確率論的自由落下の規則性について
ピンポン、と薄く安く余韻のないドアチャイムの音がして、彼は目を覚ました。身じろぎ以前に目蓋すら動かそうとしないまま一瞬息を止めると室内の空気は淀んだ無音で、さっきの音は夢の音であったかと、彼の意識はまた溶け始める。そこにまた同じ音がくっきりと落ちた。また現実の縁にいた彼は目を開く。濁った昼の光が畳に広がっていた。
両手両足を縮め体を丸めて寝返りも打たず午睡に落ち込んでいたと見えて、軽く強張った背筋を伸ばし半ば覚醒しない頭のまま彼はゆらゆらと玄関に降りた。日光に温められ続け火照った体に玄関は薄暗く涼しかった。裸足でスニーカーに乗り、ああまた潰れて形が崩れるとぼんやり考えながら小さな穴を覗き込む。魚眼レンズの視界に、スーツに身を固めて生真面目に立っている若い女性が映っていた。その顔は記憶にない。チェーンをかけたままドアを開けると柔らかい外気が鼻先で香った。
「こんにちは」
「……どうも」
ドアチャイムよりも有機的ながらより確かな実体を持っているような彼女の声に比べ自分の声はなんてふやけているのだろうと無表情の裏で呟く彼の前で、彼女はスーツと同じ黒い鞄からクリアファイルを取り出した。透明なそれに透けている水色を見て、彼はふっと意識が明瞭になるのを感じる。
「私、蒼穹会の青路と申します。少しお時間いただけませんか」
今までも何度か聞いた名称を出され、彼はこのまま無言でドアを閉めるべきか数拍躊躇した。そしてその曖昧な間、彼女が苛立った色も見せず微笑も浮かべず化粧気のない顔でじっと自分を見つめていたためじわりと思考が温まった。慈愛に満ち隣人愛に溢れ幸福が漂っている暖色の声とは違う温度、多少低い人肌、常温を彼女の声が持っていたことも加温要因の一つだった。
彼は無言でドアを閉め、錆が軋むチェーンを外してまた開けた。彼女はまだそこに立っていた。
「どうぞ」
「いいんですか?」
彼女の額辺りに緊張が滲む。これまで門前払いを食らい続けていたのだろうなと、例外なく門前払いを食らわせ続けていた彼は実感を伴って納得する。
「散らかってますけどそれでも良ければ、どうぞ」
「ありがとうございます、お邪魔します」
折り目正しく頭を下げる彼女に背を向けて玄関に戻り、案の定型崩れしたスニーカーを足で押しのける。重い金属のドアが緩慢に閉まり切るまでの間に彼女は彼の後に続いた。脱いだパンプスを整える彼女の丸めた背からポニーテールが滑り落ちる。自分一人しかいなかった空間に他者が入り込むというのは、双方黙っているだけでもこんなに騒々しいものかと彼は懐かしい思いがした。留守番の後母親が帰ってきた時、友人を呼んだ時の空気と同じ感触をしている。
彼女が卓の前に座ったのを視界の端で捉えながら冷蔵庫を開け冷気にさらされた途端、彼女がいる和室の隅に乾いた洗濯物を取り込み山と積んであったことを思い出し、その後畳に寝転んで眠ってしまったのだったそれも何時間か、と思考を連鎖させながら彼は他人の洗濯物と同じ部屋に座る彼女の心境に考えをめぐらせた。不揃いなコップ二つに麦茶を注ぎ一つを彼女の前に置く。もう一つは手に持ったまま彼女の向かいに座る。ものはついでと衣服の塊をせめて部屋の隅へ押しやる。仰向けに倒れていた目覚まし時計を見、彼は一時間と十五分寝ていたことを初めて知る。クリアファイルから取り出され卓の上に置かれた見覚えのあるパンフレットは健康的な空の色をしていた。
蒼穹会の名にもパンフレットにも覚えはあったものの、直接説明を聞くのは彼にとっては初めてだった。
「あなたは、浮揚死についてどう思われていますか」
