遠山草汰の現在2―(1)
一人暮らしを始めて二日目、僕は、洗剤やトイレットペーパー、食器や水回り品などの日用品の買い出しのため、朝から最寄りのショッピングモールへと足を運んだ。
道のりは、あらかじめスマートフォンで検索して調べていたのだが、実際に歩いてみると、小さな画面に映し出された地図上で見るよりも、はるかに遠く感じられた。車も運転免許証も持っていない身には、日常生活の足としても、自転車を手に入れる必要があるなと思った。
粗方の買い物を終え、ショッピングモール内の自転車売り場を覗いてみたが、専門店ではないためか、品数の薄さが気になった。どうせ買うのであれば、納得のいく一台が欲しい。
レジ袋を両手に提げて、再び徒歩でアパートに戻り、カップ麺で腹ごしらえをしながら近所の専門店をスマートフォンで検索した。すると、アパートを挟んで、ショッピングモールとはちょうど正反対の方向に位置する商店街に、一軒だけサイクルショップがあるということが分かった。
受験勉強ですっかり鈍ってしまった体は、既にアパートからショッピングモールまでの往復で疲れ切ってはいたが、外の陽気は、それを補って余りある心地良さだった。
そういえば、今年はまだ桜の花を見ていない。
天気予報によると、明日からはまた冷たい寒波が押し寄せ、花散らしの雨になるかもしれないという。
目的の自転車も早めに手に入れておいた方が良いだろう。そのついでに、サイクルショップまでの道のりで桜の花が咲いているのを見られたらラッキーだ。
ほんのささやかな動機づけだが、その程度のことでコロッと行動できてしまう自分に苦笑いしながら、僕は再度アパートの部屋を後にした。
一〇一号室の自室のドアを開け外に出ると、共用玄関とは逆方向の一一〇号室の方をつい見てしまう。そして、そこに住んでいるという葉子さんのことに思いを馳せる。
夕暮れのストリートで、執拗なナンパに困っていた姫川さん似の女性を助け出すため、男たちをバッタバッタと倒していく姿、憎悪に満ちた冷たい視線、慌てて走り去っていく白い背中、その夜、偶然再会し食事に誘われたこと――全てが夢だったと言われても、きっと僕は納得してしまうだろう。
何より僕は、いまから一一〇号室の呼び鈴を押し、「ところで、食事はいつにします?」なんて図々しく聞けるような度胸の持ち主でもない。
――あれ、社交辞令のつもりだったんだけど、何を本気にしているの。これだから男って奴は。
そう言って、僕という男を精神的にも肉体的にも再起不能にする彼女の姿が、容易に頭に思い浮かんだ。
どうも姫川さんの一件以来、疑り深い性格になってしまったようだ。
僕は頭を振ってその悪い想像を打ち消すと、共用玄関を出て、商店街の方へと足を運ぶことにした。
ショッピングモールから離れた場所にある商店街は、人影もショッピングモールのそれとはかけ離れていた。
少しレトロに感じられる様々な店の看板が通りの至る所で見かけられたが、実際には、半数近くの店のシャッターが下りた状態だった。また、営業している店舗の中を覗いてみると、高齢の店員が暇そうにテレビを見たり、新聞を広げたりする姿が多く見受けられた。
かつてはこの街の商業の中心だったのだろうが、いまでは閑散とした雰囲気が、商店街のあちらこちらに漂っている。
目的のサイクルショップはなかなか見つからない。もしかしたら、シャッターの下りた店舗の一つがそうだったのだろうかと不安になる。
そんなとき、ふと鼻をくすぐる良い香りがして、僕は一軒の店の前で足を止めた。それは、この商店街でおそらく唯一と言って良い華やかな場所――フラワーショップだった。
特に花を活けたり飾ったりする習慣は、僕にはない。また、当然のことながら、花を贈るような女性もいない。
ただ、商店街に歩いてくるまでの間に、結局桜の花を見かけることはなく、そのこともあってか、つい商品として陳列された花々を目で追ってしまった。
そうして店の中にまで目が向いたとき、僕は思わず「あっ」と声を上げた。
桜の花はない。だが、花のある女性がそこにいた。
僕は迷わず店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ――」
その女性は明るく言って振り返り、僕の顔を確認すると、驚きの表情を浮かべながら上品に口元に手を当てた。
間違いない。その人は、昨日街で絡まれていたところを葉子さんに助けてもらった姫川さん似の女性だった。
「昨日はどうも」
僕は、昨夜葉子さんに声をかけたときの反省を活かし、不審人物に思われないように、自分の氏名や、大学進学を控え昨日から一人暮らしを始めたこと、今日は自転車を買いに来て偶然このフラワーショップで女性の姿を見かけたことなどを順を追って説明した。
すると、最初は緊張した面持ちだった女性も表情を和らげて、丁寧な物腰でこう名乗った。
「わたしは、ここでアルバイトをしている深林静花と申します」