50話 偽りの再会
翌朝。
目が覚めると、私はまだイグナレスの私室のベッドにいた。…昨日、確か、ここで…イグナレスに宥められるみたいに寝かしつけられて、そのまま眠ったんだ…。
分厚いカーテンの隙間から差し込む光を、ぼんやりと見つめる。
「目覚めましたか」
部屋の隅にある一人掛けのソファで、イグナレスが書類を片手にこちらへ声をかけてきた。
私がのっそりと身を起こすと、彼は書類を置き、静かに立ち上がる。ベッドサイドまで歩み寄ってきた。
「体調は?」
「……だいぶ……楽になりました」
嘘ではなかった。昨夜、彼に飲まされたミルクのおかげか、鉛のように重かった体は嘘のように軽い。けれど、胸の奥に空いた穴は、塞がらないままだ。
「……そうですか」
イグナレスは短く頷くと、懐から何かを取り出した。
「あっ……」
それは、私のポケットに入っていたはずの、シオさんの石だった。 光を失い、ただの石ころのようにくすんでいる。
「検めさせてもらいました。……これは、音響石ですね」
「エコー…?シオさんは、魔物よけの石だって最初言ってて…」
「魔力を込めれば、そのような効力も付与できるでしょうが…今は魔除けの効果はありません」
彼は淡々と言った。
「内部の術式は焼き切れ、魔力は枯渇しています。……もう二度と、声を聞くことはできないでしょう」
「……っ」
分かっていた。お別れだって、最後のお話をしたのだから。それでも、事実として突きつけられると、涙が滲む。だってあの時は知らなかった。シオさんがもう死んでいて、二度と会うことができないなんて。もう、シオさんの声すら聞けない。謝ることも、お別れを言うこともできない。
「ですが」
イグナレスの声が、私の絶望を遮った。
「詳しく解析したところ……核の部分に、僅かですが魔力の残滓が張り付いていました」
「え……?」
「砂粒ほどですがね。私の魔力で増幅すれば……ほんの数分、最後に『会話』を成立させることくらいは可能かもしれません」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「本当、ですか……!?」
「私の魔力制御技術を疑うのですか?」
彼は呆れたように肩をすくめた。
シオさんはもう死んでいる。なのに会話ができるの?とか、そもそもシオさんは私が逃げ出した日に処刑されていたのなら、この石に宿っていたのは本当にシオさんなの?とか。そんなことを考える余裕は、この時の私にはなかった。
「ただし、一度きりです。この残滓を使い切れば、これは完全にただの石となる……それでも、聞きますか?」
「き、聞きます! お願いします、イグナレスさん!」
私は彼の服の袖を掴み、必死に懇願した。 イグナレスはそんな私を静かな瞳で見下ろすと、「分かりました」と頷いた。
彼は私の手を取り、その掌に冷たい石を乗せた。 そして、彼自身の大きな手を、上からそっと重ねる。
「目を閉じて……意識を集中しなさい」
重ねられた彼の手から、じんわりとした温かさが伝わってくる。 それが彼の魔力だとは気づかないほど、自然で、優しい温度だった。
ブゥン……と、低い音が鳴った気がした。 そして。
『……ユウカさん』
懐かしい、優しくて、丁寧な声が、脳裏に響いた。
「っ、シオ、さん……!」
涙が溢れた。間違いない。シオさんの声だ。 いつも私を気遣ってくれた、穏やかな敬語。
「シオさん、ごめんなさい……! 私、私……っ!」
私は石に向かって、堰を切ったように叫んだ。
「し、知らなくて…シオさんが、あのあと…っ!ごめんなさい、ごめんなさい…!」
『謝らないでください、ユウカさん。……貴女は悪くない』
ノイズ交じりの声が、優しく私を諭す。
『僕が死んだのは、貴女のせいじゃない。……自分を責めないで欲しい』
「でも……!」
