遠山草汰の現在4―(8)
僕がかつて見た葉子さんの走りが肉食獣の疾走だとすれば、茨木のは肉食恐竜の突進といっても差支えないだろう。一歩踏み込むたびに、天地がひっくり返りそうなほどの豪脚で葉子さんとの距離を一気に詰める。
だが、いくら速く力強くても、直線的な動きでは葉子さんを捕えられるわけがない。葉子さんは無駄のない華麗な動きで、体を外に開きながら、闘牛士のように突進をかわす態勢に入る。そして身を低く屈めると――。
「――えっ」
そのとき信じられない出来事が起こった。身を低く屈めて、茨木の横をすり抜けようとしていたはずの葉子さんが、あっさりとその剛腕の餌食となり、地面に叩きつけられてしまったのだ。
さらには抵抗する間もなく組み伏せられ、馬乗りを許してしまう。
「へへっ、あのときと同じだな」
その不吉な言葉に、ぞっとする間もなかった。
ゴッという鈍い音と共に茨木の硬い拳が、ガラス細工のように美しい葉子さんの顔に振り下ろされたのだ。
茨木は、まるでオーケストラの指揮を振るかのように、一心不乱に何度も何度も葉子さんの顔に拳を突き立てた。
その度に聞こえる不快なメロディーが、僕の思考を数分前の出来事へと導いた。
そう、葉子さんは茨木の突進をかわそうとしたとき、自分の意思で身を屈めたのではなく、体の方が勝手に沈んでしまったのだ。おそらく、僕を庇ったときに足か膝かに怪我を負ったのだろう。だからこそ、登場が遅れ、不意打ちも出来ず、自分から仕かけることも出来なかったのだ。
僕はそんなことにも気づかず、ただ無責任に葉子さんの勝利を信じていただけだ。
そしていま、おそらく四年前に深林さんが見た光景と同じものを見ている。
四年前の事件では、その影響で二人もの命が失われ、残った者たちは疎遠となり、それぞれが孤独な苦しみを味わった。そんなことが再び繰り返されるというのだろうか。
「へっ、まだ意識があるとは、ちったあ打たれ強くなったじゃねえか。感心、感心。へへっ、それじゃあ最後の仕上げといこうじゃねえかっ」
茨木のその言葉が引き金となった。茨木の狂気にあてられて動けなくなっていた僕は、再び茨木の狂気を目の前にして、電池の切れかかったオモチャのように不格好な姿で駆け出していた。
「やめろおおおぉぉぉ――」
咆哮と共に地を蹴り、茨木へと手が届きかけたとき、だがそれは情けないうめき声へと変わった。そして落とし穴にでも落ちるかのように、ストンと体が地に沈んでしまったのだ。
「邪魔してねえで、大人しくそこで見てろや」
茨木が葉子さんを組み伏せたまま伸ばした腕で、僕の腹部に攻撃を加えたようだ。決して強打ではなかったが、上手い具合に急所に入ったらしく、再び起き上がろうとしても足が踏ん張れずに地を掻いてしまう。
――もうダメなのか。
僕は、何とかもう一度立ち上がろうと四つん這いになりながらも、地に自らの涙が零れ落ちるのを見ていた。
そのときだった。
「な、てめえ、まさか――」
あれほど優勢にあったはずの茨木が、それまでにない狼狽の声を上げた。
顔を上げると、茨木は葉子さんの服に手をかけたまま動きを止めていた。
その下で、葉子さんは小刻みに震えながら――何と笑っていたのだ。
あまりの苦痛のため、遂に発狂してしまったのかと思った。というのも、あの茨木がその有り余るほどの狂気を全部吸い取られてしまったかのように呆然と、まるで普通のオジサンのような顔で、葉子さんの顔をまじまじと見ていたからだ。
「ちくしょう、騙しやがったな」
そう恨み事を吐く言葉にも、もはや力が籠っていない。
その一方で、僕はなぜか深林さんの言葉を思い出していた。
君はあの人に騙されているのよ――と。
自らの醜態を否定するかのように、茨木が再度振り下ろした拳は、いとも簡単に葉子さんの掌に収まってしまった。そして次の瞬間、絶叫に近い悲鳴が上がる。
――かつてコーヒーの空き缶で、特殊警棒を受け止めた葉子さんのあの握力が発揮されたようだ。
いまや茨木と葉子さんの立場は逆転しつつあった。後は体の位置を入れ替えるだけで、葉子さんの勝利は不動のものになるかと思われた。
「――その意志に、変わりは、ないさ」
途切れ途切れながら、葉子さんはハッキリとそう言った。意識は確かにあるらしい。だが、その言葉の意味は、僕には理解できないものだった。
茨木は相変わらず呆けたままで、急にそんな状態になってしまった理由も不可解だ。
だが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
遂に葉子さんは、その細くも力強い両腕を伸ばし、茨木の体を持ち上げた。そのままひっくり返すのかと思ったら、二人の体の間に出来た隙間に、自らの右足を折って潜り込ませた。そして、茨木の体を落とすと同時に、必殺の膝を突き放ったのだ。




