7話 巨人のベッド
ぼんやりと意識が浮上する。
最後に聞いたのは、ヴァルトの「ごめんごめーん」という無邪気な声と、イグナレスの冷たい唇の感触だった。
──キス……され、た?なんで?私の、ファーストキス……
訳が分からないまま気絶した私は、どうなったんだろう。とりあえず死んでは…いないみたいだ。
目を開けて、息を呑んだ。
そこは、とんでもなく豪華な客室だった。ただ、妙な違和感がある。
その正体にはすぐに気付けた。部屋そのものが、日本の体育館とまではいかないまでも、教室くらいはありそうだ。つまり、1人部屋にしてはあまりにも広い。
高い天井からは、黒曜石か何かで作られたシャンデリアが吊り下がっている。私が寝かされているベッドも、部屋の広さに合わせてただ純粋に大きかった。
天蓋付きでシーツは滑らかなシルクのようだが、ダブルベッドの数倍はある。
クロゼットも、部屋の隅にあるソファも、何もかもが人間の規格を無視している。 まるで巨人の国に迷い込んだみたいだ。
体を起こそうとして、私は固まった。
ベッドが、ギシリと軋んだ。 私以外の重みで。
恐る恐る、隣を見る。
「あ、起きた」
ヴァルトが、私と同じベッドに転がっていた。
靴も軽鎧も、あろうことか大剣まで身につけたまま、私の隣で肘をつき、楽しそうにこちらを覗き込んでいる。その紅い瞳がやけに近い。
「う、わ、…ヴァルトさん!?」
「ん?なに?」
「な、なん。なんで、ここに」
「イグさんに『お前のせいだぞ。ユウカが生きているか見張っておけ』って言われたから」
ヴァルトは、それが当然とでも言うように答えた。
──いや見張るって、同じベッドの中で!?
「いやーごめんね?きみがぶっ倒れた時、元気にしようと思って魔力注いだの。ほとんどの魔族は、適当に魔力送っておけば回復するし。きみには逆効果だったみたいだけど」
ヴァルトはほとんど悪びれなさそうに謝った。
「イグさんがいてくれてよかった。きみから魔力をすぐに吸い出してくれたんだよね。あれなかったらきみ、破裂してたかも」
他人事みたいにそう言う。魔力?破裂?もうわけがわからない。
私が混乱と恐怖で後ずさると、ヴァルトは「あ、そうだ」とベッドの脇を指さした。
「そこに食事あるからね。俺、人間の食事初めてみたけど…あんなのでいいの?」
──食事…?あんなの…?
彼の言葉に、私はおそるおそるベッドサイドのテーブルを見た。
──トカゲとか、得体の知れない生き物の丸焼きがあったらどうしよう……
人間の食事を「あんなの」呼ばわりするということは、魔族の食事とは根本的に違う、ということでは。
しかし、テーブルの上にあったのは──
湯気を立てる温かいスープ。ふわふわの白いパンが数種類。艶のある薄い肉(ベーコン?)と、黄金色のスクランブルエッグ。新鮮そうな野菜と果物のサラダ。そして、綺麗な透明な水差し。
「……!?」
普通に、豪華で美味しそうな食事だった。王城で救世主として歓待されていた時に出されたものより、明らかに上質だ。
私は、自分の目を疑った。
これが、魔族の城で、管理される私に出される食事?
ヴァルトの「あんなのでいいの?」という言葉は、一体どういう意図で発せられた言葉なんだろう……。
その時、私の腹の虫がぐるる〜と、盛大に鳴った。
昨夜の大混乱(ヴァルトに頭を掴まれ、イグナレスにキスされた)はあったが、結果的に体調は回復しているらしい。
今はただ、純粋に強烈な空腹が襲ってきた。
「……っ」
顔が熱くなる。
ヴァルトが私のお腹の音を聞いて、きょとんと目を丸くした。
「あ、もしかしてそれ、お腹空いてるって音? 人間も音鳴るんだ」
もう、恥ずかしいとか、色々どうでもよくなった。
「い、いただきます!!」
私はベッドから転がり落ち、テーブルの椅子に飛びつき、スプーンを掴んだ。そして、まずスープを一口。
──……おいしい……!