パンフレットをめくりながら口を開く彼女に彼は言葉を探して沈黙を続ける。彼女が玄関先にいた時と同じように待機状態で見つめていることに気付き、彼は顔をしかめながら答えをひねり出す。
「……いや、自然現象だとしか」
「確かに、一般では自然現象だと言われています。ですが、」
パンフレットの折り目を手で押さえ卓上に平たく広げた彼女は極めて淡々と、その自然現象を科学的に解説するかのような口調を崩さない。ただその声音で語られる内容はどんなものかと彼は傍観の構えに入る。
「実はあれは神のお導きなのです」
真剣な声音をしている、としか彼は思わなかった。内容はあまりに予想に沿っていて脳裏をかすめ抜け落ちていく。
女性を家に入れるのは何年ぶり、いやこのアパートに来てからは初めてだ、彼女は一人暮らしの男の家に入るという状況を危険だと思わないのだろうか、どこのどういった神様かは知らないが敬虔な信徒というものは疑いを知らないのだろうか、そもそも自分に彼女を危険に陥れる勇気があるだろうか、いや、ない、などととりとめもないことを半ば意識を飛ばした状態、理解できない講義をやり過ごすのと同じ心境でこね回していた彼は、彼女と目が合ってようやく覚醒した。彼女は正座した背を軽く屈めて目を覗き込むようにしていた。
「ここまでは大丈夫ですか?」
「……や、聞いてませんでしたすいません」
ほぼ聞き流していたことをさすがに申し訳なく思った彼は首をすくめて謝罪した。その様子も見逃すまいとするかのようにじっと彼の目に視線を注ぎ続けていた彼女は、ふっと息を漏らして微笑した。そういえば今まで無表情のままだった、と彼は薄っすら考える。
「もしあまり興味がおありでないならお暇しますね。パンフレットはお渡ししますので、また説明を聞きたいということであれば、私に連絡をください」
あっさりと立ち上がった彼女が畳の上を歩くとストッキングと畳がこすれる音がした。その足がパンプスに滑り込み有機の曲線と無機の曲線が一致する。彼女が全体重をかけてドアを開くと初夏の青が広がっていた。
今にも人一人がすんなりと呑み込まれそうな空の青。
ドアが閉まり季節から隔絶された玄関で名刺をしげしげと眺める。帰り際に差し出されたそれもまた淡い水色をしていた。蒼穹会広報、青路遥香。どこまでも行ってしまいそうな名前だと思い浮かべた感想が瞬間薄れて消えていくのを感じながら、彼はその名刺を磁石で冷蔵庫に貼った。
彼は午後も暮れゆく中新聞を開き習慣的に朝刊の一面右隅に今日も載っている数字を確認する。無表情な数字の列挙は7952、確率は0.0001%。昨日、確認されているだけで七九五二人が浮揚死した。一万人に一人が浮揚死するという確率を出す意義もその確率が高いのか低いのかということも彼にはわからない。近いような遠いような曖昧な距離感で漂う恐怖に惰性で慣れていく感覚を彼は知っている。その現象が確認されて十数年、一日に数千人が浮揚死し、地球の人口は一向に減らない。新聞をめくる音は案外大きく部屋に響く。
彼は目を細めて心持ちあごを上げた。天頂が黒く見えるほど濃い空の色が瞳孔に沁みる。空の青は限界まで凝集すると宇宙空間の黒になるのだろうか、と彼は考える。高山上空の映像を見たことがある。空気の薄いそこでは空はもっと黒かった。