『僕はね、ユウカさん。……貴女に、生きていてほしいんです』
シオさんの声が、ゆっくりと、噛み締めるように響く。
『人間の世界とか、魔族の世界とか……そんなのどうでもいい。貴女が笑って、幸せでいられる場所なら、どこだっていいんです』
「シオさん……」
『だから……もう、僕のことは忘れてください』
「え……?」
『後ろを向かないで……前へ進んでください。あなたを守ってくれる者たちと共に』
その言葉は、あまりにも都合がよくて。けれど私が一番欲しかった「許し」だった。
『……時間みたいです。また、こうして話せて…伝えられて、良かった』
声が遠ざかっていく。小さくなる
『今度こそ…さようなら、ユウカさん』
「待って! シオさん! 待って……っ!わたし、わたし、も…!」
ふっ、と。 手の中の温かさが消えた。
石はただ、手のひらにある。けれど、もうそこからは、何の気配も、魔力の残滓さえも感じられなかった。 完全に、ただの綺麗な石に戻ってしまったのだ。
「……魔力が尽きました」
イグナレスが、静かに私から手を離した。
「う、うぅ……ぅあぁぁぁ……ッ!!」
私は石を握りしめたまま、離れていくイグナレスの手に、救いを求めるようにすがりついた。イグナレスは一度目を見開いて身を固くしたが、すぐに私を抱き寄せてくれた。私は彼の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。
悲しかった。でも、それ以上に──胸につかえていた黒い塊が、溶けていくようだった。 シオさんは、私を許してくれた。背中を押してくれた。生きていいと言ってくれた…。
「ユウカ」
イグナレスが私を抱きしめる。
「大切な者と死に別れる悲しみ…私にはわかる。だが生者は、過去には進めないのだ」
その手は優しく私の背中を撫で、頭を胸に押し付けてくれる。
「お前は未来に進める、必ず…」
私は、彼の温もりに縋り付き、彼の声を聞きながら、心の中でシオさんに別れを告げた。
シオさん、シオさん。さようなら。ありがとう。 私は……生きます。これできっと、前に進んで行きます…。
◆
私の胸で、少女が泣き崩れている。 それは、昨日までの絶望に満ちた泣き声ではない。過去を清算し、区切りをつけた、浄化の涙だ。
「……」
私は無言で彼女の頭を撫でながら、昏い優越感に浸っていた。
──完璧だ。
彼女が聞いた「シオの声」。 あれは当然、石の記憶などではない。
私が即興で構築した幻聴魔術であり、私が考えた「彼女が最も聞きたがっている台詞」を、私が演じたものだ。
彼女は気づかなかった。私が流し込んだ魔力が、石を媒体にして彼女の脳を揺さぶっていたことに。 多少の矛盾など、熱に浮かされた幼児のように気にならないことに。そして、死んだ男が、「僕のことは忘れて、新しい男(守ってくれる人)と生きてくれ」などと──そんな都合のいいことを言うはずが、ないことに。
だが、彼女はそれを信じた。魔力で毒したとはいえ、心から。それはきっと、心の底では信じたがっていたからだろう。
愚かで、愛おしい娘だ。
私は彼女の髪に口づけを落とした。
これでいい。 彼女の中で、一人の男が美しい思い出となり死んだ。そして同時に、「前へ進め」という遺言によって、彼女を縛る鎖は解かれたのだ。
手の中に残った石は、もはや何の力も持たない抜け殻だ。彼女はそれを一生大切にするだろう。だが、それはもう未練の象徴ではない。終わった過去の墓標だ。
──さようなら、顔も知らぬ男。
私は心の中で、彼女が握りしめる石に冷笑を投げかけた。
私は泣き疲れて脱力していくユウカを、さらに強く抱きしめた。どす黒い優越感に浸り、悦びに漏れそうになる声を抑えていた。この華奢な体を、今だけはどんな者にも触れさせたくないと思った。




