遠山草汰の現在1―(3)
その記念すべき一日目のことだ。
小さな三階建てのアパートの一〇一号室が、僕の新しい住処だ。朝から荷解きを開始して、大方作業が片付いたのは、夕食にはまだ少し早い時間だった。
しかし、朝から一人で体を動かして、クタクタのいまから自炊をしようなどという気力はなかった。
折角だから、今日は豪勢に外食だ。
特に当てがあるわけではなかったが、一日でも早くこの街の地理に慣れるために、外をぶらぶら歩くのも悪くないアイデアだと思った。
そして、幸か不幸か、夕暮れの繁華街で、僕はその場面に出くわしてしまったのだ。
「やめてくださいっ」
通行人の誰もが、その悲鳴に一度は足を止めたが、すぐに何事もなかったかのように、それぞれの歩みを進める。実際、それは僕の地元の田舎町でもよく見られた光景で、暇な男たちが道行く女性に片っ端から声を掛ける――つまりはナンパだった。
ただケチをつけるなら、女性一人に対し、男は三人組で取り囲むというその横柄な手段だ。あれでは、女性が逃げられない。しかも、声を上げてハッキリと拒絶されたのだから、大人しく立ち去るのがナンパのルールというものだろう。
――などと、ナンパ経験のない僕が言ったところで説得力はないかもしれないが、それにしても、あれではただの嫌がらせではないかと、だんだん腹が立ってきた。
まあ、その一因として、絡まれている女性の持つ雰囲気が、「僕の好きだった方」の姫川さんに似ていたからだということもある。
女性は僕よりも少し年上の学生風で、見る者に安心感を与える落ち着いた感じの服装が僕の中では好印象だ。だからといって決して地味ではなく、気に入らないが、執拗にナンパされていることからも分かるように、彼女自身はもの凄く華のある魅力的な女性だ。いや、どちらかといえば「花」のある女性と表した方が正しい。
できることなら、ここで彼女を颯爽と救い出し、ほんの少しでもお近づきになりたい。
しかし、いまの僕にはもはや女性に告白する勇気も、複数人の男に立ち向かっていく勇気もない。
――そう、これはどこの街でも見られる日常の風景なのだ。
変に正義漢ぶれば、それこそ非日常的な危険を生み出すことになってしまう。
だから僕も、他の通行人と同じように、この夕暮れのくたびれた風景に溶け込もう。
僕は、視線を地面に落としながら歩き出す。
長く伸びた薄っぺらい影たちが、幽霊のように音も立てず、すれ違っていく。
それが、僕たちの日常――。
「いやっ」
パシンという乾いた音と、女性の短い悲鳴とが、その日常を打ち破った。
僕は甘い夢から覚めた子供のように再び顔を上げた。すると、自分の体を抱くようにして震えている女性の姿と、頬を抑えて不機嫌そうにしている男の顔が目に飛び込んできた。
「おいおい、これはちょっと酷いんじゃないの?」
「気を付けなよ。コイツ、キレたら何するか分かんないよ」
別の男たちが、女性を見下ろすようにして圧力を掛ける。
確かに女性が手を上げたのはまずい。たかがナンパごときの撃退にしては、過剰な反応と言わざるを得ないだろう。
だが、恐怖に震える女性と、威圧的に凄む男たちと、どちらの味方につくかと問われたら、当然、前者の方につく。悪いのは、女性をそこまで追い込んだ男たちの方だ。
道行く人たちも、ついに足を止め、男たちに抗議の視線を向ける。
しかし、男たちは全く意に介した様子がない。むしろ注目を集めていることが楽しいらしく、演技じみた言動で女性にしつこく付き纏っている。
そんな態度をされると、僕たち大衆はとても困ってしまう。無言の抗議が効かないとなれば、ここで誰かがガツンと一声立ち向かっていかなければならないからだ。
――おい、行けよ。
――いや、お前が行けよ。
――むしろ、お前が行けよ。
――ていうか、お前が行けよ。
知らぬ者同士が顔を見合わせて、そんな無言の応酬を繰り広げるも、やがて皆一様にヘラリと笑顔を浮かべ、三々五々にそれぞれの日常へと帰っていった。