白っぽい日差しはまださほど攻撃的ではない。アスファルトがひび割れた細い道の両脇、家々のブロック塀から植木が旺盛に枝を伸ばしている。平日の昼間であるせいか彼の視界には誰もいない。初夏の停滞した空気の中、彼がぶら下げているビニール袋が時折微かに無粋な音を立てる。拍車をかけるようにビニール袋の中では彼の歩調に合わせ金属が触れ合う音が絶え間なく鳴っている。規則正しいその音で無意識に拍子を取っていた彼は不意に予期せぬ箇所でビニール袋が鳴ったため立ち止まり足元を見下ろした。視覚情報より先に触覚情報が足を這い登る。ズボンの上から柔らかいものに擦り寄られる感触を認識した彼はその場に屈みこみ、ほぼ不透明に白いビニール袋の影から姿を見せた猫の頭を撫でた。ふてぶてしい顔をした茶トラの猫はいくらか歩を進め彼は猫の首から背、尾まで一通り掌を滑らせる。軽く掴むようにした尾が艶かしくくねり掌からすり抜けていく。細い裂け目になった瞳孔で彼を見上げ茶トラは一声鳴く。
よくしなる尾を高く立てて先を歩く猫を眺めた彼は、猫という生き物はなんて静かな生き物なのだろうと思う。歩くのも走るのも食べるのも鳴くのも沈黙の中で行う生き物は彼の知っている人間たちよりも思慮深く見える。たくさんの猫の顔をじっと見続けていると人間の顔のようにも思えてくる、と彼は前方にたむろしている野良猫数匹とそこへ合流した茶トラが一様に尾を立てて自分へ向ける視線に相対する。普段なら彼らは公園の中にいるはずだが、と道の脇にある小さな児童公園を覗く。
若い女性が逆立ちをしていた。色あせたゾウの滑り台と朽ちかけたベンチ、辛うじて存在する砂場が窮屈に押し込められた児童公園の中央で静止している。猫が公園から溢れていたのはそのせいか、しかしTシャツがめくれてお腹が見えていますが、これは痴漢と呼ばれるのだろうか、でも相手が見せているのだし、いや見せてはいないか、などと半ば停止した思考を低速で動かしていると女性はふらりと重心を崩して器用に両足を地面に着けた。掌から砂を払い、更にジーンズで拭い、初めて彼を見て軽く会釈する。七分袖の白いTシャツが眩しく彼は目を瞬かせる。
「お久しぶりです」
「……どちらさまですか」
どうやら知り合いらしいが自分は相手を思い出せない気まずさに彼は眉を寄せた。この人が逆立ちをしていたから猫は公園から出ていたのかと頭の隅で考える。
「二週間ほど前にお宅にお邪魔させていただいた、青路です」
あおじ、どこまでも行ってしまいそうな、と彼はここでいつかと同じ思考経路をたどっていることに気付き名刺の薄水色を思い出した。名刺よりも濃い色のパンフレットが結局二度と開かれないまま新聞やチラシに埋もれている光景も脳裏に残っていた。
「蒼穹会の」
「はい」
「先日は、どうも」
「こちらこそありがとうございました」
生真面目な角度で頭を下げる彼女の姿が二週間前の記憶を補強する。足元で猫たちが沈黙に似た声で切れ切れに鳴いている。その声は人の声、女性や子供の声にも似ている。
「パンフレットは読まれましたか?」
それでいて人の声は猫の声にけして似ることはなく彼女の声は猫の声から乖離している、どちらが好きかと言われれば、それはまあそれぞれで、と思考を胸中に垂れ流しながら彼はビニール袋から猫缶を一つ取り出し呟く。
「僕、神様とかそういうのはちょっと」
「そうですよね」
プルトップを起こし猫缶の蓋を開ける音と食事を待ちわびた猫たちの鳴き声にかぶさった彼女の台詞に彼は手元から顔を上げる。彼女の顔を一瞥するかしないかの僅かな時間の後に目を伏せ、開封した猫缶を地面に置く。群がる猫から視線を逸らし彼女と目を合わせる。
「……怒らないんですか」
「なんで怒る必要があるんですか」
「神様を否定されて、怒らないんですか」
そこまでを呟くほどの音量で言い、彼は続けて猫缶を二つ開けて足元に置いた。彼の足元に集まった猫たちがこれも無論沈黙の中で争うように猫缶を覗き込んで食べ始める。顔を軽くうつむけて猫の様子をしばらく眺めた彼女はその姿勢のまま彼と同じ音量で言った。
「信じたいですけど、信じきれていないので」
「……はあ」
「だからまだ、神様は救ってくれないんだと思って」
