日野葉子の過去2―(5)
幹生の眼鏡が飛んだ。
しかし、どうせ安物の伊達眼鏡だ。罪悪感なんて微塵もない。
深林さんが今度こそ何事かあったのではと振り返ったが、隣にいた真樹が「いつものことさ」と能天気に言うと、「そうなんだ。仲良いんだね」とやはり能天気に返していた。
意外に似た者同士である。これで真樹の片想いというのだから、男女の仲というのは分からない。
それよりも何よりも幹生の馬鹿だ。元々、優等生面した馬鹿だとは思っていたが、ここまでだとは思ってもみなかった。
「アンタね、いったいどういうつもりなのよ」
私は相変わらず、前を歩く二人に会話を聞かれないように、極力感情を抑えながら言った。
幹生は眼鏡を拾い上げると、ブリッジを右手の人差指でクイッと上げた。
「昨日の真樹の話を聞いて、そろそろサボテンの花が咲くのを見たくなったのさ」
「それとこれとあれがどう関係あるって言うのよ」
私は短時間のうちに起きた、口に出すのもはばかられる衝撃的な出来事を、それぞれ代名詞で表したが、幹生は全て承知したようだ。この辺は、さすがだと認めざるを得ない。
「真樹は間違った方向に進んでいるというのが、昨日の話に対する俺の正直な感想だ。しかも、こうして四人で帰るようになってから、その思いはますます強くなるばかりだ。葉子だって、あの二人の姿を見れば分かるだろう。上手くいかない方がおかしいって」
「そりゃあ、まあ――」
私は仲睦まじく前を歩く二人に目を向ける。
不意に胸がズキッと痛んだが、きっと気のせいだろう。
「ただ、真樹が深林さんに対する自身の恋愛感情に気づく前に、既に深林さんは他の男に対して恋愛感情を抱いていた。別に何もおかしなことじゃない。年頃なんだから、恋の一つや二つくらい誰だってするものさ。要は、あの二人の場合は、タイミングが問題だっただけで、今後の真樹の頑張り次第ではどうにでもなるはずなんだ。ところが、アイツは早々に諦めようとしてしまっている。何故か? アイツは優しすぎるんだ。好きになった女の子が、他の誰かを好きだと知れば、その子のために自分の気持ちを押し殺してしまうような人間だ。おそらく、いままでの十連敗もそのせいだろう」
「優しいというより、ヘタレなのよ」
「まあ、言葉を選ばなければな。ところが、今回だけは少し勝手が違う。深林さんに対して真樹は、自分の恋愛感情を押し殺しつつも、仲の良い友人としてのいまの関係を長く保ちたいと思っている。無自覚なのか、気づかない振りをしているのか、それだけ本気なんだろう。誰かさんと一緒でな」
私は無言で右手を振り上げる。
すると幹生は、「待て、もう少しだけ俺の話を聞いてから判断してくれ」と懇願してきた。言葉の必死さとは裏腹に、その顔は、昔から私が良く知っている素直で優しい表情をしていたので、私は「今回だけよ」と幹生を信用することにした。
「多分、俺はいま人生で最も重要なことを言おうとしている」
「まあ、何を言うかによっては、短い人生かもしれないものね」
「そう言うなって。――それじゃあ話を戻すぞ。とにかく、ここにきて真樹は、深林さんを俺たちと同じ幼馴染という枠で捉え直して半永久的に続く関係を築こうとしている。昨日、真樹自身が言ったように、幼馴染という関係を利用しようとしているんだ。だが、葉子も言ったように、そんなことは無理なんだ。それは、深林さん側に問題があるからじゃない。既に一度、深林さんに対する恋愛感情を意識してしまっている真樹側の問題だ。いや、もっと言えば、そのことを既に承知している俺や葉子にも問題がある。このままでは、真樹の思惑は外れ、遅かれ早かれ深林さんとの関係は破綻する。そうなったときに、一番傷つくのは誰か?」
「そりゃあ、もちろん真樹と深林さんでしょう」
私は当然だとばかりに即答する。だが、幹生の見解は違った。
「違う。傷つくのは葉子、お前だ」
「はあ? 何で私が傷つかなきゃいけないのよ」
「お前が、真樹に恋愛感情を抱いているからだ」
その台詞を聞かされたのは本日二回目だったが、やはり承服できなかった。幹生は間違っている。だが、その間違いを正すためには、幹生の説明を最後まで聞く必要があるだろう。私は無言で先を促した。
「真樹が傷つくのは当たり前だ。だが、アイツの場合は、そこで俺たちが発破をかけてやれば、すぐに立ち直ることが出来る。むしろ一度深林さんとの関係を破綻させることで、初めて自分の気持ちと向き合うことが出来るようになるはずだ。そうすれば、自ずと深林さんも、その気持ちに向き合うために立ち直るだろう。でも、葉子は違う。深林さんを幼馴染として捉え直そうとした真樹の企みが破綻するのを目の当たりにしたお前はこう思うはずだ。――やっぱり恋愛感情なんて持つべきじゃないなと。これまでだって、お前は事あるごとに、そうやって自分の気持ちを押し殺してきたはずだ。表面上は、傷ついているようには見えないかもしれない。だが、そうやって自分の感情を押し殺せば、確実に心に傷は残る。しかも、お前はその傷を決して人には見せず、また自分でも向き合おうとしないから、癒えず、深くなるばかりだ」
「――違う」
私は感情を込めずに言った。
「その証拠に、さっきのような不用意な言動が増えてきた。深林さんに対する過剰なまでの苛立ちや、自分が女であることを認めたくないために俺に勝負を挑んできたこともあったな。それでも俺は、これまで通りの関係が続くのならばと思い、何も言わないできた。だが、思いもかけず真樹が爆弾を持ち込んできた。アイツ自身には、そんな自覚はないのだろうが。もし、それが爆発すれば、さっきも説明したとおり、真樹は一度は傷つくことになっても、自分の気持ちに向き合うことが出来るようになる。その一方で、葉子はますます自分の気持ちから目を背けようとする。俺は幼馴染として、その不公平感が許せない」
「――違うって」
「だから俺は、三人がもう一度対等な立場に立てるように、お互いの本当の気持ちを曝け出すときが来たと思った。幼馴染ごっこは、もう終わりだ。そのために、まず俺がその見本を示す。もう一度言う、葉子、俺はお前が好きだ」
「――本当、違うから」
私はそう呟くのが精一杯だった。いつものように感情任せに口を開けば、何か余計なことを言ってしまいそうだった。私は冷静に、冷静にと自分に言い聞かせて口を開いた。
「私が、真樹に恋愛感情なんてあり得ないから。だから、アンタ、さっき真樹が爆弾を持ち込んだなんて言っていたけど、そうじゃない。アンタがただ自爆しただけよ。――でも、良かったわね。もう一度言うけれど、私は真樹のことを何とも思っていないんだから、アンタの告白は真摯に受け止めてあげる。それで、いま言ったことは全部チャラにしましょう」
私は一方的に話を打ち切って、前を歩く真樹と深林さんの会話に割り込んでいった。
大丈夫。私はいつもどおりの私だと、そのときは思っていた。