6話 ファーストキス
「あなたが異邦人である限り、あなたの命は……我ら魔王軍が管理させていただきます」
管理。
その言葉が、私の首に冷たい鎖を巻き付けるかのように感じられた。
イグナレスの瞳はひたすら冷たくて、「お前は管理されるモノだ」と言っているみたいで。
ヴァルトに手を引かれている時とはまったく違う次元の、じっとりとした恐怖が背筋を這い上った。
「イグナレス様!」
先ほどヴァルトに腕を掴まれていた獣人の男が、納得できないというように声を荒げる。
「ですが、そいつは異邦人!かつて我らの仲間は…あの忌々しい異邦人が…!」
前の、戦い。私は知らない。でもシオさんは、魔族と人間の戦いはずっと昔からあるって言ってた。以前の救世主を伴った戦争は、100年以上前だったらしいけど───
「だからこそ、ですよ」
イグナレスは、冷たい声で続けた。
「よくお考えなさい。私たちがここでこの異邦人を殺せば、どうなります?」
彼は私を見ない。部下たちに、まるで講義でもするように問いかける。獣人はしゅんと勢いをなくし、耳を垂れさせた。
「…人間どもは、次の異邦人を召喚する?」
「その通り」
イグナレスは冷たく微笑んだ。
「それこそが、魔王様が最も危惧される事態。ですが彼女が生きている限り、世界に異邦人はただ一人…彼らは新たな召喚ができない」
「…じゃあ、こいつは…ここで、生かす?」
獣人が私を見る。イグナレスは頷いた。
「異邦人の加護を得ない人間の力なぞ、我々魔族にとっては塵同然。そして魔王様は、塵を相手にするほど暇ではない。むしろ、この世界の領土や人間との争いには辟易されている」
イグナレスは、そこで私に視線を戻した。その氷のような瞳が、私を射抜く。
「つまり、ユウカ。あなたをここで生かしておくことで、人間との戦争はそもそも起こらず、我らの損害は皆無となる」
「……っ」
私は息を呑んだ。よくわかった。生かされる理由がわかった。 私が「私」だからではなく、「召喚の枠を埋めるモノ」だから。
「イグさんが間違えたとこ、みたことないんだよね」
ヴァルトが、私の耳元で楽しそうに囁いた。彼の能天気さが、今は恐ろしかった。
イグナレスは私から視線を外し、門番たちに命じる。
「このユウカを、東棟の客室へ。人間は脆く繊細だと聞きます。丁重に扱いなさい。食事と寝具、湯浴の準備も」
「えっ…」
意外な言葉だった。てっきり、暗くて冷たい地下牢に放り込まれるのだとばかり思っていた。
──寝具?湯浴み?ちゃ、ちゃんとした部屋……?
あまりの状況の目まぐるしさと、命が繋がったという安堵感。
そして何より、そこで限界を超えていた疲労が一気に押し寄せ、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
視界がぐらりと傾ぐ。
「あ……」
足の力が抜け、私は隣に立っていたヴァルトに寄りかかるようにして、その場に崩れ落ちた。
ヴァルトは私を支えもせず、ただ見下ろして首を傾げた。
「あれ? もしかして死にそう?」
ここに来るまでも、何度かされた質問。
「……はい…」
かろうじて、それだけを声にするのが精一杯だった。本当にもう指一本動かせない。
するとヴァルトは微笑んだ。
「ちゃんと自己申告して偉いね」
そして手が伸びてくる。いいこいいこ、とするように、へたり込む私の頭を撫でた。
「──俺思ったんだけどさ。元気になるにはこれが一番だよな」
何を言っているの。そう思う間もなく、ヴァルトの少年の姿の割に大きな手が、私の頭にのせられていた手が、わしづかみにするようにガッとそこを掴んだ。
「え…」
「! ヴァルト、まて…!」
イグナレスが鋭く制止の声を上げた。
だが、遅かった。
「───────ッ!!」
声にならない。 ヴァルトの手のひらから、何か熱いモノが私の頭の中に無理やりねじ込まれてくる!
熱い! 痛い! 訳が分からない!
まるで脳を直接掻き回されているような感覚。
悲鳴さえ上げられず、私の体はその場で無様に痙攣する。
…後で知ったのだが、これはヴァルトが、自身の強大な魔力を乱暴に注ぎ込んだ行為だったらしい。
「あれ? ユウカ、生きてる? もしかして死にそう?」
無邪気な声が、遠くで聞こえる。
もう、返事もできなかった。視界が白く飛び、がくん、と力が抜ける。
頭を掴んでいた手が離れ、私の体は前へと倒れ込んだ───それを、背後から別の腕が、強く抱き止めた。
ぼんやりと顔を上げる。
私を抱きとめていたのは、イグナレスだった。
彼の氷のような瞳が、私を至近距離で見下ろしている。その美しく整った顔は、静かに激怒していた。
次の瞬間、イグナレスは私の顎を早急に掴み、強引に上を向かせ、顔を固定する。 そして、ためらいなく、その唇を私に───
───………!?
キス…?
なんで、この人が、私に。
え、嘘。
これ、もしかして……私の、ファーストキス、だったんだけど……。
パニックに陥る私を無視し、イグナレスは私の唇を塞いだまま、強く、何かを吸い上げた。
さっきヴァルトに叩き込まれた、あの熱く混沌とした何かが、今度はイグナレスの口を通して、体から引きずり出されていく。 それは、ヴァルトの乱暴な注入とは違う、冷たくて精密なコントロールだった。
「……っ、は、…ぁ…」
唇が離れる。
イグナレスは私の顎を掴んだまま、私の息が戻ったことを確認すると、懐から取り出した白いハンカチで、ごしごしと自らの口元を拭った。 その仕草には、隠しようもない強い嫌悪がこもっていた。
そしてその表情は…率直に言って般若だった。
彼は、ゆっくりと、私を抱きとめたまま立ち上がる。そして、静かで、底冷えのする声で言った。
「…ヴァルト」
青筋が、彼のこめかみに浮かんでいる。
「おまえ…私の、命令していないことを、するな」
一言、一言。区切りながら、吐き捨てるように言った。
「ごめんごめーん」
ヴァルトは、悪びれもせず笑っていた。
「うまくいかないもんだなぁ」
ヴァルトに突然殺されそうになった。イグナレスにはキスをされた。
これらの行為が何なのか、理由はあるのか、何もわからない。
訳が分からなすぎて、もう、どうでもよくなって。
私の意識は、そこで完全にプツリと途切れた。