日常会話と変わらない語調にくっきりと違和が立ち上がるのを感じた彼は、この会話の終点はここであると意識して句点を打ち白黒の猫の額を撫でた。食事に水を注された猫は片手で握りつぶせそうに華奢で小さな頭を上げて軽く唸った。素直に手を離した彼の指には薄い毛皮を通して確かにそこにあった猫の頭蓋骨の感触が残っていた。
サンドイッチを開発したという伯爵はここまで具の多いものを想定していなかったのではないだろうかと、彼は一口齧ったサンドイッチをトレイに戻し文庫本のページに目を落とした。大学構内のここが一番込み合う時間帯は過ぎており昼食にはしては遅い。一度据えた目を離さないまま、店のロゴが刷られた紙に包まれたサンドイッチを片手で取り上げ次はどこから食べれば崩れないか検討しながらそろそろと口を開ける。
「あの、」
正面から聞こえた女性の声に、開ききっていなかった口を閉じ彼は視線を上げた。開く動作は鈍重なのに閉じる時は一瞬だったなどと思考の断片が浮いてすぐに消えていった。
「ああ、やっぱり」
じっと彼を覗き込んでいた女性は彼と目が合うと生真面目な表情を僅かばかり緩めた。彼もまた今回は相手の素性を思い出し他人向けの表情を知り合いへ向けるものへと切り替える。
「青路さん」
「覚えてらっしゃいましたか」
「……前回は失礼しました」
「いえ、お気になさらず」
座っても、と問われ無言で向かいの席を示し彼は手に持ったままだったサンドイッチをまた齧る。アボカドやエビがぬるりとずれて溢れそうになるところを舌で押し戻す。彼女の様子を窺うと彼女のものにはどうやらローストビーフとタマネギが挟まっているようだった。そうして黙ったまま各々の食事を進めるが正面に人が座っているのに本を読んでいるのは失礼だろうと彼は文庫本をテーブルの脇に置く。彼女も具が溢れないように注意深くゆっくりと食べている、と彼は感想を持ち大方食べ終わってからまた視線を上げると彼女はサンドイッチの包み紙に残ったタマネギを指で拾い上げ口に入れていた。彼の視線を感じたのか彼女は彼と目を合わせる。
「同じ大学だったんですね」
「そうですね」
「どの学部ですか」
文学部です、と答え学部などの問答は大抵自己紹介であることを連想しまだ名乗っていなかったことを思い出した彼は付け加えた。
「文学部哲学科の、春日井といいます。青路さんは」
「理学部です」
「理学部……」
「理学部の、数学科です」
彼の表情が微塵も変わらないのを認識した彼女は小首をかしげた上で軽くうつむき加減になり微かに黙った。その間に彼はサンドイッチの残りを口に入れたが多少思い切って入れる大きさが残っていたため押し込むという形容が正しいと彼は考えながらはみ出したレタスを唇でたぐり寄せ完全に口中に収める。必然大袈裟な咀嚼をすることになった彼の顔を見て彼女は吐息で笑う。
「ひたすら証明をしています」
彼女の思考は数学科を説明する延長線上にあったのだなと彼は無言で頷きサンドイッチを飲み込むことに努力を続けた。彼女はタマネギを拾い終え空になった包み紙を丸めるがその仕草は案外無造作で、案外という評価はどこから来たのだろうと彼は手元の包み紙を丁寧に折り畳む。
「証明ですか」
「はい」
「あれは、やっぱりまだ求められないんですか」
「あれ」
「浮揚死の規則は」
「まだ誰も求められてないみたいですね、だから、私も」
死の字が末尾についているというのにその単語はとても軽やかで口にした瞬間文字通りふわりと浮き上がっていったように彼は思った。浮き上がって消えた言葉の向こうで彼女は口の端を吊り上げて見せる。
「わかれば、いいんですけどね」
「そうですね」
「春日井さんは何を勉強しているんですか」
