遠山草汰の現在3―(3)
「そんな――」
身近な人を亡くしたことのない僕には、それ以上の言葉は紡げなかった。ましてや、顔も名前も知らない誰かの死について語るなんて、残された人を前にして、出来ることではなかった。
無表情で夜空を見上げる葉子さんの心情も推し量ることは出来ない。
ただ、僕が思い浮かべるのは深林さんのことだった。彼女はこの事実を知っているのだろうか。知っていて、あのメッセージを僕に託したのだろうか。知らなければ、現実は彼女自身に対して残酷で、知っていたなら、彼女が葉子さんに対して残酷だ。
僕は、もう一度、深林さんに会う必要性を感じていた。
そのとき不意に、ただでさえ海の中のように暗かった周りの景色が、深海の底にまで引き摺り込まれたかのようにどっぷりと闇に落ちた。
空を見上げると、月はすっかりと厚い雲に覆われてしまっており、元あった場所さえ分からない。木々のざわめきが、何故か自分の内側から聞こえてくるようで、思わず肌があわ立った。
「よ、葉子さん?」
わけの分からない不安を抑えることが出来ず、視線を隣の女性に戻す。
その一瞬で全てが凍りついた。
彼女の眼がはじめて出会ったときと同じ、暗く冷たい光を宿していたからだ。
僕は声をかけることも出来ずに戸惑うばかりだった。
すると、やがて葉子さんは唇の端を不敵に吊り上げ、「――来た」と短く呟いた。
「えっ?」
その直後、僕は背後に人の気配を感じると同時に、隣から伸びてきた白い手によって頭をグイッと押さえつけられる。さらに息継ぐ間もなく、頭上で弾けるような甲高い金属音が鳴り響いた。
「な、なんだ、この女!」
野太い男の声に驚いて頭上を見ると、ほんの数秒前まで僕の頭があった空間で、金属製の棒とコーヒーの缶がぶつかり合っていた。
「え? えぇ?」
混乱する頭で何とか状況を把握しようと試みる。
金属の棒の正体は、特殊警棒というやつだろうか。見た目は細く、直接的な恐怖を感じさせるような大きさや形状ではなかったが、れっきとした武器に違いない。それが、僕の頭があった位置に鋭く振り下ろされていた。
警棒の先端からその形状を目で追っていくと、ベンチの向こう側に、背は低いが体格のがっしりとした見知らぬ男の姿が見えた。さらにその警棒を受け止めているコーヒー缶はさっきまで葉子さんが口をつけていたもので、やはり彼女の手の中にあった。つまり葉子さんは、見知らぬ男の警棒による不意の一撃を、コーヒーの缶で受け止めたということか。
でも、それってどういう状況だ。
「おいおい、オマエ、女相手に何遊んでんだよ」
また別の声がして、ハッと辺りを見渡す。すると、いつの間にか、ベンチの周りをぐるりと数人の若い男たちが取り囲むようにして立っていた。暗闇のため、その姿は良く見えないが、どいつもこいつも決して友好的な人間でないことは分かる。そこで僕は、ようやく自分たちが性質の悪い連中に襲われているのだということを自覚した。
「葉子さんっ」
再び頭上を見ると、警棒とコーヒー缶は未だに拮抗状態にあった。
葉子さんは相変わらず怖い顔のまま、そして男の方は何か余裕を失っているかのような顔つきでせめぎ合いを続けていた。
何かがおかしいと僕は思う。
よく時代劇などで見る刀と刀の鍔迫り合いではないのだから、武器を持った男の方は、それを振り上げて、もっと打ち込めるはずなのに、どうして止まったままでいるのだろうか。
もう一度、目を凝らしてよく見ると、葉子さんの持つコーヒー缶は警棒の形状に合わせて大きくひしゃげていた。それだけ警棒の一撃は強烈だったということだろう。
では、なぜコーヒー缶は葉子さんの腕ごと弾き飛ばされずに、警棒を受け止めたままでいられるのか。
考えられる答えは一つしかない。
とても信じがたいことだが、葉子さんは自らの腕力だけで男の一撃に弾き飛ばされずに耐えきったのだ。さらには、その握力でコーヒー缶ごと警棒を握り込んで放さない。
いったいあのスレンダーな身体のどこにそんな力が秘められているというのだろうか。少なくとも、僕や警棒男以上の筋力を持っていることは確からしい。
