遠山草汰の現在1―(1)
夕暮れのストリートを白い女が疾走した。
アスファルトを蹴る足音は心臓の鼓動よりも速く、身に纏った純白のロングコートが風を捲いて、翼のように広がった。
天下の往来で、一人の女性に対し、複数人で取り囲んで執拗に因縁をつけるという傍若無人な行為を働いていた男たちは、自分たちの背後から迫る異変に気付き、汚い怒号と共に一斉に振り返り凄んでみせた。だが、視界に飛び込んできたモノの非常識なまでの美しさに、一瞬魅入られたかのように動きを止めた。
その一瞬が、男たちにとっての命取りとなった。
果たしてそれは本物の翼なのか、白いロングコートの裾がふわりと舞い上がったかと思うと、女の身体は重力を振り切ったかのように空中で静止した。
次の瞬間。
男たちのうちの一人が真横へと吹っ飛び、三メートルは先の植え込みの中に頭を突っ込んでいた。まるで無防備だった顔面側頭部に、不意のローリングソバットを見舞われたのだ。当たり所が悪ければ、死んでも可笑しくない一撃だった。
あまりに衝撃的な出来事に、男の仲間も、遠巻きの野次馬も、関わり合いにならぬよう目を伏せていた大多数の通行人たちも、皆一様に言葉を失った。
帰宅ラッシュの街の雑踏に異質な静寂が宿る。
沈黙を破ったのは、「ぎゃあっ」という男の悲鳴だった。見れば、白い女の足もとで、別の男が腹を押さえてうずくまっている。
残った男は、自分が最後の一人となったところで、ようやく意識を現実に引き戻したようだ。
「この女ぁ、調子に乗るんじゃねえ!」
相手が女だろうと関係ない。いや、女だからこそ、コケにされて頭に血が上ってしまったのだろうか。弓を引き絞るように、拳を大きく振りかぶって放たれた男の一撃は、確実に女の顔面を潰すだろう凶暴さを纏っていた。
「――潰れろ」
だが、その言葉を発したのは女の方だった。
逆上する男に対し、女はどこまでも冷静で、冷酷で、冷徹であった。まさに目と鼻の先に迫る暴力を、豹のようにしなやかな身のこなしでかわし、一気に男との距離を詰める。
距離ゼロの密着状態だ。
一般に、この距離、この態勢で、女性が自分よりも大きな体を持つ男性を打倒するのは至難の業である。それどころか、自らに暴力をふるってくる男性と密着状態になってしまったなら、普通の女性は、まず間違いなく恐怖で身が竦んでしまうことになるだろう。
だから女という生き物は、決して力で男を屈服させようなどということは考えない。そして、世の男たちは、その事実に安心しきってしまっている。
だが、彼女だけは全く別だった。
既に二人の男を倒した手際からも分かるように、男の持つ暴力性に、微塵の恐怖も感じてはいない。
それは強さゆえの自信の表れか。それとも正義心の働きによるものなのか。
どちらも違う。
彼女の目を見れば、すぐに気づく。
彼女はただ純粋に、男という生き物を、その在り方を心の底から憎んでいる。
「潰れてしまえっ!」
両手を男の背中に回し、彼女はもう一度そう言った。
潰す。一体ナニを。言うまでもない。
距離ゼロ、それは彼女にとって絶好の間合いに違いなかった。まるで恋人を抱き締めるかのように回した両手は、その攻撃を回避、防御不可能の必殺技へと昇華させる。
それらのすべての動作は、僅か一秒ほどの流れで行われた。
ついに彼女の膝が、男の全く無防備な部分へと襲いかかる。
――その光景を、僕はただ遠くから見つめることしか出来なかった。
卑怯で臆病で弱虫の僕、遠山草汰は、名も知らぬ美しい女性の戦いぶりに見惚れるだけで、彼女の憎悪は、そんな僕にも向けられているような気がした。
それが僕には悲しかった。
回りくどい言い方はよして、かなりハッキリと言ってしまえば、僕は彼女に一目惚れをしてしまったのだ。