自分へ向けられた問いに彼は自己紹介の延長での会話を続けていたことに気付き先の彼女のように口を閉じ宙を見つめる。彼の視線を彼女は元通りに修復された表情で追う。
「……あなたが本当に実在するのかどうか考えています」
唐突な言葉に彼女の表情が疑問なのか苛立ちなのか彼には判断がつかない情動の翳りを帯びるのを見ながら彼は説明を追加する。
「僕は僕の目を通してあなたを見ています。目から入ってきた情報は脳で処理され、それを僕は認識することであなたを見ます。僕が知ることのできる外界の様子は全て僕の感覚をフィルターとして通しているから、あなたは僕の妄想の中だけにいて実在しないのかもしれない」
「……私はここで話しているのに?」
「ここであなたが話している、と僕が認識しているだけで、本当は僕の脳に電極がたくさん刺さっていてあなたが目の前にいるように錯覚しているかもしれない。同じことはあなたにも言えます。これは独我論といいます」
他には、と彼が呟いた言葉が柔らかく沈黙の上に浮かんで薄れていくのを彼女が目で追っているようだった。
「哲学的ゾンビ、とか」
「哲学にゾンビがあるんですか」
「人間と全く同じ構造の、脳神経もそっくり同じ作りをしたゾンビがいるとします。彼らは泣いたり笑ったり喋ったりして僕たちには人間とゾンビの区別は絶対につきません。ただ違いが一つだけあります。彼らには意識がありません。楽しい、悲しいと思ってはおらず、彼らが泣いたり笑ったりするのはただ電気信号に反応しているだけなんです。このゾンビは実在しませんが、そこで考えるのは、何故僕たちはこういったゾンビとは違う存在なのか、本当にゾンビは存在しないのかというようなことです」
ふ、と彼女が息を漏らす。笑いとも溜息ともつかないそれに彼は自分の口調を思い返し瞬きをする。饒舌とは評しがたい日常会話と引き比べると立て板に水の説明口調はあまりに唐突だったかもしれない。
「すみません」
「え、」
「一方的に話してしまいました」
いえ、と呟いた彼女が一拍置き真剣な表情で言葉を続ける。
「面白いですね」
「面白いですか」
「はい。他には?」
社交辞令と思われた一節の後彼女が表情も変えずに続きを促したため意表を突かれた彼は彼にとっての日常会話における感覚を取り戻し口ごもった。急に問われても思考は回りださない、そうでない時は無駄に軽やかに回転しているのにと、それは例えば趣味を訊かれた時にも似ている。趣味、好きな食べ物、座右の銘、尊敬する人物、自己紹介とはどうしてこんなにも答えに窮するものが多いのか、また無駄なところで回っている、と彼は苦虫を無表情に噛み潰す。
「僕の家に授業の資料や教科書があります」
半端に焦った思考が空回りする音の間から言葉がこぼれる。それを拾いきれず狼狽する彼の意思から半ば乖離してもう一言が現れる。
「読みにいらっしゃいますか」
「はい、是非」
自分は何を言っているのだと自問する暇も与えず即座に答えた彼女の思考判断に彼は何と呼称することもない微表情の裏で半ば呆れ半ば諦めた。彼女は相変わらず生真面目な表情でいたからそれは本意なのだと思われ、そういえば大学でやる数学はもはや哲学の域だと聞いたことがある、とぼんやり回想するに留めた。
動画投稿サイトに浮揚死の様子を映した動画が上げられていたとニュースになっていた。オリジナルの動画は既に削除されたというが、テレビのニュースでは何度もその動画が流されていた。何に配慮されているのか浮揚死する人の姿にはモザイクがかけられぼんやりと衣服の色が透けて見えるモザイクの塊がすうっと空に吸い上げられていくのだった。驚異的に速くもなく、ゆっくりと言えるわけでもなく、薄気味悪いくらいの速度は等速で、それは丁度人が高みから飛び降りる様子を撮影すればこんな具合になるのではないかと彼には思われた。