温かい液体が、牢屋で冷え切っていた体に染み渡る。パンも、ベーコンも、何もかもが信じられないくらい美味しかった。私は夢中で、あっという間にそれを平らげてしまった。
◆
「……ふぅ……」
私は空になった皿を見つめ、満足のため息をついた。お腹がいっぱいで、体が温かい。体力が戻ってきたら、今度は強烈な眠気が襲ってきた。
王都を逃げ出し、森を彷徨い、魔族に拾われ…ここ数日、まともに休めていなかったのだから当然だ。
私は巨大なベッドを見上げた。
──寝て、いいんだよね?
ヴァルトは相変わらず、そのベッドの端に転がって私をじっと見ている。監視されているのは気になるけれど、もう限界だった。
私はおそるおそるベッドによじ登った。マットレスは柔らかく私を受け止めてくれるが、あまりに広すぎて落ち着かない。 まるで小人になったような気分だった。
──全然いい。ふかふかで眠れるところがあるんだから。
枕元にヴァルトがいることはもう無視して、私は深く息を吐き、目を閉じた。このまま、泥のように眠ってしまいたい。
…ガクンッ!
「!?」
意識が沈みかけた、まさにその瞬間。衝撃があった。肩を掴まれ、乱暴に揺さぶられたのだ。
驚いて目を開けると、ヴァルトが私の顔を至近距離で覗き込んでいた。その紅い瞳が、真剣な色を帯びている。
「びっくりした。また死にそうになってる?」
「えっ!?」
「食事とって体調も安定したのに、急に目閉じるから。また死ぬのかと思った」
どうやら彼は、私が普通に眠ろうとしたことを意識を失いかけた(死にかけた)と勘違いしたらしい。
「ち、違います。そうじゃなくて…人間には、睡眠が、必要で…」
「え、さっき寝たじゃん。また?」
ヴァルトは、心底不思議そうに首を傾げた。 さっきとは、私が気絶していたことだろうか?
「気絶と睡眠は違います!」
「そうなの?」
「そ、それに、気絶する前もずっと逃げてて……私、何日もちゃんと寝てないんです。だから、眠らないと……」
「ふーん……」
ヴァルトは納得したのか、していないのか、分からない相槌を打つ。
でも、彼はベッドから動こうとしない。つまり、私が寝ている間も、この至近距離で私を見張るつもりなのだ。
その事実に気づいた瞬間、私の疲労は頂点に達し、恐怖よりもこのままでは休めないという焦りが勝ってしまった。
「……あの、ヴァルトさん」
「ん?」
「人間は、魔族の方たちと違って、すごく繊細で」
私は必死に、震える声で訴えた。
「環境が変わったり、緊張したりすると、それだけで疲れちゃうし……そのぶん、いっぱい休めないと、死んじゃうんです」
「へえ」
「ずっとそんな風に見張られていたら、緊張して眠れません!眠れないと、息が詰まって、それこそストレスで死んでしまいます!だから、1人の時間も作ってくれると、健康になります!」
息もつかずにまくし立てた。 ヴァルトは、目を丸くして私を見ていた。やがて、彼は「ふーん……」と呟いた。
「人間って繊細すぎるね」
彼はようやく納得したように頷くと、ベッドから軽々と飛び降りた。
「わかった。じゃあ半日くらい経ったら、また様子見に来るね」
「え、半日」
「じゃあね、ユウカ」
私の返事を待たず、ヴァルトはあっさりと扉の向こうへ去っていった。
ガチャリ、と遠くで鍵がかかる音がする。
「…………」
部屋に、静寂が戻った。嵐が過ぎ去ったようだった。
私は、今度こそホッと息を吐き出すと、大海原みたいなベッドの真ん中に倒れ込んだ。 柔らかいマットレスに全身が沈み込む。
──……半日
半日(12時間)後には、また彼が来る。
それまでに、できるだけ体力を回復させなければ。
私は考えるのをやめ、今度こそ意識を手放した。




