日野葉子の過去4
ドアをノックする音があって、一人の人物が病室へと入ってきた。その人物は昨日も見舞いに来てくれた。だが、昨日はソイツと一緒に来ていたアイツの姿はない。
「何だ、今日は幹生だけか」
私はいつもの憎まれ口をたたく。
だが、私もアイツも、幹生本人が引いた場合を除けば、いままで一度として彼に口で勝ったことはない。それは幹生の言うことが、私たちが用いるような単なる嫌味や皮肉などではなく、いつも真実を言い当てる言葉だったからだ。
そのときも、幹生は右手の人差指で眼鏡のブリッジをクイッと上げながら言った。
「真樹がいなくて安心しただろう」
そう、昨日は、私と真樹との間にちょっとしたトラブルがあったのだ。
あの事件があって以降、幹生と真樹は毎日のように病室に見舞いに来てくれた。そして昔から何一つ変わらない日常を、この寂しい病室に運んできてくれていたのだ。といっても、ただ座って雑談をするだけだったのだけど。
ところが昨日、ほんのちょっとした弾みで、真樹の手と私の手がわずかに触れた。その瞬間、私はもの凄い恐怖を感じ、真樹の手を力の限り振り払ったのだ。
そのときは、お互いに笑って何とか場を取り繕おうとしたのだけど、それが長年続いてきた私たちの関係に亀裂を入れる出来事だったということは、その場にいた誰もが感じたことに違いなかった。
あの事件をきっかけに、私の中で変わってしまった何か。それは一般の男性だけではなく、自分の好きな男にまで適用されるものらしかった。
私はそれでも自分のことだけなら何とか耐えてはいけるのだ。ただ、真樹の方は相当にショックを受けたらしい。私には、そのことの方が辛い。真樹はおそらく自分が何故私に拒絶されたのかを理解していないだろう。
幹生の話によると、アイツは昨日私にやられるよりも前に、すでに学校で、静花にも同じような態度をとられており、二重にショックを受けているようだとのことだった。
「アンタは真樹についていなくていいの?」
私がそう聞くと、幹生は、
「馬鹿、お前の方が心配だろう」
と言って、私の額をこつんと打った。
そう、私はあれ以来、接触性の男性恐怖症に陥ってしまった。にもかかわらず、幹生にだけは、どんなに触れられても平気だった。
「ねえ、手を握ってよ」
私は幹生にそうお願いをする。
すると幹生は、両手で優しく私の手を包み込んでくれるのだが、そんなとき、私は必ず真樹と出会う前のこと――幹生と二人、生まれてからすぐに病院のベッドの上で知り合い、一緒に幼稚園に通っていた頃までのことを思い出した。あのときから、私と幹生の関係性は何一つ変わっていないということだ。
私がそのことを言うと、幹生は、
「前にも言ったが、俺は葉子のことが好きなんだけどな」
などと相変わらず苛立たせる台詞を吐いた。
それでも、私の手は幹生の両手に包まれたままだった。傍から見れば、似合いのカップルにでも見えるのだろうか。だが、その実態は、幹生には可哀想な結果だった。
私は一番好きな人の手が、怖くて触れることが出来ない。
そして、そのことで彼が傷ついてしまうことに耐えられない。
私は自分という存在が、愛する人を傷付けるというのなら、私自信を消す道を選ぶだろう。
私もアイツと同じだ。
好きな人を傷つけたくなくて、女になりたいなんて言い出したアイツと。
「ねえ、幹生」
「ん、何だ?」
「ずっとこの手を離さないでね」
「ああ、わかった」
「ずっと私のそばにいてね」
「ああ、わかった」
「最後まで一緒にね」
「――ああ、わかってる」
「私ね、もしも生まれ変われるのなら、今度は男に生まれてみたい」
「それは、困る」
「あら、どうして。そしたら、今度こそ三人でずっと一緒にいられるじゃない」
「もしも葉子が男になるのなら、そのときは、オレはオンナになりたいぜ」
「ホント、アンタって馬鹿ね」
「ああ、わかってる」
幹生は、昔と変わらぬ素直で優しい表情をして私に笑いかけてくれた。




