遠山草汰の現在2―(3)
真新しい折りたたみ自転車を漕ぎながら、アパートに帰りつくまでの間、僕は深林さんとのやりとりについて考えていた。
葉子さんと深林さんの過去に何かがあったということは、これまでの二人の不自然な態度から容易に想像することが出来た。しかし、その内容については、全くの闇に閉ざされていると言っても良いだろう。
深林さんは、それを葉子さんに聞いてみろと僕に言った。
そして、葉子さんに伝えてほしいこととして深林さんが選んだ言葉に登場した第三の人物「彼」とは一体何者なのだろうか。
加えて深林さんは、僕が葉子さんと深く関わると、痛い目に遭うとも言っていた。
これらのことを総合して、僕の貧弱な想像力を働かせてみると、二人はかつて高校の同級生で仲の良い友人同士だったが、「彼」を巡って女の戦いが勃発した。そして、一度は深林さんが勝利したが、後に葉子さんが逆転し、二人の間に大きな溝を作った――という昼ドラのようなストーリーが出来上がった。
さらに、このストーリーを元に、深林さんの「彼を返してください」という発言を考えると、葉子さんはいまでも「彼」との付き合いがある可能性が高い。下手をすると、同棲している可能性だってある。とすると、昨夜僕を食事に誘ったのは、美人局的な何かということだろうか。浮かれてホイホイと食事についていったら、怖い「彼」が登場して、僕は「痛い目」に遭ってしまうと――そういうことなのだろうか。
いや、違うだろうと、僕はその考えをすぐに打ち消した。後半部分なんて、想像というよりは、僕の人間不信が産み出した妄想に近い。
いまの組み立て方だと、葉子さんの男に対して向けられた憎しみのような感情が説明できない。葉子さんが「彼」と付き合っているということは無理があるように思える。
だったら、逆の発想をしてはどうか。
つまり、葉子さんは同性愛者だ。高校時代に同級生の深林さんのことを愛していた。しかし、深林さんは同性愛者ではなかったので、「彼」と付き合うことになった。そのことに腹を立てた葉子さんが「彼」を殺害した――。
いやいや、それこそ見当違いだ。つい妖艶な設定に興奮を抑えきれず、妄想を逞しくしてしまったが、葉子さんを殺人犯に仕立て上げるなんてどうかしている。
結局、真相は葉子さんから直接聞くしかないのだろう。
アパートに帰りつき、ダイヤルロック式の郵便受けを確認すると、ピザやお寿司やお弁当や女の子などといったデリバリー業者のチラシがぎっしりと詰まっていた。
最近は何でもデリバリーなんだな。
そんなことを思いながら、いまのところは何処にもお世話になるつもりはなかったので、まとめてチラシをゴミ箱に放り込もうとした。
すると、一枚だけ厚みのある紙が紛れていることに気が付いた。取り出してみると、近所にある家電量販店からの会員向けダイレクトメールだった。
身に覚えがなかったので、宛名を確認してみると、やはり知らない男性の名前が印字してあった。僕の前に一〇一号室に住んでいた住人だろうか。
ところが、念のために宛先の方も確認してみると、このアパートの一一〇号室と印字してある。
なるほど、配達の人が一〇一と一一〇を間違えて投函したのだろう。僕もそうだが、このアパートの住人の大半は、郵便受けや部屋のネームプレートに、自分の名前を記すようなことはしていなかった。
僕は、自分の考えに一瞬納得しそうになったが、すぐに一一〇号室は葉子さんの部屋ではないかと気が付いた。
これは一体どういうことだ。このダイレクトメールの宛名の男性は、葉子さんの前に一一〇号室に住んでいた人なのだろうか。それとも――。
「あっ」
僕の中で閃くものがあり、思わず叫んでしまった。先程の自らの妄想を思い出したのだ。
つまり、このダイレクトメールに印字された名前の男性こそが、深林さんの言う「彼」で、葉子さんと同棲しているのではないだろうか。
一度は打ち消したはずの妄想に、僕は再び取り憑かれてしまった。居ても立ってもいられず、件のダイレクトメールを片手に、一一〇号室の扉の前まで駆けていった。
しかし、もし呼び鈴を鳴らして、いきなり男の方が出てきたらどうしようなどと相変わらずの迷い癖が顔を覗かせてしまう。
そのとき思い浮かんだのは、「彼を返してください」と言った深林さんの悲痛な面持ちだった。
気が付くと、ピンという甲高い電子音が鳴っていた。慌てて呼び鈴から指を離すと、一呼吸遅れてポンという電子音が続いた。
待ったなしの状況だ。
しかし、実際には、呼び鈴を鳴らしてから少し待つだけの時間が経った。
留守だろうか。
そう思ったとき、ようやく中から人の気配がした。
一一〇号室の扉が開く。
「ああ、草汰君」
幸いにも出てきたのは葉子さんだけだった。これから出かけるところだったのか、昨日と同じ白いロングコートを着込んでいた。
僕は思わず視線を足元に落とす。玄関先に揃えられた靴は、スニーカーが一足だけで、僕の記憶が確かであれば、それは昨日も葉子さんが履いていたものだ。
しかし、スニーカー一足だけというのは、女性にしては不自然なくらい履き物が少ないのではないだろうか。僕の部屋の玄関にだって、普段履きのスニーカーに加え、サンダルと入学式用の革靴とが置いてある。この扉が開く前までは他の誰かの靴もあり、突然の僕の訪問を受けて、普段履き慣れた靴以外は、全て下駄箱の中に慌てて隠したのではないだろうかという想像を払拭できない。
次いで、部屋の中の様子を覗おうとしたが、廊下の先の引き戸が閉じられており叶わなかった。そのような状況も、戸の後ろで他の誰かが聞き耳を立てて潜んでいるのではないだろうかという不安を掻き立てる。
考えているだけでは仕方がないか。僕はそう思い、葉子さんへの挨拶もそこそこに、手に持ったダイレクトメールを葉子さんに差し出そうとしたが、「ちょうど良かった。いまから君の部屋に行こうと思っていたところなのよ」という葉子さんの声に阻まれてしまった。
「え、何ですって?」
思ってもみなかったことを言われ、慌ててしまったのは僕の方だった。
「ほら、昨日言ったじゃない。今度おごってあげるって。突然で悪いんだけど、草汰君の予定が空いていれば、いまからにしない?」
「いや、ちょっと待ってください」
「ん? 何か予定があった」
「いえ、そういうわけでは――」
「なら、決まりね」
葉子さんは強引に話をまとめてしまうと、玄関先に揃えられたスニーカーに足を通した。
このままでは、何も分からないまま終わってしまう。
そもそも下駄箱や部屋の中のことなど、余計なことは考えずに、いま手元にある疑いだけを確実に潰せば良かったのだ。ダイレクトメールの宛名を確認してもらう。ただそれだけで良い。
「あの、葉子さん。これなんですが、僕のところの郵便受けに紛れこんでいまして――」
ダイレクトメールを差し出すと、葉子さんは、それを一瞥しただけですぐに合点がいったらしい。「ああ、これね」と素っ気ない調子で言った。
僕は、果たしてどんな答えが返ってくるのだろうかと息を呑んだ。しかし、それは呆気ないものだった。
「前の住人さん宛のものね。いまでも時々届くのよ」
そう言って玄関から出ると、一一〇号室の部屋の扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。その様子に、これといって不自然な点は見当たらなかった。
「そ、そうなんですか」
僕は途端に自分の妄想が恥ずかしくなって、手に持っていたダイレクトメールを思わず引っ込めてしまった。確かにそれが一番現実的な答えだろうなと、僕は頭を掻いた。