定石通りの浮揚死の仕方だと解説がなされていた。足元からすくい上げられるようにくるりと人の上下が反転し、その人は地面に頭を打つことなく足から引き上げられる。ただこの動画では先に浮き上がった人物、男に、隣にいた女性がすぐさますがりつき二人一緒になって吸い上げられていったのだという。
動画に寄せられたコメントからするとそれは感動的な光景だったようだ。最後まで一緒だったんですね、心中だなこれは、なんて美しい光景なんだろう、こんな風に死にたい、画面上に現れるコメントが仰々しい男女の声で読み上げられる。
コメンテーターも数人呼ばれていた。まだ浮揚死のメカニズムや規則性は今に至るまで解明されていないこと。浮揚死の確率はほぼ一定で変動していないこと。遥か高みまで吸い上げられた人間はいつの間にか補足不可能になり行方も末期もはっきりしていないこと。宇宙へ行くのか。他の天体へ行くのか。別次元へ行くのか。神の国へ行くのか。幾枚も立てられたフリップが示され、剥がされ、入れ替わる。ちらりと蒼穹会の名前が見え、見失う。救済が訪れると生真面目な表情で話しているコメンテーターはどこに所属する人物であったか。人が死にゆく様子を映した動画をサイトにアップするのは不謹慎であるけれど本当に死にゆくのかは判然としない、どこへ行くのか、どこへ行きたいのか、これは。
彼はテレビと電灯を消し蒲団にもぐりこむ。折りたたみ式の携帯電話を開き彼女の連絡先を表示させしばし青白い光を浴びて、結局何かすることなくそれを閉じる。青い光がふわりと一度点滅して消える。うつ伏せに枕に顔を埋めて妙に人恋しく人が鬱陶しく、夏蒲団もそろそろ暑い季節である。
彼と彼女の予定は大学が夏季休暇に入るまで合うことがなかった。彼女を家に入れることにさほど抵抗感がないことに彼は首を傾げ空色のパンフレットを思い出して一人首肯する気分になった。一度入れてしまえば慣れということか。初対面の時と同じように卓の前に座る彼女はスーツではなく白いシャツと濃い紺色のジーンズを着ていて、そのシャツに陽光が反射する錯覚に見舞われる。どこでそれを見たのだろうと小さな疑問を転がしながら彼は麦茶の入った不揃いなコップを並べる。生真面目に感謝を述べる彼女の声を背中に聞きながら本棚とその前に雪崩れ落ちている本の塊を漁り、数冊を抱えて鞄を引っ掻き回す。引き出したクリアファイルは折り目がつき透明度は薄れ容量オーバーで裂けかかっている。そのクリアファイルと本を彼女の前に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
二度目の台詞を口にした彼女はクリアファイルからレジュメを抜き出し文字列を追い始める。数秒の間その顔を見つめ、彼は携帯電話を充電器に繋いで壁に寄りかかり、ついでとばかり取り出してきた文庫本を開く。買っておきながらまだ読んでいなかった目新しい冒頭が少し頭に入ったところで思考が浮き上がる。自分は何をしているのだろうか、むしろ何故こうなったのだろうか、あれはきっと自分の意思から離れた台詞が悪かったのだ、しかしそれは誰を責めるべきか、そもそも責めるべきなのか。滑らかな動きで回転を始めた思考は文章に目を戻すと同時に回転の速度を徐々に緩め、止まった。
