よ。そんなことをしたって、わたしは嬉しいとも何とも思わない!」
「何だと。お前、よくそんなこと言えるよな。四年前の事件の後、そっちが一方的にオレを避けるようになったんじゃないか。オレがどれだけ心配して、自分の無力さに腹が立ったと思っているんだ。しかも、葉子まで幹生と一緒にオレを置いていった。だから、オレは、オレは――」
「寂しかったっていうの? だからって、葉子の格好をして、彼女の名前を名乗っても、彼女は決してあなたのそばには帰って来ない。あなたは決して女にはなれないの。自分が女の人を傷つけるのが怖いといっても、決して傷つけずに生きていける男の人なんてどこにもいないわ。いつまでも、子供みたいにお互いの性を意識せずに付き合っていくことなんて出来っこない。だって、それが男と女でしょう? あなたは、結局、幼馴染の日野葉子という幻想に逃げただけ。でも、葉子だって女だった。葉子は、あなたのことが好きだったのよ」
「そんな馬鹿な」
「そんなじゃない。もう遅いのかもしれないけど、一度その気持ちを受け入れてあげて。それは、わたしだって人のことを偉そうに言う資格はないのかもしれない。あの頃、あなたの気持ちに気づいてあげていれば、いろいろなことが上手くいっていたのかもしれないって、いまも後悔しているの。でも、当時のわたしは、あなたを都合の良いお友達としてしか見ていなかった。いえ、そう思い込みたかったの。だから、ごめんなさい」
「静花が謝ることじゃないよ。オレだって、そうだったんだ。静花がそばにいてくれるなら、友達止まりでも良いかなんて思っていた。でも、それは静花を傷つけることが怖いんじゃなくて、自分が傷つくことが怖かっただけだったんだと思う。だから、ごめん」
「ねえ、もうそんな悲しい顔はしないで。わたしを見つけてくれたのなら、昔みたいに何度も話しかけてきてほしかった。だって、それが朝原真樹でしょ。そして、わたしを頼ってほしかった。わたしだって、本当は寂しかったんだよ。それに、あなたがわたしを傷つけなくても、いずれ誰かが、わたしを傷つけるかもしれない。真樹君はそれで良いの?」
「いや、絶対に良くない。誰にも静花を傷つけさせはしないし、必ずオレが守ってみせる」
「うん。そんなあなたにだったら、わたしは傷つけられても構わないわ」
「――静花」
「――真樹君」
僕を置いてきぼりにして始まった言い争いは、いつの間にか、やはり僕を一人ぼっちにしたまま収束しつつあった。
でも、不思議と怒りは湧いてこない。ただお互いの体を抱き締め合う二人を呆れながら見つめているうちに、自然と腹の底から笑いがこみ上げてくるばかりだ。僕は、ここでもまた脇役に徹するしかないらしい。
こんな二人と付き合っていくとなると、僕の人生はこれから先どんなに楽しいものとなることだろう。いや、二人についていくだけではダメだ。今日からは、僕が僕の人生の主役を張れるように頑張っていこうと思う。
――これで良いんですよね、葉子さん。
僕は岬の先端に立ち、会ったことのないもう一人の友人に問いかけてみた。
そのとき、春の海の潮風が、薄いピンク色の花びらをどこからともなく運んできた。
「あっ、桜だ」
思わず声を上げると、真樹さんと深林さんも立ち上がり、感慨深げにその小さな花びらの行方を目で追った。
「これから、本格的に葉桜の季節ね」
深林さんが言う。
「――そうか。オレたちは桜を見ていないって言ったけれど、それは花のことであって、気がつかないうちに、実は何度も葉桜を目にしていたのかもしれないな」
真樹さんが言った。
「というより、葉桜の方が、僕たちのことを見守っていてくれたのかもしれませんね」
僕が言うと、真樹さんと深林さんが左右から同時に両わき腹を突いてきた。
「生意気にも、オレたちより分かったようなことを言った罰だ」
どこまでも高い青空に吸い込まれた桜の花びらはもう見えない。
こうして約一週間遅れで、僕の新しい生活が、いままさに始まりの時を迎えようとしていた。




