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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ひじり

作者: 林 藤守

 粘っこい雨が降り続いている中を、彼女は傘もささずに歩き続けていた。誰かの唾液のように糸を引いた水滴を丁寧に払いながら、ただひたすらに足下を見つめ、交互に靴を動かした。

 街中がまるで沈黙したようだ、雨音さえ消えて、彼女の肺から漏れる悲しい吐息だけが暖かく煙っている。彼女はビルの中に落ちた一粒の角砂糖ほどの虚無を感じ、目を閉じようとして諦めた。瞼は開いたまま。まるで誰かの手で無理やりに見開かされていたように、白痴がかった空気ばかりが肺へと流れ、それは、冷たい。彼女は不思議だった。冷たい空気を吸い、暖かい息を吐く自分が、不思議だった。


 商店街を通り抜ける。何分たったかもわからないし、ともすると、何日だったのかもしれない。永遠に、歩いていたのかもしれない。彼女はやっと顔を上げ、それまでは、黒く汚れた地面ばかりを眺めていたことに、気がついた。

 潰れた猫が目の前を歩いてい、空っぽの車がクラクションを鳴らして何処かへ消え去ってゆく。精液のような色をした水たまりに在るのは、堕児の濁った成れの果てであり、そこには何者も映っていない。

 彼女は金木犀の腐った粘土の匂いをを嗅ぎながら目に涙を溜めて自分の腹をひと摩りする。


――お前の子どもは、もう死んだ――


 ああ、ああ、私はあの日夕焼けを見た。苦しそうな雲の群れを、眺めることしかできなかった。彼女は揺らぎつつある心を必死に押さえつけながら、真っ赤に燃えた空そのものを想うのだった。黒く濡れたコンクリートの影から覗いている薄汚い両親が、心配そうな顔をして、聖人のような顔をして、ただ一言「死ね」と呟く。

 水たまりに唾を吐き、彼女は、死にたくない、と言葉を落とした。「わたしは、死にたくない」。紙とインクで出来ていた街は溶けはじめ、風景はもはや、彼女にとって、もはや何の意味も持たない。精液に濡れ、黒ずまされ、蹂躙され、嬲られていたのはいったい、何物だった? あれは私で、本当に私は、私だったのか。

 なんのことは、ない。彼女はずっと、そこに在る。


 ベビーカーを踏みつぶして、赤ん坊を焼却炉に投げ込んで、笑っている金属のペニスを愛している。下らない、と呟きながら、悲しそうに微笑し、抱きしめたいと思う自分を愛でながら生きてきた。すべて、過去の事だ。忘れてしまった、もしくは、どこかで読んだ、小説の一節でしかないのだ。下らない、と、思う、でも、羨ましいのだとも、思う、思っている、ずっと。冷たい空気に染まりたいと、石くれのように捨てられたいと、何度願ったことか、わからない。

 彼女は知らない。口元の弛んだ皺の裏には蓋然性を呪った言葉粒が並んでいることを、彼女は知らない。空になった心臓が脈打つ意味を、彼女が知ることはない。


 歩いた。ただ、歩いた。顔を上げたために、おどろしいもの、穢れたものが目に飛び込んでくるようになった。たとえば、脚のない、蜥蜴。いや、蜥蜴ではない、魚だった。魚ではない。足首そのもの。昔、赤い肉の塊が股の間から飛び出してきたことがあった。冷たい金属に挟まれて、そう、私に纏わりつく空気よりも少しだけぬくい冷たさの金属に、ぐちゃりと潰されてしまったものども。

 足首のない私の子ども。鏡の中を私は観ている。肉片が脈打っていても、私は目を逸らさない。

 頭の奥には、不可逆性を孕んだ膜がかかったままに。


 後から近付いてくる足音に耳を澄まし、肺と肩を震えさせ、彼女はしかいの端からとけてゆく。何にもなくなる、わたしのこども、もえてしまったわたしのこども。ごみぶくろにつめられて、どこか知らない塔の中、白い玉につないだ糸は、はじけてしまって、いや、それすら虚の出来事のようで。私の枯れた脳髄は、もう、元にもどることはない。


 さて、彼女は海へとやってきた。後ろを振り向けば砂浜だった。足跡は風に撫でられ消えて、ただのっぺりとした顔附きでそっぽを向くばかりで気怠い空気だけが凪いでいた。

 風に混じった潮は苦しく、苛立った空っぽの舌に溜まる。ここは終わりの場所なのだ。全てが乾き、流れ着く場所なのだ。グレープフルーツの爽やかな香りが遠い昔のように感じ、彼女は悲しく首を振った。 

 諦めに似た痛みさえ懐かしく、後悔に似た反芻さえ愛おしかった。

 煙草に火を点け、過去を見る。塩と煙草が混じって、大人になってしまった憂いを感じる。街は溶けて町になり、村になり、人になり、点になる。炭素やサルファ、窒素にりんにカルシウム。


 その結晶は、うつくしい。


 さあ、私は何になろう? 誰になって、朽ち果てよう? 何者になって、還ってしまおう?

 波の音が読経とも聞こえ、苛まれる思いがするばかりだ。また雨が来る、と思った。私は聖人のようだ、なぜなら、天気のことを知っているから。ずっと、雨。濡れた、文字。


 町の向こうには山があって、山は白く濡れていて、あの頃私は彷徨って、藪へと這入って林を抜けた。森の真ん中に座っていた小さな子供が「アンタのことなんて、知らないよ」と言い、「あたしの名前を呼ばないで」と続け、そっぽを向いた。私は安堵の余りに尿を漏らした。

 葉と葉の間、揺れる梢の刹那の軌跡、その先にある、更に更に奥の方。聴こえたのは母の声、涙の混じった、震える、けれども、木に鼻を括りつけたような、耳障りな高い声。


 コウマンチキめ、と彼女は思った。私がお前らを捨てたのだ、捨てられたわけではない。私は自分の意志で生きている。彼女は自分の足あとが、影のように背中にくっつき、ドミノのように並んでいることを感じていた。彼女らは、彼女を見ていた。いつでもそれを、感じていた。でも、知らない。最初から、お前らとは、関わりさえ、繋がりさえ、交わりさえ、なかったのだ――


 私は、いつでも、私なのだ。この瞬間に、死んで、生まれ続ける私でありたい。


 音もなく前後する波打ち際に立って、濡れては乾く足首を見る。小さく息を吸って、それはやはり冷たくて、苦くて、飛び降りるように海へと入る。骨という骨が叫んだ。肉という肉が震えた。償いだと思った。死にたくない、と思う反面、死んだっていい、とも、思うことにした。



 腹を痛めて産んだ子供の前で犯される女の気分とは、どういうものだったのだろう?

 血を分けた子供の目の前で性器を勃起させ、腰を振る男の心情は?

 更にそれが彼女の父親だったなら?

 咥えた性器の味は、自分以上の味ではないのか? 

 自分を作った精子、つまり、自分はまた、生まれ直すことが出来たのか?


 ああ、ここは何処でもない場所。私の生まれた場所。流れ着いてまた生まれ、朽ちて、泥と木くずに変わる場所。


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