人というのはそこにいるだけで騒々しいし紙の音は輪をかけて大きい、と彼は行間で考えた。どれだけ黙っていても人は猫のようにはなれない。断片的な思考の合間に真夏の日光がじりじりと畳を動いていく。その動きに目をやった何度目かには光が彼女のシャツに当たりシャツは眩しく白く光っていた。網膜に突き刺さる光量ながらソフトフォーカスがかかっているようにも見える光景の中で彼女はしばらく本を読もうと努力していたが、本を立てたり手で影を作ったりと試行錯誤した結果疲れてきたらしく本を持ち彼の隣に腰を下ろした。壁に寄りかかる二人が座る場所は光が直接当たることはなく、改めて本に目を落とした彼女の距離感に彼は光る白をどこで見たのかようやく思い出した。
「あの」
久しぶりに発した声は喉にひっかかり彼女は本から目を上げて彼を見た。
「なんで逆立ちをしてたんですか」
彼の問いを彼女は真顔で見つめ返す。その僅かな間に瞬きの回数が増えたのを感じ取った彼は情報を付加する。
「猫のいる公園で、してましたよね。逆立ち」
公園、と唇を動かした彼女は本を閉じて首肯し視線を宙へ滑らせた。軽く唇が開閉し一度きゅっと結ばれ、再び彼へ目を戻す。
「早く連れて行ってほしくて」
空色のパンフレット、薄水色の名刺。ニュースのフリップ。
「神様に」
「はい」
「どんな会なんですか」
「うちですか」
「はい」
彼女が後頭部を壁につける。そうして少し仰向き、髪と壁がこすれる音がした。彼の後頭部にも同じ感触が蘇る。
「……なんとなく、二つに分かれます。連れて行ってほしくない人と、連れて行ってほしい人。あとは、神様を信じきっている人、まだ信じきれていない人」
信じたいが信じきれていない、と今まで忘れていた会話の一片を彼は思い出す。初夏の匂いと猫の頭蓋骨と、人を呑みそうに青い空の色が彼女の言葉に付随する。
「月に一度集まりがあって。神仕様のお話を聴いて、私たち信徒同士でお喋りをして、お祈りをして。そんな感じです」
「どんな神様なんですか」
本当にパンフレットを読んでいないんですね、と彼女は笑った。
「人を一人ずつ選んで楽園に連れて行ってくださる神様です」
「どんなことを祈るんですか」
「人それぞれです。まだ連れて行かないでほしい、早く連れて行ってほしい、それから、連れて行かれてしまった人のため、これから連れて行かれる人のため」
「青路さん」
「はい」
「神様は信徒の方々にとって、善なんですか。悪なんですか」
そうですね、と彼女が首を傾けるとまたざらざらと微かな音がする。細い首が緊張感を孕んでしなる。
「善悪とは違う気がします。連れて行かれたい人は、思慕。連れて行かれたくない人は、畏怖。そんな感じかもしれない」
「あなたはどちらなんですか」
両足を真っ直ぐに伸ばし柔らかく半眼で正面を見つめながらとつとつと話していた彼女は、不意に首を動かして彼と目を合わせた。開き直した両目は相も変わらず真面目な顔をしていた。
「連れて行ってくれさえすれば、それが神様でも悪魔でも構いません」
「信じてはいないんですか」
「信じたら連れて行ってもらえるかもしれないと思って、信じようとしています」
それは努力して成し得るものなのだろうか、と彼は薄っすらと考えながら視線を外し、その考えを呑みこんで先の彼女のように正面を見た。視界の端で彼女もまた顔の位置を戻したのが見えた。畳を照らす陽光はまた少し動いていた。
「他力本願な自殺願望ですね」
「はい」
彼女が短く答える声は乾いていてこれまで勧誘に来た誰とも違う常温を今でも保っていた。彼女と同じ自殺願望を自分も持っているだろう、と彼の思考は緩慢に回り始める。漠然とした些細な絶望は多分誰しも持っていて、自分に纏わりついている全てを捨てて意識を限りなく薄めて消えてしまいたいと思うのだ。そうして全ての人を溶かしてしまう青い奈落は丁度自分たちの頭上にいつでも広がっている。
