遠山草汰の現在1―(4)
「潰れてしまえっ!」
彼女の右膝が男を襲った瞬間、僕は思わず自らの股間を手で守るようにして押さえつけた。
男は低いうめき声を上げ、彼女の足もとに、前のめりに崩れ落ちる。だが、その手が添えられていたのは股間ではなく、ちょうど胃の辺りであった。
――た、助かった。
僕は、なぜだか安心した気持になって、ホッと溜息を吐いた。
同時に、それまで全くの静寂に包まれていたストリートが拍手喝采でワッと湧き上がった。周囲には、いつの間にか大きな人だかりが出来ており、皆思い思いに賛辞の言葉を彼女に投げ掛けていた。
僕も人のことは言えないが、なんて勝手な人たちだろう。
だが実際、彼女は絡まれて困っていた女性だけではなく、勇気のない僕らの心も救ってくれたのだ。男たちに何も言えなかった反動として、いまは声を大にして叫ばずにはいられない。
一方の彼女は、息一つ切らさず、また周囲の喧騒も聞こえていないかのように、静かに自分の足もとを見下ろしていた。その瞳には、先程までの真っ直ぐな力強さは微塵もなく、まるで行き場を失った者の弱さと迷いとが混在して見えた。
そういえば、彼女は「潰れろ」と言っておきながら、最後の一撃を、急所を外して放ったのはなぜだろうか。そのことが、いまの彼女の状態と関係しているような気がしてならない。
だが、僕はあれで良かったのだと思う。
もしも彼女が自分の言葉通りに潰していたなら、事態はきっと彼女にとって不利なものとなっていただろう。
だから三人組が、何とか自力で這って逃げていけたのは、彼女にとってもラッキーなことなのだ。
僕は、今度こそ勇気を持って彼女に話し掛けようとした。
「あの、ありがとうございました」
だが、僕より先に声を掛けたのは、彼女によって一番大きく救われた姫川さん似の女性だった。
その瞬間、糸の切れた人形のようにずっと自分の足もとを見下ろしていた彼女は、ハッと顔を上げて我に返ったようだ。
だが、彼女の後ろから声を掛けた姫川さん似の女性の方には振り返らず、
「いや、それじゃあ私はこれで――」
と簡素に応え、突然逃げ出すかのように走り去っていった。
あまりに唐突な出来事に、僕は何が起こったのか理解できず、口をポカンと開けて呆けてしまっていたが、姫川さん似の女性は、
「ちょっと待って! あなた、もしかして――」
と急に激した声を上げて、彼女を追いかけようとした。
だが、さっきまで恐怖と緊張で震えていたであろうその両脚は、急な運動についていくことが出来ず、姫川さん似の女性はガクンと地面に沈んでしまった。
僕は慌てて姫川さん似の女性に駆け寄り、立ち上がるのに手を貸そうとした。だが、女性は僕の手助けを断り、自力で立ち上がった。
「ありがとうございます」
手助けを断られて軽くショックを受けていた僕だったが、姫川さん似の女性に笑顔でお礼を言われ、すっかり気分が良くなった。
しかし、そうこうしているうちに、白いロングコートの彼女は雑踏の中へと消えてしまっていた。
姫川さん似の女性は、彼女が走り去った方向を名残惜しそうに見つめていた。
それを見て僕は、ふと湧いた疑問を姫川さん似の女性にぶつけてみたい衝動に駆られた。しかし、ほんの短い時間だったが、彼女たちの間のやり取りを振り返ってみると、興味本位のその質問は、徒にするべきではないことのようにも思えた。
「――いまの人、たぶん高校の同級生なんです」
僕が聞くより前に、姫川さん似の女性は、自身の確信を得るかのようにそう言った。
「わたしの大切な人、いまのわたしに必要な人なんです」
なぜ彼女は走り去っていったのか。二人の過去に何があったというのだろうか。
僕は知らない。
だが、少なくとも、隣にいる女性が、彼女に会いたがっているということは間違いなさそうだった。
「同じ街に住んでいるのだから、きっとまた会えますよ」
僕は女性のために祈りを込めてそう言った。
また、それは僕自身の願いでもあった。