だが、そのことに気がついているのは、まだ僕と相手の男だけのようだ。他の男たちは冷やかしの声を上げながら、遠巻きに見ているだけだった。
逃げるなら、いましかない。
しかし、そう思ったのも束の間、僕はその考えを頭を振って打ち消した。
ついさっき、もう逃げないと葉子さんに決意表明をしたばかりではないか。そんな僕に対して、葉子さんは名誉挽回のチャンスをくれると言った。それはいま、まさにこのときのことを指しているのではないか。
そう考えると、葉子さんの不可解な行動の一部にある程度の説明がつく。つまり、葉子さんは暗く人気のない夜道を歩きまわることで、こいつらをわざと誘い出したということだ。
その真意については不明だが、彼女の険しい表情が全てを物語っているように思われた。そして、僕はといえば、葉子さんのそんな顔はもう見たくはないのだ。
「葉子さん、僕、名誉挽回します」
そう言って僕は起き上がろうとした。
だが、ちょうどそのとき、葉子さんと男の膠着状態に変化が見られた。
「――フッ」
みるみる焦りの色を濃くしていく男に対し、葉子さんは不敵に笑う余裕すら見せる。そして、ベンチに片足をかけ、一気にその上に立ちあがると同時に、その反動で男の警棒を弾き返した。さらに勢い良く振り上げた腕をブンッと振り下ろすと、高速で放たれたコーヒー缶が男の眉間に命中した。次の瞬間、白い身体が漆黒の闇に翻り、必殺のローリングソバットが、男の顔面を蹂躙していた。
「――っ」
誰も彼も声を上げる暇もない。身動き一つ取れない。まるで時間が止まったかのように辺りはしんと静まり返っていた。
そんな中、ただ一人、華麗に着地を決めた葉子さんだけが動いていた。彼女はくるっと踵を返すと、再びベンチの前に立ち、「残り、五人か」と平然と言ってのける。
確かに葉子さんは強い。だが、その戦い方は、相手に攻撃の隙を与えない奇襲戦法に近いと僕は考えていた。それなのに、こんなに余裕を見せつけて、この人数を相手に果たして無事でいられるのだろうか。
やはり、僕もやるしかない。
喧嘩なんて、最後にやったのはいつのことだろう。少なくとも、学生服を着てからは一度もないのは確かだ。同級生にそういう連中がいたのは知っていたが、それは、僕とは全く無縁の世界だった。
それなのに、いきなりハードルが高過ぎやしないだろうか。
気がつけば、足ががくがくと震えていた。止まれ、止まれと念じても、一向に治まる気配がない。それどころか、逆に震えは酷くなって、地面に真っ直ぐ立っていることさえ覚束なくなってきた。
なぜだろう。
昨日深林さんが襲われていたときと、そう変わらない状況にもかかわらず、どうして今日の僕はこんなにも震えているのだろうか。逃げないと誓ったばかりなのに、より一層、腰抜けになってしまったみたいだ。
葉子さんは、こんな僕をどう思っているのだろう。
横顔を覗くと、葉子さんは、それに合わせるかのようにこちらを向いた。
「草汰君、よく逃げなかったね」
そう言って、葉子さんは表情を崩した。僕は、余計に情けない気持ちになる。
「すみません、葉子さん。僕、いま、怖くて震えが止まりません。でも、何とかしてみせますから。一緒に戦いますから。名誉挽回してみせますから――」
「いや、君はもう十分名誉挽回したよ」
「そんな、僕はまだ何も――」
「ほら、君、震えているじゃない。それは決して君の弱さなんかじゃない。逃げずに立ち向かおうとするから、そうなるんだよ」
「で、でも」
「いいから、君はベンチの下にでも隠れていなさい。怪我でもされたら、私が君に申し訳が立たなくなる」
そう言うと葉子さんは、トンと僕の胸を軽く突いて駆け出した。
僕はたったそれだけのことで、情けなくも足元から崩れ落ちてしまう。
昨日と何も変わらない。勇猛果敢に戦う葉子さんと、そんな彼女に見惚れるだけの僕と、次々に倒されていく男たち――。
怒声と悲鳴を遠くに感じながら、僕は、男って格好悪いものだなあと、そんなことを思っていた。




