遠山草汰の現在2―(2)
いつもの僕であれば、この後、続けるべき話題を見失ってしまい、昨日今日知り合ったばかりの女性との会話なんて長続きするものではないが、運の良いことに、僕と深林さんとの間には共通の話のネタがあった。
つまり、葉子さんのことだ。
昨日、ナンパ男三人組を撃退した白いロングコートの女性が立ち去った後で、深林さんは彼女のことを高校の同級生だと言った。その後、僕は彼女と再会し、日野葉子という名前を教えてもらった。
あのときは葉子さんに再会できたうえ、食事にも誘われたという喜びで舞い上がってしまい、彼女に対して深林さんのことを確認するという発想は浮かばなかったのだが、いまここで僕が葉子さんの名前を口に出したら、深林さんはどんな反応をするだろうか。
「実は、深林さんにお伝えしたいことがあります」
自分で言っておいて何だが、その妙に改まった言い回しは、姫川さんに告白したときの記憶を僕に思い出させた。一瞬頭が真っ白になったが、後は言葉が出るに任せ、僕は少し興奮気味にまくしたてた。
「あの後で、僕、日野さんに会ったんです。日野葉子さんです。深林さんが高校の同級生だと言っていた、あの人です。しかも、驚いたことに、僕と同じアパートの住人だったんですよ」
しかし、深林さんの反応は、僕が期待していたものとは少し違っていた。
彼女は一瞬、大きく目を見開いて驚きの表情を浮かべたものの、次第にその顔色を曇らせていった。小刻みに震える手でその口元を隠してはいたが、表情筋の歪みから、唇を固く噛み締めているのだと思われた。
その反応に、僕の方が驚かされる。
「あの、もしかして、別人でしたか? 同級生の名前は、日野葉子さんではなかったのですか?」
「――いいえ、日野さんは確かにわたしの同級生だった人よ」
抑揚のない声で、深林さんは答えた。
僕は、その様子に何か釈然としないものを感じたが、とりあえず間違いではないということが確認出来てホッとした。
「葉子さんのこと、大切だって言っていましたよね。今度、ここに連れてきましょうか?」
少し自信を失いつつも、そう提案してみた。しかし、深林さんの態度は、昨日とは打って変わって冷めたものだった。
「ううん。あの人の方も、わたしのことを避けていたみたいだし、わたしもあの人が何を考えているのか分からない以上は、会うことは出来ないわ。いまは居場所が分かっただけで十分よ。それよりも、わたしから質問しても良いかな?」
「あ、はい」
深林さんの言葉の意味を考える間もなく首肯する。
彼女は、少しだけ声の調子を落として言った。
「遠山君から見て、あの人は普通だった? どこか変だなと感じることはなかった?」
まさかの質問に、僕は戸惑いを覚えた。
――葉子さんが変?
それは変と言われれば変なところはある。例えば昨日の戦いぶりや、そのとき見せた憎悪に満ちた鋭い目つき、そして深林さんから逃げるようにして立ち去ったこと――。しかし、それらのことは、全て深林さんもその場にいて承知しているはずのことだった。ということは、僕に求められている答えは、昨夜アパートで再会した時の会話の中にあるはずだ。
しかし、そんなに大したやりとりでもなかったと思い出し、結局、これといっておかしなところはないという結論に至った。
「いえ、いきなり食事に誘われて、意外と気さくな人だなあとは思いましたが、そんなのただの社交辞令でしょうし。特に変わったところはなかったと思います。あ、でも物凄く美人ですよね」
「――そう、ね」
深林さんは深く溜息を吐くように相槌を打った。僕はしまったと思い、「もちろん深林さんも綺麗ですよ」と言うべきかどうか迷ったが、結局タイミングを逃してしまい、その間に深林さんから次の質問が投げかけられた。
「食事に誘われたって言っていたけど、遠山君は、あの人のことをどう思っているの?」
「え、いや、それは、その……」
どうして答えに窮するような質問ばかりしてくるのだろうか。もしかして、僕はからかわれているだけなのだろうかと、つい疑ってしまう。
しかし、深林さんの表情は相変わらず硬いままだ。やがて彼女は、僕の様子から何かを読み取ったかのように口を開いた。
「悪いことは言わない。あの人とは、深く関わらない方が良いわ」
その言葉に、僕は耳を疑った。と同時に、深林さんに対する反感が心の中に芽生えるのを確かに感じた。
「どうして、そんなことを?」
「君は、あの人に騙されているのよ。いつか、きっと痛い目に遭う」
何故かは知らないが、今日の深林さんは、昨日とはまるで別人のように、葉子さんに対して態度が冷たい感じがする。そういえば、さっきから葉子さんのことを何度も「あの人」などと呼んでおり、まるで親しみを感じない。そして極めつけには、葉子さんのことを悪く言う。
しかし、それでも深林さんからは滲み出るような悪意というものは感じられず、むしろ自分の言葉に彼女自身が傷ついているかのような表情を浮かべるので、僕はこの反感を言葉にして良いものかどうか判断ができなかった。
「そんな目で見ないで。私はただ、自分に言えることを選んで言っているだけなの。遠山君のことを思えば、ここで全てを打ち明けるべきなのだけれど……。どうして、私があの人に対して酷いことを言うのかは、あの人に直接聞いてみて。私の言葉の是非は、そのうえで判断してほしい」
そう言ったきり、彼女は顔を伏せてしまった。他の客が入ってくることはなかったが、これ以上ここに留まっていることは、どうやら限界のようだった。
最後に僕は仕事の邪魔をしたことを詫び、少し考えてから、何か葉子さんに伝えることはありませんかと訊いてみた。
すると深林さんは、更に悲痛な表情を浮かべ、喉から絞り出すような声でこう言った。
「――彼を返してください」
その重い言葉を、僕は、必ず葉子さんに伝えますと約束してフラワーショップを後にした。