左肩が重くなったので見ると彼女が側頭部を彼の肩に押し付けていた。髪がこすれる感触が服の上から伝わった。空のことや浮揚死のことや神様のことを考える時、自分たちは等しく人恋しく、それでいて人と距離を取りたくなるのだろうと彼の思考は進んでいく。直接手を取るには人肌は熱すぎる。彼は目を閉じる。
彼女の髪と頭皮の奥には確かに頭蓋骨があった。
次に彼が目を開けた時には日の光の色が白昼の色から黄色味を帯びた色に変わっていた。左肩はもう重くはなく隣に目をやると黙って本を読んでいた。座ったまま中途半端に寝たためか頭が重く霞み、彼は首を左右に傾けた。傾けるごとに骨の鳴る音がした。
「おはようございます」
「……すいません、寝てしまって」
発した声は我ながら寝ぼけている、と彼は麦茶が残っていたカップを取り上げ飲み干した。結露が卓に輪を描き彼の手もまた濡れる。水蒸気の凝結、空気中にはこんなにも水分があるのかと彼はぼんやりと考える。
「もう夕方ですか」
「日の色は、夕方ですね。空は青いです」
彼女が窓の外を透かし見て目を細める。伸ばしていた両足は体の脇に折り畳まれ彼女はぺたりと座っていた。
「家、ここから遠いんですか」
「そうですね」
「駅まで送りますよ。歩きですけど」
「いえ、お構いなく。外はまだ暑いでしょうし」
「まあそう言わず」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼に続いて立ち上がる彼女ははにかんだように微笑した。その白いシャツの背中からポニーテールが滑り落ちる。
年中ひんやりとしている玄関の重いドアを開けると蝉の声と湿気た夏の匂いが彼の家に流れ込んだ。浅い昼寝の後の微かな気分の悪さを努めて外気に溶かしてしまおうと彼は控えめに深呼吸をする。彼女は眩しげに目を瞬かせる。陽光は夕景の色を滲ませていたが空の色は彼女の言ったようにくっきりとした青をしていた。
面白かったですか、はい、と交わすたどたどしい会話の間を蝉時雨が埋める。その音は両脇を植木に囲まれた路地に入ってから一層大きく鳴り響き、近づいていくと止まり、また不意に至近距離で鳴き出すものもあり、時折鋭く一声上げて目の前から飛び立つので彼女は度々たたらを踏んだ。
路地は丁度彼が猫に餌をやる時に通る路地であったため彼女が逆立ちをしていた児童公園に差し掛かることになり、彼は条件反射的に児童公園の中を覗き込んでいた。児童公園の周囲に植わった木の陰のどこにも猫はいなかった。もっと涼しいところを探しに行ったのだろうと思考がよぎると同時に彼の視界は反転していた。足を勢いよく掬われたような感覚に重心が傾きその感覚はいつか転んだ時によく似ていて、久しぶりだなどと考えが胸中で言葉になるより早く地面が後頭部に迫るのが彼にはわかった。ただ彼の後頭部、加えて彼の体のどの部位も地面に触れることはなく再び直立したような重力の方向性を感じた彼は咄嗟に閉じていた目を開けた。
頭上に児童公園のざらついた灰色の砂があった。そうしてその砂、地面が急速に頭上へ離れていこうとする。
「春日井さん!」
彼女の姿が視界の中央に走り出る。彼女は地面に足をつけたまま彼に向って両手を伸ばした。
「私も連れて行って!」
それは手を伸ばせばまだ届く距離で彼女が叫んだ一瞬をすぐさま捕らえなければ失われてしまう機会だと彼は判断し、彼女を仰いで笑うことにした。
「さよなら」
彼女から見て自分が上ならば言葉はきちんと彼女の元へ降っただろうかと彼の思考は淡々と回転する。彼女もあんな声で叫べるのか。
足元を見上げると空の色は藍も紺も見落として透き通った黒に地続きで、あの深みまで遮るものは何もなく等速で墜落していくのだと彼はその青の鮮やかさに初めて目が覚めたような感覚を得た。