8話 一生の宝物
茨が絡む格子のはまった、大きな窓。そこからぱっくりと丸い満月が見えた。
巨大なベッドの中で、それをぼんやりと見上げている。
今何時だろう。ヴァルトが様子を見に来ていないってことは、まだ半日は経っていない。
今が夜ってことは、ここに来たのはお昼くらいだったのか。空がずっとどんより暗くて、時間がよくわからない。
私は重い身体で寝返りを打って、再び目を閉じた。まだかなり疲れが残っている。あともう半日は眠れそう。
しかしその時、
『ユウカさん』
静かな声が鼓膜を打ち、私は飛び起きた。
「…シオさんっ!?」
そう、その声は、私を助けてくれたシオさんの声だった。
ただ、ものすごく小さい声で、しかも妙に近くから聞こえた…近くっていうか…私は、ベッドの端に畳んで置いてある服ににじり寄った。
雨の中走って泥だらけだった王宮支給の服は、少しサイズが大きめのネグリジェと交換された。今はそれを身につけている。
そして元々着ていた服は、シミひとつない綺麗な状態でベッドの脇に畳んでおいてある。
魔族も洗濯するのかな。もしくは魔法でどうにかしたのだろうか。
とにかく声は、そこからしている....私は、古い服を持ち上げた。
すると、そのポケットが光っている。私は震える指をそこに手を突っ込み、淡く光る石を持ち上げた。
シオさんが持たせてくれた、おまじないのかかった群青色のきれいな石..。服は綺麗になっているけど、洗濯機に突っ込んできれいにしたわけではないのだろうか。ポケットに入っているこれが無事だったんだから。
『ああ、よかった。僕の声が聞こえますか、ユウカさん』
「はい、はいっ、聞こえます...!」
これ何?石ころに通信機能つけられれる魔法があるの?とか、やっぱりシオさんってすごい魔術師なんですね!とか、色々言いたいことはあったんだけど。
「シオさん!シオさんは無事ですか、大丈夫でしたか....!?」
私の最初の質問に、シオさんは一度沈黙した後、明るい声で
『安心しました。僕は大丈夫です、心配しないで』
と言ってくれて、私はホーッと息を吐いた。
『あなたが無事で、本当に良かった』
シオさんの穏やかな声に、私は涙ぐんだ。起き上がり、ベッドの上に正座をして、両手で大事に石を持ち上げた。
「シオさんのおかげです。その、今、私は...」
そこで言葉に詰まった。敵である魔王軍にいるんです!なんて言ったら、裏切者だと思われて当然だ。どうやって伝えよう。
『いいんですよ』
シオさんの優しい声が耳を打った。
『どこにいようと...生きていてくれれば、それで』
なんとなくだけど、シオさんは私が魔王軍にいることも分かっているような気がした。
私は思わず涙ぐんだ。最期だと思っていた、シオさんとまた話せて本当に良かった....。
『ユウカさん。あなたの状況は、ほぼ把握できていると思います。いつでもとはいきませんが…そう、例えば夜とかなら、こうして話して、相談に乗るくらいのことはできる。何か悩みがあったら、遠慮なく教えてください』
「え...」
王宮から命がけで逃がして、パンとお水をくれて、まさかの遠隔サポートまで。
私はシオさんの優しさにさらに胸が熱くなった。
『ただし、あなたがこうして王都側の僕に連絡をとっていることは、誰にも知られない方が良いでしょう』
まあ、それはシオさんも同じだろう。私ははっとしてシーツにもぐり、シオさんの声のする石を顔に寄せた。
『前に、念話を教えたのを覚えていますか?あれをこの石に触れたままやってみてください。声を出さずにやりとりできるはずです』
王宮にいる時、この世界を生きるのに必要なこと、便利なことは大体シオさんに教えてもらった。念話はそのうちのひとつだった。あんまりうまくできた記憶はないけど。
私は必死にその時の感覚を思い出して、石を握った。
『何か、僕に伝えてみてください』
シオさんの声は、既に私の頭の中に流れ込んできている。あとは私の声が向こうに届けばいいんだ。
──頂いたごはん、美味しかったけど。あのお肉の正体は知りたくない......。
『...ふふ。安心してください。魔族も豚や牛を食べますよ』
私は目を見開いた。シオさんがくすくす笑っているのが、目に浮かぶようだった。
「へへ..」
私はシーツの中で小さく笑って、少し泣いた。
群青色の石は暖かかった。シオさんの手のぬくもりを思い出した。
