遠山草汰の現在5―(2)
朝食から後片付け、部屋の掃除などをしているうちに、時刻はあっという間に午前十時を回っていた。
そろそろ葉子さんの様子を見に行っても良い頃合かなと思い、部屋を出る。
一〇一号室と一一〇号室との間、廊下を歩く足取りは軽かった。天気は良いし、凶悪な犯罪者に悩まされることもない。素晴らしい一日の始まりを期待するなという方が無理な話だ。
しかし、いざ一一〇号室の前に立つと、さすがに緊張を隠すことが出来なかった。
いくら深林さんが頑張って看病をしてくれたのだとしても、昨夜の傷が今朝には完全に癒えているなどということはあり得ない。まして、暗闇の中であれほど酷く見えたのだから、この光の下では、昨夜よりもその傷が目立って一層酷く見えるかもしれなかった。
そのとき、僕は葉子さんに何と声をかければ良いのだろう。
僕は急に自信を失っていくようだった。そうすると、悪いイメージというものは、次々とやってくるもので、今朝見た夢の悲しい予感までもが思い浮かんでくる始末だった。
呼び鈴に伸ばしかけた指を引っ込めて、しばらくその場に佇んでみる。
すると、不意に隣の部屋の扉が開き、出てきた女の人が僕のことを訝しげな目で見つめてきた。
「あ、おはようございます」
僕は挨拶するが、向こうは相変わらず警戒心を顕にした目で睨みをきかせていた。
それがひとつのきっかけとなった。僕は再び呼び鈴に手を掛け、軽くそれを押した。その様子を見届けてから、女の人はアパートから出ていった。
これが二週間前の僕なら、そのまま自分の部屋に戻っていたことだろう。だが、いまさら何を恐れることがあるというのだろうか。葉子さんは、僕にとって大切な人だ。その気持ちに偽りがなければ、何も恐れる必要はないはずだ。
僕はその勇気を、茨木と対峙したことよりも、むしろ葉子さんと深林さんとの関係から教わった。たとえ一度は離ればなれになっても、不器用ながら互いに相手のことを思いやり、ついに再会することが出来た。
何と麗しい友情だろうか。
しかし、そんな僕の感動を削ぐように、部屋の中から、何だか言い争うような声が聞こえてきた。僕は途端に心配になって、呼び鈴を連打しながら、中にいるはずの二人に呼びかけた。
「すみませーん、遠山ですけどー。どうしたんですか、二人とも? 何か声が外まで聞こえているんですけど、大丈夫ですかー?」
すると、部屋の中が騒々しいのは相変わらずだったが、深林さんの澄んだ声だけが僕の言葉に反応して帰ってきた。
「はーい、ちょっと待ってねー。いますぐドアを開けさせますからー」
そうして僕はわけも分からずに、ドアの前で待たされた。
ややあって、急に部屋の中がしんと静まり返る。僕は妙なプレッシャーに襲われて思わずゴクリと喉を鳴らした。
そして遂に、静かにというよりは無愛想な感じで一一〇号室の扉が開いた。
その瞬間、中から姿を現した人物を見て、僕は言葉を失った。それは、葉子さんでも、深林さんでもなく、僕の全く知らない人物だったのだ。
その人はTシャツにジーンズ姿というラフな格好をしており、ポケットに両手を突っ込んで、こちらをじーっと見下ろしていた。細身の体だが、非常に引き締まった無駄のない筋肉が露出した肌の部分から見てとれる。
そのシルエットを見る限りでは、僕なんかとは比較にならないくらい格好良い「男」の人だった。
だが僕にとって、最も気になるのは、その首から上の部分だ。頭は下手糞な床屋がバリカンを当てたような、ところどころに地肌が見えるサボテンのような丸刈りで、顔はまるで派手な喧嘩をした後のように、青アザと包帯とでいっぱいに覆い尽くされていた。
「……」
「……」
男性と僕は何も言わず、いや何も言えずに、ただお互いの顔を見つめていた。
ああ、神様。どうか僕の時間をほんの数分で良いから戻してください。そうすれば、僕は自分の部屋に引きこもって、たとえ悪夢であっても夢の続きを見ようと思いますから。それとも、神様。これこそが悪夢なのでしょうか。僕はまだ目を覚ましていないだけで、朝が来れば元の世界に戻れるんですよね。
――そんなことを考えている僕を人は笑うだろうか。それとも、同情してくれるのだろうか。
いや、まだだ。まだ希望を捨ててはいけない。何事もきちんと言葉で表さなければ、世の中、多くの誤解や勘違いで満ち溢れてしまうものなのだ。たとえ、未知の生物に遭遇したとしても、コミュニケーションをとる努力を怠ってはならない。
「――えっと、その、はじめまして。僕は、日野葉子さんの友人で、遠山草汰と申します。あの、もしかして葉子さんの御兄弟でいらっしゃいますか。いやあ、本当にそっくりで吃驚しました。それで、葉子さんはどちらに?」
自分でも悲しくなるくらいに哀れな道化ぶりだった。
だが、目の前の人は腹を抱えて笑ったりはしない。
ただ唇の端を吊り上げて、自嘲と親しみを感じさせる笑みを、そのアザだらけの顔に浮かべるのだった。僕は、その笑顔に見覚えがある。
葉子さんは、彼だった。