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オレはオンナになりたいぜ!  作者: 工事中
遠山草汰の現在4
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遠山草汰の現在4―(6)

 いったいそれが何者であるかを知るのに、それ以上目線を上げる必要はなかった。今度こそ確実に、僕の頭と体は危険を察知していた。心臓が刃物で何度も突かれるような鼓動を繰り返す。

「あーあ、ミスっちまったなあ」

 人を()ね飛ばしてしまったことを言っているのか、それとも確実に()ね飛ばせなかったことを言っているのか、改めて問う必要もないだろう。どこかおどけるような態度が、この男の異常性と凶悪性をますます増幅させているようだった。

 そんな人間を目の前にして、僕の感情は怒りよりも恐怖の方が勝った。いまにも斜面を再び転がり落ちそうなくらい足元がガクガクと震えていた。

「おい、小僧。こっちを向けよ」

 その命令は、実際に強制力を持っていた。そう言われなければ、僕は決して自分から視線を上げて相手の顔を見ることは出来なかっただろう。

 それは上下ともに迷彩柄の服を着込んだ中肉中背の男だった。年齢は三十代後半くらいだろうか。いや、実際はもっと若いのかもしれない。ただ、視界の暗さと、それに何といっても、男の顔にある大きな火傷の痕が、その実年齢を分かりづらいものにしていた。

 男は恐怖に竦む僕の姿を見下ろして満足したのか、すっかり余裕に満ちた態度を示していた。おそらく、この男は、罪の意識など毛先ほどにも感じていないことだろう。

「はは、震えて声も出ないのか。これじゃあ、わざわざ車なんか使う必要はなかったな。だけどな、お前。これからもっと酷い目に遭わせてやるぞ。何するかって? お前を痛めつけたあとで、連れの女を目の前で奪ってやるのさ」

 それもまた男の性癖なのか、聞いてもいないことを愉快そうにベラベラと喋り立てる。

 そして、それが僕の恐怖心をさらに煽ったのも事実だ。この男なら、言葉にするのと同じくらい平然と、それらのことを実行してしまうことだろう。

 だが、僕はどうにか男の言葉に対して冷静な思考を働かせることが出来た。体と同様に震える声で男に問う。

「お、お前は、最近、この街で起こっている暴行事件の、は、犯人だな」

 すると、男は意外そうに目を細め、途端に下卑た笑い声を上げた。そのいかにも演技じみた態度が、男の言葉を待たずして、僕の予想を確信へと変えた。

「まさか、あんな小さな報道のされ方で覚えている奴がいるとはなあ。よくニュースを見ているってことだな。いやあ、感心、感心。けどな――」

 甘ったるい男の声が急に凶悪さを増したかと思った瞬間、僕は咄嗟に両手で顔の辺りをかばった。すると、案の定、安全靴を履いた足による強烈な前蹴りが、僕の体を吹き飛ばしていた。

「――はあっ、ぐっ」

 斜面を転がる間もなく、僕の体は背中から土手下の河川敷に直接叩きつけられた。息が詰まって、すぐに動けそうにない。それでも、逃げなきゃ、逃げなきゃという気持ちだけで、どうにか這うように男から距離をとろうとする。

 あんなのと戦えるわけがない。

 そもそも僕が葉子さんと共に戦おうと決意した理由は、もちろん彼女の手助けをしたいという思いがあったためだが、その裏で、僕は自分自身を変えたいという欲望も絶えず抱いていた。自分はあくまでも葉子さんのサポート役だと自覚しながらも、心のどこかで、葉子さんの力を借りながら成長していく自分の姿を夢見ていた。

 だが実際は、葉子さんの不在によって、僕の心は脆くも挫け果ててしまった。

 いや、これが並の相手であれば、まだどうにか動くことが出来たかもしれない。しかし、男の狂気と悪意とは、僕の想像を遥かに上回っていた。平気で人を車で()ね、人を傷つけることを心から愉しんでいる。そんな人間がこの世に存在するなんて、さっきまでは、これっぽっちも思っていなかったのだ。

「こんな時間に、こんなところを歩いているお前らが悪いのさ」

 男はゆっくりとした足取りで、土手の斜面を下りてくる。

 よほど僕という弱い生き物のことが気に入ったらしい。完全に自分の世界に入ってご満悦の様子だった。

 それならば、どこまでも逃げてやる。

 僕はそう思いっきり開き直った。

 もう逃げないと決意したが、これはいわば戦略的撤退だ。葉子さんのために、なるべく時間を稼ぐ。いったい彼女が、いまどんな状態にあるのかは分からない。ただ、すぐに動ける状態でないことは確かなようだ。だから、せめて葉子さんが動けるようになるまでは、時間を稼ぐつもりだった。

 といっても、僕は葉子さんが助けに来てくれることを期待しているわけではない。彼女が、この場から逃げられるだけの時間稼ぎだ。

 いくら葉子さんでも、この男を相手にしては、無事でいられるわけがないと僕は悟っていた。

 まして、葉子さんにとって、この男は因縁の相手であるかもしれないのだ。それはこの相手にとっても同じことが言える。もちろん、逆恨みに過ぎないのだが、この狂気に満ちた男がその事実を認識してしまったら、想像もつかないようなおぞましい出来事が起こってしまう気がする。

 ――だから、葉子さん。どうか僕のことは構わずに逃げて下さい。そして警察なり、プロレスラーなりを呼んでから助けに来て下さい。

 僕は神にも祈る気持ちで、現実的な逃避と、現実からの逃避を強く願った。

 だが、そんなことをいくら念じても、葉子さんに通じるはずがない。

 たとえ通じたとしても、彼女はそれを素直に受け入れる人ではなかった。

 ――漆黒の夜、地を這う僕と、それを追う男との間に、突如月が姿を現したかのように、白いコートが風になびいていた。


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