その日から、その石は私の宝物になった。
それは、ものすごく先の話になるけど.....この時から生涯ずっと、私はこの石を手放すことはなかった。
◆
「お。元気になってるね」
ヴァルトがノックもせずに入ってきて、開口一番そう言った。
驚いて飛び上がり、ベッドの上で身を固くする私にニコ、と笑いかける。
「魔力の乱れが少なくなったし。なんか、いきいきとしてるね?」
ヴァルトは私の顔をぐっと覗き込んだ。私は思わずベッドの上で身を引く。シオさんとお話できたのが精神的に一番大きかったけど、そんなことを言うわけにはいかない。
「い、いっぱいご飯もらったし。なにより、たくさん寝られたので」
嘘じゃない、質の良い睡眠と食事をとれたのは数日ぶりだったし。
ヴァルトはふーんと言って、ボスンとベッドに座った。彼は小柄なのに、ものすごくベッドが揺れて私はボヨンと跳ねてベッドから転げ落ちそうになり、「あ、ごめん」と笑ったヴァルトに空中で腕を掴まれて真ん中にポイと投げられた。
「運んだ時も思ったけどさ、ユウカはほんと軽いんだね。そんなんじゃ風で飛ばされちゃうよ」
私はベッドに転がったまま苦笑いをした。
かっこいい男の子に言われたらちょっと嬉しいセリフだけど、この場合はどうなんだろう。あなたの言う風ってどんな風?ハリケーンとか?そんなの私じゃなくても飛ぶよと思った。
「もうすぐ食事を運ばせるってイグさんが言ってたよ。きみって1日に何回食事が必要なの?」
ヴァルトはガチャガチャと足の鎧を揺らしながら尋ねた。魔王城にくる前から薄々感じてたけど、結構お喋り好きなひと(魔族?)なんだなぁと思う。
「個人差がありますかね...私は..3回だと嬉しいです、朝、昼、晩...」
「ふーん。じゃあこの後は夜の食事だね。1日3回の食事、たくさんの睡眠、たまに一人の時間。人間って必要なこといっぱいだね。ほかに必要なことってあるの?」
「ええと…綺麗な空気とか…汚いのは大変かも…」
もしかしなくても、ペットみたいなものだと思われているのだろうか。
私は居心地悪く感じながら、ヴァルトの質問に答えていたが、ふと思いついた。
「あ..えーと。びっくりすると寿命が縮む...すぐに死んでしまうっていう話があって」
「え、いくらなんでも繊細すぎるでしょ。よわっちくて大変だね」
「えーと、うん。なので、お部屋に入る前にはノックしてもらえると....」
「あーなるほど?ドアを叩くってやつか。あれイグさんにもやれってよく怒られるよ、俺」
魔族にもノックしてほしい派がいた!と驚いた。意外と、人間とそんなに感性が変わらないのかな。ヴァルトが少し変わっているだけなのだろうか。
「でもさ。あれやるとドア壊しちゃうんだよね、俺」
ヴァルトが大真面目な顔で言った。私は(ですよね)と思った。なんとなく予想してたので、そこまで落胆はなかった。
「意識してたら大丈夫だけど、たまに忘れると壊すんだよね。だから、ベルをつけてもらいなよ。イグさんの部屋はそうなったよ、俺が壊しまくるから」
「え...誰に頼めば」
「そんなのイグさんでしょ。不便があったらなんでも言えって言われただろ」
──言われたけども!
こんなにきれいな服、素晴らしい食事、立派な部屋を用意してもらって、更にドアにベルをつけろなんて、あつかましすぎやしないだろうか。
何より……勘違いではなく、確実に。私のここでの生存は、彼の判断ににかかっているはず。ここにいる魔族たちは、ずっと人間と戦ってきた。特に、異邦人は厄介だったはず。
だから門番の二人も私を見て顔色を変えた。イグナレスが「殺していいぞ」と言ったら、ここにいる魔族が全員一気にかかってきたっておかしくないのだ。恐ろしいことに。
我儘は言いたくない。できる限り大人しくしていたい。
その時、ノックの音がした。
「......はい、どうぞ」
魔族でノックしてくれる人がいるんだ、と一瞬ほっとしたけれど、次の瞬間、ぬっと大きな影が現れて、私はガチッと身を固くした。
イグナレスだった。
黒い外套をまとい、片手に銀のプレートを持っている。湯気の立つ料理が載っていて、まるで執事のように優雅な所作だったが、その瞳は相変わらず氷のように冷たい。シャンデリアの光を、彼の双角が鈍く反射していた。
部屋の温度が、物理的に下がった気がした。