僕が顔を合わせて、「あなたが行くべきだ」と訴えかけていた筋肉質な男も、連れ合いの女性にその逞しい腕を引かれて行ってしまった。
そ、そんなあ。
大の男が揃いも揃って情けない。いや、それ以上に皆何て薄情なんだ。
地元で人間不信に陥り、新しい生活を求めた僕は、その初日にして早くも元の絶望感を味わうこととなってしまった。
いや、それよりももっと酷い。
なぜなら僕は、自分自身の薄情さを知ってしまったからだ。
――どうした遠山草汰、雑草魂を見せてみろ。
かつて僕を、姫川さんへの告白へと駆り立てた悪友の声が、さっきからずっと頭の中で響いている。
それを敢えて無視し続け、僕は他の誰かを当てにした。そして、その声に耳を傾けるしかなくなったいまは、金縛りにあったかのように体が動かない。
回りくどい言い方はよして、かなりハッキリと言ってしまえば、僕は怖いのだ。
絡まれている女性は、あんなに震えて、もっと怖い思いをしているはずなのに、いまも独りで抵抗を続けている。それが分かっていながら、僕はただ見ていることしかできない。
なんて自己保身、自己嫌悪、自己不信。
だったら気にせず、他の人たちみたいに無関心を装って逃げ出せばいい。
だが僕は、逃げ出すことにすら恐怖を覚えている。ここで逃げ出して、明日にはすっかり忘れているなんていう図太い神経は生憎と持ち合わせていない。
立ち向かうことも逃げ出すこともできない僕は、前にも後ろにも進めない。
こんな僕は、姫川さんにふられて当然だ。何が特徴のない平凡な人生だ。僕なんて平凡以下の弱虫、泣き虫、蛆虫野郎だ。
思わず目頭が熱くなって、視界がぼやけてきた。橙色の絵具が滲んだ抽象画のような街中を、たくさんの黒い影たちが行き交っている。
――その中で、唯一つ、何か白いものが僕の正面に立っていた。
「え、何だ?」
僕は目をぱちぱちと瞬かせて、その白いものに焦点を合わせる。
体にゾクッと寒気が走った。
それは、決して日常には溶け込めない、あまりに非常識な美しさを持つ女性だった。
長身痩躯の体を白いロングコートで包み、赤いアスファルトの大地に、その長い足を木の根のように張り付かせて動かず、前方を鋭く睨みつけている。その視線の先にあるものは、醜い三人組の男たちだ。
本来ならば、彼女の眼は、見つめただけで男を虜にしてしまう程の魅力を持っていることだろう。しかしいまは、眼で殺すという言葉を実現できるのではないかと思わせる程の冷たさを秘めていた。
道行く人たちも彼女の美しさに一度は目を惹かれるものの、まともに見続けることは難しいのか、すぐに視線を逸らし、遠くから振り返りなどして気に掛けていた。
彼女は動かない。
その視線の先を辿れば、彼女が男たちに絡まれている女性を何とか助け出そうと考えていることが分かる。気合も十分に感じられる。だが、動かない。いや、動けないのか。
ただ彼女の場合、僕と違って、決して小心から動けなくなったということではないのだろう。その証拠に、彼女は空手家が構えるように、両の拳をぐっと握り締めていた。何か他に事情があり、動くべきかどうか迷っている――そんな感じだった。
だから、彼女が自身を見つめる僕の存在に気付き、視線をぶつけてきたとき、僕は三人組に向かって飛び出すべきだった。
だが、自分でも信じられないことに、僕はまたも視線を逸らしてしまったのだ。
こんな僕なんて死んでしまえ――死ぬ覚悟もないくせに、そんなことを思って自分を責めた。
再び顔を上げたとき、彼女はもう僕を見ていなかった。先程よりも、さらに鋭い眼光を三人組に対して放っていた。
いや、本当はもっと大きな何かを、心の底から憎みながらグッと睨みつけていたに違いない。
それは、三人組はもちろんのこと、僕や道行く人々を含めた「男」という存在そのものに対する憎悪の証だったのではないだろうか。
――夕暮れのストリートを白い女が疾走した。