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オレはオンナになりたいぜ!  作者: 工事中
遠山草汰の現在4
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遠山草汰の現在4―(7)

 男は声を上げて笑った。

 愉快だとも不愉快だとも取れる、狂気の男に相応しい笑い声だった。

 だが、それは僕も一緒だ。彼女がこの場に現れたことを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか分からない。ただ、止め処なく涙が溢れてくるばかりだった。

 葉子さんはといえば、身動き一つせず、ただ黙って男と対峙するだけだった。こちらに背を向けているため表情は見えなかったが、その背中は広く頼もしく見えた。

 彼女がそこにいるだけで、僕は男の発する毒気から完全に守られているような気がした。

 だが、それと同時に奇妙な違和感を覚える。葉子さんと男との間の距離は、五メートルと離れてはいない。それに加えて、男は隙だらけの身を晒している。葉子さんの実力を持ってすれば、男が油断しているいまこそ、一気に距離を詰めて、打倒する絶好の機会のはずだ。

 いや、そもそも葉子さんがどうして男の前に立ちはだかったのかも疑問だ。男が僕に気を取られている間に、男の後ろに回り込み、不意打ちで決めることも可能だったはずだ。

 何にせよ、いまを逃せば葉子さんの方が不利になることは明白だ。これまで見てきた戦いぶりからも、それが分からない人ではないはずなのに、どうして動こうとしないのか。まさか僕と同じで、男の狂気と悪意を前に、恐怖に駆られて動けなくなってしまったとでもいうのだろうか。

 先に言葉を発したのは、男の方だった。

「まったく、こいつは傑作だ。女が男を守ろうとするなんて、いままでになかった例だ」

 男の高笑いはますます派手になっていく。その不快な振動が、張り詰めた緊張の糸をいたずらに刺激して非常に耳障りだった。

 しかし、次の瞬間、場の空気は一変した。

「その顔の火傷の痕、茨木強平に間違いないな?」

 葉子さんの声は、決して大きくはなかった。むしろ男の高笑いに掻き消されたとしても何ら不思議ではないほどの、本当に小さな、独り言といっても良いくらいの問いかけだった。

 だが、その言葉は、男の高笑いよりも何倍も強い意味を持っていたらしい。男が急に高笑いを止めたかと思うと、明らかに敵意と警戒を含んだ気配が、夜の空気を伝って感じられた。

 それは、まるで周囲の温度が急速に下がっていくような感覚だった。少しでも動いたら、氷漬けにされてしまいそうなくらいピリピリとした空気が場を支配していた。

 やはり、この男が葉子さんの追っていた相手なのだろう。

 葉子さんとしては、願ってもない展開なのだろうけれど、僕としてはおよそ考え得る中でも最悪の場面に近かった。

 茨木と呼ばれた男は、女である葉子さんに対して、もはや余裕も隙も全く見せてはいない。このうえで、さらに葉子さんの正体が、かつて自分を逮捕に追い込んだ人間だと知ってしまったなら、茨木はいったい何をしでかすか分かったものではない。

 それなのに、葉子さんは、まるで挑発するかのような言葉を選んでは、次々と茨木に浴びせかけるのだった。

「女が男を守るところは見たことなくても、女の子を守ろうとしてアンタに立ち向かっていった女のことは覚えているだろう?」

「――何だとっ」

「四年前、アンタが逮捕されたときのことを良く思い出してみろよ。このクズ野郎」

「てめえは、まさか!」

「ふん、何年経ってもクズはクズか。あのときは完全に潰せなかったみたいだけど、今度は二度と立てない体にしてやるよ」

 そんなやりとりを聞いているだけで、僕はもう気絶してもおかしくないくらい身の縮む思いをしていた。

 相手の男が四年前の男である――つまり相手の名前さえ確認してしまえば済むことなのに、葉子さんはどうして自らの正体まで明かしてしまったのか。

 そんなことをすれば、茨木の狂気の力をより強固にするだけだ。しかも、それは葉子さんにとって、必ずしも完全な勝利の記憶でもないはずだ。自らを鼓舞するにしても効果は薄く、逆に相手に余裕すら与えてしまう危険の方が高い。

 すると、案の定、茨木は下卑た笑いを取り戻していた。ただ今度のは、先ほどまでの空笑いよりも、ずっと不気味でおぞましい笑いだった。笑い声の中に、相手を呪う呪文のような響きが宿されているかのようだった。

「なるほど、なるほど。つまり、お前はわざと俺を誘い出したわけだ。車を使ったのは、今日お披露目の新しい手口だったんだが、またお前のせいでケチがついちまったなあ。それにしても、はは、まさかお前の方から会いに来てくれるとはな。この四年間、お前に対する恨みは忘れちゃいなかったが、何せ俺がボコボコにしてやったせいで、正直どんな(ツラ)の女だったか覚えていなかったもんでな。別の女を襲って憂さ晴らしをしていたもんさ。しかし、本当、くくっ、お前の方も俺のことがよほど忘れられなかったということか」

 葉子さんは茨木の挑発には乗らなかった。あくまでも冷静に相手と対峙して動かない。どうやら向こうが先に動くのを待っているようだ。

 茨木の方もそれに気づいているのか、必要以上に警戒してなかなか動こうとしない。

 異常者が、冷静であるということほど恐ろしいものはなかった。

「それにしても、女。お前はパートナーを誤ったな。二人がかりなら俺を倒せるとでも思ったのだろうが、そこにいるガキはとんでもない腰抜けだぞ。下手すると、お前より弱いんじゃないか」

 茨木はそう揶揄したが、その言葉は額面どおり受け取れるものではないだろう。おそらく茨木は、さっきまでの僕の態度が全部自分を油断させるための演技で、僕が本当はとんでもなく強い男なのではないかという僅かな可能性を疑って、鎌をかけてきているのだ。

 しかし、この場合は事実が真実だった。いまさら下手な小細工を弄する必要もないという具合に、葉子さんはハッキリと言った。

「勘違いするなよ。ここから先、アンタと戦うのは私一人だ。それに、この子は確かに暴力沙汰には向いていないけど、それでも男としてはアンタより数億倍もマシだよ。――いろいろと気にかけてくれて本当にありがとう。君と知り合えて良かったと思っている」

 後半は僕に向けての言葉だった。

 僕は葉子さんがそう思ってくれているのなら、本当にありがたく思うが、正直、情けなさと申し訳なさでいっぱいだった。本来ならば、やはり僕も葉子さんと協力して一緒に戦うべきなのだろう。しかし、僕の体は相変わらず恐怖に竦んで動かない。

 ただし、いまのやりとりで、葉子さんにまだ勝機が残されているということが分かったのは大きな希望だ。どうやら茨木は、現在の葉子さんの実力を全く理解していないらしい。必要以上に僕のことを気にかけているのがその証拠だ。

 だからといって、もちろん茨木には奴なりの恨みもあって、葉子さんが女といえども手を抜くことはないだろう。しかし、少しでも不用意に近付けば、痛い目を見るのは奴の方だ。奴は驚きを隠せないだろう。そこを一気に攻めれば、葉子さんの勝ちだ。

 ピンと張りつめた空気が、少しずつ揺らぎ出す。二人の間の緊張はすでに飽和状態にあり、空間そのものが歪んでいるようにも見えた。もはや決戦のときは、眼前まで迫っていた。

「冗談なら笑えないが、どうやら本気らしい」

 茨木の声は、嵐の前の静けさを連想させた。だが、その一語一語が、確実に時を加速させる力を秘めていた。

「いいぜ、そんなに俺と遊びたいのなら――」

 一瞬の空白。そして――。

「やってみるがいい!」

 (つい)に人の形をした狂気が解き放たれた。

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